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『社会参加』という言葉は、案外、精神障害者そして軽度発達障害者の場合、家族との『いざこざ』の原因となっています。
例えば、福祉就労の場へ通っているといった場合、障碍を持っている本人は、
『ようやく居場所が見つかった(^_〜)。低賃金だけど、がんばって働いてみよう!スタッフさんたちも優しく僕を迎えてくれたし…身体とと相談して勤められるから…』
という感じの場合が多いのですが、親御さんの見解は、
『そんなところで、満足していちゃダメよ!早く卒業して一般就労できるようにがんばりなさい。生活資金も障害基礎年金では、いつかは立ち行かなくなるだろうし…あなたと同じ歳の○○君だって、朝早く出て行って、夜遅くまで帰ってこずに仕事しているんだって…それに比べるとあなたは、朝も9:00ごろしか出て行かないし、時々疲れたといっては早退してくるし(`_´)』
という場合が多く、かなりの温度差があります。
つまり、本人さんたちにとっては、
『福祉就労=限界点=自分なりの社会参加をしている』
なのですが、親御さんにとっては、
『福祉就労=通過点≠普通の社会参加≒経済的な自立』
というわけです。
もちろん本人さんの中にも、
『できたらどっかでまた働いて、お金を稼いでみたい。』
という意欲的な人も少なからずいますが、『身体が持つか?』『奇異なものとして見られないだろうか…』『自分はどんなことで役立てるのかな?』という疑心暗鬼さから、二の足を踏む場合が多いのです。
『一体、社会参加って何なんだろう?』
これが最近僕がよく考え込むことです。
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