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▼TONOさん:
最初に結論から言いますと、
>発達障害は特徴なんでしょ。
>自分の特徴を理解して、どう異星での生活を楽しく楽にのりきれるかなんじゃないでしょうか。
そう、その通りなんです。それを分かっていれば、何も問題はありません。
発達障害というのは、客観的な立場から見た特徴を現す形容詞として便宜上使われているだけで、身体障害と並べて使う場合の"障害"という意味とは本質的に異なります。
便宜上というのは、僕達みたいな普通とは違ったタイプの人間について周囲に理解が得られない時、それを説明しようと思っても十分な時間がない時、または周囲に聞く耳を持つ余裕がない時などに、急場しのぎで一時的に"障害"という言葉を使って理解を求める場合に限る、ということだと思います。
「何でこの子はこんな行動するの!親のしつけがなっていないからじゃない!!」なんて言われたときに、相手の怒りを静めるために使うというニュアンスです。
そのことをよく理解している当事者や関係者の間だけで、あくまでもその人達のQOL向上のために使われる言葉ならば良いのですが、"障害"という言葉を身体障害と同じ意味の障害、つまり脳の機能不全みたいに捉えてしまう普通の人達に広めて、言葉だけが独り歩きしてしまうのを僕は懸念しているのです。
一度広まってしまった誤解はなかなか解くことが出来ませんし、そうやって誤解されることで、ゆくゆくは当事者や関係者自身が困ることになるからです。
だから、発達障害者支援法なんていう法律の名前にまでこの言葉が使われてしまうのは、明らかに行き過ぎだと思います。
同じように、発達障害専門家という肩書きも、便宜上の言葉を使っている以上不適切ですし、仮にこの言葉を使ったとしても、何をもって専門家とするのかも明確ではありません。いや、僕が分からないだけかもしれませんので、もしそうであれば教えてください。
しかし僕は、この発達障害専門家という言葉が、何も知らない普通の人にとっては、発達障害については何でも知っている、当事者のことについても当事者よりも詳しく知っていると思われてしまうことを憂慮しているのです。
以前からこの掲示板を見ていて感じていたのですが、この懸念を深めたのは、例えば [#14956] で右京さんが医者のことを信頼できないと言っているのに対し、他の方(特に当事者のお母さんと思われる方々)から「ASの人は自分で感じた気持ちも妥当ではないと思ったほうがいい」と言わんばかりのコメントが続き、当事者の気持ちなど取り上げるに値せず、ASを扱った経験のない医者であろうと医者の言うことが正しいみたいに思っている方が多く、またそう思わされてしまっている当事者もいるという状況があるからです。
専門家という言葉は、特に肩書きにこだわるブランド志向の人達が多い昨今では刺激が強すぎで、誤解を招きます。
もしこの分野で専門家を名乗るなら、分かっていないことや絶対に分かりようがないことがあるということを必ず断った上で使うべきでしょう。
>ホームページにリンクされているプログラムもきちんと見ていただけた上での書き込みでしょうか?
すみません、少し拝見したのですが、下記ようなリンクには辿りつけませんでした。
>発表内容は「診断」や「心理検査」「高機能自閉症者の認知特徴」「薬」などの疾病や治療、特徴についてだけでなく、「特別支援学級に対してどのように精神科医が支援できるのか」「母親や家族のかかえるストレス」「社会性獲得のためのSST」「青年・成人期の支援について」など多岐にわたっています。
>
>発表されている方も、精神科医や臨床心理士、教育関係者など様々です。
僕が問題だと思っているのは、この中に当事者が入っていないことです。
医者や心理士が、当事者の行動や言葉、心理テストの結果などから客観的に読み取った情報だけで議論を進め学説を作り上げるという、当事者不在の研究からは分かることが限られているということです。
そしてその片手落ちな議論で築きあげられた学説を専門家の認識として広められてしまったら、当事者の意見など聞いてもらえる余地がなくなってしまうでしょう。
イメージ的に言うと、脳の活動が停止したというだけで脳死と判定されて手術台に載せられてしまうという危険があるということです。
フリッツさんや僕がこの話題でこれだけ説明しているのに、聞く耳も持ってくれずに感情的に反発されてしまう状況からして、専門家と言われる人と当事者の意見を公平に判断して両方の意見を尊重するという冷静さを、世間一般の普通の人が持ち合わせていると思われますか?
僕はそう思えないので、そうである以上当事者以外の人が専門家を名乗ることはフェアじゃないと思っています。
それから、おっしゃられるような「特別支援学級に対してどのように精神科医が支援できるのか」「母親や家族のかかえるストレス」「社会性獲得のためのSST」「青年・成人期の支援について」は、本来ソーシャルワーカーやケースワーカーと呼ばれるような人達が扱うものであって、医療が介入する分野ではありません。
医者が医療という観点から医者という肩書きを名乗って専門家としての意見を言うことは、先に述べた公平性という意味からも不適切だと思います。
もちろん、医者が自分の専門の医学から離れて意見を言う分には構わないと思いますが。
臨床心理士や教育関係者などの協力は必要だと思います。僕もここまで来るのに長いこと臨床心理士にお世話になりました。
ただ、そういう方達の場合でも当事者に対する客観的な観察に基づいて、適切な教育や二次障害のケアなどを行なう技術を持っている専門家であって、当事者の生態そのもの、つまりソフトウェアとハードウェアの両方に精通した専門家にはなり得ません。
いずれの場合でも、医者は薬を処方する専門家、心理士は心理療法を施す専門家、教育関係者は教育を施す専門家であって、当事者の特徴とその特徴を現す要因について精通している専門家にはなり得ません。
>私の主治医は(担当の心理士さんもですが)今私に起こっている問題を聞いてくれます。『いい』とも『悪い』とも言われません。『なぜそんな事をしたの』と攻められることもありません。
>だから安心して、自分の気持ちを言えて、また社会の渦のなかで生活できる活力をもらえます。
>薬も、主治医側から勧められたこともありません。
それは謙虚で誠実なお医者さんや心理士さんですね。そういう姿勢の人達ばかりならばいいのですが、安易に(特に自分で決断も出来ず責任も取れない子供に)危険な薬を処方してしまう医者もいると聞いたので、心配です。
>>発達障害について研究するには、当事者自身が哲学を深めて自分の精神的探求をする以外にありません。
>
>それをする為に、専門家の助けが必要な場合もありますよね。
そうですね、二次障害などの心のケアの専門家は大きな助けになります。心が乱れていては哲学をすることが出来ません。
>自称ではなく、専門家はいます。
TONOさんの過去の投稿を少し検索させてもらいましたが、TONOさんご自身が当事者で、保健師をされているんですね。
そういう方には失礼な言い方でした、申し訳ありません。
当事者、且つ専門職の資格をお持ちでしたら、僕が考える専門家の素養は満たしていると思います。(フリッツさんの定義は分かりませんが)
当事者自身の思考が理解できる(哲学さえすれば思考を分析できる)ことに加えて、専門職としての経験的知識の蓄積があるわけですから、内面と外面、つまりソフトウェアとハードウェアに対して両側からアプローチできる可能性があるという点で片手落ちにはならないわけです。
ただ、資格があればそれだけで専門家ということも言えないですよね?
また、資格がなければ専門家といえないなんてこともないと思います。
だから結局は、専門家という肩書きがブランドとして使われてしまう弊害の方が、特にこの世界では多いような気がします。
>専門家はその手助けの為にいるのだと思うし、他の方も『全て解決して、自分のASという特徴を消してくれ』と専門家に求めているわけではないと思います。
僕は、この僕達の特徴というのは、社会が窮屈になってしまったから問題とされてしまっているのだと思います。
僕達みたいなのは昔からある割合で居たわけですし、多少の問題はあったかもしれないですが大目に見てもらって、その代わりに僕達にしか出来ないようなこと(例えそれが社会的に直接価値の無い行為であっても)をしながらお互いに認め合って何とかやってきたと思うんです。
だから、僕達が困っているときに助けてくれるというのもありがたいんですが、もう少し社会の窮屈さを戻す方向に、つまりいろんな人間にとって生きやすくなるように変えていった方がいいと思うのです。
だけど、支援とか援助とかいう言葉を使ってしまうと、何か僕達の方が問題があって、社会の方はお荷物背負わされているだけという風にみんなが思ってしまうんじゃないかと思って、そういう言い方は好きじゃないんです。
だから専門家と呼ばれる方々や親御さんを始め関係者の方は、当事者に何かを授けて変えようとするだけでなく、社会の多数派の人達に考え直してもらえるようなアプローチ、内向きではなく外向きのアプローチをもっとするべきだと思うんです。
長文失礼しました。
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