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最近、このサイトにおじゃましている者なので、周りのみなさんのリアクションの大きさは一体なんなのだろう?とびっくりしながら、フリッツ藤井さんの言いたいことを私なりに考えてみました。
確かに今までのスレッドにおいても、アスぺと特殊能力とかアスぺと高学歴などの話題がとりあげられ、ASのみなさんの天性的な特性であるこだわりの分野が、そのこだわりについての専門的な興味につながり、深い知識や特技になっていくということはあるのかもしれませんね。
ただ、「アスペルガーは障碍ではなく、なにか超能力みたいな特殊な能力をそれぞれに持っているということなので、そういう子どもたちを集めてその秀でた部分の専門性をさらに磨かせるような教育、指導ができるような教育機関を整備すればいい。」という言葉ですと、なんだかアニメや漫画にでてきそうな話しで、「その秀でた部分のみが大事で、その子ども自身の人間性はどうでもいい。」というように感じられてとても違和感を感じます。
私は専門的な知識も実践も少ないのですが、アスペルガーの方にはそうした特別な能力が必ずあるんだ!というあなたの言葉に「そうだ!」とは言えない気がしますがどうでしょうか?例えば緻密な貼り絵作家である山下清さんは少し知的な障碍を持っておられましたし、言語面での発達に遅れのある自閉症の子どもが見たものをそのまま絵にかいていく(たとえばヘリコプターでぐるっと一回りしただけで、その町並みを絵にかくといった)という能力があることを紹介していたテレビでみましたが、同時に高齢になられて認知症になった方にもそうした力を持つことがあるということが紹介されていました。アスペルガーだけが天才であるという確信にみちた持論には賛成しかねます。
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>アスペルガーに療育という言葉を使うのは反対です。
>なぜなら、治らないと認められているアスペの先天的特性を治そうということにつながってしまっているからです。
例えば生活習慣(身辺自立など)を身につけることだけに重きをおいて、指導を強化する学校の先生が担任になると、アスぺの子どもたちはたちまちつぶされてしまいます。フリッツさんの言葉によればそんなことはどうでもいい、そんなことができなくてもその才能だけに注目しなさいよ!ということだと感じられましたが、それではみんなの中で一緒に関わり合っては生きていけないですよね。
その人が生きていく上で、自分を否定されない場所をしっかり確保され、人と関わり合って生きていくことがうれしいと思えるような経験を積むこと、自分という存在をそのままで喜んでくれる人に出会うことが大事なんだという意味では療育か教育か、あるいは障碍があるかないかは関係ないことだと思います。(管理人さんも書いておられましたね)同時に先天的特性だけでなく、今までの成育歴から療育が必要となっている方は多いように思われます。
私達子どもの周囲にいる(特にこの館におとずれているみなさんをはじめとする)大人たちはそうした場所を子どもたちに提供してあげたいと願いながら、なかなかありのままの子どもを受け入れてあげられないで苦しんでいるのではないでしょうか。同時に今まで脈々と温存されつづけてきた子育てのあり方(子は親に従わなければいけない)に自分自身が傷ついてきたのにかかわらず、別の方法を見つけられなくて、同じ子育ての方法で子どもに向かい合っていることに疑問を感じ、新しい生き方を模索しているのだと思うのです。
>日本のような集団平等教育は世界でもあまり例がありません。私達は教育というと、集団平等教育が当たり前になっていますが、よく考えると非常におかしな制度なのです。なぜなら、人間の先天的能力が平等なわけがないからです。それを一まとめにして教育するというのは無理です。>
>中国や韓国では、10歳の大学生が当たり前ですし、アメリカだって飛び級は当たり前であり、音楽家になりたければそういった人向けのコースがある。日本でも、そろそろ、真面目にこういったことを考える時期にあるのではないでしょうか??
うーん、この論議とアスぺはかみあわない感じがしますが。
>いずれにせよ、短絡的に社会性が無い障害としているうちは騒ぎが大きくなるだけでしょう。
そうとも言えないと思います。社会性や相手の気持ちを想像するという力は持ち合わせていないけれど、それこそ療育というスキルトレーニングを重ねることで、子どもに無理がかからないようなかたちで、周囲のひとたちとつながっていけるようになっていくと思います。
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