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こんばんは不特定のアスぺのウォルフルです。
>一般の人たちにも通用する、一般の人たちともその日から共有できる詳しい認識や説明って、どうやって手に入るのでしょうかね。愚痴でした。
聞く姿勢ってものは案外重要で、こちらが幾ら分かり易く説明を試みてみても相手側に聞く姿勢というものが出来ていないと「それって定型発達者である自分には関係ない話だよね」って突っぱねられる事ってよくあります。人間って自分が生きてゆく上で利害関係の発生する事柄には価値を置き、利害関係の少ない情報はどうでもいい情報として無視するといった意味ではとても功利的な生き物で、説明を試みるからにはまずこの部分を抑えた上ではじめて「説明が分かり易い」「本質を捉えている」「話が簡潔」といった要素も活きてくるのだと思います。
つまり「発達障害の子供がのびのびと成長しにくい様な社会は定型発達の子供にとってもまたのびのびと成長し憎い社会である」とか、「失敗を許されない社会とはつまり弱者に冷たい社会。人は失敗を経験として重ねることで強くも賢くもなって来た。ただの一度でも失敗した切り二度とチャレンジの機会が与えられない社会は結局人の成長の停滞を招き衰退してゆく」とか、まぁ何でもいいです。発達障害という問題が当事者だけにとどまらず、すべての人の今後の生き方や幸福とも関わってくる重要なテーマだという事が自ずから分かれば人は自ら聞く姿勢をこちらに向ける様になると思います。
「読んだ側の印象に強引にでも残るような」文章って多分上記で私が言った事がよく配慮されていると思うし、話す相手側に一旦聞く姿勢というものが出来てしまうと、後はこちらから特に説明しなくても良くなる事が大半です。文字通り「何も言わなくてもよくなる」人は利害関係の高いことにはアンテナを張り、自分で納得できる回答がえられるまで自主的に学ぼうとするからです。幸いにして日本にはネットも書籍もあるし発達障害の事を知るにはもってこいの環境は出来ています。多分これらの要素が充分活用されていないのは「自分とは関係ない」と考え、消費者側に読む姿勢聞く姿勢が出来ていないからだと思います。仏教思想の中にもこの世は一つの全体であり、自分とは関わりのない事柄など一つもないという教えもありますけど、過去の言葉すら省みられないほど現代は慌ただしい世の中になって仕舞ったのでしょうか?
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