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書き忘れです。
>>そういう面もあります。
>>もともとそういうものを持っていて、
>>子どもは試行錯誤して育っていきます。
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>その「試行錯誤」が訓練なのかと思いついて、「いじめの必要性」について考えたかったのかも。
>一口に「いじめ」と言えど色々ありますが、ここで言ういじめはちょっかいを出す程度からですが。(した側と、された側に見解の違いがよくある。した方はちょっかいでも、された方はいじめだと深刻に悩んでしまう。ASって深刻に受け止める人多いと感じています。下に書いてますが「だいたいこんなもの」と仮定に置くことができにくい??)
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>自分が「ちょっかいを出す」 相手がそれに対して「反応」を示す。
>その「反応」をみて相手を「だいたいこんなもの」と位置づけする。
>こうやって自分以外の人を「認識」していっているように見えたので・・・。
>
で、みんな一通り「いじめ」を受けると思うんです。
でも、いじめられ続ける子 と そうでない子 がいるのはなぜ?
私はずっと「貧富の差」「母子家庭の差」だと勘違いしてました。
昔、「いじめられる方に責任がある」と先生に言われたんです。
今の考えでは「人は 解明できないものを解明しようとする(ちょっかいと反応で)だんだんエスカレートしていき、解明できないとその存在を脅威に感じるようになる。そして、一人ではなく仲間を伴って(集団で)脅威に接する」
んじゃないかとふと思ったもので。
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