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>>とりあたまオバサンさんこんにちは。
>人権が存在するならば、人権と自己正当化の線引きも本当は第三者の手で用意されるべきで、そこからやっと、人権が具体的に使える形で存在することになると思うんですよね。
人権という言葉は近代に入ってからできたものであって、それ以前はなかったんですね。なかったから私達が人権侵害と思うような行為であってもそれが「不正」だとは誰も考えなかった。ただ力の弱い者と強い者の関係がはっきりとしていただけなのだと思います。
人権とは存在するものではなく、信じられるものだと思います。信じることによって、あたかそういものが存在しているかの様に私達は振る舞います。だから信仰の問題です。キリスト教が教会権力の統治下にあったように、人権も国家権力のもとに宣言され、守られています。そして私達は国家権力というものを信仰しています。国家権力は弱い側に付くので、そこで強者と弱い側の力関係は同じになります。人間は平等であるという考え方も私は信じています。
子供にも権利があるという考え方は比較的新しいです。もともと子供は家庭の経済を支えるために強制労働をさせられていたもので、誰もそれが人権侵害だとは言い出しませんでした。ところが子供の人権というものが西洋で考えられるようになると、教会の支援の元に学校が出来ました。学校とはもともと子供に勉強させる場ではなくて、辛い現実世界から子供を退避させる目的としてまず機能し、次いで現実世界で賢く強く生きていくための力を養うという付加価値が考えられるようになったのです。
障害者の権利となるともっと新しいです。発達障害の権利ともなるとここ数年でやっと注目されるようになった事案で、やっぱり権利の成立の歴史から見ると、私達の「権利」という事になるとまず国家の憲法に基づく宣言から、という事になりそうです。
>とても分かりやすい説明、ありがとうございます。ASへの説明のご経験を積んでいらっしゃるのでしょうか。
自分が納得出来る考え方を自分にとって一番分かりやすい言葉で説明する、っていう意識的な訓練はしてますけど、他人にとって分かりやすい言葉とかると全くといっていいほど考えていません。
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