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([#4992]の続き)
今にして思えば、私も大学でサークル活動に参加しなかったのが、引きこもりを招いた原因の一つだと思います。もちろん、親はサークル活動なんてとんでもない、という意見の持ち主だったので、私が身障のために反抗できないのをいいことに増長していったとは信じたくありませんが、私の学生生活から自由を奪いました。
>▼wentさん:
> こうして、大学入学後に反抗期がきたという感じです。
> この反抗期は、「私のことを認めてくれる友人が、何人かいる」「大学の学生相談室(私にとっては、とてもよい施設だった)が使えた」という幸運に恵まれていました。もしもそれらがなかったらどんなものになっていたか、想像が付きません。
私は、ようやく社会人になって、もう親に見捨てられても自活できる状態になって親に反抗できるようになったのですが、このときには既に親父は胃ガンが末期状態を迎えており、しかもスキルス性という、2次元的にしかガン細胞が増殖しないタイプのものであることから発見が遅れました。そして1993年の夏、記録的な冷夏で室蘭では16日連続雨模様のさなか、享年53歳で死にました。
死んだ当初、肉親の臨終を看取ったということで悲しくてたまりませんでしたが、DVから開放された安堵感があったためか、涙を流して泣くことはできませんでした。(心の中では泣いていた)
そして、時間が経過するにつれて、「私の人生に最大の邪魔者がいなくなった」という思いだけが強まっていくのを感じています。親父にASの疑いがかかるようになって、納得どころか今までの言動がますます許せなくなったこともそのためだと思います。
そして残されたオフクロも、結婚してから43年間鬱状態に悩まされています。誰にも理解してもらえないばかりに、自分自身にも「病は気から」と言い聞かせて頑張ってきた結果、鬱状態が他人の行動をも束縛するほど重症化してしまいました。
室蘭での就職難のさなか、私は全国規模のコンピュータ会社の面接に応募し、ようやく関西の案件で面接をしてもらえるようになったとき、オフクロは「何でコンピュータの仕事にこだわるの? コンピュータ以外にできる仕事なら、室蘭でもいくらでもあるでしょう」と、私の関西での面接に猛反対しました。
私はもうオフクロの過保護が惰性になっているのに耐えられず、ようやく40歳目前にして親に反旗を翻しました。「働きに行くのはオレだぞ。オフクロが働きに行くわけじゃないのに、何でそう室蘭にこだわるんだ? 室蘭にいたって飯が食えるようになる保証があるわけじゃないから、確実に飯が食える求人案件に応募して何が悪い?」
結局、この案件と、翌年に申し込んだ名古屋の案件は何れも不採用になりましたが、名古屋の案件で不採用になった直後に、私を室蘭市内のコンピュータ会社が採用してくれることになりました。
しかし、例の脅迫メールの一件で理不尽な解雇を経験した私は、もう室蘭にはいられないと思い、札幌の案件に応募、札幌では不採用も、茨城のほうが私の業務経歴書を見て面接に応じていただいたおかげで、今こうして茨城にいるわけですが、40歳を過ぎても親に従順なら、おそらく人間的に成長できないで、完璧にダメな人間になっていたでしょう。
大幅に遅れてやってきた反抗期を経験し、親の束縛を振り切って、今ようやく充実した毎日を送っています。
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