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▼珠玉さん:
>私の息子は昨年11月ASと診断されました。
>現在私立の大学付属の中学校(2年)に通っております。
>摂食障害→不登校→ひきこもりと状況は悪くなる一方。
>現在は今週行われた中間テストの日に登校することができず
>部屋に引きこもったままです。
>
>学校には行きたいが、身体が言うことをきかず登校できないという感じで
>毎朝起きることができません。
>
>学校側は本当に頭が下がるくらい協力的でいろいろ配慮して頂いております。
>他校ではおそらく今以上の配慮を受けることはできないだろうと思います。
>本人は学校は辞めたくない続けたいと言うのですが、
>「明日は学校に行くんだ」と思えば思うほど夜眠れなくなってしまうようです。
>苦しんでいる息子を見ると「このまま学校を続けるのは無理…」
>に思えて仕方ありません。
>私は本人が楽しく通学できるのならどこの学校でもいいと思うのですが、
>息子は納得いたしません。
>プライドが高い息子は学歴や周りの評価にこだわっているようです。
>(現在通っている学校は所謂上位校で完全な付属のためよほどのことが無ければ大学まで進むことができます)
>今の学校より下の学校には絶対行かないと聞く耳を持ちません。
>
>私の息子は本当はどうしたいと思っているのでしょう?
>本当の気持ちがよくわかりません。
>こうかな?ああかな?と息子の気持ちを考えることに疲れました。
「未診断だが、自分はASに近いと確信している」wentです。
最初にお断りしておきますが、wentは「アクの強い」人間です。息子さんとはものごとの見方・考え方・感じ方がまるっきり違っているということも考えられます。
「アクの強いwentならば、こう思っていたのではないか」という意味で書きました。不快な表現がありましたらご容赦ください。
「『学校内には、何か自分の身の安全を脅かす危険なもの・ことがある』と察知した(意識化できていないと思われるが)子供が、自分の人間性を守るために危険なギャンブルに(本人にもワケがわからず・身体がいうことをきかないという形をとって)出ている。しかし、その行為は大人を悩ますものと認識されている」といったところだと思います。
ひょっとしたら、「本人が楽しく通学できるのならどこの学校でもいい」という思いが、本人にとっては苦しいものなのかもしれません。
「学校に楽しく通学できる」という状態になることなんてありうるのか? という思いが、本人にある(意識化されているとは限らないが)のかもしれません。
「大人は、『学校教育は、子供の成長を助けるためにあるもの』という綺麗なイメージを持ちたがっている。しかし、現実はそうではない。
学校は大人のため・社会のためにあるのであって、子供のためにあるのではない。学校教育は、『大人のため・社会のために子供に押し付けた』ある意味非人間的な性格を持ってるものなんだ。だから、学校では、計算や処世術が必要な場所なんだ。だけど、計算や処世術ってどうすれば身につくのか、まるっきり想像がつかない。どうしていいのかわからない。」
という思いと、
「しかし、綺麗なイメージを持っている大人は『計算・処世術』を求めることを許さないだろう。否、『計算・処世術を知りたい』などと考えるのは、悪人だ。自分は悪人になってはいけない。」
という思いの間で、揺れているのかもしれません。
「学校は、非人間的な性格を持っている場である。学校で苦しい思いをすることがあっても、必ずしも本人が悪いとは限らない。こんな学校だけど、料理のやり方をいろいろと工夫しないよりもするほうがいいだろう。料理の仕方を、本人と一緒にいろいろと考えてみようか。」という見方をしたほうが、本人にとっては楽かもしれません。
「息子さんの本当の気持ちがよくわかりません」とありますが、「気持ちを考える」という近づき方は、ひょっとしたらASの人に対しては合わないかもしれません。
「相手が、自分のことをわかろうとしている」と判断するツボが、ASの人と定型発達の人とでずれているのでは……と私は思っています。
前者では「主張の論理構造を、相手が理解・納得しようとしている」ということで、後者では「共感を示される・感情を共有してもらう」ということではないかと、思っています。
お互いがこの違いをわかっていない状態で「相手のことをわかろうと」した場合、うまくいかないかもしれません。
「情に訴えた駆け引きに出ている」「理屈をこねて、いびり倒そうとしている」というふうに誤解されることも、あり得ます。
「プライドが高い息子」という表現がなされていることが気になります。 「本人の情的なことを、根拠も示さず勝手に決め付けた」ということを嫌う、ASの人も多いんじゃないかと私は思っています。
ASの人に対しては、情的なことを前面に出す(例 「心配している」とか「あなたが辛そうにしているのを見るのは、私も辛い」といった言葉をかける」)よりも、「理論付けて理解・納得してもらうことを目指す」という方針をとったほうがいいかもしれません。
例えば、「起こっていることの現状分析並びに将来予測」「そこからよりよい未来を引き出すための対策等を示す」といったような。
中間テストのことについて出ていますが、「中間テストの料理法」についていろいろと考えてみてもいいかもしれません。
私の勝手な想像であって、統計的根拠はないのですが、ASの人の場合「定期テストよりも実力テスト・模試・入試本番でいい成績をとっているのではないか」と思っています。
何故なら、定期テストは、「得意科目・不得意科目の差が小さい人」「『good morning がどうしておはようになるんだ?』といったようなことに気をとられない人」に有利にできていると思うからです。
「定期テストは、弱点分野の発見用と割り切ってよい。『わかってもいないのに点数は取れる』という勉強よりも、じっくりと取り組んで実力をつけるという方針が合っている人もいる。」といった案も考えていいと思います。
また、ASの人の場合、中学高校で成績が伸びてくる人も結構いると思います。
「小学校よりも中学以降のほうが、内容が体系的になってわかりやすくなった」という人も、いるのではないかと思うのです(私がそうでした)。
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