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風来坊さん、こんにちは!
保育の仕事をしています。
また、4人の子どもの母親でもあります。
人間は、本来自分の中に生き生きと自分の人生を生きていく力を持っていて、私たちはそれを人権といって大事にしている・・・と私は考えています。
私は「無条件に自分を愛してくれる人」に出会い、その人を心から信頼することが全てのはじまりだと思っています。
この無条件というのは、なんでも自分の言うとおりのことをしてくれるという意味の無条件ではありません。つまり、自分が存在しているということを無条件に喜んでくれる人に出会うということです。
私は長女を育てている時、子育てが戦いでした。正しいことを選び取ることのできる社会的に立派な子どもを育て上げる親の責任のゆえに、「厳しさ」で子どもにむかいあっておりました。そして自分の思い通りに育っていかない子どもにいつもいらいらして、叱りつける、おどす、時には手やお尻を叩く・・・。「〜したらあなたを愛してあげる」という条件付きの愛で子どもを動かそう(支配しよう)としていたのでした。けれど、そんな私の圧力にぜーったい屈することのなかった子どもたちの猛反撃と、こんな子育てはうそだという自分へのつっこみで、私自身の子育てを学び直すことになったのでした。
>いずれにせよ、何を言われても、自分の中では実感がわいてこない。その言葉をもらって嬉しいとか、安心したとか、自信がもてたとか、そういう経験がないような気がする。よそよそししさしか感じられない。(一応、ありがとうとは言っておくけど)。
目の前にいる人(自分の子どもの場合も同じ)が言ったことをそのまま受け止める・・・いろいろ解釈したりして私の言葉に変えてしまわずにじっと耳を傾けること。とてもむずかしくて、この掲示板でもいつも私の思いがにじみでてしまって、レスを付けた相手に不快な思いを与えてしまう失敗をします。
けれど、少しずつですが、このことを努力することをとおして、我が家の子どもたちは、私に心を開いて自分の思いを素直に話すようになり、やがて自分に起きた問題に自分で答えを出して日々を生き生きとすごしはじめたのです。
>これは、相手が誰であってもかわらない。だから自分自身の中に理由があるんじゃないかと思う。誰かに頼りたいのに甘えたいのに、でも実際には誰に対しても信じていないのかも?気を許していないのかも?それとも理解する機能(レセプター)が欠落しているのかも?
あなたに理由があるのではなく、あなたが心をゆるしても大丈夫と思えるだれかにまだ出会っていないと言うことなのだと思います。
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>逆に言えば、自分はどういう言葉を掛けてもらったら、嬉しいのだろう?安心するのだろう?甘えているという実感が持てるのだろう?
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>あるいは、甘えるってどういう感覚なのでしょう?距離にしてどれ位をいうの?どれくらいまで甘えることが許されるの?
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>みなさんは落ち込んでいるとき、どういう言葉を掛けてもらいたいですか?
>みなさんはどういうとき、自分が(誰かに)甘えていると感じますか?または、どういう時、甘えられていると感じますか?
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>なぞなぞみたいですが、みなさんのご意見をお聞かせください。
甘えたい気持ちをしっかり受け止められることによって、子どもは心の安定を自分のものにし、自分で自分のことを考えていくようになります。同じ甘えるという字ですが、甘えたい気持ちを受け止められることと、甘やかされるということとは全く別の意味です。
「それはあなたのわがままよ。甘えよ。」と否定されてしまうと、自分の気持ちのおきどころがなくなり、その結果、外に出していいのは親や先生がよしとするおりこうさんの部分だけ、あとの部分は誰もみていないところで自分とは関係のない誰かに吐き出せばいい・・・。今の社会の構造がこうなのだと思わされます。
親や先生をはじめ、私達大人はこの受容するということをしっかり学ぶ必要があると心から思います。
風来坊さんのつぶやきを読みながら、日頃考えていることを書かせていただきました。ひとりごと・・返信のお気遣いはいりません。
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