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昨日、父親に「てめえは…」と言われて、キレてしまいました。
確かに、非ASの父には、父親の顔を正面から見ようとせず、
表情の読めない娘に対して、複雑な感情を抱いているのだと思います。
私は、何とか父親と他の人を区別し、知的な憶測の中で、
何とか父親との距離を縮めようと努力してきたつもりだったのですが。
(赤ん坊の時には、長期出張帰りの父を知らない人と認識したのか、
1ヶ月ぐらい誰だか分からず、父の顔を見ると泣いて、
困らせていたようです、私。)
しかし、愛する家族から、「アイツには何を言っても分からねえ!」
と決め付けられると、ASと共に、自分らしく生きたい、という
積極的な自分を、全く否定された、と感じるのはAS者のひがみ、
なのでしょうか。
言葉で貴方の気持ちを説明してくれ、と言っても、
全く話の通じない、「この目を見ろよ」ってなタイプの
戦前/戦中派の父との係わり合いに悩んでしまいます。
この世代は、わたしとあなた、という主客関係意識が希薄でも、
自分と他者との係わり合いや分かち合いは、ある程度伝統的習慣から
自然に習得しつつ、自我も築き、他者の存在を自分なりに認識出来る
世代なので、ASか非ASかに関係なく、
大きな時代の変化から来るジェネレーションギャップというハンデへの
対処方法がイマイチ分からず、困っています。
ちなみに、元日本語講師として感じるのは、日本語の変化。
以前は、「わたし/あなた」だの、文章の論理的構成を確かにする、
文法に依拠した日本語、は外国人に日本語を教える方便だと言われて
いました。
今の小学生(多分2000年前後から)は、以前の「日本語教育」を
そのまま母国語習得法に教育手法/語彙のみ変更した内容で教わっています。
小1から文法/言語運用方法に関する問題がちゃんと出てくるのです。
その分、「サイタサイタ サクラガサイタ」というたぐいの、
言葉の暗唱から、言葉の持つ深い情緒的な感性を読み取れ、
という課題は激減しました。(今は、国語の本を声に出して読む音読教育
が課題に入っているぐらいです。)
まあ、国語学者/言語学者の間では、感性言語としての日本語と
論理性/合理性をきちんと説明出来る生活言語としての日本語を
それぞれ支持する人々の間で、大混乱があるらしいのですが。
言葉による思考とコミュニケーションに深く依存するAS者を取り巻く
言語環境のこの変化は、かなり大きな課題だと、私は思います。
ASの人の人との言葉による係わり合いにも、
周囲にいる人々の世代によっても、大分違って見えるものだと
思います。コミュニケーションのジェネレーションギャップに
関して、皆様のご意見を聞かせてください。
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