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▼nocoさん:
はじめまして。30代。女。正式診断は受けていませんが当事者です。
お勧めの本は思い当たらず申し訳ないのですが、私の体験から考えてきたり感じてきたりしたことが、nocoさんの今に発展の何かしらになるかも知れないと思い投稿します。
私も以前、絵を描いていました。どこかに発表した経験はないのですが、絵以外でも世間から理解されない経験は自分なりにあります。
絵も小説もその他もだと思いますが、少しでも「有名になる」と必ずバッシングを受けると思います。有名になっているので認めてくれる方々がいるのだろうと私は思っています。
この点に定型と非定形の違いはないと思います。
>自信のある画家や作家や漫画家なら、人と違った感性を持ったことを逆に誇りに思うかもしれませんが、私は日常生活で「人と違う」「変」と言われることがとてもコンプレックスです。その通りだからです。
>なので、感受性に関しても「人と違う」ということを指摘されると、その通りだ...と真に受けて、自信をなくしてしまうのです。
この点で私が感じた、又はこれまでに考えてきたことがあります。感受性は定型でも非定形でも人それぞれだと思います。私は自分にアスペの疑いが大きいと指摘を受け、自分でもそれを受け入れるまでに、過去にも自分には一般とはかけ離れているところが多い事には気づいていて、「自分、かなり変人なんやろうなあ」とは思ったこともあります。
「その通り」と認めることと、「その通りだと真に受けてしまう」は言いかえると「その時点では真に受けたけれど本当は違う」になると思うと、これは否定になるので、自分の中で認める(肯定)と否定が区別なく混在していると混乱してしまうと思いました。
肯定と否定。これは相いれないものではないかと思うのですが、「主観と客観」を考えると、これも「分かれてはいても「違う」ということを認める」ということはできると思い、私はそれを考えてみることを努力しています。
この「主観と客観」が出てきたのは、
>全然そんなつもりがないのにそんな言われ方をするととても辛いのです
この点の「そんなつもりがない」からです。私自身も自分ではそんな積もりがない行動や発言が相手によって否定的にしか受けてもらえない事は多いです。ですが「その積もりがない」というのは主観であって自分でも「そうではない」と断言していないので本当に「積もり」なんだな。と後に反省する事もしばしばです。ここで主観と客観ではどう違うのかと考えています。
これが自然にできる人もいるそうなのですが、私はこれが自然にできず、無自覚が多いので一般常識やルールに頼って、それに沿ってきた”積もり”でいましたが、最近それも違うのだと知りました。
>人と違う感受性を持っていても、自分の感受性を前向きに思いたいのです。
自分が他者と違う感受性を持っている事を知っていても、その感受性に対して善し悪しをつけようとすると、どうしても他者との比較なしにそれはできないと思うのですが、すべての判断基準を他者(大多数)に委ねてしまうと、大多数が基準なだけに少数派は自分の中でも「否」になり、前向きになれないのではないかな・・・。と思えるのです。
そしてこの「少数派は否」は、絵や小説(その他)の発表をしたい場合に自分自身の重要点をどこに置くかでも違うというのは大多数の定型(一般)でも常識だというのも考えに入れておかないと、不用意に傷ついて自信をなくしていくと思います。
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