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▼彩花さん:
>ずっと気になっていながら、話題にするのも気が引けていたことを書かせていただきます。
>
>自分には女性らしさというか、恥じらいの感覚が欠けていて、これが主治医に指摘されている発達障害傾向と関係しているように感じています。
>(「女性らしさとは何か」ということは聞かないでください)
(中略)
>もちろん、発達障害を抱えていても身だしなみを整えられる方もいらっしゃると思いますが。
>
>みなさんはいかがでしょうか?
「ずっと気になっていながら、話題にするのも気が引けていた」とのことですが、実は私もそうなのです。
例としてあげられていたことは、私にもあてはまります。
私には2つ上の姉と3つ下の弟がいるのですが、両親も姉も弟も、定型発達だと思います。私以外は全員、特に意識することなく「整った身だしなみ」をやっているように思えます。
姉も弟も問題児とはみなされていなかったので、両親による監視の目は、私に集中的に向けられていました。こういう状態でしたから、姉も弟も、「身だしなみについて特別に親から教わる」ということはなかったと思われます。
それでも、2人とも、ごく自然に身につけているのです。
一方私は、服装についての感覚がわからないまま年齢を重ねてしまいました。「このスカートのファスナーはどこにくるのだろうか。ブラウスは中に入れるのだろうか、それとも外に出すのだろうか。この服装に合う靴となれば、どんなものになるのか。さらに、気温というものも考えるとなれば、いったいどうすればいいのかわからない。」といった調子です。
中学・高校時代は制服があったので助かりました。学校では、服装検査なることがしょっちゅうなされていました。服装検査のたびに、「他の生徒って、服装についていろいろと考えることができている。どうしてみんな、頭がいいのだろう。」と思っていました。
大学に入って、「きちんとした服装について考えられるだけの頭脳がない。どうすればいいんだろう。」と、複数の友人に相談したことがあります。しかし、友人達は、「そのようなことに悩むということじたいがわからない」といった感じでした。
私の場合は、「社会性の遅れ(自分の姿が他者からどう受け止められるかわからない・暗黙のお約束事がわからない)」「羞恥心が欠けていること」「関心の偏り」といったことがあるのだと思います。
「社会性の遅れ(自分の姿が他者からどう受け止められるかわからない)」ということは、発達障害系の人にはありがちな事だと思います。ただ、そのことに拍車をかけている「二次的な問題」というものもあると、私は思います。
私は子供の頃、「ワケのわからない人格教育」を大人から嫌というほどされました。玄関では靴をそろえろといったような「具体的な行動」について厳しく言われたのではなく、「おまえはおもいやりがない。わがままだ。なおさなければいけない。」といったような「何をどう変えていけばよいのかわからない」小言を嫌というほど浴びていたのです。
「ワケのわからない人格教育」を受け続けるのは、辛いです。「おまえは音痴だ」といった言葉であれば、歌唱力を否定したのであって人格を否定したことにはなりません。
しかし、「ワケのわからない人格教育」は違います。人格否定の言葉を浴び続けることになります。しかも、大人が子供に対してこれをやる場合、「教育的指導」ということにされます。「人格を否定された」と思うことも、子供には許されません。
発達障害系の人が「ワケのわからない人格教育」のターゲットにされるケースは、よくあるのではないかと思います。
「人格否定をされ続けて落ち着かない状態でいる自分を、何とかしよう」ということで手一杯で、「他人の目から見られる自分について考えている余裕がない」という面も大きかったのではないかと、思うのです。
発達障害系の人が「ワケのわからない人格教育」のターゲットにされている間、定型発達の人は、それらを免れる・軽減されるということもあると思います。それらを免れる・軽減されることで却って、他人の目についても考える余裕ができるという面もある。私はこのように思っています。
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