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▼Cyperus-Aさん
「税金」「コスト高」なんていうキーワードは結局のところ、’’ある商品や仕事に対しては相応の対価でもって支払われるべき’’とされる経済システムの存在を前提とした社会運行のあり方なのであって、経済の存在が間違っているとは言わないけど、そうやって経済の存在を前提として何もかも問題を解決しようとする限り、「失われた人々の絆」は取り戻せないのだと思います。つまり経済を前提としない社会のあり方も可能性としてあるのではないでしょうか。たとえば「家族」なんてのは経済によらない互いの信頼や愛情といった要素でも成り立っています。(風邪ひいて看病してあげたからお金支払えなんていいませんよね、)ウィキペディアという非常に大きなツールがインターネット上にあり誰でも閲覧&編集することが可能ですが、これだって人々の無償の善意と好意で成り立っているわけで、仮に同じものをお金かけて作ろうとすると莫大な費用がかかるだろうし、お金かける分現行のウィキほど早くは作れないだろうし、効率的に無駄を省いて予算を組もうとする分、今のウィキほど多様で質の高いものは出来ないと思います。つまり人間の営みの中で経済的な活動よりも経済によらない活動の方が遥かにフットワークがよく、結果的に人々の労力や知力を活かし易くなるのだと思います。
お年寄りが孤立しないための「見守り隊」なんてのも人々が経済システムへの依存から脱しつつある一つの兆候として見ています。というのも現在の見守り隊といったものは昔の地域社会が自治能力として持っていたものですが、社会の経済システムへの依存度が高まるにつれ「利益を生み出さない」「労力が対価に見合わない」などなどの理由から喪失していったものです。
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