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▼wentさん:
こんにちは。
わたしの投稿がwentさんをつらい気持ちにさせたようでごめんなさい。
>>ドイツのシュタイナー学院の先生が“頭がよすぎる”というのは問題だと言っていたそうです。
>>シュタイナー学院に娘さんを通わせた子安美智子さんが体験談の中で書いておられました。
>>知識がありすぎるとものを感じる力が弱くなるようです。
>>知的でであることそのものが問題だという考え方があるようです。
>
> penpenさんの書き込みに、「頭でっかちと言われる子供のことを貶す」意図は全くないということは、承知しております。
> ただ、この内容、正直言って私にとっては辛いです。
> 私も、「活字から情報を得ることは得意なのだが、周囲の状況を把握することが困難で適切な行動が取れない」子供でした(今でもそうです)。
わたしもそうです。
学校時代は実技の共同作業が苦手で特に調理実習は全く不得意でした。
みんなと歩調を合わせることができず、
不安でたまらず実習前日は調理手順と分量をいつも全暗記していました。
> 私の思いは、「周囲の状況を瞬時に・直感的に把握できないんだ。だから、記憶・論理・知識・規則といったものを使って自分なりに考えるというスタイルしかとれないんだ。瞬時に・直感的に把握できる人は頭のいい人だ。」なのです。
わたしも成績はよかったにも関わらず、自分は頭がいいとは思うことができず、
長く自分を知恵遅れと信じていました。
> 「知識がありすぎるとものを感じる力が弱くなる」というのは、私の場合にはあてはまりません。
> 「ものを感じる力があまりにも弱すぎるから、知識などを総動員する必要が出てくるんだ」というのが、私の本心です。
そうなりますね。
> 「頭がよすぎるのは問題」という主張が、「感情よりも論理」という文化の場でなされたのなら、「論理偏重が行き過ぎた場合のブレーキ役」となるかもしれません。
> しかし、日本という国では、「阿吽の呼吸」とか「義理と人情」とか「相手の立場を思いやった先取り的配慮」といったことが、要求されていると思います。こういう場では、「頭がよすぎるのは問題」と言う主張が、「論理的主張を排除するための口実」とされる危険性もあると思います。
“頭がよすぎるのは問題だ”というのはわたしの引用の仕方が悪かったのですが、
シュタイナー学院の教師のそのことに対する同情的な言葉でした。
頭がよすぎるのも変えることのできない持って生まれた特性です。
なので、頭がよすぎるのが問題だと言ってもそれは主張ではなく
あり得る傾向を指摘した言葉にしかなりえないと思います。
シュタイナー学院の保護者の多くは
ひとりの男子生徒の知的能力に驚嘆したのですが、
教師は知的にすぎるのは子供にとってよいことではないと
保護者を牽制したのです。
その本が今手元にないので正確な記憶ではないかもしれませんが
当時はドーマン博士の英才教育などが流行した頃で
(この掲示板でも話題になったことがあります)
知的であることが問題を起こす場合もあるという視点、理解は
ほとんどなかったのです。
だから著者の子安美智子さんはその言葉を驚きを持って伝え、
読者であるわたしはある納得を覚えたのです。
おそらくwentさんが不快に感じたのは
“頭でっかち”ということばだと思います。
親であるわたしが子供を見る視点にwentさんが傷つくところがあったのでしょう。
申し訳ありませんでした。
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