アスペルガーの館の掲示板(旧)

あなたは 番目のお客様です。

新しい話題を投稿 次の20件を表示 最新のログを表示 パスワード変更 発言の削除
一度に表示する件数を 件に
《アスペルガーの館》に戻る / 新しいアスペルガーの館の掲示板


武田好史君よ
No.10633  Thu, 24 Jan 2002 20:04:30 +0900  ひま人 [この発言にコメントする]

(前略)そんなに天体のことが好きなら、いっそのこと天文学者になればよかったのに?


Re: 紙の不思議 10631へのコメント
No.10632  Thu, 24 Jan 2002 14:41:01 +0900  Maria [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:
> Aはドイツの規格で、こちらのほうはさらに国際規格(ISO216)になってる。

 A4縦置きというのは、欧米でいうレターサイズよりちょっと大きめになっています。

 なお、この便箋を折り畳んで入れる封筒は

 Standard Size(小型) 縦3.5〜3.75インチ×横6.5〜7インチ
 Official Size(大型) 縦4〜4.5インチ×横9〜10インチ

ということになっていて、それぞれJIS規格では、

 JIS洋形7号 縦9.2cm×横16.5cm
 JIS洋形4号 縦10.5cm×横24cm

と定められています。

 なお、美濃紙のサイズを踏襲したのがいわゆる原稿用紙のサイズ(B4)で、あれを二つ折りして綴じると江戸時代の本の標準的なサイズになります。現在では雑誌に多いサイズ(B5。週刊朝日、週刊新潮、週刊文春など)ですね。

 (Maria)


Re: 紙の不思議 10617へのコメント
No.10631  Thu, 24 Jan 2002 13:34:49 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
> A、Bどの規格でも、
>紙の短い辺と長い辺の比は、1:√2
>対角線と短い辺の比は、三平方の定理より、1:√3
>対角線と長い辺のなす角度α≒35.26°(TANα=1/√2より)
>対角線と短い辺のなす角度β≒54.74° (TANβ=√2より)
>だし、
> 
> それから、短い辺を一辺とする正方形を切り離して残る長方形の紙について、
>元の紙の短い辺と残りの紙の短い辺の比は、1:(√2−1)
>元の紙の短い辺と残りの紙の対角線の比は、1:{(4−2√2)}^(1/2)
>残りの紙の対角線と長い辺のなす角度γ=22.5°{TANγ=(√2−1)}
>残りの紙の対角線と短い辺のなす角度δ=67.5°{δ=180°-(90°
>+22.5°)}
>
>になるみたい!

もうひとつこんなことが解った!
Bは日本独自の規格で、美濃紙の寸法が基になってる!
Aはドイツの規格で、こちらのほうはさらに国際規格(ISO216)になってる。

最近日本のお役所で公的な書類用の紙をB5からA4に切り替えたのは、国際規格に合わせようとしたためみたい。


「どっちでもいいこと」が決められない。
No.10630  Thu, 24 Jan 2002 13:15:58 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 えー、これまでのところをまとめておきましょう。まず、「自閉症」の特徴と呼ばれるものには、

1)言葉の遅れ。
2)アイ・コンタクトが欠如している。
3)クレーン現象。
4)指差しをしない。
5)赤ちゃん言葉がない。
6)鸚鵡返し。
7)こだわり。
8)人間関係というものが、よくわからない。

というものがある、というのがひとつ。

 で、(2)の「アイ・コンタクトの欠如」、(3)の「クレーン現象」、(6)の「鸚鵡返し」に関しては、自閉症の中心症状であるところの「他者認識の欠如」がそのまま出ているのであると。で、「自閉症」という言葉よりもRDD(関係性発達障害)という呼び方が適当であろうと。

 (2)の「アイ・コンタクトの欠如」と(4)の「指差しをしない」というのは、どちらも発達過程において解消されることが多い。
 「アイ・コンタクトの欠如」に関しては、直感性と意識的なメッセージ性にやっぱりギャップがあるものだから、成人してもやっぱりぎこちなさは残る。
 「指差し」については、もともと他者認識がうまくいかないうえに、親との関係が原因で発達がさらに遅れている可能性がある。で、後者は、発達障害児全般に対する養育態度に関係している可能性がある。

 (1)の「言葉の遅れ」に関しては、「言葉を発しないだけであって、『内なるコトバ』はちゃんと存在している」ということが経験的に知られており、論理的な推論能力は優れている場合もあるので、あとは「コミュニケーションの道具としての『外なるコトバ』」をどう使うかを身につけるかにかかっていそうだ、と思われる。(5)の「赤ちゃん言葉がない」というのは、その過程における試行錯誤が表に出てこない(いわゆる『魔術としてのコトバ』と『外なるコトバ』の間にギャップがある)ためであるように思われる。

 (7)の「こだわり」については、「安定した秩序」というよりどころを求めるという人間の基本的欲求に従ったものであり、周囲には単なる固執のように見えても、その底には何かの「秩序への執着」のようなものがある場合が多いらしい。『「どっちでもいいこと」が決められない』というのも、この「秩序」に対する親和性の高さによるものであり、この「秩序に対する親和性」が、ときにコンピュータ・プログラマーなどの職種では「適性」あるいは「武器」になりうる。

 ほんでもって、最後の(8)、「人間関係がよくわからない」の部分も、本質的には「他者理解」の不完全さが原因であって、社会性を身につけることによって克服はできるのだけど、その「身につけかた」が、そもそも他者認識のしかたが「健常者」と異なっているのか、「アプローチは異なるけれど、同じように理解している」のか、それとも「もともと各人各様なもので、傾向としては自閉症方面の人間どうし、健常者どうしで似るのだけれど、どれが正しくてどれが間違っているというものでもない」のか、ということになるわけだな。

 ……おお、本の構成が見えてきたぞ。うれしいなぁ。

 そんでもって、まだ論じていない、「心の理論」とかいう話になるわけです。

 まず、自閉症方面の人間には、直感的な他者認識の能力が欠けている、あるいは劣っている、という特徴があります。これは、たぶん間違いありません。

 そんなわけで、「意識化」というプロセスを経て、「他者認識」というものができあがってゆくのだな。で、これは健常者でもたぶん同じことで、社会のしきたりだとか、敬語だとか、人間関係の理解だとか(←このあたりは「自分のことをなんと呼ぶか」といった自己認識にもかかわってきます)、心理学だとか、性格分類だとか、そういったものを経て、いわゆる「世間のつきあい」としての人間関係、すなわち自己認識と他者認識の協調にもとづく行動パターン、というのを身につけるようになるのだな。

 で、人間はこの「意識化のレベルにおいて社会性を身につけてゆくこと」の比率がかなり高いので、自閉症方面の人間でも、しばしば「高度に社会的な」人がいたりするということになります。

 さて。

 あたしは「意識化」という言葉を使っているのですが、こうした「他者のモデル」の構築というのは、必ずしも意識的に行なわれているとはいえなかったりします。「こういう人に、こういう働きかけをすると、こういう反応が帰ってくる」という漠然とした印象の中に、なんらかの「他者のモデル」というものが含まれているのは当然のことなのですね。
 そんなわけで、自閉症方面の幼児の教育において、「他者理解というのは、すなわち『他者のモデル』の構築である」と考える動きが出てきました。この「他者のモデル」、より正確には「他者の心のモデル」は、一般に「心の理論」と呼ばれています。で、その「心の理論」にはある程度普遍性があり、子供にその「心の理論」を身につけさせることが、すなわち「他者を理解させること」であり、子供がその「心の理論」をどの程度理解しているかをチェックすることが、他者理解を発達させる上で重要である、ということなのですね。

 で、あたしは「そういうものなの?」と首をかしげてしまうのだな。

 思春期以降、社会性を身につける上で、こうした「心の理論」に相当する「他者のモデル」を想定し、それを精密化してゆくことで社会に対応している人は確かに大勢います。だけど、それを幼児に当てはめ、それを前提となる事実として、幼児教育のレベルで適用するというのは、かなり乱暴な話だと思うのですよ。で、むしろ、自己省察とか、感情移入とか、愛着形成とか、そういったものの組合せで、「自分の思い通りにならない自分」というものを「外にあるものとしての人間」に貼りつけることで、他者概念っていうのは生まれるんじゃないかなぁ、と思うんです。

 だから、たとえば「鏡に映っている自分の姿」が「鏡に映った自分」である、みたいなところが、「他者認識」の出発点に近いところにあるんじゃないかな、と思うんですよ。

 で、こうしたことに関連して、ちょっと気になることがあるのですね。

 アスペっ子は、他の子供をいじめることがない。
 アスペっ子は、他の子供にいじめられることが理解できない。
 アスペっ子は、明確な危険やはっきりとした苦痛に鈍感であると言われている。

 この三つです。

 アスペっ子は、相手が誰であれ、苦痛を受けているのを見るのが苦痛だったりします。だから、いじめができない。
 逆に、なぜいじめられるのかがわからない。相手だって同じように苦痛を受けているはずだから。
 で、危険や苦痛はおそらく感じているのだけれど、それが「自分のこと」だというのが、よくわからない。そわそわしたり、イライラしたり、パニックを起こすことはあっても、状況と自分の中の「感覚」がどう結びついているかが、いまひとつよくわからない。

 そんな気がするんですよ。

 思春期以降、自閉症方面の人間にも「いじめ」というものが分ってきたりするわけですが、自閉症方面の人間の「いじめ」というのは、「自己嫌悪と自責」が他者に投射されたものなんじゃないか、とあたしは思います。すくなくともあたし自身に関していえば、明確にそうですから。自分のやったこと、自分のしていることがわかってない人間をいじめたって、こっちが不快になるだけ。だから、あたしの働く「いじめ」は、「思い知らせてやる」という感情が基本です。

 ところが……ちょっと気になることもあるんですね。だったら思春期以降、自閉症方面の人間には自傷行為がつきまとうはずなんですよ。「苦痛」というものを自分のものとして確認するためにね。だけど、専門書をいろいろと読んでみても、この「自傷行為」を自閉症の社会的発達過程と結びつけることをしている人というのはいないんですよね。

 まあ、ドナ・ウィリアムズさんが『自閉症だったわたしへ』のエピローグで、

> 自分を傷つけること、他の人をとまどわせるような行為をわざとすること
>  自分、あるいは他人が、どの程度現実のものであるのか試そうとしている。自分の感覚や感情は、心のチェックポイントのような所ですべてせき止められてしまうので、他人と深い交流を持つことができず、他人の感情を直接感じることもできない。そのため、人が実際に本当に存在しているのかと疑ってみたくなることが、よくあるのだ。

とは書いておられますが、これは「乖離」とみなされていて、自閉症そのものとはちょっと別にされているようにも見えます。

 そういえば、「締めつけ器」っていうのもあったな。

 「締めつけ器」に関しても、これまたちょっと気になることがあります。
 自傷行動の中にも、尖ったもので皮膚をざくざく刺したり、切り裂いたり、あるいはリスト・カットみたいな行動と、噛んだり叩いたり締めつけたりといった行動の二種類があります。で、精神医学で「自傷行動」としてよく問題にされるのは前者のほうで、自閉症における自己確認のための自傷行動っていうと後者のような気がするんです。前者は「サディスティックな自傷」であるのに対し、後者は「マゾヒスティックな自傷」。前者は「クールな自傷」で、後者は「ホットな自傷」。

 小さな子供って、ぐちゃぐちゃにされて喜んでることってあるでしょう? ああいう感じがあるんですよ。

 これって偏見かな?

 (Maria)


Re: 自閉と失語 10627へのコメント
No.10629  Thu, 24 Jan 2002 13:11:50 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> 手元の辞書には、以下のように書いてありました。
>
>> 抽象 ちゅうしょう
>>  “abstruction”の訳語。個々の事物・事柄、具体的概念から、それらの全部に共通の属性を抜き出して、新たに思考の対象とすること。この場合共通でない他の要素・性質などは度外視されるが、これを「捨象(しゃしょう)」という。「具体」の反対語。

web版大辞林第二版より
【抽象】〔abstraction〕
事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽(ひ)き出して把握すること。その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴うので、抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。
【抽象的】〔abstract〕
(1)概念的で一般的なさま。「現象を―にとらえる」
(2)事物を観念によって一面的にとらえ、実際の有り様から遠ざかっているさま。「―な説明に終始する」

「的」の有無でニュアンス(特に曖昧さの度合い)が変わるようですね。


ソネット4
No.10628  Thu, 24 Jan 2002 11:37:46 +0900  吟遊詩人 [この発言にコメントする]

流れよ、涙
流しても、流しても
顧みられることのない
霧の涙よ

流れよ、鮮血
眼から流れ出るとき
人それを
涙と呼ぶ

溢れ出る鮮血に
人々は恐れおののき
そして蔑む

自らの体内を
流れる血液を
涙だと信じる人々よ


Re: 自閉と失語 10622へのコメント
No.10627  Thu, 24 Jan 2002 10:36:58 +0900  Maria [この発言にコメントする]

みどりさん wrote:
> Maria さんが言ってるのは「本質のみをもってきた => 抽象化された」というもののことよね。
> …あってる?

 その通りです。
 手元の辞書には、以下のように書いてありました。

> 抽象 ちゅうしょう
>  “abstruction”の訳語。個々の事物・事柄、具体的概念から、それらの全部に共通の属性を抜き出して、新たに思考の対象とすること。この場合共通でない他の要素・性質などは度外視されるが、これを「捨象(しゃしょう)」という。「具体」の反対語。

> カウンタ列は矢印も困るの。「矢印に沿ってならべ」なのか、それとも「あっち側へ並べ」なのか、わからない。
> 「沿う」だとしても、矢印の位置が悪いと、矢印の方向を向いて並ぶのか、それとも矢印の方向に列がのびてゆくように並ぶのか、わからないことがある。

 矢印を使うなら、

  『 こっちから→
   ←こっちへ
    お並びください』

くらいの芸はしてもらいたいと、あたしも思います。人形(ひとがた)や足形だったら、相手が日本語のわからない人でも、指差せば分るし。でなかったら、

  『順にお並びください
   <<<<<<<<<』

とかいうのなら、まだしも分りやすいんですけどね。

 (Maria)


Re: 自閉と失語 10618へのコメント
No.10626  Thu, 24 Jan 2002 09:52:24 +0900  タレイヌ [この発言にコメントする]

Maria さんwrote:
  ちょっとだけ、の、タレイヌです。

> 奥さんが「なんであたしの言うことは聞かないで、ドク(うちの所長のあだ名)の言うことは聞くのよ」とむくれておられました。違います。うちの所長は「ご飯ものを食べろ」なんて一言も言ってません。単に現状について解説しただけです。

うふふふ、あははは。笑ってしまいました。(ずれていますね、完全に)
こういうことって、タレイヌの周りで、よく起きるので、身につまされております。
連れ合いと、この辺で、何度『あわや、勃発!!』となりかけたことか・・・・・。
連れ合いは、学びました。タレイヌの、回路を。(おかげさまで、ございます。ほんとに)

> 「火消しの仕事は、ドブ掃除だ」。そう断言するひとは、多かったりします。これは、逆にいえば、思い込みによって阻害されてしまったコミュニケーションによって状況がこんがらがっちゃうケースがいかに多いか、っていうことなのね。

ほんとうに、そうだと思います。
『何にもしてないんだってばぁ・・・・』って場面には、結構遭遇しているタレイヌです。でも、『この人ずれてるから、はずしておきましょう』という対応も、結構されているので、正解率は、3対7(←失敗がおおい)ぐらいかもしれません(お粗末!!)

  (タレイヌ)


Re: 最近 10621へのコメント
No.10625  Thu, 24 Jan 2002 08:10:37 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

るうさん wrote:
>って、今どき、こんなゲームやってる人いるのかなあ?

 いまーす! 娘でーす!!
 ネットでもやっていましたが、GBカラーでスペースシャトルが飛ぶところまでやったら満足したらしく、今はジグソーパズルやってます。(ショックウェーブ・コムという無料ゲームサイトです)

 おいらは目が疲れるので、やれないのだ。倉庫番が好きだけど、GBでやったら死ぬほど頭が痛くなった……。


Re: 紙の不思議 10623へのコメント
No.10624  Thu, 24 Jan 2002 04:03:42 +0900  みどり [この発言にコメントする]

みどり wrote:
>Maria wrote:
>> 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。
>
>十字形に内接する円って??

あ、わかった。そっち側ね。


Re: 紙の不思議 10619へのコメント
No.10623  Thu, 24 Jan 2002 04:02:37 +0900  みどり [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。

十字形に内接する円って??


Re: 自閉と失語 10618へのコメント
No.10622  Thu, 24 Jan 2002 04:00:57 +0900  みどり [この発言にコメントする]

>Maria wrote:
>> 自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。
>Nobusan wrote:
>> 私の今までの理解では、自閉方面の人は抽象的な概念を把握するのが苦手というふうに理解してきたのですが、この人(自閉方面の人)が発言するという場合には抽象的物言いをするということなのでしょうか? とすると、こちら(普通人)からの働きかけは常に具体的な物言いを心がけ、相手(自閉傾向の人)の発言は言いたいことの概念が抽象化されていると理解しなければならないということでしょうか? この辺の構造的な説明を伺えれば息子とのやりとりに参考となると思いますので是非お聞かせ(お読ませ)ください。
Maria wrote:
> で、「抽象的」というのは、いろんな対象から、必要な概念のみを抽出したもの、なのですね。まあ「のみ」というのは理想でしかないにせよ、とにかく「抽象的」であるということは、「曖昧さがない」ということなわけです。

一般には、「抽象的」という言葉で「物事を遠くからとらえてあいまいでぼんやりさせた感じ」をイメージすることがあるようです。
Nobusan のいう「抽象的な概念」もそうなんじゃないかな。

Maria さんが言ってるのは「本質のみをもってきた => 抽象化された」というもののことよね。
…あってる?

カウンタ列は矢印も困るの。「矢印に沿ってならべ」なのか、それとも「あっち側へ並べ」なのか、わからない。
「沿う」だとしても、矢印の位置が悪いと、矢印の方向を向いて並ぶのか、それとも矢印の方向に列がのびてゆくように並ぶのか、わからないことがある。

独り善がりで想像力不足のアイコンは大きらい の みどり


最近
No.10621  Thu, 24 Jan 2002 02:37:48 +0900  るう [この発言にコメントする]

最近、テトリスにはまっています。
隅っこから「秩序」だてて積んでいくのがカイカン。
変な形が落ちてきて、秩序が乱れると、イライラ。
でも、また、うまく消せて秩序ができてくると、たのしい。

って、今どき、こんなゲームやってる人いるのかなあ?


Re: 紙の不思議 10619へのコメント
No.10620  Thu, 24 Jan 2002 02:22:47 +0900  グルンサ [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:
> A、Bどの規格でも、
>紙の短い辺と長い辺の比は、1:√2
>対角線と短い辺の比は、三平方の定理より、1:√3
>対角線と長い辺のなす角度α≒35.26°(TANα=1/√2より)
>対角線と短い辺のなす角度β≒54.74° (TANβ=√2より)
>だし、
> 
> それから、短い辺を一辺とする正方形を切り離して残る長方形の紙について、
>元の紙の短い辺と残りの紙の短い辺の比は、1:(√2−1)
>元の紙の短い辺と残りの紙の対角線の比は、1:{(4−2√2)}^(1/2)
>残りの紙の対角線と長い辺のなす角度γ=22.5°{TANγ=(√2−1)}
>残りの紙の対角線と短い辺のなす角度δ=67.5°{δ=180°-(90°
>+22.5°)}
>
>になるみたい!

Mariaさん wrote:
> 長辺の長さを半径として、どこかの隅を中心として円弧を描くと、反対側に接した点が、隅を含む短辺を一辺とした正方形の隅と一致します。
>
> 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。
>
> ……とかいって、これって文章で読んでて分るひとがいるのかぁ〜! だいたいこんなの読んで面白がってる人間が何人いるんだぁ〜!(←結構いそうだぞ(-_-!) by Mr.Moto)

 …高校以来の数学に挑戦してみましたが、お手上げでした。(考えてみれば、中学[正確には中2]以来、理系科目は×でした。大学での地学[一般教養科目]もだったし…。)アタマ使いたいよ〜!…なんて、不順(?)な動機でやってみたのがいけなかったのだろーか?
 それはさておき、今回の内容、高校までの数学だと、どの科目になるんでしょ?(ex.基礎解析、代数・幾何など。微分・積分だとしたら…履修範囲にありませんでした。もっとも、前2つの科目も既に忘れてしまいましたが。)
武田さん、ミニオフ会でお会いしたら、この答え(?)を教えて下さーい!

(文章自体は面白がってました。 グルンサ)
 


Re: 紙の不思議 10617へのコメント
No.10619  Thu, 24 Jan 2002 01:07:42 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 長辺の長さを半径として、どこかの隅を中心として円弧を描くと、反対側に接した点が、隅を含む短辺を一辺とした正方形の隅と一致します。

 対角線の交差点(つまりは長方形の中心)を重ねて直角に重ねて十字形にし、その中心を中心にして、短辺を一辺とする正方形(紙が重なった部分)に外接する円を描くと、きっちり十字形に内接する円が描けます。

 ……とかいって、これって文章で読んでて分るひとがいるのかぁ〜! だいたいこんなの読んで面白がってる人間が何人いるんだぁ〜!(←結構いそうだぞ(-_-!) by Mr.Moto)

 (Maria)


Re: 自閉と失語 10616へのコメント
No.10618  Thu, 24 Jan 2002 00:00:06 +0900  Maria [この発言にコメントする]

I wrote:
> 自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。

Nobusan wrote:
> 私の今までの理解では、自閉方面の人は抽象的な概念を把握するのが苦手というふうに理解してきたのですが、この人(自閉方面の人)が発言するという場合には抽象的物言いをするということなのでしょうか? とすると、こちら(普通人)からの働きかけは常に具体的な物言いを心がけ、相手(自閉傾向の人)の発言は言いたいことの概念が抽象化されていると理解しなければならないということでしょうか? この辺の構造的な説明を伺えれば息子とのやりとりに参考となると思いますので是非お聞かせ(お読ませ)ください。

 えー、あたしが困ってしまうのは、Nobusanがおっしゃる「抽象的」「具体的」という言葉が具体的に何を意味するのが明確でないことなのだな。「普通の人」の間では、「抽象的」=「むつかしい」、「具体的」=「わかりやすい」みたいな印象がつきまとっていて、こういう「評価などがあらかじめ貼りつけられている言葉」のことを「手垢のついた言葉」というわけですね。「雨が降っている」から「鬱陶しい天気」だとは限らないわけで、「いいお湿りで」みたいな捉え方だってあるわけです。

 で、「抽象的」というのは、いろんな対象から、必要な概念のみを抽出したもの、なのですね。まあ「のみ」というのは理想でしかないにせよ、とにかく「抽象的」であるということは、「曖昧さがない」ということなわけです。

 本屋さんなどの会計カウンターに、「右からお並び下さい」と掲示してあるので、「右」から並んだら、「ちゃんと右から並んでください!」とか注意されてしまったりします。
 「右から並んでるでしょう?」
 「右はこっちです!」(と、左を指す)
 「そっちは『向かって右』じゃないですか。」
 「とにかく『右』っていったらこっちなんです!」

 ……こういう人ってキライ。だけど、「普通の人」というのは、「普通の人」が常識だと信じていることを、当然のように相手に押しつけてくるのね。

 「お客様側から見て、向かって右側からお並びください」と書くのが鬱陶しいなら、人が並んでいる絵を描いておけばいいんです。でなかったら、大きく足型を描いておくとかね。で、店側が客に何を要求しているかを端的に表わしているぶんだけ、それは「抽象度」の高い表示なわけです。
 「右」というのは、「客」という対象物に対しては具体的かもしれないけれど、それが「客」から見た「向かって右」だという前提が明確に示されていないものだから、わかりにくく、「性質を引っ張りだす(抽象)」の度合いが低いといえます。

 テーブルの上に置いてある本を指差して、「これは誰の本ですか?」と質問したとして、「それは、ウタ・フリスが書いた本です。そう表紙に書いてあります。」と答えられたらずっこけるでしょう? 「そうではなく、これは誰の物か、と訊いているのだよ」「それは、図書館の本です」「そうじゃなくて、この本をここに置いたのは誰だ、と聞いているんだ!」「それは私が借りてきて、お母さんが読み終わったので、そこに置いたのです」「つまりはお前の本なんだね?」「そうではなくて、図書館の本です。」「そういうことを訊いているんじゃないっ!」

 ……そういうときは、「この本は、現在誰の管理下にある本なのですか?」とか、「この本は誰がどのような事情でどこからどうした結果、ここにあるのかな?」と訊けばよいのですよ。

 だから、「私はいかなる情報を求めているか」と、できれば「なぜ私はそうした情報を求めているか」を、明確かつ誤りなく伝えていただきたい、と思うのね。

 職場の上司に、「明日の午前中は暇かね?」と質問されて、「明日の午前中は仕事をする予定なのですが」と平然と答えたら、盛大にずっこけられたこともあったりするな。そういうときは、「明日の午後一時までに片付けてもらいたい仕事があるのだが、それに困難あるいは不都合がないかどうかスケジュールおよび仕事の内容を検討してもらいたいのだが?」とか言ってくれれば、「簡単に終わるようなら今夜中になんとかしますけれど」みたいなことだって言えるのね。

 で、「普通の人」は、そういう物言いに慣れていないから、「いちいちそんな面倒なことをしたくない」「めんどくさい」と感じるわけです。だけど、あたしは自分の表現が「ばっちりハマッた」感じがとても気持ちいいのですね。

 「普通の人」というのは、文章をあんまり書きたがりません。人に文章を読ませるのも好きじゃないしね。で、文章の正確さというものにも、こだわらない。
 あたしは文章を書くのが気持いいんですよ。で、「かっちり感」を観賞してもらいたいと思います。だから、「ヌルい文章」を垂れ流している人を見ると不快になりますし、杜撰な論理展開をしているのを見ると殴ってやりたくなります(えー、「うっ、それは私のことか?」と思った人、違います。そういう人は自己省察が不足しているので、狼狽したりしません。たぶん、「そうだよな、全く困ったもんだ」とか頷いてます。そうだ、お前だよ、お前!(←すんません(-_-;)。最近手ぇ抜いてます by Mr.Moto))。

 うちの所長さんが、お寿司屋さんで飲んでいたときの話です。
 「何も食べないでお酒飲むと身体に悪いわよ」みたいなことを奥さんに言われて「うるさいな」とか言ってる人に、「血糖値を上げるのに時間のかかる炭水化物を摂取しておかないと、あとでアルコールが代謝されたときにお腹が空いて眠れなくなるんですよね。それで夜食を食べちゃうから、肥満の原因になるんです」と言ったら、その人が「……すみません、鉄火と穴子巻いてください」。
 奥さんが「なんであたしの言うことは聞かないで、ドク(うちの所長のあだ名)の言うことは聞くのよ」とむくれておられました。違います。うちの所長は「ご飯ものを食べろ」なんて一言も言ってません。単に現状について解説しただけです。

 うちの所長のJoshyaさんが、億単位、数十人規模、数カ月に及ぶソフトウェア開発プロジェクトを立て直して「修羅場の救世主」「土俵際の魔術師」と呼ばれた理由のひとつが、じつはJoshyaさんの自閉症傾向だったんじゃないかと思うのね。普通の人にとって「あたりまえ」のことが、Joshyaさんにとっては「あたりまえ」ではない。で、普通の人が「あたりまえ」だと思っていることには、かなりの幅があって、それがコミュニケーション上の障害になって、結果としてプロジェクトがにっちもさっちもいかなくなる。で、それはプロジェクトが大きければ大きいほど、深刻な問題になります。

 で、うちのJoshyaさんは、途中から参加した部外者で、しかも決して「中の人間」にはなれません。だって、他の人とものの見方を共有することが、そもそもできないんだ
もの。心情的にはどこにも属さず、コミュニケーションの障害になっている「思いこみ」を、わかりやすい文章で説明し、関係各所に文書として配布して回るわけです。
 えー、そうしたプロジェクトに参加している人というのは馬鹿ではないのですね。自分のやるべきことはきっちりこなす能力はもちろん持っているわけです。ただ、問題の所在がわからない。で、現状がわかれば問題がわかる。問題がわかれば対策もわかる。そうすると、プロジェクトは自然に流れはじめるのですね。

 「火消しの仕事は、ドブ掃除だ」。そう断言するひとは、多かったりします。これは、逆にいえば、思い込みによって阻害されてしまったコミュニケーションによって状況がこんがらがっちゃうケースがいかに多いか、っていうことなのね。

 だから、「どうして分ってくれないんだ」とかいってイラついてると、問題は解決しません。そんなわけで、あたしもこうやっていろいろ相談とか受けてんだけど、「しょせんは他人事」なのね。で、「他人にわかるように説明する」という努力をした段階で、この手の問題は九十七パーセントくらい解決してたりするんですよ。延々と事情を説明されて、「こうしたらいいんじゃないでしょうか」とか言われて、「うーん、それは難しいんじゃないかなぁ(←簡単だったら悩まないって)。結論を急がないで、その前にもう少し考えを整理してみたらどうですか?」みたいなことを言っていると、「適切な助言をありがとうございました。おかげで目が覚めるような思いがしました」とかお礼を言われたりするのだな。だから、あたしはなんにもしてないんだってば(^_^;)。『あなたもカウンセラーになれる』とかいう本でも出そうかな、とか、“Doctor”っていうカウンセリングをするプログラムが昔あったっけ、とか思っちゃったりします。

 「第三者の立場で考える」とかいうのは、決して体裁を取り繕うことではないんですね。「傍目八目(おかめはちもく)」ということなんですよ。自閉症方面の人間は、自分のことでもなぁーんか他人事みたいに見えるんだけど、それは生きるために身につけた智恵なのね。切実なのは分るんだけど、あたしが見るところ、「子供を信じて、手を放す」ということができる親御さんが、アスペっ子に限らず子育てに成功しているように見えるのね。だいたい当人がいちばん切実なんだしさ、親がなんでもかんでも面倒みる訳にいかないでしょう?

 そんなわけで、「自分を突き放して考える」訓練をしてください、というのが、アスペっ子の親御さんに対する第一のアドバイスということになるでしょうか。子供を突き放しちゃったら駄目だよ。つかまえておこうとするのをやめるのは大事だけど。

 (Maria)


紙の不思議
No.10617  Wed, 23 Jan 2002 23:31:18 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

 A、Bどの規格でも、
紙の短い辺と長い辺の比は、1:√2
対角線と短い辺の比は、三平方の定理より、1:√3
対角線と長い辺のなす角度α≒35.26°(TANα=1/√2より)
対角線と短い辺のなす角度β≒54.74° (TANβ=√2より)
だし、
 
 それから、短い辺を一辺とする正方形を切り離して残る長方形の紙について、
元の紙の短い辺と残りの紙の短い辺の比は、1:(√2−1)
元の紙の短い辺と残りの紙の対角線の比は、1:{(4−2√2)}^(1/2)
残りの紙の対角線と長い辺のなす角度γ=22.5°{TANγ=(√2−1)}
残りの紙の対角線と短い辺のなす角度δ=67.5°{δ=180°-(90°
+22.5°)}

になるみたい!


Re: 自閉と失語 10571へのコメント
No.10616  Wed, 23 Jan 2002 21:31:40 +0900  Nobusan [この発言にコメントする]

Mariaさん wrote:

> 自閉症方面の人間が、きわめて抽象的・客観的な物言いを好む、というのには、こうした理由があるように思います。
>
 私は自閉傾向があって今、2年間学校へも行けない状態になっている中学3年男子の父親です。彼に話しかけても、返事をしないか、自分の関心のあることにだけかろうじて必要最小限の意思表示をするといった状態です。その息子とのコミュニケーションをとろうとして自閉のことを調べていくうちにこの掲示板に出会いました。とくに、Mariaさんの書き込みには目を開かれる話題と解説が多いのですが、今回の、内なる言葉と外なる言葉の解説、具体的でとても解りやすかったです。これからも息子の内なる言葉の理解に勤めていきたいと思っています。ただ、この書き込みの最後に来て、上記の文に行き当たり当惑しています。私の今までの理解では、自閉方面の人は抽象的な概念を把握するのが苦手というふうに理解してきたのですが、この人(自閉方面の人)が発言するという場合には抽象的物言いをするということなのでしょうか?とすると、こちら(普通人)からの働きかけは常に具体的な物言いを心がけ、相手(自閉傾向の人)の発言は言いたいことの概念が抽象化されていると理解しなければならないということでしょうか?この辺の構造的な説明を伺えれば息子とのやりとりに参考となると思いますので是非お聞かせ(お読ませ)ください。


障害は個性ではない 10613へのコメント
No.10615  Wed, 23 Jan 2002 18:01:40 +0900  Maria [この発言にコメントする]

寺林さん wrote:
> 障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。
> スーパーのレジは2月で辞めようと思ってます。これからどう生きていいのかわかりません。
> 手先も不器用、臨機応変も苦手、そんな人間を個性だと思って本当にいいんですか?生きていけないじゃないですか?

 えー、本当は「心の理論」について次は述べるつもりだったのですが、その次に予定していた「『自閉症方面の人間のこだわり』がなぜ生まれるか」と「自閉症方面の人間の適性と就労」の話題について先に述べることにします。

 「自閉症方面の人間といっても、人それぞれ」といいつつ、「こだわり」というのは共通してあるわけで、「こだわり」と「仕事」というのは切っても切れない関係にあり、この「こだわり」を仕事に活かすことはできないのか?といった話が出てくるのは当然のことだと思うんですよ。

 自閉症方面の人間は、他者の行動原理を直感的に把握することができません。したがって、「気まぐれな相手」というのは、とてもつきあいにくい存在です。まして「へそまがり」「あまのじゃく」といった存在は、悪魔以外の何者でもありません。(←根拠もないのに断言している)

 ですから、「明文化された秩序」というものをよりどころにして生きるのが楽、という部分があります。「エチケットを守る」、というのは、自閉症方面の人間にとって得意とするところです。ちなみに「エチケット」というのは「掲示されたもの」という意味で、ワインのラベルのことをフランス語で「エチケット」と言います。「ワインの銘柄を当てるコツは?」「ばれないようにエチケットを盗み見ることです」。たしか、『刑事コロンボ』の『別れのワイン』でやってたネタです。麻雀の必勝法と同じ。相手が見てないうちに、勝手にツモっちゃう。(←所ジョージの歌に、こういうのがある)

 そんなわけで、慣れ親しんだ安全なやりかたに執着するのがまず一点(←誰でもそうじゃん)。で、それが「公式に認められたもの」である場合には、より安心、という部分があります。
 ところが「普通の人」というのは、ルール違反をして恥じることがないのですね。「それはそれ、これはこれ」「あのときはあのとき。今は事情が違う」みたいな言い訳を平然とできる感性というのは、「普通の人」の証です(←めいっぱい皮肉入ってます)。それを「臨機応変」と呼ぶのは詐欺というものです。そういうのは、「オポチュニズム」というのですね。

 原理原則を貫くという「ファンダメンタリスト(原理主義者)」というのもあっちこっちで評判落としてますけど、「オポチュニスト(日和見主義者)」っつーのもけっこう評判悪いぞ。そういう意味では、筋金入りのファンダメンタリストたる自閉症方面の人間は、図書館の司書、役所の出納係、鉄道の保線係といった「固い」職業でなおかつ「属事的」(反対語は「属人的」)な、原理原則のはっきりした職業に向いている……というか、そういう商売でないとやってけない部分がありそうに思います。

 その意味では、東海村の再処理施設における事故なんていうのは、担当者が自閉症方面の人間だったら起こりようがなかった気がします。もっとも「頭が固くて強情で扱いにくい」とか言われて馘首(くび)にされちゃったら終わりなんだけどね。

 そんなわけで、「頑固なんだけど腕は確かだから、切るに切れない」みたいな存在だと安心は安心。だけど、恨みをかってどん底に叩き落とされたりするぞ。こっちは筋を通そうとするものだから、なりふり構わない相手には対抗できないし。言っとくけど日本の司法制度なんて無力だぞ。
 儲かってる会社で好き放題にやらせてもらえれば、実力を発揮できるところはありそうに思います。だけど、「社内の派閥争いみたいなののあおりを喰って経営状態が悪化しちゃった」とかいった、原則論・筋論が通じない「なりふり構わない」環境だと、いいように使われ、絞られるだけ絞られて捨てられることになります。(←また断言している)

 「段取七分に腕三分」という言葉があります。自閉症方面の人間は、不器用なだけに「段取」の部分に目が行くのね。そんなわけで品質管理とかシステム開発とか、そういう分野には適性がありそうに思います。

 状況を客観視し、分析する技術は必要だと思うぞ。とはいえ責任問題とかが絡むとえらいことになるんだけどね。入札方式の非合理性を正そうと思ったら、経理担当者が業者と癒着していたりとかするし。(←実話)

 そんなわけで、「頑固職人」でいるのが気楽といえば気楽です。

 「障害は個性だ」とかいうのは、「障害→特性→適性→個性」という形で、昇華することができた人の言うことなのね。で、そのためには、それを支える環境というのが不可欠です。その意味で、この不況の中では「障害は個性だ」というスローガンは「お題目」でしかないと思うぞ。(←日蓮宗にはある程度共感するけど創価学会は嫌い)

 (Maria)


Re: 一般人の無理解さに嘆く母 10613へのコメント
No.10614  Wed, 23 Jan 2002 16:33:57 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

寺林 wrote:
>>障害は個性だと思います。
>
>障害は個性だとは思わない。現に私は仕事で苦しい思いをしているから。

障害が個性かどうかは、どの立場から見るかによって変わってくるでしょう。

本人にとって個性かどうか。
周囲の人から見て個性かどうか。
個人として個性かどうか。
社会の中で個性かどうか。

個人が他人に対して、障害を個性と認めて欲しいと思ったとしても、社会は個性とは見てくれないこともある。
本人が障害であって個性ではないと主張しても、周りが「その程度は障害ではなく個性のうちだ」と取り合わないこともある。

個性かどうかの議論の多くは、視点が違ったまま擦り合わせをしないで議論がなされているように思えます。

新しい話題を投稿 次の20件を表示 最新のログを表示 パスワード変更 発言の削除

《アスペルガーの館》に戻る / 新しいアスペルガーの館の掲示板


EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 + s.murakami改
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami