|
▼アリステイデスさん:
> 昔から運動神経が鈍くて、スポーツは基本的に非常に不得意
>です。単に苦手という以上に、不得意さの程度が極端に大きい
>のです。
私もそうでした。学校の授業で、バレーのサーブ?が何回教えられてもできず、つらい思いをしました。「ポーンととばせばいいのよ」の意味がわかりませんでした。体育の成績はかならず1でした。
ものと体の距離感がつかめないので、歩いていてもよく人やものにぶつかります。つかもうとしたものに手がとどかなくて落としてしまったりすることも。
これも頭のどこかの回線がおかしいからなんでしょうか?それとも単にドジ臭いだけなのかなあ?
> 昔から、僕は多数派と自分との関係について考えてきたように
>思います。発達障害者や、そのグレーゾーンの人が誇りを持って
>生きていくためには、自分にふさわしい生き方や考え方、そして、
>受け入れてくれる場が必要ではないかと思います。
>
> 定型発達者(健常者)の文化との関係でコンプレックスや疎外感
>を感じていた者として、次のようなことを思います。
> 「速く上達して良い成績を出すことだけが唯一の道ではない。
>ゆっくりであっても、不得意ではあっても、可能な範囲で楽しむ
>のも、ひとつの生き方」「優秀者を集めた集団とは別に、能力は
>乏しくても楽しみたいという人が集まる場があっても良いのでは
>ないか」。
> 定型発達者の文化を否定はしません。でも、社会にもうひとつの
>選択肢があってほしいと思うのです。
本当にその通りだと思います。
何をやるにもきっちり「プロを目指せ」とか、そこまで極端ではなくても「このあたりまではできなくてはいけない」と言われ続けて、しかもそれができないと、とても辛いです。
「ピアノを弾くならショパンを弾け」みたいな強制が最近世の中に多いような気がしていやになります。片手で楽しく弾いたっていいはずなんですよね。本当は。
|
|