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▼TONOさん:
>人によっては、困難な部分があるという点では、同じだと思います。
>本人や周囲に困難がない場合は『特徴』、本人や周囲に困難がある場合は『障害』と呼ばれるのではないでしょうか。
ええ、"障害"という言葉が困難(challenge)という意味で使われる場合においては構わないのですが、知らない人にとっては障害=欠陥(defect)と取られてしまうことが多いので差別につながることを危惧しています。
>確かに、マイノリティであるASや高機能の方が『社会生活上の困難』を感じない世界になればいいのだと思いますが、その世界はきっと『スペクトラムでない方』にとっては『困難』に満ちた世界になると思います。
>
>そういう世界では『スペクトラムではない』という『困難(=障害)』が発生するのではないでしょうか。
そうかもしれませんが、問題の表面化している部分だけに着目して、その目に見える問題だけを解決しようとする姿勢はあまりにも対症療法的で、本質的な問題の解決に結びつかずきりがないと思います。わざわざそれをビジネスにして永続させようとするつもりならば、そのほうが都合がいいのかもしれませんが。
例えば、凶悪犯罪が増えるのは犯罪者の気質や性格に問題があるからだ、として罰則を厳しくし取り締まりだけを強化していたのでは、形を変えた犯罪が再び起こるだけで社会にとってなんら有益な解決策にはなりません。警察や権力者には都合がいいかもしれませんが。
しかし本来ならば、犯罪者を生み出してしまうような育成環境を改善していく取り組みも同時にされるべきです。
でもそういう事は、家庭の子育てや学校教育、またそれらに配慮するという形で企業の経営方針にまで変化を求めなければならないので、確かに社会の多くの人達が困難を背負うことになるかもしれませんが、それをすることが社会のためなのです。
そんなことまでしていられないから少数派の人達には犠牲になってもらって、より多くの人達の富を優先する、というのもある程度は仕方のないことだと思いますが、それが少数の人達の健康に生きる権利まで奪うようでは話しが違ってきます。
社会のルールというのは、全ての人がそのルールを守ることによって何らかの利益がある、ということが前提であって、もしそのルールを守ったところで何のメリットもない、もしくは死に追いやられてしまうようなことがあるなら、ルールなんて機能しなくなります。
生きる希望まで失うくらい追い詰められてしまった少数派の人にとっては、自分の人権が認められないわけですから他人の人権など考える義理もないし、そんな余裕もないでしょう。
その境を引くことは容易ではないかもしれませんが、健康に生きる権利を保障するという観点からは、普通の人達に合わせていられない子供がいるからといって、副作用のある薬を飲ませておとなしくさせるという行為は、行き過ぎでしょう。
少し前の精神病棟で、患者を拘束具で縛り付けておとなしくさせるという対処法と変わりありません。薬という目に見えない拘束具で縛り付けているわけですから。
僕は、この自閉症の問題は、昔の様に自然の営みを大切にしながら普通に生きてきた人間達の生活ならば、十分に吸収できた問題だと思うのです。
それが出来なくなってきたのは、人間が自然の営みを軽視し、企業活動に合わせて都市化や核家族化を進行させ、自ら自分達の生活環境の余裕をそぎ落として融通の効かない社会にしてしまったからだと思うのです。
だから、これから何か対策を行なうのならば、医療で何とかしようとかケアを充実させて乗り切ろうとか、そういう先の見えない方向に進むのではなく、一歩足を踏み戻して自然に近づくという方向に進むべきだと思っています。
地球環境問題なども、そろそろ限界が見えてきていますよね?
科学技術の進歩で何でも解決できると思っている人達は、そう思っていない人達まで巻き込んで危険な賭けに身を預けるような態度を、少しは省みてほしいのです。
>>同じように、発達障害専門家という肩書きも、便宜上の言葉を使っている以上不適切ですし、仮にこの言葉を使ったとしても、何をもって専門家とするのかも明確ではありません。
>
>それであるならフリッツさんが『専門家』をなのるのも不適切ではないでしょうか?
そうだと思いますよ。だからフリッツさんが研究家を名乗っているのは、あまりにも肩書きを誇張する人達に対しての皮肉と捉えています。
まあ、フリッツさんは専門家ではなく研究家を名乗っていますので、僕は研究家=オタクと同じように思っているので気になりませんが。
>>しかし僕は、この発達障害専門家という言葉が、何も知らない普通の人にとっては、発達障害については何でも知っている、当事者のことについても当事者よりも詳しく知っていると思われてしまうことを憂慮しているのです。
>
>実際、当事者よりも詳しいかもしれません。
>発達障害は10人いれば10通りの100人いれば100通りのタイプがあります。
特徴の現れ方は人それぞれですが、その特徴を現す原因は少ないと考えています。
もしかしたらこれは僕の特殊な能力なのかもしれませんが、少しばかり無意識の世界が見えるので、ほとんどの特徴の原因を説明することが出来ます。
>当事者は、自分も含めて数通りのタイプしか知りませんが、医師や心理士は、多くのタイプと接します。
>そういった意味では、より多くの蓄えを持っていると思います。
>専門家とは、そのような人の事を指すのではないでしょうか。
>学会での発表は、学会員が行なうものです。
>この学会員のなかに当事者はいないかもしれません。
>でも、日々、多くの当事者と接している方です。
医者や心理士は、外に現れる特徴を客観的に見て情報を蓄積していくことしか出来ませんが、当事者は言葉や行動に現せない自分の中の現象を感じることが出来ます。
TONOさんは、自分の心の中にあるものが、全て形や言葉で表せると思いますか?
つまり人間の無意識の部分を全て解明できると思いますか?
当事者はそれを客観的に目に見える形で表すのことは出来ないのですが、その視点がなければいくら多くの事例を集めても本質を理解するには至りません。
僕が言う専門家とそうでない人の違いというのは、自分で考えを掘り下げることのできる哲学者と、歴史上の哲学者の哲学を研究して知識ばかりを蓄積している哲学者研究家、または哲学学者と言われるような人達の違いのことです。
>専門家と呼ばれる人は、少なくとも、発達障害の特徴や困難を理解し寄り添うことの出来る人(または、理解し寄り添おうとするひと)だと思います。
それは心理的に頼りたくなるという意味での専門家ですね。
僕は別にそういう人達を否定しているわけではありませんし、むしろありがたいと思っています。
問題なのは、そういう人とそうでない人の区別が、普通の人には付けられないということです。
僕も伝えたいことを全て言葉に出来るわけではないので、これ以上ここでこの話題を続けるのは無理があると感じていますし、特に問題がない限りこれで終わりにさせてもらいます。
一つの意見としてお受け取りください。
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