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…法の論理について。
そもそも今回の「発達障害者支援法」はセーフティ・ネットとしての機能こそ求 められたものでしかないでしょう。
法とは最終的に一定の集団が存続するための共通の利益を保護するものにしかなりません。それによっては、必ずしもある個人が利益を得るとは限らない事態は、想像に難くありません。“法律で救われたい”とお考えですか…?ならば認識を改める必要がある。“法律”は利益を獲得・保守するための手段に他なりません。それは障害者・健常者の隔て無く、何人にとっても…だからです。“法”は「すがるもの」ではなく、常に「利用するもの」なのです。
ならばそもそも、発達障害保護が法として成立する事自体にすら意義があるとも言えましょう(無論その限りでなどない事は各方面の努力より伺えると存じますが)。ASに対する理解そのものが社会に欠落しているからです。今この時にも、ASの存在を知らずに生涯を終えて行く人がどれだけ居るのでしょう…?
同時に、法の発案とその検証は同レヴェルで行なわれるべきものでなどなく、 常にあらゆる視座に基づく意見・見解は不可欠です。したがって、先の「個人情報保護法」宜しく“粗捜し”は欠く事が出来ません。それは、“ある特定の集団だけの利益”を防ぐためです。「法の網の目をくぐる」前に、「法の網の目を如何に細かく出来るか」、なのです。
若し、「アスペ本人の方が助けられる具体的施策の提言」と言った場合、どんな例が挙げれるでしょう? 個人ではなく、大多数の共通となる利益は…それこそ、その網の目は大きなモノになるに違いありません。発達障害は(危険な言い方を敢えてしますが)マイノリティ(少数派)です。「あらかじめピックアップして監視下に置く」としたなら、かつての「ライ予防法」のごとき重大な人権侵害につながります(特に、先天障害の場合「優性遺伝子説」を連想させる分だけなお悪い)。
且つ、その症状も発症段階によっては様々な形態に及ぶため、法の整備は「診断基準の確立」と両輪で進められなくてはいけません。現在はそのメカニズムの解明が進めらている段階ですが、…脳と云う器官を完全に解明する事は大変恐ろしい事だと思いますけどね、私個人は。だって、ロボトミー手術で治るとしたら…それは同時に、「人間を手術で作り変えられる」事を意味するのですから。
現段階に於いて、何より“周囲の理解”以上に重い支援は無いと言えるでしょう。それに対してもし「国家を挙げたキャンペーン」をしたところで、AS当事者に とって望むべきものとなるでしょうか…? 不可を可に転化したところで、新たな 誤解を生むだけでしょうね。
障害に対する誤解(もとい、人体についての無理解)や、偏見の多い現社会に於いては、それこそ一人づつ、その誤解を解いて行く必要がある。ならばそこに必要なのは、「障害」について負い目も劣等感も、かつ優越感も無くそれこそ「個性」として語り合える環境であろうと思います。
究極の意見を述べさせて戴くなら、「人は何故集団を形成するのですか?」。生命を維持するだけであれば、高度なコミュニケーションの必要はありません。個体を維持し繁殖を行なうだけなら、必要以上に個体と触れ合う必要などありません。しかし、人間はその「枠」を当たり前に超える生物です。
高度な知的活動を行なう生体が集団を形成する事のメリットは、「より賢くなる」ことです。個体として・集団として破綻を来さない究極の“幸福”とは何か、それを模索している。
障害というものは、その本人は“それ”と一生付き合っていかねばなりません。ならば、隠し立ても負い目も感じぬ社会環境こそが必要なのです。人間を人間たらしめるのは、何より己を取り囲む「人間」達です。各人との対比は自己の確立には不可欠な要素。そこに於いて、パーソナリティは確立されるものと言えます。ならば「偏見」は「無理解」によってこそ助長されていると言わざるを得ません。それこそ、発達障害者にとって重大な“損失”です。
本当に幸福な社会は、「法」の存在の有無に拘らず人間がその善意に従い互いに互いの存在を喜び合える世界です。そのとき「法治」というシステムは過去のものになる。我々は、たとえそれが見果てぬものであったとしても、理想のために努力し続けている事を忘れてはいけない。
全ては「始まり」に過ぎません。今回の立法を受けた今後の展開に注視しなくてはならないし、若し不利益を被る事態が発生するなら、違憲立法審査権の行使を視野に入れた活動をしなくてはならないでしょう。そうした場合、最終的に大きな力となるのは我々一個人の「思い」です。
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