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▼mementoさん:
こんにちは。
>自分がそういう所に好意を持ったのですから、本当聞く必要はないと思いました。
上記、御意見に賛成です。もしもお相手の方が自身でASだとは知らずに、この先本当に困っているような場合には、そっと手を差し伸べる感じでの助言をして差し上げれば良いのではと思います。
>本当に徹底していますね。。疲れているというのだったら本当ゆっくり休んでもらいたいです。疲れやすいという点にも考慮しなければなりませんね。私の場合ですと、好きな人の誘いは内容に興味なくとも、その人の世界が見れたり、一緒にいられるので、無理しても行きそうです。1回断ると次もう誘ってくれないとも思ってしまいます。断る事は考えられなかったので不思議で質問してみたのですが、どなた様も本当徹底していてビックリです。。
ここで私が思うのは、もしもその方とこの先長く一緒に生活をする事になった場合にですが・・・「疲れているというのだったら本当ゆっくり休んでもらいたいです」この優しい思いやりのお気持ちが続くかどうかです。私の思う定型の方は、これを続けると言うのは難しいように思います。このお気持ちが今あるのは事実だと思いますが、その環境下でmementoさん御自身が耐えられるのか?です。御自身の「共感を得られない寂しさ」の感情かと思います。しかし例えそうなったとしも、他の定型の友人との雑談等でその部分の埋め合わせは出来るものとは思いますが。
>個人的な興味あるorなしが存在してしまう、特定のイベントや映画よりも、そういった草原で寝転んでいたいとか、公園を歩くとか、静かな場所でゆっくりリラックスできるものなら乗ってくれるんでしょうかね。。
想像ですが、次回作の「スタートレック」の映画、お誘いになっても良いと思いますし、さりげなく一緒に会社の帰り道を歩くのも方法かな?と思ったりします。
又、毎回一発勝負の気持ちでお誘いして一喜一憂するのではなくて、何かあるたびにお誘いするのも良いように思います。常に誘ってもらえる事は、私からしたらものすごく楽な選択になると思いますし、常に誘ってくれる女性を好意的な存在として意識しないわけは無いように思いますね。ただ、それでもお誘いを断られる事が多いと思いますので、軽いお誘いを多くされればどうでしょうか。そのうち相手の方の趣向も分かると思います。私の場合、楽な状態を保ちたいので人ごみ等の場所には行かないと言うことが有りますが、いつも誘ってくれて、イエスかノーを選択をさせてくれるような女性・・・楽な存在と感じると思いますね。
「〜に一緒に行かない?」「・・行かないよ。。」この時に通常次に来るであろう問いかけの「何故行かないの?」はプレッシャーですね。「〜に一緒に行かない?」「・・行かないよ。。」「分かったよ。じゃー又ね♪」の繰り返しが良いのでしょうか。人それぞれですので、申し訳ないですが上手く行くかどうかは、はっきりとは分かりませんが。。。私ならこのような空気のような相手の存在は「楽」ですね。
>そうですね、ありますね。一般常識からとか、大体の自分がこれまでいた環境から習得した標準ですかね。人それぞれ、何が普通かは違ってくると思いますが。特に日本にいた時は、皆と同じ事をしていると安心感があるためか、更にこういう「皆そうだ」的なのは重要だったような気がします。この「感覚」がないと本当、社会に溶け込むんだり人に合わせるには、周りから学習していくしかないってことでしょうか。不思議です。
「人それぞれ」「何が普通かは違ってくると思いますが」・・・私にも私の「普通」があるのですが、それは「変」の一言で片付けようとする人が過去多くいましたが・・・「この星の住人は、何が普通かは人それぞれ違っていると表現するのに、私の普通は変だ!と言う・・・合理的ではないね」・・・きっとミスター・スポックならこう言うのではないでしょうかね?(笑)
これはmementoさんのお話の内容「全体」に言えると思われる事で、もう御存知かとは思いますが「ミラーニューロン」「共感」等のキーワードでお調べになられ、少し想像を働かせればその辺の思考回路の仕組みの違いが分かる(感じられる)ような気がします。
>これも本当不思議ですね!!では「愛している」の定義はあるんでしょうか。どういった感情が、「愛している」なんですかね。「愛している」から奥様と一緒になられたという事ではないということですね?「大切に思っているし、守ってあげたいし、安心できるし、そばにいて欲しいし、いなくてはならない人」とまで思えて結婚をする相手の場合、私でしたら「=愛している」ですね。
私の場合は「大切に思っているし、守ってあげたいし、安心できるし、そばにいて欲しいし、いなくてはならない人」=「大切に思っているし、守ってあげたいし、安心できるし、そばにいて欲しいし、いなくてはならない人」で、それが表現された感情ですね。そしてあえて文字に起こすと「愛しているから一緒になった」になるのですが・・・実際には「言葉」にはならなかったのです。なので「愛している」と言う文字配列に直結した端的な感情が私にはないのかも知れません。(これも恐らく共感と関係しているように思いますが)
何度考えても「 あ い し て る 」と言う文字配列は私の感情と一致しませんし、その文字配列を「言って欲しい」と言われて、例え言えたとしてもその「言葉に」感情はこもらないですね。ただそのような傾向がある私は、恐らく定型の妻に対して、その気持ちを共感によって満たして上げられないと言う罪悪感?や申し訳ないと言う気持ちを感じていますし、それが前の文中の「苦い思い出」の「苦い」と言う表現の意味です。その気持ちはあるんですよ。ただ表現の仕方が違うのだと思います。
例えて表現するなら「Eu isto amo と日本語で言って欲しい!」と相手から言われているような感覚でしょうか。。これは実際の発音も分かりませんが(笑)「愛している」をポルトガル語に変換するとこうなるようです。ややこしい表現になってしまいましたが、感覚的に御理解頂けますか?
それと「愛している(愛する)とは?」と一般の方(定型の方)から聞かれれば「一部の否定を含んだ全肯定」(この場合の「一部の否定」とは定型発達者が否定と認識するであろう事柄の意味を含めています)と表現すると思いますし、私と同じAS傾向にある方から同じ事を聞かれれば「全肯定」と表現すると思います。これは、私の認知する「言葉の意味」を過去に理解できる人が少なかった為に、このような2種類の表現の使い分けを今はするようにしているのです。
私があえてこれを書いたのは、例えばですがトラブルになった時「愛してると言ってくれないのは、愛していないからでしょ!」「愛しているのなら、愛していると言えるはず!」「愛していないから、愛していると言えないんでしょ!」と、私からすれば、定型の方の一方的な価値観の押し付けからの短絡的な結論付けをしてしまうと「大きなすれ違いになる」のでは?と危惧したからで、言葉に出せないだけで「同じような気持ち」なのに・・・の可能性を感じたからです。
>直接肌で触れ合うことから安心感を得るというのは大いにありますね。隣りで寝ていて、体温を感じられる時とか。安心感を得る方法が違うんでしょうか。。タイムさんからすると、どういう手段になるんでしょうか。特に手をつないで触れ合うことなしで、先程のように穏やかな場所で一緒に時間を過ごしたり、共通の趣味をしたり、とかでしょうか。
手段・・安心感を得る手段なら・・・どうでしょうか。。安心できない人から遠ざかる(安心できない人を遠ざける)事ですかね。そして私が安心感を得る時ならですが・・・恋愛時代は、相手が私を信じきってくれている感覚を私が持てた時で、結婚後は、妻が安心しきって寝ている姿を見ている時には私も大いに安心できますし、笑顔や子供と妻が遊んでいる姿を見ているだけで十分私は安心できますね。相手が安心の領域内にいる事を私自身が感じた時に、私は安心できると言う事でしょうか。(御質問の返答を外しているかも知れませんが)
それと妻との共通の趣味はありません。手をつなぐ事から安心感を得る事も時としてありましたが、私が前回書きましたのは、過去に「突然触れられると、その瞬間、私が怪訝な顔をした」と言う話が大元で、基本的には、頻繁にと言う意味でのその接触による安心感獲得と言う感覚は少ないと感じますね。その当時に「私は、彼女を大切に思っていないのだろうか?」「本当は大切に思っていないから、突然手をつながれる事に私は嫌悪するのだろうか?」と自問した事も有りました。今はそばにいてくれるだけで十分満足です。それにその当時のその嫌な?感覚は、年齢と共に減少しているようにも感じます。
>知っておくだけで大分違います。
今回も元の投稿の内容からは少し関係が進んだ場合の視点で書かせて頂きましたが、まとめる能力が無く長文になってしまいました。参考になりましたら幸いです。
ちなみに、ASが治るボタン・・私は押しません。
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