アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: 婉曲語を普及させたい人たち(Re: レッテルから自由でありたいということ) 1115へのコメント
No.1117  Thu, 15 Jun 2000 14:30:21 +0900  op・60 [この発言にコメントする]

Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>私が反対しているのは、そういう状況ではありません。むしろ、そのちょうど裏返しの状況です。ファウラーさんはいわば、どんな場面でも「日本人」という言葉を「日本から来た人」に置き換えようと言っているわけです。「日本人」という言葉そのものを廃止して「日本から来た人」に置き換えようと主張してるんですよ。
>
>「ベルギー人」「カナダ人」は差別用語ではないからそのまま使っていいのに、日本人だけは婉曲に、「日本から来た人」と言わないと失礼にあたる・・・ そう言われたら、「日本ってそんなに汚い国?」って思いません?
>
>>> 誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?
>>
>>私は女の人でないけど、女の人が男ばかりの職場などで、同じ仕事をしているのに常に「女だから」とあつかわれるとすると、やはり不自由であろうと思います。
>>
>私もそれは不自由でいやだと思いますが、現状を変えずに「あの人は男ではないから」と言い換えてことが解決するとは思わない、ということです。男性は「男の人」でいいけど「女」は差別用語だから「女性属性をもつ人」と言い換えないと失礼にあたる、って言われたら、「女性は汚いもの」という前提がなおさら固定化され、女性差別の実態はかえって悪化する気がしませんか? 

あの、わたし実はファウラーさんの本も、マルハナバチさんの本も
テンプルさんの本もまだ読んでないんですけど・・・(テンプルさん
はこっちの話です。)

ファウラーさんが「ADHD者」と言わずに「ADHDを持つ人」に言い換えましょう。
といっているのは、ADHDを良くないものと言っているように聞こえます。
ファウラーさんはきっとADHDの人ではないんでしょう・・・(憶測)
ADHDは、今の社会では悪いものとされてしまいがちですが、
教育のシステムなどが変わって社会が変わればいいものにもなると思います。
(現状でもADHDにはいい面もいっぱいあると思います。)
(ASでも同じことが言えると思います。)

なにも遠慮して「ADHDを持つ人」なんて言う必要はないと思います。
差別する人がいたらその人の考え方がおかしい。
こっちが気を使う必要なんてないです。
差別している人の方が、もっと勉強するべきです。

まだ読ませていただいてませんが、世の中にADHDのことを広める本を
翻訳してくださってありがとうございます。>マルハナバチさん。


つらいです
No.1116  Thu, 15 Jun 2000 13:31:49 +0900  親亀こけたら・・・ [この発言にコメントする]

 幼稚園に通う我が子がアスペルガーと診断されたのはつい最近のこと。
早速本を購入し、読んで見ること最初の章で自分がアスペルガーという事を認識しました。私はすごく物忘れが激しくて、注意力欠陥症候群だと今まで思っていました。が、一番苦手なのは対人関係なのです。雑談の場などでは波に乗れずいつも話しの腰の骨を、折ってしまいます。友達もなかなか出来ません。いつも孤独です。自分自身アスぺと認識した方は何かそれまでよりも意識は変わりましたか?
私は今、人と会話するのがとても苦痛です。でも子供の事を考えればそんな訳にもいかず、悩んでいます。


婉曲語を普及させたい人たち(Re: レッテルから自由でありたいということ) 1113へのコメント
No.1115  Thu, 15 Jun 2000 11:42:55 +0900  Niki Lingko(マルハナバチ) [この発言にコメントする]

なんか、私がファウラーさんの主張に反対する理由が全然伝わってない気がするのだけれど。

第一、私と管理人さんの言っていることは共存可能だし、お互いに矛盾してないですよね?

私がファウラーさんに反発するのは、「レッテルを貼らない」という趣旨(そこは別に構わない。そして、管理人さんが賛成するのはこの部分でしょう)を実現するための手段として、婉曲語を普及させようとするからです。趣旨は別にいいけど、その手段として婉曲語を導入したことに反対なんです。

なぜか。「婉曲語を導入すべき」という主張は、婉曲語で言わなかったらストレートな呼称は差別語になるということを前提にしています。

しかも、従来の呼称、婉曲語ではないストレート語(?)を、本人が自分を指すときに使うことまで不愉快に感じているらしい(そこまで「やめろ」と言わないで自制している点は評価しますが)。 

館の管理人 wrote:
>Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>> だって、誰かのことを「日本人」って言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は日本そのものになってしまいますか? 
>>
>はい、私は日本人です。私がもしも仮に、日本人があまりいない社会の中でくらしているとする。まわりの人たちから常に「やあ日本人」と言われて、私の一挙手一動が日本人の特徴ととられて、しゃべることはみんな「日本人の言うこと」ととられるとしたら、とても不自由な気がします。
>
私が反対しているのは、そういう状況ではありません。むしろ、そのちょうど裏返しの状況です。ファウラーさんはいわば、どんな場面でも「日本人」という言葉を「日本から来た人」に置き換えようと言っているわけです。「日本人」という言葉そのものを廃止して「日本から来た人」に置き換えようと主張してるんですよ。

「ベルギー人」「カナダ人」は差別用語ではないからそのまま使っていいのに、日本人だけは婉曲に、「日本から来た人」と言わないと失礼にあたる・・・ そう言われたら、「日本ってそんなに汚い国?」って思いません?

>> 誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?
>
>私は女の人でないけど、女の人が男ばかりの職場などで、同じ仕事をしているのに常に「女だから」とあつかわれるとすると、やはり不自由であろうと思います。
>
私もそれは不自由でいやだと思いますが、現状を変えずに「あの人は男ではないから」と言い換えてことが解決するとは思わない、ということです。男性は「男の人」でいいけど「女」は差別用語だから「女性属性をもつ人」と言い換えないと失礼にあたる、って言われたら、「女性は汚いもの」という前提がなおさら固定化され、女性差別の実態はかえって悪化する気がしませんか? 

「女」「女の人」という呼称を廃止されたら、私生活で「たまには女だけで飲みに行くのもいいよねー、くつろげてさあ」「女どうしの助け合い」といった言いかたもしにくくなってしまいます(ファウラー氏は、ADHDをもつ人自身が、自らを「ADHD者」と名乗ることにマユをひそめていますが、仲間どうしの打ち明け合いの本であり、内輪の助け合いの本でもある「片づけられない女たち」では、「ADD女性」という自称が、愛情こめて使われています。その事実は、ファウラー氏の挙げる根拠と矛盾する気がする)。

>日本人であることも女の人であることもネガティブな属性ではないけれど、もしそればかりが過剰に強調されたら、ちょっとそれはいやだ、という場合もあるということです。

それには全面的に賛成です。

でもファウラー氏の主張は、過剰に強調しないための手段として、婉曲語を導入しようというものでした。日本人であることを過剰に強調しないために、「日本から来た人」とソフトに言いかえるべきっていうつながりかたには、私は反対なんです。


レッテルは必要か不要か
No.1114  Thu, 15 Jun 2000 09:15:44 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

スレッドが大きくなって、どこにレス付けたらいいか分からなくなったので、新しくします。

レッテルが必要なのかどうかは、各個人の状況によるでしょう。
特に大きな要素は「実害を生み出すかどうか」だと思っています。

アスペ的要素のために実害がある場合で考えると:
(1)レッテルがないために「何でこんなことができないのか」と言われても説明する根拠がない。障害(仮にこの言葉を使っておきます)だと思うと説明しても、「その程度じゃ障害とは言えない、甘えているだけ」と言われてしまう。
(2)レッテルがあると、健常者と変わらない結果を出せるにも関わらず、「障害者だから」という目で見られて正当に評価されない。

この2つの場合にはレッテルの有る無しが逆であれば、どちらも多少はうまくいく可能性が高くなりそうです。
大事なのは「どうしたら実害を減らせるか」であって、その可能性の一つとしてレッテルがある訳で、状況によってはそれが逆効果になりうるでしょう。

以上のことは対外的なことであって、自分自身が納得するためのレッテルはまた別問題です。

なお、「障害」という言葉の問題については、私自身の考えが固まっていませんので、今は取り上げないことにします。


Re: レッテルから自由でありたいということ 1110へのコメント
No.1113  Thu, 15 Jun 2000 07:23:59 +0900  館の管理人 [この発言にコメントする]

Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
> だって、誰かのことを「日本人」って言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は日本そのものになってしまいますか? 
>

はい、私は日本人です。私がもしも仮に、日本人があまりいない社会の中でくらしているとする。まわりの人たちから常に「やあ日本人」と言われて、私の一挙手一動が日本人の特徴ととられて、しゃべることはみんな「日本人の言うこと」ととられるとしたら、とても不自由な気がします。

> 誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?

私は女の人でないけど、女の人が男ばかりの職場などで、同じ仕事をしているのに常に「女だから」とあつかわれるとすると、やはり不自由であろうと思います。

日本人であることも女の人であることもネガティブな属性ではないけれど、もしそればかりが過剰に強調されたら、ちょっとそれはいやだ、という場合もあるということです。

「女性の感性を生かした仕事をしたい」とか「外国の地にいても自分は何より日本人だし日本人らしい生き方をしたい」とか、そういう人も当然いるだろうしぜんぜん悪くないです。でもそうでない人もいていいでしょう。


Re: レッテルから自由でありたいということ 1109へのコメント
No.1112  Thu, 15 Jun 2000 03:26:41 +0900  Niki Lingko(マルハナバチ) [この発言にコメントする]

館の管理人 wrote:
>>
>> >>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>> >>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>> >>その人は障害そのものになってしまう……。
>
>わたしはファウラーさんのこのいい方に、わりと共感するほうです。
>みんな、感じ方はいろいろでしょう。
>

私がファウラーさんに反発する大きな理由は、ここです。
>(前略)……私は至るところで(時には外国語でまで)、
>人々が自ら「ADHD者」と名乗ったり、
この人は、他の人が、自ら「ADHD者」と呼ぶことにまでマユをひそめているんですよね。さすがにやめろとまでは言ってないけど。


レッテルがどうでも良くなってきました(昔より) 1105へのコメント
No.1111  Thu, 15 Jun 2000 03:22:49 +0900  みる [この発言にコメントする]

Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>
>つまり、英語だと、an ADHD child という言いかたと、a child with ADHDとい
>う言いかたと、両方できるんですね。「ADHD児」と呼ばずに、「ADHDのあ>る子」「ADHDをもつ子」と言い換えようという、一種のPC語です。
>
>私自身を例にとれば、私は自閉(具体的にはアスペルガー症候群ですが)は自分の>人格の中心部分をなす、かけがえのない特質だと思っているので、a person
>with autism と言われると、あまりいい気はしません。自分では an Autistic
>あるいは、an Aspieと名乗ります。比喩(ジョーク)とはいえ、「自閉連邦市
>民」だとか「在地球領事館附属図書館館長」なんて名乗っているくらいですから。

私は、ADHDなくしては、今の人格にたどり着くことはなかったと思います。
一時期は、のろまな自分や、
遅刻常習犯のだらしのない人間からどうやったら生まれ変われるのか、
高校の頃いろいろ考えました。自分の何がいけないんだろう。
自分は、学校の成績が良かったから、そこにあぐらをかいて、
多少のだらしなさは、成績が良いというイメージで
カバーしてると思ってるんだろうか(自問自答)、
あぐらをかいて他人を見下しているから、人との待ち合わせに遅刻するのか、
何かのミーティングの時に大事な物を忘れたり、
期限を過ぎてしまったりするのか、
私は傲慢だから、父親に嫌われているのでは・・・?

いろいろ自分で思い付くことのできる欠点を部分的に改善して、せめて、
不必要に人が傷つくような場面にいたらそれを止めてあげよう。
とか、人の長所を見つけたら、
えんりょなくじゃんじゃん誉めて自信をつけてもらおう。
とか、絶対人を見下さない(これ重要)。とか、
傷ついている人は、見つけたらできる限り癒してあげよう。痛いから。

そしたら、一生の親友と呼べる友達がたくさんできたんです。
これは宝物なんです。ADHDでなければ手に入らなかった。


>ですから、「ADHDのある人」「ADHDをもつ人」と言おうか、「ADHD族」「ADHD人
>種」と言おうか、というのは、完全にその場の文脈だけで決まります。
>
>部屋を片づけられない自分を許してやろうよー、といって、ADHD仲間と一緒に開き>直り、散らかし自慢をし、という文脈では、「ADD族なんだからさー」とか「やっ
>ぱりADD女はさー」と言います。それは、ADHDも含めて自分、と認めてやりたい文>脈だからです。
>
>ところが、時間管理のテクニックとか、金銭管理のテクニックなんかを考えたり、>計画を立てたりする文脈では、「私はADD族だから」とは言わず、「私にはADHDが>あるのだから」と言います。この場合は、ADHDはコントロールする対象となってい>るからです。
いま「片づけられない女たち」を読んでいますが、そういういわれ方をしても、全然嫌じゃないし、そんな事に気づかなかった。だってじぶんがADHDなのだから。
私がたくさん出てくるので、おもしろいです。翻訳して頂いた、マルハナバチさんに感謝しています。ADHDはどうしても、子供の障害としか思っていない両親に、今読ませています。「片づけられない女たち」を読み始めたら、私がたくさん出てくるので、興奮して眠れなくなりました。心強い、まさに応援歌です。

>一方、チックや強迫に関しては、ただ邪魔なだけ。おさえ込んでも捨てても何とも>思わない。完全に他人ですから。どこからか突然割り込んでくるだけの存在ですか>ら。コントロールしたい。できれば追い出したい。だから、「チック族」とか「強>迫人」とか思わない。
同感です。こればかりは、好きになれるものではありません。
早く私のからだから消え去ってほしいです。

>======
>一方、もしも私がアスペルガーじゃなくなったら・・・。それはもはや私ではあり>ません。私という人間はいなくなってしまいます。
>
私からADHDがなくなって、てきぱきして気がきいて、
こまかいところまで目が行き届く、計画どおりに物事を処理する、
遅刻しない人間になったら、これは私じゃありません。気持ち悪いです。
皆にも気持ち悪がられることでしょう。


Re: レッテルから自由でありたいということ 1109へのコメント
No.1110  Thu, 15 Jun 2000 03:13:46 +0900  Niki Lingko(マルハナバチ) [この発言にコメントする]

館の管理人 wrote:
>Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
>> 補足。
>>
>> >>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>> >>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>> >>その人は障害そのものになってしまう……。
>>
>> 私ね、何かこの人のこのいい方は「障害」という言葉に対する偏見が見えて好きじゃないの。
>
>わたしはファウラーさんのこのいい方に、わりと共感するほうです。
>みんな、感じ方はいろいろでしょう。
>
>ある属性をアイデンティティの中心と感じる人もそうは思えない人もとうぜんいます。

いろんな人がいろんな感じかたをすることは、私も当然だと思ってます。ただ、私みたいなのはたぶん、少ない方なのだろうから、誰かが悪役になって言っておかないとみたいな気になってしまっただけです。

だから、
>ファウラーさんの考えは、人を選ぶと思っています。
>まあ、「人が思う分には、反対はしないけど、強制はしないで」ってとこかな?
って書いてしまったけど、まずかったでしょうか? 

>
>わたし自身は自分を「障害者」とは思っていなくて、ただのちょっと不器用な人ということで充分だと思ってます。

私も、別に自分を「障害者」だとは思っていません。現に法的にも健常者なわけだし。でも、障害者ではないからといって、「障害者ではない」ということを強調するのは好きではない。ファウラーさんは、
>>この子は決して障害者などではない。
と書くけど、それが、どっからどう見ても障害者っていう人の耳にはどう響くかまで考えているとは思えない。

あるいは、この人は「ADHD者」という言いかたを排し、「ADHDのある人」と言いかえることを提唱しています。でも私は、「○○のある人」とか「○○をもつ人」とかいう用語を、新たに作らなくてはならなくなる文脈というものが私は好きじゃない。「障害」は婉曲に言わなくてはならないものだっていう前提が好きじゃないんです。たとえ現実の場面では婉曲語を使うとしても、「障害とは、婉曲語を使わなくてはならないほど禍々しい存在」っていう前提は、当然視したくない。

もう一つ、自分を「自閉者」とは思っても別に「障害者」とは思わないのは、自閉的センスは持っているけど完全に健常の範囲の人たちを切り捨てたくないから。私が自分の人格の重要な部分だと思っているのは、アスペも含めた、そして「そのケはあるけど診断外」の人も含めた、そしてスペクトル内の別のサブタイプも含めた全体に共通する、「意識の切り替えの遅さ」「繰り返し好き」「視野の狭さ」のことです。だから、「障害」「健常」という切り方とは関係ない。機能レベルとは関係なく、質的に共通するセンスを持っている人たちを身近に感じるってことです。そのセンスさえ共通していれば、重度と呼ばれる人たちであれ、健常者に属する人たちであれ、切り捨てたくない。

>三年前、アスペ・自閉のことを知った当時はかなりその新しいアイデンティティに夢中になって、なんか自分のすべてがそれで説明できるかのような錯覚にとらわれたたような感じがする。でもそれは不自由なことであったと思う。

うーん、私はたぶん、そういう感じではなかったんだろうと思います。だって、私にとって、診断は「苦しかった部分」に説明をつけてくれたのではなく、「物事に夢中になるときのリズム」「気分の切り替わりかた」という部分、つまり「実は実害がないのに、異常なのかと思い込まされていた部分」を解放してくれただけだったので。私にとっては、自閉スペクトルって「芸風」であり、「作風」なんですよ。

そして、それがアイデンティティの中核をなすからといって、「自分のすべてがそれで説明できる」なんて思ったことは一度もなかった。だって、「芸風」っていうのはあくまで調理法、技法であって、素材、ネタは関係ないから。自閉的芸風がアイデンティティの中核をなすっていうのは、つまり、どんな素材、どんなネタでも自閉的作風で料理してしまうことになる、っていう意味です。

>自分のことならまだいいけど、たとえば親から、何をしても、この子はアスペだからとかADHDだからとかしか認めてもらえないとしたら、子にとってとても生きにくいです。(私の身近な人はそんな親子関係にとても苦しんできました。)

そんな見かたになってしまうのって、ADHDなり、アスペなりを、症状の集積としてしか考えてないからじゃないでしょうか。そこがファウラーさんのADHD観の狭さだと思うんです。

ファウラーさんが記述している、デイヴィッド君のすてきな性質の中にも、ADHDが貢献している部分って、あると思うんですよ。

>>黒い髪に青い目をした、機転の利く子。
>>魅力に溢れ、人をひきつけるほほえみ
>>と、さわやかな弁舌、真実を見抜く目、それに人並みすぐれた
>>エネルギーを持った子。

「機転が利く」「さわやかな弁舌」「人並みすぐれたエネルギー」。どれも、しばしばADHDのプラス面として挙げられる性質です。
デイヴィッド君は、ADHDの症状とは闘っているかもしれないけど、彼の好奇心、情熱、意地、瞬発力などは、ADHDと切り離せないものかもしれないのに。

私は前回、
>「障害者」というのと「障害は持っていても一個の人格」というのと、このふたつは両立し得ない、排他的な概念ででもあるかのように言ってますよね、この方。
と書きました。

私ね、
>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>その人は障害そのものになってしまう……。
この前提がちがってると思ってるのですよ。

だって、誰かのことを「日本人」って言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は日本そのものになってしまいますか? 

誰かのことを「女の人」と言ったって、その人の人格は剥ぎ取られますか? その人は女そのものになってしまいますか?

私は日本人でアスペで翻訳家で仏教徒でトレッキーだけど、「仏教徒」と言ったからといって、私が翻訳家であることやトレッキーであることは消えてしまわない。剥ぎ取られてしまわない。「翻訳家」と言ったからって、私がアスペであることもトレッキーであることも消えてしまわない。

どうしてたまたま障害名だというだけで、ダーティー・ワード扱いされるのか。汚い言葉じゃないぞ。ってね。


レッテルから自由でありたいということ 1106へのコメント
No.1109  Thu, 15 Jun 2000 01:36:33 +0900  館の管理人 [この発言にコメントする]

Niki Lingko(マルハナバチ) wrote:
> 補足。
>
> >>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
> >>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
> >>その人は障害そのものになってしまう……。
>
> 私ね、何かこの人のこのいい方は「障害」という言葉に対する偏見が見えて好きじゃないの。

わたしはファウラーさんのこのいい方に、わりと共感するほうです。
みんな、感じ方はいろいろでしょう。

ある属性をアイデンティティの中心と感じる人もそうは思えない人もとうぜんいます。

わたし自身は自分を「障害者」とは思っていなくて、ただのちょっと不器用な人ということで充分だと思ってます。わたしの場合、感覚過敏も強迫もチックもパニックもなくて、いまの生活にわりと満足しているという状態ですので。
過去から今まで自分を振り返って、ああアスペルガー症候群といわれるものにあてはまるところがあるなあ、とは認めます。でもそれがアイデンティティの中心かというと、そうでもない。少なくとも今は。(ほんとにアスペかどうかもどうでもよいです)

三年前、アスペ・自閉のことを知った当時はかなりその新しいアイデンティティに夢中になって、なんか自分のすべてがそれで説明できるかのような錯覚にとらわれたたような感じがする。でもそれは不自由なことであったと思う。
自分のことならまだいいけど、たとえば親から、何をしても、この子はアスペだからとかADHDだからとかしか認めてもらえないとしたら、子にとってとても生きにくいです。(私の身近な人はそんな親子関係にとても苦しんできました。)
ファウラーさんが言っているのはそうならないようにということだと思います。


ぴろきちさんお元気ですか?
No.1108  Wed, 14 Jun 2000 21:08:14 +0900  るおう [この発言にコメントする]

ピロきちさん,最近は如何ですか?
実はピロキチサンに実は伺いたいことがあったのですが、おむにさんの所で待ち合わせが出来たら,嬉しいですが。。
どの様に連絡とって良いかわかりませんでした。
引越をされてから、お見かけしないので。。なんて不躾にすみません。


青木さん(Re: nana様ぽよ子姫様) 1090へのコメント
No.1107  Wed, 14 Jun 2000 19:15:59 +0900  Niki Lingko(マルハナバチ) [この発言にコメントする]

青木さんこんにちは。
ここは、ときどきしか覗いていないので、ついつい、ごぶさたしてしまいました。
ごめんなさいね。

青木雨人 wrote:
>【追記】マルハナバチ様
> あなたのご指摘を読みましたが、もっともなことです。言いたいことをなかなかうまく言葉で言い表せないので、しばしば誤解を招いてしまっているようです。それから、あなたを診断したり、アドバイスをするなどという傲慢なことは考えていません。

あ、私も別に、そんな心配はしていませんでした。きつい言いかたに聞こえてしまったら、すみませんでした。

だけど、私はたまたま、わりと正式に診断されてから2年くらい経ってるし、診断も身になじんで確信持ってるし、精神的にも安定しているので別に平気なんですが

(おそらく、青木さんもそれをご存じだからこそ、安心して私のことを例に出すことができたのだろうと思いますが)、

でも、それは私がたまたま大丈夫だったというだけであって、誰もがそうとは限りません。だから、もしも、新しく来られた方などが、青木さんのその書き込みだけを見て、うっかり「ここでは、他の参加者のことを、分析したりしても構わないのかな」とかんちがいしてしまっても困りますものね。 

>あなた宛にメールを送りたいので、できればアドレスを教えてください。

んーー、どうしたもんかなー。
実は私、一対一のコミュニケーションって、ものすごーく苦手なんですよ。
掲示板だとこんなに偉そうなことばかり書いて、はきはきしているように見えますが、
個人メールだとかなり人見知りしてしまうんです。
(それだけでなく、私はとんでもないメール無精です。
たまたま「書ける期」にメールもらうと3分で返事を書くこともあるのに、
「書けない期」にもらうと、1年くらい前のお返事をまだためていたりする)

掲示板などでたーくさんやりとりした相手とは、
少しずつ安心してメールもできるようになっていくんですが、
なかなか決心つくのに時間がかかります。

掲示板でも自分のページでもアドレスを表示していないのは、
メールが苦手だからなんです。
相手が誰だから、っていうことはあまり関係ありません。
すみませんが、もう少し気長に待っていただけませんでしょうか。
勇気が出てきたら、アドレスお送りします。

あ、ついでに、私の返事を大昔から待っていらっしゃる皆様、本当にすみません。
そのうち何とかしますんで、お許しください(汗)


パーソン・ファースト・ランゲージの背景 1105へのコメント
No.1106  Wed, 14 Jun 2000 18:38:15 +0900  Niki Lingko(マルハナバチ) [この発言にコメントする]

補足。

>>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>>その人は障害そのものになってしまう……。

私ね、何かこの人のこのいい方は「障害」という言葉に対する偏見が見えて好きじゃないの。

だいたい、人はそれぞれ個性があるのだったら、障害にだって個性があると考えることもできるのに、「障害」には個性がないかのようなこの言いかた。

確かに、「全ろう」なんかは、障害の中では比較的均一の障害かもしれませんけどね。「弱視」とか「難聴」とか「読字障害」とか「分娩麻痺」とか、それぞれ百人いれば百通りです。

要するに、「日常生活の場でまでADHD児とよばない」「ADHDゆえの配慮を必要としない場所でまで、ADHD児と呼ばない」というだけで十分なんじゃないの?たとえば法律の整備を求めるとき、あるいは予算を要求するとき、その他もろもろ、ADHDゆえの配慮を要求するような場であれば、ADHDという共通項を規準に団結しているわけだから、そこではADHD者と言ったって構わないと思うんですけどね。

>>私は、息子ディビットを育ててきた経験から、
>>自分は「ADHD児の母親」などではないと思っている。
>>私はディビットという少年の母親だ。
>>黒い髪に青い目をした、機転の利く子。
>>魅力に溢れ、人をひきつけるほほえみ
>>と、さわやかな弁舌、真実を見抜く目、それに人並みすぐれた
>>エネルギーを持った子。そしてその上たまたま、ADHDという
>>障害とも闘っている一人の少年。
>>この子は決して障害者などではない。障害は持っていても、
>>一人の人格なのだ。……(後略)

「障害者」というのと「障害は持っていても一個の人格」というのと、このふたつは両立し得ない、排他的な概念ででもあるかのように言ってますよね、この方。

私は別に、「障害者」という言葉は嫌いではないので、わざわざ避けなければいけないって気がしないんですよ。いつでもどこでも使うわけではありませんが(なんてったって私、法律的には健常者なんですからね!)、文脈に応じて、必要があるときには平気で使います。たとえば、「非自閉の晴眼者の聴者」に対して「自閉者と盲人とろう者」がまとまって物を言う文脈であればね。

たぶん、このお母さんは、自分自身がADHDではないから、というのもあるんでしょうね。「障害はあっても一個の人格」なんて言うのは、「差別にならないように気を使った言いかた」ですから。

同じADHDを扱った書籍でも、「へんてこな贈り物」や「片づけられない女たち」は、著者自身がADHD本人です。ですから、自分で「ADD族」と名乗ろうが「ADD女性」と名乗ろうが、自分のことなので、ハタからは文句も言いづらい。それに、やはり仲間が仲間に呼びかけているような親しみがあるのでしょう。ファウラー氏が批判している「ADD族」「ADD女性」という表現が、平気でゾロゾロ出てきます。

================

ここで、私の友人、ジムの短文、「ぼくが『自閉のある人』という言いかたを好まない理由」から一部を引用させてください。

>誰かのアイデンティティの中心をなすと認められている属性なら、きちんと直接「人」を修飾する位置に置かれるか、ときにはさらに、一つの名詞を形成する。「男の人」「女の人」「男の子」「女の子」という言いかたがあり、「男性」「女性」「男」「女」という名詞があるではないか。だれも「男性性のある人」とか「女性性をもつ人」などとよびはしない。

>だれかの文化的・宗教的背景を云々するときも、「ロシア人」「カトリック教徒」とよぶ。「ロシア人性のある人」「カトリック信仰をもつ人」などとよびはしない。人の社会的役割も重要な性質と考えられているので、「親」とか「労働者」ということばが使われる。「子どもをもつ人」「職業のある人」とはいわない。人の性格についても、それが重要だと考えるからこそ、「寛大な人」「陽気な人」と表現する。「寛大さのある人」「陽気さをもつ人」などという言いかたはない。

>(中略)

>プラスの、あるいは中立と考えられている性質を表すことばなら、直接名詞を修飾するのに使っても、だれも文句を言わない。「左利きの人」というのを、「左利き性をもつ人」と言いかえようとはだれも言わない。「スポーツマン」とか「音楽家」というのを、「スポーツをする人」「音楽のできる人」と言いかえなければならないとはだれも思わない。「目の青い人」、「青い目をした人」、どちらを使っても文句は出ない。

>それなのに、なんらかの性質が「マイナスの意味だ」と判断されると、とたんにみんなはそのことばを「人」から切り離そうとする。

>ぼくは知っている。自閉は禍々しい存在などではない。ぼくは自閉のせいで人間以下の存在になったりはしない。自閉だからといって、ぼくが人間性をもつことに変わりはない。そんなこともわからない人がいるとしたら、それはその人の問題であって、ぼくの知ったことではない。


Re: 自分にレッテルをつけていた(反省) 1104へのコメント
No.1105  Wed, 14 Jun 2000 18:08:25 +0900  Niki Lingko(マルハナバチ) [この発言にコメントする]

こんにちは、ニキです。

別にたま子さんに反論するわけではないです、ちょうどこの話が出てきたので。
実は私、このファウラーさんの考えは、人を選ぶと思っています。
まあ、「人が思う分には、反対はしないけど、強制はしないで」ってとこかな?

あるいは、この方針を採用するかどうかは、個々人の、その障害との距離のとり方、その障害をどう受け止めているかによって変わってくるのだと思います。

たま子 wrote:
>こんにちは、たま子です。
>
>今、『手のつけられない子それはADHDのせいだ』という
>タイトルの邦訳の本を読んでいます。
>この本の前置きより以下引用しますが、
>
>(前略)……私は至るところで(時には外国語でまで)、
>人々が自らから「ADHD者」と名乗ったり、
>我が子を「ADHDっ子」などと呼ぶのを
>耳にしてきた。
>このように、誰かのことを、その人のもつ障害の名前で
>呼ぶ──。すると、その人の個人としての人格は剥ぎ取られ、
>その人は障害そのものになってしまう……。
>私は、息子ディビットを育ててきた経験から、
>自分は「ADHD児の母親」などではないと思っている。
>私はディビットという少年の母親だ。
>黒い髪に青い目をした、機転の利く子。
>魅力に溢れ、人をひきつけるほほえみ
>と、さわやかな弁舌、真実を見抜く目、それに人並みすぐれた
>エネルギーを持った子。そしてその上たまたま、ADHDという
>障害とも闘っている一人の少年。
>この子は決して障害者などではない。障害は持っていても、
>一人の人格なのだ。……(後略)

この文章は、英語圏での「パーソン・ファースト・ランゲージ」の流れを受けたものです。

つまり、英語だと、an ADHD child という言いかたと、a child with ADHDという言いかたと、両方できるんですね。「ADHD児」と呼ばずに、「ADHDのある子」「ADHDをもつ子」と言い換えようという、一種のPC語です。

私自身を例にとれば、私は自閉(具体的にはアスペルガー症候群ですが)は自分の人格の中心部分をなす、かけがえのない特質だと思っているので、a person with autism と言われると、あまりいい気はしません。自分では an Autistic あるいは、an Aspieと名乗ります。比喩(ジョーク)とはいえ、「自閉連邦市民」だとか「在地球領事館附属図書館館長」なんて名乗っているくらいですから。

ところが、ADHDに関しては、まあ、付随する性質くらいに思っているので、どっちでもいいやという感じです。物忘れの原因であり、私の毎日の生活の機能レベルをはなはだしく下げている困った要因である一方、世界について学ぶべき年齢の子どものとき、自閉の暴走にツッコミを入れて、ときどきリアリティ・チェックの風を入れてくれたのはADHDの衝動性だと思っているし、どうしても気分の切り替えがつかずに身動きのとれないとき、ADHDを起爆剤にむりやり行動を起こすテクニックを覚えたために助けられていることもあります。また、ADHDがなかったら、私は今ほどの好奇心は持っていなかったでしょう。新し物嫌いの自閉の性質と拮抗して、私の世界を広げ、情報をとり込んでくれたのは、ADHDがあってくれたからだと思っています。

まあ、人格の中心部分ではなく、いいことも困ったこともある性質、という感じでしょうか。完全に他者というほどよそよそしくもない。他者ではないというのは、自分で波がわかるからでもありますね。チックや強迫やパニックのように、いきなり天から降ってくるのではなく、いつもそこにあって上下動しているのを、ずっとフォローしているせいもあります。

ですから、「ADHDのある人」「ADHDをもつ人」と言おうか、「ADHD族」「ADHD人種」と言おうか、というのは、完全にその場の文脈だけで決まります。

部屋を片づけられない自分を許してやろうよー、といって、ADHD仲間と一緒に開き直り、散らかし自慢をし、という文脈では、「ADD族なんだからさー」とか「やっぱりADD女はさー」と言います。それは、ADHDも含めて自分、と認めてやりたい文脈だからです。

ところが、時間管理のテクニックとか、金銭管理のテクニックなんかを考えたり、計画を立てたりする文脈では、「私はADD族だから」とは言わず、「私にはADHDがあるのだから」と言います。この場合は、ADHDはコントロールする対象となっているからです。

一方、チックや強迫に関しては、ただ邪魔なだけ。おさえ込んでも捨てても何とも思わない。完全に他人ですから。どこからか突然割り込んでくるだけの存在ですから。コントロールしたい。できれば追い出したい。だから、「チック族」とか「強迫人」とか思わない。

======

さて。私が何らかの方法で、ADHDの症状がなくなったら(まあ、ふつうは薬でなんだろうけどさ)、それはやはり、相変わらず私だと思うのです。ただ、ずっとそのまんまってのは、もしかしたら困るかも(笑) 翻訳作業をしている間は消えていてくれてもいいんだけど、ネタを探したり、ブレーンストーミングしたり、企画をまとめたり提案したりしているときは、ADHDがついていてくれなきゃ困る。

一方、もしも私がアスペルガーじゃなくなったら・・・。それはもはや私ではありません。私という人間はいなくなってしまいます。

ADHDは、今の仕事をやっていく上で得になったり損になったりするものですが、アスペルガーは、今の仕事を選ばせてくれたもの。ADHDがなくなったら、仕事のある部分ははかどり、ある部分はキレを失うでしょうが、アスペルガーがなくなったら、今の仕事が面白くなくなるでしょう。

ADHDは、ときによって夫との関係を良くしたり悪くしたりしますが、アスペルガーは、今の夫を選ぶことになった価値観や嗜好と不可分です。ADHDがなくなったら、夫との関係は良くなったり悪くなったりするでしょうが、アスペルガーがなくなったら、今の夫のよさがわからなくなるでしょう。好きでなくなってしまうかもしれない。

強迫やチックやパニックがなくなったら、他の点は何もかも今のままで幸せになるだけでしょう。


Re: るおうさんへ 1102へのコメント
No.1103  Wed, 14 Jun 2000 13:03:20 +0900  op.60 [この発言にコメントする]



>>・・・仕方ないので自分でほめてます。
>えらいです!ほめます。。

ありがとうございます。うれしいです。
>
>>あと、もし人と何かあっても自分の存在自体を謝ることは
>>ないと思います。
>>何かあったことと、自分の存在は関係ないので。
>>わたしも何かあると自分が生きていなければいいんだとか
>>思いがちですけど・・・。
>思いがちです。いつも言葉が足らなくて、上手じゃなくて、誤解をまねいたり、いじわるをされるし。。おもいがちです。
>生きていこうとするだけで、、たいへんです。。最近は。。
>
>>認知療法の本で勉強中です・・・。
>えらいです。。私も心理をかじろうとするけど、、最近どんどん自分が退化してだめです。見習わないと。。

認知療法は、とても分かりやすくて簡単な内容です。
でも言われないと気が付かないことがいっぱい出てました。
私の場合。
認知療法の簡単な説明が
http://member.nifty.ne.jp/BANBAN-PSYMED/nintiryouhou.htm
に書いてありました。


Re: るおうさんへ 1100へのコメント
No.1102  Mon, 12 Jun 2000 22:53:34 +0900  るおう [この発言にコメントする]

Op.60 wrote:
>muramuraさんお元気でしょうか?
>お世話になっています。
お世話になっています。わたしからも。

>独り言というのは、ウチの母親が入ってるカルトの話で
>私も昔無理やりやらされてました。18歳までずっと。
>ADHDと折り合いをつけることとカルトから脱会することを
>ずっと一人でがんばってきたのでだれかほめてくれないかな・・・
>と思ったんですけど。
>とくに自分で洗脳を解くときがたいへんでした。
>・・・仕方ないので自分でほめてます。
えらいです!ほめます。。

>あと、もし人と何かあっても自分の存在自体を謝ることは
>ないと思います。
>何かあったことと、自分の存在は関係ないので。
>わたしも何かあると自分が生きていなければいいんだとか
>思いがちですけど・・・。
思いがちです。いつも言葉が足らなくて、上手じゃなくて、誤解をまねいたり、いじわるをされるし。。おもいがちです。
生きていこうとするだけで、、たいへんです。。最近は。。

>認知療法の本で勉強中です・・・。
えらいです。。私も心理をかじろうとするけど、、最近どんどん自分が退化してだめです。見習わないと。。


るおうさんへ
No.1100  Mon, 12 Jun 2000 12:22:56 +0900  Op.60 [この発言にコメントする]

muramuraさんお元気でしょうか?
お世話になっています。

るおうさんがお話してるのをみて
チャットでお話しようと思ったんですが
パソコンの調子が悪くて(チャットの入る時だけ)
入れないんです。
ついでに独り言も、たくさん言いたかったんですけど

独り言というのは、ウチの母親が入ってるカルトの話で
私も昔無理やりやらされてました。18歳までずっと。
ADHDと折り合いをつけることとカルトから脱会することを
ずっと一人でがんばってきたのでだれかほめてくれないかな・・・
と思ったんですけど。
とくに自分で洗脳を解くときがたいへんでした。
・・・仕方ないので自分でほめてます。

昨日からパソコンのお勉強です。
チャットに入ろうとして〔参加する〕っていうところを
クリックすると、管理者用エリアという画面がでてくるんです。
そこをクリックするとマスターキーという画面が出てきます。
パスワードの変更をするところらしいんですが・・・
おむにさんにいろいろ教えてもらってるのに
一向に直ってくれなそうです。

というわけでみなさんともお話したかったんですけど
お話できなくなってしまいました。
ほんとうの禁チャットです。
というわけですので、>るおうさん

あと、もし人と何かあっても自分の存在自体を謝ることは
ないと思います。
何かあったことと、自分の存在は関係ないので。
わたしも何かあると自分が生きていなければいいんだとか
思いがちですけど・・・。
認知療法の本で勉強中です・・・。

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