|
お返事をありがとうございます。
>僕は、「普通の人間だ」というより「人より優れている」と思いこもうとした40数年でした。
実は私もそうなんです。家族からいつも「ヘンな子」と言われていたのでそこだけは普通のように、と気張ってきました。でも外に対してはいつも「人より優れている」と思い込もうとしていました。ある特定の能力が突出していて学校ではそれがあるために持ち上げられぱなしだったので余計にカンチガイな傲慢さを身につけていたように思います。
>ゆみこさん。
>本当に「見捨ててくれていい」と思っていますか。
子どもさえいなければ、もうどこで野垂れ死にしたとしてもそれこそが自分の存在意義みたいなものと言えるのじゃないか、などと考えています。
> でも本当は
>「いつでも自分を見てて」
>「いつでも僕のことだけを考えていて」
>という果てしない承認欲求の固まりになっています。
これまでは「見ていてくれて当然」みたいな考えはあったような気がします。
でも今は分からなくなっています。
誰も見てくれなくても見捨てられても、逆に大きな安堵が得られるのじゃないかとも思ったりします。
暗黒の宇宙の中で宇宙服を着てどこにも繋がらず浮かんでいる自分、「この世の誰も私がここにいることは知らない」真の孤独、そんな光景を想像すると安らげるような気分になります。
でもこの世から自分が姿を消したい、とか死にたい、ということは望むところでは全くないのですが。
> 「見捨てる」ことで自分が楽になろうとするより、自分が「見捨てる」まで徹底的に「文化の共有」をしてみませんか。
楽になるのは許されないとは分かっているんです。子ども達がいますから。
文化、というのは私には自分のものしか分かりません。これまでは夫の中にあるもの、それを理解したり共有しようとするどころか、あることさえ認めようとしなかったと思います。
nobody knowsさんの書いてくださったこと、どこがどうとは自分でも分からないのですが何か胸の奥底に響いてくる感じがしました。どうもありがとう。
|
|