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凪さんへ
こんにちは、コメントが遅くなりました。過去のコメントに目を通して下さり、恐れ入ります。
>>そういう気配りがちぐはぐになって、
>実はずばり「お前なりに気をまわしてくれてんだろうけど、そんなんしなくていいから」
>と、直球を投げてくれる方がいまして、いやはやです。
本当にそう思います。気を使う、気を使わなくても、と言われると、どこまで気分を害しているのか、気分は普通の上での社交辞令なのか、区別が難しいです。
>びっくりするくらい日常的に気遣いといいますか、人を見ているといいますか、ただただ関心ばかりなのですが、私がそういう方法を採用することは無理だな、と…
>あまりにも高度な技で、一時的でも出来ないだろうし、日常的となると、それするだけで一日が終わりそうです。>言われてるだろうなー、と自分自身を想像。
>ただそういうことをほとんど気にしないことが、結果オーライになっているのかも知れないです。
考えすぎていて、疑心暗鬼に陥ります。本当に考えたくないです。自分の場合、保育園の職員とは、挨拶はしっかりしよう、他の保護者のように巧みに会話しないでいいと割り切るしかないかという感じです。
>私自身は、「定型」「非定型」という土俵がそもそも存在しないだろうところで生活していますので、こちらのように様々な意見をお聞きできることが自分自身に活かされればいいなあ、と思っています。
>なるほど、そういうこともあるのかと
>ちょっと突っこんだ話、「定型」「非定型」が前提にあるような場所では、ああ
>息苦しいなと感じることが多々あるので、サラッと流すようにして着かず離れずで居ますが、私自身の中にその線引きに対するひっかかりがあるんでしょうね。
行きにくさを何となく感じていた時点で、人とのつながりをそつなくできている人はやはり自分と違うと感じてきて、例えると、魔法使いが沢山いるような感じでした。診断後それがいわゆる「定型」なんだと、自分なりの確信を得ました。
すんなりと生活出来ている人々と、自分を同一化して失敗を避ける上でも、診断を受けてからは、やはり拘ってしまうんですね。診断を受けて安堵すると同時にショックが続いているのか、よく分かりませんが、自分はとりあえず、定型、非定型の関しては、目安としての線引きをして考えています。
>>里美さんのスレッドにもありました。
>ありがとうございます。少し拝見しました。
>感覚というか感情という意識レベルで、当該スレッドに書かれていることに近い内容は、「福祉業界」では結構な頻度で感じます。
その通りです。福祉の職員や関係者、ボランティアの感覚はそんな感じですし、悪く取ればきりがない感じですね。
>ですので、個人的対処法として、ある程度の距離で、どなたかが書かれていたように、自分にとって心地よい接触をしていただけるように、私自身も相手の方が心地よいのではないかな?、と思う(自分の尺度ですが)行為をするように心がけでいます。
>不思議、って思うことが多いです。
私の経験を申しますと、先方も気を使っているのは伝わってくるのですが、先方に伝えるのは難しいし、困難点を言えば、クレーマーと誤解されないか?メモを片手に相談に臨んでも、愚痴と思われるのか、先方も話そうとするセオリーがあるようで、なかなかこちらの困難を伝えることが難しい。特に福祉関係の公的機関での相談は、なかなか話がつながらずに、愚痴の誘導尋問や、方向の違う、お説教に巻き込まれて、肝心の質問には、しつこく念を押さないかぎり、答えが出ずにスルーされたりして、疲れることが多いです。今のところは、期待しないで仕方がないと諦めるしかないですね。
※・・・子供のことに関しましては、あくまでも今のところ、健診などで指摘されていませんが、この先どうなるか不明ですので、はっきりと「定型」と決まったわけではありません。遺伝的な要素もありますので、このコメントを読まれて、不快を感じられたら、お詫びします。
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