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Re: 再び考えます2. 10384へのコメント
No.10393  Mon, 14 Jan 2002 16:07:30 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

白 wrote:
>昨日はすっかりパニックで一日過ぎてしまいましたが、もう一度考えてみようと思います。
>取り乱してすいませんでした。
>
>とりあえずですね、僕は今、女の子のことがどうのこうなんじゃなくて、まだよくわかってはいないけれど、今やASの感性そのものに興味を持っているわけですよ。
>いや、興味と言うと、なんだか失礼な言い方じゃないかと思うんですが、最初、これも失礼な言い方なんですが、敢えて伝えるためにそのまま表現すれば、とても受け容れられないと感じたASというものが、実はすごく面白い(これも失礼ですね)物の見方なんじゃないか、それがまだどういものなのかは、繰り返しますが、分かっているわけじゃないですよ。でも、ここを乗り越えれば、何かが見えてくるような、そういう感覚ですね。
>うまく伝わらないかもしれないけれど、ちょっとどきどきするような。
>僕もようやくここまで来ました。
>
ASの女の子の心理を知りたかったら、鬼束ちひろの「INJECTION」という歌を聴いてごらん。
 これほどまでに近いのは、俺も聴いたことがない!


「横並び」形成の一翼
No.10392  Mon, 14 Jan 2002 15:13:19 +0900  鷲羽丸 [この発言にコメントする]

 日本社会を形容するとき、よく言われるのが、「“みんな同じ”の横並び」。
 わしはこのような社会を形成する一翼を担ったのは、教育現場の一部の教師たちではないかと思えてならないのです。

 彼らははなから「競争は悪」と決め付けています。
 競争なんかせず、学校の成績も徒競走の順位も「みんな同じ」ならば、人はみな平等になり、平和に暮らせる。そう考えてきました。競争によって差をつけるのは差別につながるからダメだ、と言うのです。
 しかし、それはまったくの誤りでした。
 「みんな同じ」が、「異質なものを排除」の考えを生み出してしまったのです。

 いつだったか、一部の教師たちの大会で、東京都の教育長が来賓(つまり、教師たちが招待した)として挨拶に立ったところ、なんと彼らは「帰れ」コールを浴びせました。自分たちの気に入らないものを排除する、ということを率先してやったわけです。
 こんな人たちが教師の中にいるのですから、「多様な考えを認める」ことなど望めはしません。

 不思議なのは、こういった教師たちの実態を、なぜマスコミはあまり取り上げないのでしょうか? ということです。
 
 100%正しいことなど存在しないと考える   鷲羽丸


Re: 再び考えます2. 10384へのコメント
No.10391  Mon, 14 Jan 2002 14:58:32 +0900  Maria [この発言にコメントする]

白さん wrote:
> 関西の人ならわかると思うんですが、これって確か、ある意味誉め言葉、悪く言っても親しみの表現なんですよね?(実はちょっと不安。あってるんでしょうか。)

 東京生まれ東京育ちのあたしとしては、「あほ」という言葉はあまり好きではありません。
 遠藤周作さんに『おバカさん』という小説があって、この小説のモデルはたしか新宿・歌舞伎町で『エポペ』というバーを経営しておられるジョルジュ・ネランさんという牧師さんだったりします。大阪の「あほ」が人間の本性のようなものに忠実なこと、つまり「自分に正直」な人間の行動に対するものであるのに対し、東京の「ばか」は世俗の名利や出世・栄達・富を離れ、損得勘定抜きで自分の信念を貫いてゆくことに対するものであるような気がします。大阪の商人文化、東京の侍文化の差、とも言えます。
 そういえば、大阪では福袋の中身が気に入らなかったから取り替えてくれ、というお客さんが多いそうです。東京ではちょっと考えれません。

> 「お前変ってるよなあ」は、僕と僕の友人たちの間では、明らかに誉め言葉です。
> 「変人」というのも、言ってみれば一つの称号ですね。
> 「おもしろいぞ」とか「受けてるぞ」とか「大好きだ」とか、場合によっては「お前は天才だ」という感じでしょうか。

 この「変人」が褒め言葉だというのも、東京人の感性、よくいって「都会人の感性」なんですよ。
 「社会的な規範」というものを尊重しない文化、というのがあります。自分の好きにできる範囲は大きい方がいいじゃないか、禁止されていないことはやっていいのだ、という考え方です。だいたい「田舎」ではこういう考え方が支配的です。日本では非常口に「非常の際はここを開けてください」と書いてありますが、アメリカに行ったら「非常の場合以外はここを開けるな」と書いてありました(-_-;)。まったく田舎はこれだから。
 田舎では、「変人」は「あいつは変人だから」ということで「特別扱い」をされてしまいます。つまり、社会的な規範から外れた扱いを受けても、「あいつは変人だから」ということで、通ってしまいます。
 ところが都会では、それほど迷惑でなく、お互いを尊重するという合意があれば、誰でもが……つまり、変人であろうがなかろうが関係なく、同じ扱いを受けることができます。だから、「変人」であることが褒め言葉になります。「変人」であることによって、不利益を受けることがないから。
 ところが田舎者が都会に出てくると、「禁止されていないことは、やっていいのだ」と思ってやりたい放題をやってしまいます。で、都会人に「そういうことは、やってはいけないのだ」とたしなめられ、「そんなことがどこに書いてあるんだ。どこにも書いてないじゃないか。おれはやりたいんだ。だからやっていいんだ」と喧嘩になります。
 そうして世界最大の訴訟大国アメリカというものができあがってしまったのだな(-_-!)。

 都会というのは、わりと好きなことができるところなのね。で、田舎者がその自由に憧れて都会に出てくるんだけど、そのうち都会の生活に慣れてくると、他の田舎者の慎みのない振舞にかつての自分を見てしまって、「いかん、これでは世の中がおかしくなってしまう」と思って自ら規範を身につけるようになる、という構造になっているわけです。
 で、日本人にはそれができました。百万都市であった江戸には都知事にあたる町奉行が二人とその配下の同心数十名以外に地方公務員というのがいなかったのね。で、その他の業務はすべて民間委託だったわけです。だけど江戸の住民はその中で自分たち自身を統治していったのね。そういう「自由と自律性の間のバランス感覚」が、おそらく都会的センスであり、「粋」というものだったのではないかなぁ、と思います。「『粋』とは常識から半歩踏み出すことだ」と言ったのはたしか池田弥三郎さんでした。

 とはいえ江戸東京の人間だって最初から都会人ではありませんでした。江戸時代の法律というのはおおむね「〜してはいけない」という禁令の形で発布されました。徳川綱吉の時代に「老人や病人以外の町民は駕篭に乗ってはならない」というおふれが出ましたが、これは町人に駕篭に乗ることを禁止したわけではなくて、もともと駕篭というのは武士の乗物だったものなのだけれど、町民でも老人や病人は駕篭に乗ってもいいですよ、という話だったわけです。「犬猫をむやみに殺してはいけない」という『生類哀れみの令』も、犬猫を殺すことが悪いことだと思ってない人が多かったから、こういう禁令を出して注意を喚起したということです。
 明治時代には軽犯罪法というのができて、「立小便するな」みたいな法律ができました。田舎ではそこら一面畑や田んぼですから、立小便というのは「普通の行動」だったんです。「都会では、立小便というのは恥ずかしい行動なのですよ」というのを知らしめるためには、こうした法律が必要だった、ということだったりします。薩摩だの長州だのの田舎侍が都会に出てきて「どこに何があるかわからん」というので看板ができました。だから江戸時代の武家屋敷に『会津藩江戸屋敷』とかいった看板がかかっているなんていうのは大嘘です。で、その結果現在でも各省庁の入口には「××省」とか「○○庁」とかいった看板がでかでかと掲げてあったりするわけですよ。ああ恥ずかしい。たとえばの話、皇居に「皇居」とかいって看板出てるところを想像するとげんなりするでしょ?

 中島義道さんの『うるさい日本の私』の中にくりかえし出てくる「分っていることを何度も言うな」という主張は、こうした「都会人の自律性」というものに対する自尊心を傷つけるな、ということだったりします。たとえば、人と待合せをするときに「いいか、ちゃんと時間通りに来るんだぞ」と念を押したり、本を貸すときに「いいか、本を読むときに、つばをつけてページをめくったり、ページを折ったり、ページを破ったり、書込みをしたるするんじゃないぞ」と注意したりするというのは、失礼なことです。「言わずもがなのことを言うな」という気分が、「うるさい」には込められています。

 そんなわけであたしは、言わなきゃわかんないくせに言えば怒り、言わなくてもいいことは言うくせに言うべきことを言わない田舎者が大嫌いです。

 久々の黒Mariaさんでした。まる。

 (Maria)


Re: レス ありがとうございました 10389へのコメント
No.10390  Mon, 14 Jan 2002 13:20:22 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>武田好史 wrote:
>>風呂糸 wrote:
>>>色々教えていただいて、たすかりました。
>>>ありがとうございます。
>>>
>>>武田さん、ちなみにSPECT検査した場合の金額とかはご存知でしょうか?
>>>国保の対象になるのかな?
>>>
>>>風呂
>>
以下に示すのは「東海大学病院・放射線診療センター」のURLです。

>>http://trhome.med.u-tokai.ac.jp/

「核医学」とあるボタンをクリックすると、スペクト検査を含む「核医学検査」についての情報が見られます。


再び3
No.10385  Mon, 14 Jan 2002 12:41:13 +0900  白 [この発言にコメントする]

一生懸命文章を打ち込んでいる間にMaria さんの書き込みが投稿されていました。で、すぐ下の文章は、最新のMaria さんの書き込みを読んでなかったんですが、なんか関連のあることが書かれているので、もう一度考えます。

>Mariaさん wrote:

> 現代の義務教育における国語教育(特に小学校)は、具体的になにを教える、と>いう目標を欠いている気がします。けっきょく、漢字の書き取りのような、数値>化できるものに偏りすぎていると思うんですよ。それはそれでアスペっ子が適応>しやすい部分があって助かる部分はあるのだけれど、アスペっ子や外国人に「普>通の(日本人の)子供にとっては自明なこと」を教えるメソッドが欠落してたり>とか、思春期以降、自分を客観的に見つめるようになってから、そのための道具>としての基本的な「ことば」が身についていなかったりとかいった弊害を生んで>いるように思います。日本人は日本語という環境の中だけしか知らないこともあ>って、「ことば」を通じて自らを見つめる体験をしていません。
> だからイーデス・ハンソンさんにも「日本人は『異質なもの』を受け入れる能力>が低い」とか言われるんだよな。本当はそんな馬鹿なことはないんですよ。漢語>だってカタカナ語だって、日本人が積極的に取り入れてきた「異質なもの」なん>だから。そうではなくて、「自分」というものに対する問いかけというものが欠>けているのだと思います。だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくな>ってしまう。自己中心的だとか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないので>はなくて、自分が見えていないのだと思います。それは同時に「客観性」に身を>置くということで、「社会」という目を持つということです。おとなに必要なの>は、社会を見ることではなくて、社会の目でものを見ることです。

やっぱりMaria さんてすごいです。
僕がさっきの投稿で、苦労してごちゃごちゃと書いていたのは、結局こういうことなのかもしれません。
この部分、

>「自分」というものに対する問いかけというものが欠けているのだと思います。>だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくなってしまう。自己中心的だ>とか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないのではなくて、自分が見えてい>ないのだと思います。

そうなんですよ。
僕がこのところずっと感じているのはそういうことなんです。
って、ここでまたまた言葉が同じためにMaria さんの考えを理解したつもりになっているのかもしれませんが、もうそれを恐れずに、どんどん発言してみるとすると、
僕ははじめASを理解するつもりだったけど、もがいていく中で見えてくるのは、ほかならぬ自分の姿なんですね。
もちろん、まだ何も見えているわけじゃないんですが、それは単に今までの自分の物の考え方や感じ方を疑うと言う程度のものではなく、もっと根本的な、自分ってどんなヤツなんだろうと言う感じでしょうか。
始め、僕はASが理解できず、人間ってなんなんだろうと言う思いに苦しみました。
それを今、やっぱり人間は同じだ、同じ人間なんだから、きっと分かり合えると言う結論にもっていくんではなく、あー、もうここがうまく言えなくてイライラするんですけど、考えれば考えるほど、問題が自分に帰ってくるんですよ。
それは自分の方がおかしいんだとか、自分もASかも知れないとか、そういう具体的なことではなくて、くそー、もうほんとに、何でうまく言えないんだろう。
自分と言うものがいったい何から出来上がっているのかとか、どこから来たのかとか、そういうことなんでしょうかね。
って、人に聞いて分かるわけないですよね。

とにかく、そういう思いです。

>あさかぜさんwrote
>もちろん、人間はASという部分だけで成り立っているわけではない。男女の違>いというものもあろうし、育ってきた家庭環境や出会ってきた人間によっても違>いが生まれるわけだ。
>人間は「個」として確立している、とわたしは考えている。人間はひとりひと>>り、みんなちがうのだ。人と人が出会うことって、異文化接触そのものだと思っ>ている。たとえ親子の間であっても、だ。たとえばASという背景をしょってい>なくても、相手は「自分とはちがう人間」なのだから、ちがう考え方や受け取り>方をしても当然、というところがわたしの基本。

ここのあさかぜさんのお考え、確かに今の僕は受け止めました。頑張って考えていきます。

>でも、自分なりの誠意で接しても、相手に通じなければ失礼なだけですよね。

>だからね、「相手に通じなければ失礼なだけですよね」というのは、どこからく>るわけ?相手もまた自分と同じように思っているはず、というのは思い込みでし>かないかもしれない。どんなに誠意を尽くして接しても通じない相手なんてもの>は、世の中にゴマンと存在するんだよ。白さんには酷な言い方かもしんないけど>さ……。男女の違いとか年齢の違いとかを超えて、“通じない相手”というもの>はいる。

でも、ここはまだ同意しません。
間違っているかもしれないけれど、僕は「通じない」ことはないと信じます。
信じてます。
多分、この部分は僕の基本なので、「重い」とか何とかいわれても、人を信じて真剣に関わっていきたいという思い、それは僕を僕として成り立たせる重要な要素だと思うんです。
多分、皆さんがアスペでなくなれば、ご自分じゃなくなってしまうように。
なぜ僕がそんなふうであるのか、それはおいおい考えて行きたいと思います。
それがさっきから話していることなんだと思うんですよ。
で、最後ですが、

>(すっかり女性心理におびえている白)

>あのなー。これからやんけー。スタートラインに立ったとこじゃんか。
>「目覚めよ、冒険心!」だぜいっ!!

あ、はい、先輩、すいませんです。m(__)m
でも、女の子の心理には、基本的に別に興味ないんで、それこそそんなことを研究して、機嫌取りたくないわけで、微妙な心境なんです。
それじゃやっぱしダメでしょうか。(笑)


再び考えます2.
No.10384  Mon, 14 Jan 2002 11:52:08 +0900  白 [この発言にコメントする]

昨日はすっかりパニックで一日過ぎてしまいましたが、もう一度考えてみようと思います。
取り乱してすいませんでした。

とりあえずですね、僕は今、女の子のことがどうのこうなんじゃなくて、まだよくわかってはいないけれど、今やASの感性そのものに興味を持っているわけですよ。
いや、興味と言うと、なんだか失礼な言い方じゃないかと思うんですが、最初、これも失礼な言い方なんですが、敢えて伝えるためにそのまま表現すれば、とても受け容れられないと感じたASというものが、実はすごく面白い(これも失礼ですね)物の見方なんじゃないか、それがまだどういものなのかは、繰り返しますが、分かっているわけじゃないですよ。でも、ここを乗り越えれば、何かが見えてくるような、そういう感覚ですね。
うまく伝わらないかもしれないけれど、ちょっとどきどきするような。
僕もようやくここまで来ました。

だからもう、ある意味では、例の彼女がASかどうかということは、あんまり関係がないことなのかもしれません。
そりゃあ、実際には僕にとっては大問題なわけですが、ここでそういうひとつの具体例にこだわってしまうと、全体が少しも見えてこない。
例えばこれはようやく理解したことですが、ASの人と言っても一人一人個別の人間だと言うこと。
僕ははじめ、自分が受けた衝撃があまりに大きかったために、自閉症と言う、特殊な状態にいる人たちが、同じような状態で存在しているのだというような感じに、漠然とですが理解していたようです。
実際、色々書かれている本と言うのは、いわゆる善意の「普通人」の研究者が書いているんであって、いい意味にせよ、悪い意味にせよ、「普通人」的な感性で、皆さんの事を見てしまっているわけなんだと思うんです。
この間も書いたことですが、僕たちの間には、幸か不幸か共通の言葉が存在する。
全ての誤解はここから始まるのではないかと思うんですよ。

同じ言葉だけど、その内容というか、意味しているものというか、概念と言うか、いや、そういう単純な言い方では多分ダメですね。
もしかしたら、内容とか概念さえも同じなのかもしれません。
だからそうではなくて、同じことに対する感覚が違うと言うか。
うーん、この言い方でもダメですね。
誰か、もう少しうまく表現できる人がいてくれるといいんですが、一つの言葉が持つ語感というか、言葉の持つ背景が違うと言えばいいんでしょうか。

例えばなんですが、と言いながら、これもこの前から書いていることですが、ぼくと皆さんの間では、この比喩表現と言うのはけっこうこわいもんだと僕は思います。
よくわかるだけに、必ず自分の世界側の理解の仕方をしてしまう。
少なくとも、このところ、ぼくはそうだと思っています。

でも、とりあえずここでは、ぼくにはたいした表現力はないので、ゼロの理解よりはましかなと、それだけの注意書きをつけて表現してみると、
大阪の「あほやなあ」と言う表現。
関西の人ならわかると思うんですが、これって確か、ある意味誉め言葉、悪く言っても親しみの表現なんですよね?(実はちょっと不安。あってるんでしょうか。)
だから、「あほ」という言葉は「ばか」とも「まぬけ」とも「ろくでなし」とも決定的に違う言葉なのであって、言ってみれば、好意の表現な訳(違う例もあるんでしょうが)なんでしょうが、しょって立つ物が違うもの同士が話をすると、ここで多分混乱が起きる。
そこで、「あほ」だと言われている相手に対して、「だからあ、誉めてるんだって」といっても、それ以上説明しなければ、「こいつ、からかいやがって」とか最後には「ごまかしやがって」ということになるんじゃないでしょうか。
これを理解してもらうには、大阪における「あほ」という言葉の使い方を説明するのはもちろんですが、それだけではダメで、相手がどの部分に反応して怒っているのかを、きちんと把握しないと、意味がありません。
つまり、この場合なら、相手の「あほ」に対する同義語としての、「ばか」という言葉の使い方を知らないでは、違いを説明することが出来ないと思うんですよね。
さらには、大阪における「あほな人」に対する、大阪人の伝統的な受け止め方と言うものが、問題になってくると思うんですよ。

あほなこと、つまり、ドジ(この言いかえでいいのかこれも不安)だとか、発想が変っているとか、天然ボケとか人がいいからいつも損をするとか、こういう普通ならマイナスに評価されることを面白がってしまうと言う大阪の感性がわかって初めて、「あほやなあ」と言われて、悪い気がしなくなるわけですよね。
って、このあたり、実は全部兄貴の受け売りなので、もし大阪の人が読んで、これはおかしいと思われたとしたら、全部兄貴の責任です。(笑)

分かりやすいかなと思って、使ってみましたが、人の例ではやっぱなんとなく実感わかないんで、もう一つ僕の例。
「お前変ってるよなあ」は、僕と僕の友人たちの間では、明らかに誉め言葉です。
「変人」というのも、言ってみれば一つの称号ですね。
「おもしろいぞ」とか「受けてるぞ」とか「大好きだ」とか、場合によっては「お前は天才だ」という感じでしょうか。

だから思うんですが、今まで僕は皆さんに対して、色々なことを質問することで、皆さんを理解しようとしてきました。
でも多分、それだけではダメで、僕はこう受け止めると言うことを、もっと伝えていかなければならないのじゃないかと思うんです。
僕は、そういうことは皆さんもう十分にご存知だと思っていたので、そういう一般的な感じ方をここでごちゃごちゃ書くのはウザイだけだろうと思っていましたし、最初の方で、「好意を伝える」とか「頑張れ」がどうのこうのの話をしたときに、これはやっぱり言わない方がいいと思ってしまったんですが、

>Mr.Motoさん Wrote
>じつは白くんの書込みをその直前(つまり自分の文章を読み返す直前)に読んで>いて、「とはいえ同じ『わからない』でも、何を分っているつもりでいるのかに>よって説明も違ってくるのだよな」と感じていたのである。「普通の人」が「あ>たりまえ」だと思っていることが、我々にとっては全然「あたりまえ」ではない>ところに問題があったりするので、何かを「付け加える」ことで説明することで>は説明にならず、逆に「ここんとこの点についてこう思ってはいまいか?」と>>「あたりまえ」の部分を崩してゆかないといけないということが、あったりする>のである。

の部分を読んで、僕はこれからは、僕なりのアプローチをしていこうと思っています。
それにはまず、先ほど書いた、僕がどの部分に反応して、感情的になったり悲しくなったりするのかを、やっぱり正直に書いていかないといけないと思うんです。
僕は表現力がそうあるわけじゃないし、変なところに気を遣うタイプなので、なかなか率直な意見は言いにくいんですが、それにその過程では、また皆さんの気分を害することが出てきてしまうと思うんですが、僕も頑張るので、どうか付き合っていただけませんでしょうか。
そういう意味で、Mariaさんの論文、すごくよくわかるし、期待してます。早く次を載せて下さい。本当に有難うございます。

ただ、いい訳ですが、そういう過程では、やっぱり僕の生の実感として、彼女の話をすることはあると思うんですけど、あくまでも、そっちが主体じゃないんで、そう思って相手になってくださったら嬉しいです。
もちろん、そのことで相談に乗ったり、励ましたりしてくださっている皆さん、僕はそれは本当に、ものすごく嬉しいんですよ。
でも、もう潮時なんで、ミグさんの指摘もあったことだし、もう考えないようにしようと思います。(って、今まで何回そういう決意をしてるかわからないんですけどね。笑)
昨日の夜、さっきの例を聞くために、兄貴の部屋へ行ったら、
>好きじゃない人に言い寄られても、気分が悪いだけ。
>好きじゃない人が電話をして来ても、時間が無駄なだけ。
とかいう中島みゆきの歌がかかっていて、嫌なことにこの部分だけ鮮明に聞こえてしまいました。
よりによって、このタイミングでこんな歌かけるかなあ、って感じです。(笑)

僕としては、やっぱり彼女はAS傾向くらいはあると思うんですけどね。

>ふれさんwrote
>「あの人(白さん)、私のこと好きなのかなあ。ちょっとうれしい。でも、なん>となく、私の感性とちがうわ。悪気じゃなくて言っていることも、分かるけど、>あんまり詰め寄ってこられると、私苦しい。対応の仕方どうしていいかわからな>い。頑張れってこの間言ったのは、私のダメなところをよく知っているからだ。>自尊心傷つくな。でも、私もちょっとは好きだから、お土産あげちゃおうっと。>でも、あんまりヘンな関係にもなりたくない。だいいち、男の子と付き合うのな>んかどういうことなのか全然わかんない。そばに寄られると、なんか言われそう>だからやだ。す〜っとして、あっち行っちゃおう。わたしが、白さんのことで>>いろいろ感じていること、周りに悟られたくないよ、だから、無視が一番。これ>しかできない。私ってなんてヘンなやつなんだろう。」

>ASは、まるで傍からは想像も出来ないことで気持ちが変わることがあるので、>あまり突き詰めないで、適当に相手を受け止めてあげる度量の大きさって必要か>もと思います。わたしは、自分の思考回路をかき乱すようなことを言う人と交わ>ると、テキメンに奇行があらわれることがあり、ヘンな人だと思われることがあ>ります。私なりに自分の中では論理的な成り行きなのですが、一般の人にはまず>理解してもらえないことなので誰にも説明できず、一人で解決して(気持ち的>>に)自分で自分を慰めているようなところがあります。彼女もきっとどうしてい>いか分からなくて、無視という幼い結論にはまってしまったのかも知れません。

ふれさん、有難うございました。
この説明はよくわかるし、僕としては随分救われるものがあります。
お礼を言うのが遅くなってしまってすいませんでした。

僕は彼女がASだと思いたいんでしょうか。
でもね、僕は女性心理がわかってないんでしょうが、普通だったら、好きじゃなくて、僕に踏み込まれたくないと言うなら、
「あたし、白君のこと、どうしても好きになれない」とか、
「気持ちはうれしいけど、受け止められない」とか
「悪いけど、他に好きな人がいるし」とか
「白君って、いい人だと思うけど、恋愛の対象じゃない」とか
「白君のこと、いいお友達だと思ってる」とか
「あたし、今、そういうこと考える余裕ない」とか
「実はあたし、男の子ってダメ」とか
なんとか、はっきり断ればいいじゃないですか。
でもね、彼女の場合は、何かが違うんですよ。もう一度ここでは書きませんが。

でも、とにかくこれからそういうことで、頑張っていくんで、よろしくお願いします。
Yamoriさん、Mariaさん、KILROYさん、レスして下さって、有難うございました。
でも、なんかとっても難しくて、すいません、あんまり分かりませんでした。
特に、

>MariaさんWrote
>これはわかんない人にはわかんない話なんだけど、「ヤッちゃった」「ヤられち>ゃった」という関係は、すごく重いのね。「援助交際」とかいったものを認める>べきでないのは、この「重さ」がわかってない人間が、セックスという関係を結>んじゃいけない、ということだったりします。
> とはいえ、これは単にセックスという行為のことを言っているより、たとえば>登山においてザイルで結ばれた関係に近いものがあります。「バディ」とでも言>いましょうか。
> 言っとくけど、セックスって怖いぞぉ? 「気持が身体に持ってかれる」って>いうのがあるからな。

ここのところがすごく気になるんですが、もう一度聞き直してもいいでしょうか。

ところでMariaさん、僕ガンダム思いっきり知ってますよ。
「ジオンの系譜」っていう戦略シミュレーションゲームがあるんですが、それにはまって、初代ガンダムだけだけど、全部ビデオで見ちゃいました。
僕、実はマンガとか映画とかに関しては、結構オタクなんです。
「殴ったね」とか。(笑)


Re: 今さらですが…。(補足) 10371へのコメント
No.10383  Mon, 14 Jan 2002 11:51:28 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

Joshya wrote:
> なお、毎時1852メートルは毎分30.87メートルとなり、これは毎分百フィートちょっとになります。毎分47フィート3インチでは「1852m/h」にはならないような気がするのですが。ひょっとしたら計算をお間違えではないでしょうか。
>
> (Joshya)

 小学館の英和辞典「PROGRESSIVE」には、KNOTの意味として「(船の速さを測る)測程線の単位。47フィート3インチ。」とあります。つまり元は地球の1分の長さとは全くべつの基準を用いていて、後になってから、「そっちの基準が優れている」ということで、単位の変更があったらしいです。


Re: 探しています(風呂系さんへ) 10330へのコメント
No.10381  Mon, 14 Jan 2002 11:46:05 +0900  ”けい” [この発言にコメントする]

風呂糸 wrote:
>こんにちわ風呂糸です。
>最近「わかってるのに出来ない脳」を読んで、
>日本で、脳のSPECT検査をしてくれて、それをADDなどの検査に使ってくれる病院をさがしています。

東京でしたら、御茶ノ水にある日本大学の精神科はやっていたと思います。
病院に電話して、相談してみたらいかがでしょうか??もし、やっていなかったら
ごめんなさい。


Re: 再び考えてみました。 10354へのコメント
No.10380  Mon, 14 Jan 2002 11:29:07 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 ちょいとご無沙汰いたしやした。ご心配いただいて、ありがとさんでございやす。なに、循環器系と消化器系にちっとばかり不具合がありやしてね。ま、たいしたことではござんせん。

 あれこれ考えをめぐらしているうちに鯨夢ミグさんの鋭いご指摘があって、白さんも考えがすすんだようだと思いますんで、今さらわたしが書くことなんかありそうにないなーと感じます。でも、書いちゃう。

鯨夢ミグさん wrote:
> もし、白くんの好きな彼女がASだったとしても、それ以前に個人という、パーソナリティーがあります。
>本当に、ASだと診断され、生きている人間を見て下さい。
>ASである以前に、人間である、

 これらのことは、とても大事ね。もっとも白さんも鯨夢ミグさんの言わんとするところがだいたいは掴めたと思う。以下の部分を引用してレスを書いているところから、わたしはそう判断したのだけれど。

>白くんはASと女性心理の違いを認識しているか、ということが少し気になったんです。
>人間関係で、深く関わりたいタイプは往々にして、男同士ならいい関係が築ける性格ですが、こと、男女間の係わりに関しては、そうでもないほうが多い。
>なぜか?
>男同士では良しとされることが女性社会ではそう、取ってもらえるとは限らない。
>多分、白くんの躓きの原因はその辺にもあるのではないでしょうか?

白さんwrote:
> 僕って、ASが理解できないんじゃなくて、女性心理が分かってなかったんですかー???!!!

 一面は当たっていると思う。わたしが白さんに気づいてもらいたかったのは「彼女がASである」という思い込みがどこからきたのかを、もう一度考えなおしてみてほしかったということなのだ。それが、「自分の感覚というか、ものごとの捉え方を疑ってみたことはありますか?」と書いた理由だったりする。
 ASという部分だけに焦点をあてても、いろいろな捉え方があると思うわけさ。「彼女がASで、白さんは普通の人」「彼女は普通の人で、白さんがAS」「彼女はASで、白さんもAS」「彼女も白さんもともに普通の人」とまぁ、いくつもの可能性はあるわけだし。

 もちろん、人間はASという部分だけで成り立っているわけではない。男女の違いというものもあろうし、育ってきた家庭環境や出会ってきた人間によっても違いが生まれるわけだ。
 人間は「個」として確立している、とわたしは考えている。人間はひとりひとり、みんなちがうのだ。人と人が出会うことって、異文化接触そのものだと思っている。たとえ親子の間であっても、だ。たとえばASという背景をしょっていなくても、相手は「自分とはちがう人間」なのだから、ちがう考え方や受け取り方をしても当然、というところがわたしの基本。

>でも、自分なりの誠意で接しても、相手に通じなければ失礼なだけですよね。

 だからね、「相手に通じなければ失礼なだけですよね」というのは、どこからくるわけ?相手もまた自分と同じように思っているはず、というのは思い込みでしかないかもしれない。どんなに誠意を尽くして接しても通じない相手なんてものは、世の中にゴマンと存在するんだよ。白さんには酷な言い方かもしんないけどさ……。男女の違いとか年齢の違いとかを超えて、“通じない相手”というものはいる。

>この辺りには僕にも相当の葛藤があって、だからわかりたい、理解できなければ、とても出来ないと思ってしまうところなんですね。

 なんか、わかるような気がする。似てるなー、と思う。それこそわたしの思い込みだけどね(笑) わたしはどっちかっていうと「男女の恋愛」より「男同士の友情」みたいなもんに憧れる人間なんでね。たぶん、「性」のアイデンティティを獲得する時期になにか“ひっかかり”みたいなもんに出合って、多少のゆがみが生じたんだろうくらいに思っているけど。別に困ることじゃないしね。

 あー困った。時間がなくなってしまった。静ちゃんと朝倉南ちゃんに関してはまた書くから、勘弁ね。他にも書くことあったんだけど、次回にまわすっきゃないな。じゃ。

>(すっかり女性心理におびえている白)

 あのなー。これからやんけー。スタートラインに立ったとこじゃんか。
 「目覚めよ、冒険心!」だぜいっ!!


「綺麗」と「にぎやか」
No.10379  Mon, 14 Jan 2002 10:30:21 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 日本語処理の仕事というのはどこか「マジメにお仕事している」風情がないので困ったものだと思う。

 「〜やか」「〜らか」型の語の一覧(「さわやか」「にぎやか」「なごやか」「あでやか」「おだやか」、「きよらか」「なだらか」「ほがらか」……)とか「〜な」(上記の語に加えて「綺麗」「達者」「頑固」……こうなるとすべて漢語という気がしてくるのだけれど、「見事」という例外があるのが困り物)がつく語の一覧とか、そんなのを点検していると、「あたしは何をやっているんだろぉ」みたいな気分になってきたりする。

 さて。

 突然気になってしまったのが、「綺麗」と「にぎやか」だったりする。
 「綺」というのは「あやぎぬ」のこと。そんなわけで、「綺麗」というのは「美しく飾り立てられた状態」のことを言うのですね。それに気がついてから、世間の人がなんでもかんでも「きれい」と表現するのに無神経さを感じるようになってしまいました。まあ、あたしのほうがヘンなんだろうけど。「まず、傷口をきれいにしましょう」「レースで飾り立てたりとか?」「しません(-_-;)」。
 「清らか」「清める」という言葉もあんまり使わないしね。言い換えのむつかしい言葉です。

 「にぎ」というのは「和」と書きます。反対語は「荒」。「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」なんていう言葉があります。自閉症方面の人の集まりというのは、「にぎやか」だけど騒々しくない、という点でちょっと特異なものがあります。
 似たような言葉で「なごやか」というのがありますが、これは「凪(なぎ)」(風が止まって水面が静かであること)と同系の言葉ですから「仲がいい」という意味より「動きがない」「(動きが)静かである」が本来の意味。「心がなごむ」も、おそらくは「落ちついて静かになる」だと思います。

 こうした「正しい意味で使うと通じなくなってしまった言葉」というのはなんとなくワタシの心を不安定にさせてしまうのだな。(←ちょっと詩人)

 白くんは「アスペ語」という表現を使ったけれど、アスペっ子はアスペっ子で日常の言葉の獲得に苦労しています。「おきにいり」と「だいこうぶつ」はどうちがうの? 「わく」と「はえる」と「のびる」と「しげる」はどうちがうの? アスペっ子のお母さんたちは、こういう質問をされては毎日「?」「!?」「???」と思っていたりするのですね。「Mariaさん、アスペっ子向けの辞書を作ってください」とお願いされたこともあります。うーん、外国人向きにもいいかもしれない。

 現代の義務教育における国語教育(特に小学校)は、具体的になにを教える、という目標を欠いている気がします。けっきょく、漢字の書き取りのような、数値化できるものに偏りすぎていると思うんですよ。それはそれでアスペっ子が適応しやすい部分があって助かる部分はあるのだけれど、アスペっ子や外国人に「普通の(日本人の)子供にとっては自明なこと」を教えるメソッドが欠落してたりとか、思春期以降、自分を客観的に見つめるようになってから、そのための道具としての基本的な「ことば」が身についていなかったりとかいった弊害を生んでいるように思います。日本人は日本語という環境の中だけしか知らないこともあって、「ことば」を通じて自らを見つめる体験をしていません。
 だからイーデス・ハンソンさんにも「日本人は『異質なもの』を受け入れる能力が低い」とか言われるんだよな。本当はそんな馬鹿なことはないんですよ。漢語だってカタカナ語だって、日本人が積極的に取り入れてきた「異質なもの」なんだから。そうではなくて、「自分」というものに対する問いかけというものが欠けているのだと思います。だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくなってしまう。自己中心的だとか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないのではなくて、自分が見えていないのだと思います。それは同時に「客観性」に身を置くということで、「社会」という目を持つということです。おとなに必要なのは、社会を見ることではなくて、社会の目でものを見ることです。

 小学校の国語教科書も、ちゃんとしたのが欲しいなぁ、と思います。

 (Maria)


Re: 仕事が採用に・・・・・・ 10366へのコメント
No.10378  Mon, 14 Jan 2002 09:08:01 +0900  pennpenn58 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
> 運が良かったですね。無理しないでマイペースでがんばってください。
>私も先週流通センターのようなところで、13:00から18:00までの仕事があったので面接を受けに行きましたが、採用責任者の「うちは誰かが20%しか仕事ができないと、みんながとばっちりを食らうんだよね・・・」の一言で、あきらめざろうえませんでした。
> ああ・・なんでノーマリゼーションなんていって、障害者に「働け!働け。働くやつが立派なんだよ!」って、この国はろくな支援もせずに俺たちの尻ばかりたたくんだろう・・俺たちは奴隷か??このままじゃ本当にお先真っ暗だ!
> ノルウェーのヴィダー・オースンみたいな、「障害者村」でも作ってくれたほうがまだましだ。

武田君、ありがとう。でもあんくさんのレスにも書いたのだけれどやっぱり自信がないし夫も私がナルコレプシーで居眠りばかりしてるのに、外回りの車に乗ることが多い仕事は危ないんじゃないかと反対したので今回は断ろうかと思っているのです。一応明日、主治医に相談に行こうかと思っているのだけど。武田君は優しいね。自分は仕事の面接に行ってうまくいかなかったのに私の就職が採用になったことは「がんばってください」と言ってくれる。自分が障害を持っていると自覚してる人って優しい。競争社会からはずれて生きてる人は人をうらやまない。

若いとき徹底的に仕事で苦労して疲れ切っていた私にとってある意味で結婚も就職のひとつという感じだったの。でも結婚という就職も私はあんまりうまくやっていくことができなかった。私の夫は少し鬱傾向のあるまあまあ普通の人、でも同居している私の母親と私、子供2人のADHD傾向が異常に見えるらしくすごく私を責めるの。子供が学校に遅刻ばかりしていること。我慢ということができないこと。部屋を散らかすこと。昼夜逆転してること。息子の方はゲームばかりに夢中になって他のことは一切しないこと。極端な偏食。子供2人に夫が文句ばかり言うものだから子供が夫になつかないこと。それらのことが夫にはつらいらしくぐずぐずと私に愚痴を言うんだけど私はそれがつらい。

私も自分一人のめんどうを見るのがやっとなのに子供はまあしょうがないとして夫の鬱につきあうのがつくづくめんどうになって生きているのもいやになってしまうの。

武田君、私も障害村で暮らしたいな。そして結婚はしても子供は作らないの。これは反発を受ける覚悟で書いているのだけれどAS、ADHDの子供を産んだら子供がかわいそう。ADHDでも幸せに暮らせる。そういう社会でないものね。日本は。


Re: レス ありがとうございました 10330へのコメント
No.10377  Mon, 14 Jan 2002 01:40:51 +0900  風呂糸 [この発言にコメントする]

色々教えていただいて、たすかりました。
ありがとうございます。

武田さん、ちなみにSPECT検査した場合の金額とかはご存知でしょうか?
国保の対象になるのかな?

風呂


Re: いろいろの色。 10317へのコメント
No.10376  Mon, 14 Jan 2002 01:23:53 +0900  インディゴ [この発言にコメントする]

横レス失礼します。
SUNさんwrote:
>本ではないんですが、私は大日本インキ化学工業が出しているカラーガイドの中の
>「日本の伝統色」「フランスの伝統色」が気に入っています。
>見たことはないんですが、他に「中国の伝統色」もあるようです。
これ、すっごく欲しいんです。カラーチップは好きなんですが、高いんで基本色しか持ってません。
「中国の伝統色」も綺麗な色がいろいろとあるんで欲しいし。
由来が書いてあるとなればなおさら欲しくなってしまった。


Re: いろいろの色。 10316へのコメント
No.10375  Mon, 14 Jan 2002 01:13:35 +0900  インディゴ [この発言にコメントする]

Mariaさん wrote:(←すみません前回“さん”を抜かしました)
> じつは補色関係にもとづく色相環は別にあります。それがこれ。
>
>      青緑(SG)
>   青(T)  黄緑(LG)
>  藍(UB)○  黄(Y)
>   紫(P)  橙(O)
>      赤(R)
あ、ちゃんとあるんですね。加色混合と減色混合だと、ちょっと違うんでしょうか。
それとも“紫←→黄”が補色、というのが私の思い込みなのかな。

> オストヴァルト表色系と同じように光の加色混合に基づく表色系としては赤・緑・青を三原色とするRGB系があります。これはコンピュータの世界ではほぼ常識とされています。それがこれ。
>
>       赤(R)
>   マゼンタ   黄
>       ○
>   青(B)   緑(G)
>      シアン
あ、写真の色みをコンピュータでいじる時はこれを覚えておけばいいってことですね。
プロじゃないんで実際に仕事でやることはないですけど、カラーバランスという項目が
“シアン←→赤”“マゼンタ←→緑”“イエロー←→青”になってる理屈がよくわからなかったのでちょっとすっきりした。

> で、反対色的な色の見え方に基づく色名に基づいたナチュラル・カラー・システム(NCS)というのもあって、それがこれ。
>
>      黄(Y)
>  緑(G)○ 赤(R)
>      青(B)
>
> この表色系はスウェーデンで開発されてきて、もともとはドイツの生理学者ヘーリングの考え方に基づいたもの。
視神経のどこが反応するか、というような基準なのかな。調べてみます。

> 陰陽五行説だと、青龍(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)を配置して中央に黄色を置きます。つまり、こんな感じ。
>
>    玄
>  白 黄 青
>    朱
>
> (中略)
>
> 日本独自の表色系は、これ。
>
>   白
>  赤 黒
>   青
> よく見ると陰陽五行説の五色から中央の黄色が抜けたのと同じ形になっています。
> で、ここには白(はっきりした)−青(淡い)と、赤(明るい)−黒(暗い)という二つの対立関係があります。
> (中略)
> 面白いのは、「わかっている」「わかっていない」が「白−青」系列ではないことだったりすることです。「明るい」は「わかっている」、「蒙(くら)い」は「わかっていない」。「『七重八重 花は咲けども山吹の……』って、知らないか?」「……知らねぇ。」「おめぇ、歌道に暗れな」「門(かど)が暗ぇから、堤灯借りに来ただ」というのは、落語『道潅』のサゲ。
>
う〜ん、面白いです。日本人の色に対する感覚が。色に何を見ていたかってところ。
こういう話は自分の感覚を疑えるので楽しいです。
お日様を赤く描くのはステレオタイプって考え方も、こっちの方角から見たら赤く描くほうがスゴイって話にもなるなぁ。
自分ではわかったつもりになっていることも、実は私って「くらい」んだなぁと思えるのは面白いです。
東京生まれだからか、太田道灌さんの逸話はよく聞かされました。実のひとつだにってやつ。江戸っ子もみんな知ってたんでしょうね。


Re: いろいろの色。 10293へのコメント
No.10374  Mon, 14 Jan 2002 01:10:29 +0900  インディゴ [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:
>「いろいろな色彩を見てみたい!」と思う人には、次の本がお薦めです。
>
>渋川育由・高橋ユミ著
> THE COLOR 色と配色の事典
>河出書房新社 4854+税 円
>
>この事典には232色の色が載っています。印刷で色を指定するときに使う「濃度数字」もついています。

同じ著者のThe COLORING BOOK 配色事典、っていうのは持っています。
印刷の色指定のイメージを掴むのに便利ですよね。
「色のひとくち知識」とかも載ってて面白いですが、これは980円。

武田さんの紹介されている本はきっともっと厚くて大きい本なのでしょうね。
本屋さんでチェックしてみます。

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