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▼らっくさん:
>あまり発達障害とは関係ないかもしれませんが、僕と小学校からの友達Wの話です。僕の場合、授業中は「目を見て話を聞け」を忠実に守り、度が過ぎるほどの反復練習(計算ドリルとか)による高得点。運動も下手くそが努力繰り返して中の下。
>一方Wは授業中は勉強せず、テスト前にノートを他人から見せてもらい(自分ではほとんどとらない)高得点。運動なんか言われたことすぐ出来るし。
>最近久々に会って話したんですが、僕ら変わってることは変わってるんだけど正反対だなと。僕は努力型、Wは天才型だと。僕はよそ見したら自分の世界に入って周りは見えてない、聞こえてない。Wは自分の世界に入っているのに黒板がしっかり見えてて話も聞こえてる。
>その時出た話題で、どこまでが一般的なんだろうと。僕らはおそらく少数派なので、お互い質問してみても自分もそうであったり、度合いが違ったりするだけな部分も普通あるのかは確信が持てず、他の人にも話せずにいます。
'65年生まれのwentです。過去ログから考えるに、らっくさんは、いわゆる「ゆとり教育」を受けた世代の人とお見受けします。
この「ゆとり教育」と「らっくさんのようなタイプ」とは、相性が悪いという面があったのではないかと、私は思っています。
私の世代のカリキュラムだったら、らっくさんもごく自然にいろいろな力を、もっとつけることができたかもしれません。
「度が過ぎるほどの反復練習(計算ドリルとか)」をやることで得られる成果は、'80年代後半以降と'70年代とでは大違いとなっていると思われます。
何故ならば、「出版されている教材」の質が大違いだからです。
'80年代後半以降は、「試験に出そうな要点だけをきちんとした解説なしに記述→要点の部分はこれこれこういうタイプの問題として試験では出題されて、答えはこうなるという、結論だけを提示→暗記を強要」という教材が売れ筋となりました。
'70年代ならば、「どんな意味を持っているのか自分で考える・断片的ないくつかの事柄を、自分なりの方法で体系的なものにしていく」という方針を取ることのできた教材が多かったのです。
また、この「ゆとり教育」のもとでは、「大人の求める表現が、出会い頭の短時間でできること」が求められています(特に総合学習で)。
'70年代ならば、「表現力は、理解力・思考力の後に来るもの。十分な入力がない状態で誰かの猿真似表現をやらせるよりも、ゆっくり・じっくり・ていねいな学習をしよう。」という方針を取ることもできました。
ゆとり教育については、[#3049]でも書きました。
次に、「ノートをほとんどとらないこと」について、私の場合について書きます(Wさんの場合とは、事情が違うと思いますが)。
学生時代、私は、授業中にノートをとることに難儀していました。
私は、とても字が下手です。それに加えて、字を書くスピードも遅いです。
それだけではありません。私は「複数のことを同時進行していく」ことがうまくできません。
「黒板を見て、先生の話を聞いて」ということと「板書事項を、ノートに読める字で書く」ということを、同時にできないのです。
「見て・聞いて」に集中していたらノートにまで神経が回らず、ノートをとろうとすれば、授業内容が全然頭に入らなくなるのです。
学生時代、数学のような「ノートを取らなくても後で教科書を見ればなんとかなる」教科では、できるだけノートを取らないことにしていました。
私の場合、授業中にノートを取るよりも人からノートを借りるほうが良い点が取れたのでは……と思っています。
親や教師や同級生からは、「授業や教師をバカにして、ノートをとらないんだろう」と誤解されていました。
友達が学校を休んだ日は、大慌てで家の中で「その日の授業内容を別紙に写す」ということをやっていました。
AS関連サイト・ブログを見ていて、「ノート取りに難儀している人」が他にもいることがわかって、驚きました。
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