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▼Chiquititaさん:
こちらこそ、Chiquititaさん。
乱筆に等しい内容への丁寧なご返答、心より感激致しました。
誠意あるご返答に感謝し、その意を表するべく敢えてご返答申し上げます。ただ、これ以下の表記は人に因っては嫌悪を感じる方もあるでしょう。語句に敏感である方は、これ以上を読まずにページを移される事をお願いします。
>私が伝えたかったのは、むしろ自分が現在おかれている状況に嫌気が差しているのが原因、という点で自殺願望と変身願望が共通しているのではないのかな、ということなのでありました…
成程、大変興味深い点にお気付きと感じました。この度敢えて返信申し上げましたのは、この点に対する(私個人の)考察をお伝えしたかった故です。
確かに、自殺願望と変身願望は根を同じくするやも知れません。そのように云うのは、心理学に“ネクロファイル(ネクロフィル)”と云う学説があります。確か Erich Fromm の説であったように記憶しているのですが…。
“ネクロファイル(Necrophile)”は、日本では死体性愛と直結した解釈が目立ちますが、本来の意味はそうではありません。Necro…つまり「死」ですが、これは即ち「停止」の状態であり、即ち「不変」引いては「永遠」を意味するイメージであるという説です。
それは、性的嗜好に即していうならあながち誤りではありません。しかし、元来の意味はより広義で「完全なモノへの欲求・同一化」と云う説です。つまり、過ぎ去った時間は変えようがありません。“不変”が即ち“完全”と考えた場合、人間にとっては“死”がそれであっても過言ではありません。が、しかし単に「過ぎ去った時間」であるならば、「昔は善かった」を仕切りに繰り返す人も同じなのです。つまり“ネクロファイル”は単に「死への傾倒」を指す学説ではありません。
何故このような前置きをしたかといえば、これは同時に「変身願望」を読み解く鍵としても用いられるためです。例えば、現代日本で云う「コスプレ」は“変身”に違いありません。ならば問題は、“何への変化を求めているのか”が心理学的には重要なのです。
例えばそれが『警察官』や『看護婦』であった場合、それはその「役割」こそが目的であり、つまりは“一個人”としての「個性」では無い事になります。「完成された役割」との同化が即ち「完成との同一化」であり、そこに快感を得る ─ それが目的と考察できるからです。
この場合、明らかに「自殺願望」とは結びつきません。死ぬ事が目的では無いからです。敢えて逆を打つなら、屍体性愛だって「自殺願望」ではない … 寧ろ逆なのです。「生あってこそ」の欲求なのです。
無論、「自殺願望」の根底に“ネクロフィル”がある … やも知れぬ点は考慮すべきかも知れません。しかし、「自殺願望」へ結びつくには 足りない のです。
例えば、先に挙げたコスプレになぞらえた例をあげますが、「Gothic Lolita(ゴスロリ)」のファッションは“吸血鬼(undead)”・“魔女”時には“死体”をイメージしているのがあからさまなものすらあります。だからと言って、彼ら(彼女ら)が自殺願望を抱いている訳ではありません(…確かに、時として抱いている者がある事も否定しませんが。しかし、大多数は「楽しんでいる」筈です)。
いや、つまりそれはネクロファイルが即ち「自殺願望」では無い事の証明であり、「変身願望」と「自殺願望」は直結しないものと考えるためです。
>私が「女の子になりたい」という願望を最も非現実的だと解釈したのはこういうことです。例えば女の子が童話の「シンデレラ」になりたい、という願望を抱いたとしましょう。確かにウェディングドレスをまとうことで外見上はシンデレラになれるけれど、当人はそれだけで身も心もシンデレラになりきることは可能ではないのかな、と思います。
>でも男の子が「女の子になりたい」というのはもっとレベルの違う話ではないのかな、という気がします。…(略)
前述の点を踏まえた上でお答えすれば、御考察は実に的を得ていると感じます。
はい、「男の子」がヒーロー戦隊のキャラクターのような「同性の何か」になるのではなく、「女の子」になりたいと考えるのは、お考えの様に次元の違うものでしょう。それは寧ろ、(カフカの『変身』ではありませんが)『違ういきもの』になりたいと云う願望の方にこそ近いと考えます。「現在の自分とは違う、遠いモノ」であり、かつ「人間にもっとも近い」と考えれば、何ら不思議はありません。
これだけであるなら、性同一障害などとも違う解釈をせねばなりません(無論、性同一障害は現在は検査すれば判る事ですし、一応の市民権もあります。どうあれ、性などと云うものは先天性な要因よりも後天的な部分の方が現実として問題が大きいでしょう)。
Chiquititaさんのお考えの様に、同性のコスチューム・プレイとはまた別のものと考えるのが正解と思いますが、しかしこれを「自殺願望」と直結するのは誤りです。
よしんば例え、若しその後のChiquititaさんに自傷行為があったとしても、それこそ現在の環境に「居心地の悪さ」がある点こそが大きな要因です(無いのですよね、^^;)。
自傷行為に到るには、「居心地の悪さ」や「ネクロファイル」だけではなくもっと別の、「経験(体験)的な要因」が必要なのではないでしょうか。それは、ある点で「マゾヒズム」に近い部分があるので、寧ろ言及はしません。何故なら、日本に限らず、シグムント・フロイトには偏見や誤解が多いと私は思っているので…。
実際、自傷行為は確かに「自殺」へつながりますが、しかし、その行為は「死」を得るには寧ろ不確実な行為が多い。これは多くの研究者・専門家の指摘する通り、「生」への渇望のシグナルに外なりません。
逆に私は考えます。「自殺」とは、「死へつながる行為」と「死という結果」ではないかと。
つまり、行為ののちに「死んだ」のであれば、それは死と言う即物的な事実としては「事故死」と何ら変わりは無いのです。
されど、人間にとって意味をなす…つまり何らかの“メッセージ”を持つのは「行為」の方であります。それはあくまで、「生き残る人々」へのメッセージに外なりません。されど、自傷行為を行なう人達はそれとは違う点を、意図的にせよ無意識にせよ目しているように感じます。つまり、自傷行為と目されるその多くは、死としては「不確実な方法」を執るケースが実に多い。
…つまり、「生きる」事へのアプローチ(証明)に外ならない思うのです。それはリストカッターなどは明にも暗にも感じているのではないでしょうか。
>でもさすがに36年前には、こういった疑問の発生する余地はなかった。…(以下略)
Chiquititaさんがかく自己分析されている事に私もうれしく、寧ろ心強く思います。
仰せの通り、「変身願望」と「自殺願望」を同列にするのは誤りです。たとえ同梱であったとしても、両者はどう考えてもプロセスが違う…別次元の問題です。
「死」と云うのは、おそらくは人間に限らず動物(もしかすると植物も)にとって普遍的なモノ(恐怖)であろうと思います。人間ならば誰であれ、「死」について考えない者は居ない。即ち、ともした事で「死」は何らかの感覚を人に呼び起こします。それが如何な概念や欲求と結びつく可能性はあるにせよ、根本的に人間は「生」を望みます。だからこそ人はその狭間で苦痛に陥るのかもしれません。すべては、「死」に裏打ちされた『生』あってのモノです。
私は、人生とは“「誕生」と「死去」の間の時間でしかない”と考えています。その間に、貴方と意思のやり取りを出来た事にたいへんうれしく思います。
以上で失礼致します。長文に渡り、ご迷惑をおかけ致しました点ご容赦ください。
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