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▼凪さん:
こんばんは。うーーんと考えているうちに返信遅くなりました。
>>1.保育室を出るときに先生の上履きを、保育室を出ようとする先生に差し出ていた。
>相手の行動を予測しその方に対して良かれと思うこと、それを行動に移すことが可能、ということなのでしょうかね。
>私の3歳時点では、まずしていなかったであろう行為ですし、今なお気を抜くとスッポリ抜け落ちていそうなところですね。
まだ3歳なので、習慣としてはこれからどのように身に付いていくのか分かりませんが、自分自身の場合、そういう気配りがちぐはぐになって、かえって相手にとっては不可解で一貫性のない気配りになってしまい、かえって出しゃばらない方がよいと身構えてしまいます。
>>2.夫と私が言い合いをしているときに時に、夫が買った本を夫が探していると、文字がまだ読めないので、本の名前を知らないはずなのに、近くにあった本を拾って夫に渡した。
>これも1.と類似点があるように感じます。
こちらに関しては、息子の取った本は夫にとっては、手に取りたかった本で、私が横に置いていたのが分かっていて、言われなくても本を夫に渡したので、気配りの面で、私の3歳時には思いつかなかったであろう行動なので、私自身、思いも寄らなくて、ありえない、と一瞬思ってびっくりしました。
しかし後で良く考えてみると、気配りという点では、的を射ていると思いました。感心する一方で、息子のそういった点に対して、違和感を感じたのも事実でした。
>
>目の動きですか。私、他人の表情を視認するクセがありませんもので、そういうところに違いがある、という発想がなかったのかも知れません。
>>やはり目つきと、関心事でしょうか?
>「目つき」というのは視線の移動、特に視覚的に他人の感情等を察知し、行動を予測するというものなんですかね?関心事と目つきの関連性があるというのは正直意外な着目点でした。
>>やはり親戚なんかでも、定型?と思える人達は人の輪から「あぶれない」で、話がかみ合っていますので、違うと感じています。
>ああ、確実にあぶれますね。かみ合っていないと認知出来る場合はまだ良いのですが、かみ合ったように見えて実はお互いまるっきり異なる解釈で納得してしまっていて、後で行き違いが生じている、という場面には出くわします。
>「察すること」の確率が高いというか、要点を把握する能力がそなわっているんですかね?
やはり、人の輪からあぶれない人達を見ていますと、人の動きに注意を払っているのが分かりますし、自分なら気が付かないところで、いくら注意していても、自分の分からないところを見ているという感じがあります。ずーっと他人に注意を払って見ていても、認識と解釈ずれていて、行動の判断が遅れがちになってしまい、気が付いたら、あぶれていて、かみ合わないことが多いです。
>状況判断力が早いというか、思考ルーチンの類似事項とのマッチング(情報の接続)が簡単にできるということなのかなあ、と感じました。
>同じように出来ないほど素晴らしく見える反面、相手からの無言の何かを感じ取る
>ことは出来るというのは、結構きついですよね。
そういうことなんだと思います。人の輪であぶれるのもそういうことなのでしょう。うっかりそう言えば、怠けている、だらしない、怠けたいことを正当化していると言われるので、特に父からは、診断されていても、それを免罪符に怠けようとして、何も頑張ろうとしないと、言われますので、難しいところです。
>素朴に知りたいんですよね。
本当にそう思います。私自身、診断が出たところでも、それが免罪符?と思われるのも心外ですし、言えば言うほど、そう思われやしないか、よく分からなくて、こちらでのコメントの中で自己紹介しようにも「当事者です、」と変に肩に力が入って傲慢に聞こえないか?どう言ったらよいのか、よく分からないです。
>私自身、様々な専門家からは「当事者」と確定印みたいなものをドンと押されるのですが、自分自身が明確に理解できていないもので…
紹介状なんか読んだら、やはりそんな感じがしました。
確かに社会で迷惑をかける存在と烙印を押されても、濡れ衣みたいで嫌な感じがします。求めすぎと言われればそれまでだけれど、こんな困難があって本人は困っていますとの、目線がほしいと思います。
>
>こうして感じておられることを書いて下さると、とても参考になります。
>聞いてみたいですよね。立場とか関係なく、色んな方が感じたり考えておられたりすることを。
理想をいうようですが、あくまで私自身の思いつくままに疑問点をあげてみますと、
・定型>非定型となるのは仕方がないことなのか。
・非定型(当事者)側が、傲慢にならないで、卑屈でない言い分がもてるのか。
・支援者、健常者(定型者も含め、非定型であって、適応に成功している当事者)側からの上目線に対する違和感をどのように伝えたらよいのか、平行線なのでしょうか?(里美さんのスレッドにもありました。)
時として、当事者側から支援者側、健常者側に違和感を伝える場合、双方によほどの心の準備が出来ていなければ、話し合いで、感情の収拾がつかなくなり、相手側に切れる形になるリスクがあるだけに、ややもすれば、ルーさんがおっしゃっるような、「こんな難しい人は相手にしないで置こう」という結果になるだけ、本当に難しいと思います。
参考になるスレ立て、本当に有り難いです。
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