|
▼凪さん:
>▼ルーさん:
>こんばんは。レスポンスありがとうございます。
>
こんにちは。
>
>>あまり困ることがなかったからです。
>困ることがなかったら、特に障害とかどうとか考える必要がないですね。と、私自身言う時もあるのですが、実際問題としてやっぱり困ってるな、というところもあるものでプスプスと燻っていたりします。
>
>
わたしも細かいことを言えばいろいろあったと思います。実際、かわっているし。
でも誰にでもいろいろあるのだから仕方ない
あえて自分だけがつらいのだと思ったことがなかったのです。
誰もがそんな風に悩み、困ったりしながら生きていると疑わなかったのです。
>>わたしは、たとえ本や事例のようなことが当てはまっても
>>まわりから問題視されることがなければ、普通の範囲と考えます。
>このご意見の方か、もしくは無関心な方が大多数なのではないかな?
>と感じています。
>
ひとは自分と考えが違うひとをかわっているといいます。
多くの人は定型、非定型なんてことすら知らないし、興味はないです。
ただ占いと同じように統計学みたなもので、多くの意見が正しいように感じるし、
少ない意見は特殊に感じるのだと思います。
だけど絶対じゃない。そこがあいまいで白黒はっきりしてほしい
ASのひとは迷いがちになると思われます。
>
>>でも、あえて定型と名乗るのは、かなり勇気がいりますね。
>勇気いりますよね。なのでその自信の根拠が知りたいという思いもありました。
それは乱暴にいえば上目線だからかな<笑>
多かれ少なかれ、みんな自分は普通だ、真ん中だと思っている気がします。
誰かにとっての定型は、誰かにとっての非定型であったりします。
>
>
>>などがあり、定型の枠ではおさまりきれないものを感じました。
>たぶんですが、私自身ノイローゼになる側に立ったこともありますので、お子さんをお持ちのルーさんでしたら、悩みは深いのではないかな、と感じます。
>定型の枠というものがあるんですね。実はそこが知りたかったりします。
>福祉の場に行ったら「非定型」という定まった形を求められますしね。
>不思議なものです。
これは<枠の話です>わたしの使った言葉であり、断定ではありません。
わたしの言ったことがすべてではないのです。
ただ、わたしの中の定型の基準からはオーバーしたという話です。
同僚たちは、おかしいとか、社会人として通用しないとは言っていましたけど、
障害があるからかも?と言うひとは誰もいませんでした。
そういう知識がまだあまり知られていないからだと思います。
>
>話に出てくる光に見える部分も少しは持っていますが、陰に見える部分のほうが目立つでしょうね。私の場合。
>
>自分自身に対してもそうなのですが、自分の血を分けた肉親に対して陰ばかりを感じてしまう生活は、結構疲れるんですよね。
家族にASを感じると疲れるということでしょうか?
診断が子供に出た時から、疑えば誰しもASに思える今日この頃です。
それでも、他人なら許せることと身内だから許せないことはあると思います。
私の場合、意識てしていないことの記憶が残るタイプで、
この話は3回目だなとか、さっきと言っていたことが違うなとか
すごく葛藤することがあります。
自分のこども時代の記憶が鮮明なので、比べることが容易で
それがすごくつらい時があります。
>私個人の勝手な予測ですけど、今、発達障害ですと診断されるようなお子さんは、まず今現在「成人当事者です」と言っている方のようにはならないと思いますよ。
>もっとも、「無自覚な当事者」と他人から思われるような人になることを危惧する親御さんが多いのではないのかな? と勝手に思ったりしますが、私浅い人生経験ですが、そのようにもならないと思います。
>
>なぜそう言えるか、は書き出すとうざったい話になると思いますので割愛しますが、少なくとも「障害者です」という必要はないだろうな、と思っています。
個人的には障害者扱いされるかということよりも、
かかわると面倒くさいから、と相手にされない方を気にしています。
|
|