アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
Mariaさん wrote:
> プロフェッショナルである医者が素人である患者に対して「われわれの言葉で話せ」というのはあからさまにプロ意識が欠如していると言わざるをえません。
>処理の上ではこれが自然なんです」と説明する
> 説明能力もプロの能力のうち。そう思います。
そうですよね。。。単に口下手なんかなぁーって思う時もあるし、
単に突っ込んで話ししたくないだけなんかぁっておもうときもあるんです。
私はかなりイヤラシイ人間でして、相手の人がどういう人間か知る為にわざと
嘘を吐いて様子見る時があります。(←友達とかにはしないですよ)
例えば、「好きな画家って誰?」とか聞かれて本当に名前なんか出さないで、相手を見てナンカ勝手に妥当だと思い当たる名前しか出さないです。
で、その人が話し続ける様子がなかったら、
それでタイムリミット(お涙)。「知らないんだな」で、終わり。
でも、今思えば、「この人きっと好きな事については一人で喋り出すだろうからさてさて様子をうかがおうかにゃあ・・・」
という背景状況だったのかもしれない(あははぁー)
話し変っちゃいますが、
今日、ゴルゴ13の筆者が書いた 血液型で人物みるという本を読んでかなりウケてし自閉人でもこれ当てはまるんだろうか・・・・
もし本屋で見つけたら人間ウォッチャー参考程度に見ると面白いかもですよ〜@
ちなみに私は中学・高校となんか委員長やら文化祭各分野の長にならされていた口
でした。←一体全体超信じられない。あれは立場の擦り合いだったのか・・・・
当っている・・・のか??・・・・・・・???
それにしても読んでて吹き出しっぱなしだった(プックプププッ・・・)
立ち読みしながらずっと笑いっぱなしでーした(~*~)
私ってヤナヤツだぁ〜!でも絶対あの本オモシロイ。
こうもり wrote:
> こんばんわ、こうもりです。
>
>川合 哲也さん wrote:
>>祖母には「深刻に悩んでるとは思わなかった」とか祖父には僕がアスペル
>>ガー症候群だという事を分かってくれそうではありませんでした。母は「
>>私がいけない」と言っても、先走ってるとか言ってたりして、おまえは発
>>達障害なんだと言われてるように感じてしまいます。もう家族で分かって
>>くれる人が居なくてもう嫌です!誰にも分かってくれなくて....
>
> わたしの家の場合、わたしが発達障害者であるということを理解してい
>るのは母ぐらいでしょう。わたしが幼児の頃、様々な相談機関で「親のし
>つけが悪い」と非難されていたので、わたしの診断がASと決定したこと
>を喜んでいた(?)ようでした。父方の家族はわたしの障害のことは理解
>できていません。理由は家族が非発達障害者だからではなく、自覚はない
>が発達障害の傾向を持っている人ばかりだから。だから、自分たちだけで
>なく、わたしも発達障害者だという認識はないんですよね。わたしと同じ
>ような発達過程をたどった人は父方の家族の中ではありふれていましたか
>ら。
>
返事、ありがとうございます!分かってくれる人が居て、うらやましいです。僕なんて、「こんな深刻に悩んでるとは思わなかった」って言われたり、「私のせいだ」と言って僕の事は全然考えてくれない親です。今度、病院に行って来るのでその時に先生に話してみたいんだけど、どんな事を話せばいいでしょうか。
> で、家族に理解させる方法。川井くんが診断を受けた病院の医師あるい
>はカウンセラーから家族に障害のことを説明してもらうことなんです。精
>密検査をした結果、ASの診断が出されても、AS本人の家族が認めがら
>ないということはよくあることで、特に発達障害を扱っているカウンセラ
>ーはそういう家族への対応に慣れています。本人だけでなく、家族が障害
>を理解しないと解決できない問題もあるので、診断を受けた医療機関で相
>談した方がいいのではないでしょうか?
直子 wrote:
>川合 哲也くん wrote:
>>久しぶりです!またアスペルガー症候群の事で大騒ぎしてしまいました。
>>もう家族で分かってくれる人が居なくてもう嫌です!誰にも分かってくれなくて....
>
>初めまして、川合くん。
>川合くんは、誰も自分のことを分かってくれないと思って苦しいのですね。
>うちにも18歳の息子が居て、アスペルガー症候群と診断されています。
>うちの息子も、後で後悔することが多いです。
>例えば、ゲームカセットを売りに行って、後でやっぱり売らなければよかったとボヤいたりしています。
>
>川合くんはどんな時に先走っていると注意されるのか、よかったら教えてもらえませんか?(この問いかけは無視されてもかまいません)
>
>私個人的な意見ですけど、先走ってしまう性格は発達障害とは関係ないと思います。今の川合くんは、アスペルガー症候群という病名が重くのしかかって、ちょっとした非難めいた言葉でも敏感に反応してしまっているのではないかという気がします。
返事、ありがとうございます!一生付き合って行かなきゃならないと、言われてすごくショックでした。どんな事かなぁ... 商業高校に在学中で、オリエンテーションの時に、担任の先生に「この機会だから印鑑を買っておくといいよ」と言われ、印鑑を買ったら言われてしまいました...更に買った印鑑を印鑑登録しなくてはならないと思って、印鑑登録をしたらまたいわれてしまいました。見ても可笑しい事だとは思うけど、やっぱり言われてショックなんです!今度、病院の先生に言ってみようかな...
>
>川合くんも気持ちを落ち着けて、自分が不満に思っていることや戸惑いを感じていることを手紙に書いてお母さんに伝えてみてはどうですか?(ちょっと、恥ずかしいとは思いますけど…)
やんちゃん wrote:
>「詩」という形式を取っていることの意義があると思うのですよ。
>普通に意見するのとはちょっと違う。もっと間接的なものだと思うのです。
>街角で歌っていて、聴いてくれなくてもいいけど、必要ならば聴いていけばいい。でも必要なければ無視すればいい。そういうものだと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/minstrel/diaryold/20020501/
星子さん wrote:
> わたしもこの意見に共感で、「自閉症者」が喋っているのは
> どんな内容を喋ろうが「自閉症者」であるということがどうも周囲の人間には
> 理解しがたいらしく、
> 私が、「だって人と違うんだもん」
> と言ってもどうも「あのねえ、僕は“自閉症者”とか初めから診ていないで一個人として星子くんを見ているんだけど」
> ってな風に言われてかなり「それってちょっと違うと思う」と違和感感じて困惑し
> てしょうがない。
プロフェッショナルである医者が素人である患者に対して「われわれの言葉で話せ」というのはあからさまにプロ意識が欠如していると言わざるをえません。プロフェッショナルであるシステムエンジニアが、素人である顧客に「(コンピュータの専門家である)我々に分かる言葉で説明しろ」とか言ったらお金払ってもらえないんだぞ。
ソフトウェア開発の世界では、文章の↑こっち側を「後方」、↓こっち側を「前方」と言います。そんなわけで、ユーザ向けの文書では、↓こっち側を「文章の後の方」、↑こっち側の「文章の前の方」と書いておき、開発側の文書では↑こっち側を「後方」、↓こっち側を「前方」と使い分けます。で、「開発文書の読み方」なんていうマニュアルを、おまけで付けたりなんかするのね。
「なんでそんなややこしいことをするのだ。統一すればいいじゃないか」というユーザさんもいるのですが、「これから進んでゆく方が“前”で、もう通り過ぎた方が“後”なんですよ。だから、処理の上ではこれが自然なんです」と説明すると、「なるほど」と分かってもらえます。
説明能力もプロの能力のうち。そう思います。
(Maria)
なんか余計なことを言うべきではないのでしょうが。詩というものについて、ちょっと思うところを書かせてください。
「詩」という形式を取っていることの意義があると思うのですよ。
普通に意見するのとはちょっと違う。もっと間接的なものだと思うのです。
街角で歌っていて、聴いてくれなくてもいいけど、必要ならば聴いていけばいい。でも必要なければ無視すればいい。そういうものだと思います。
あと、一応、詩というのは出した時点で、それぞれ独立した「作品」と捉えるのがよろしいんじゃないでしょうか?事実から想起されたものにせよ、それに対しての直接的な意見というより、インスピレーションをえて新たに創造したもの。その事実それだけではない。
なので、直接的にイチャモンつけるのは不適切ではないかと思うのです。
いかがでしょう!
議論内容については入っていけないのですが(私は特にどちらの立場というわけでもなく、意見を持っていないので。難しい内容だなと思ってます)、その辺だけよろしくお願いします。
横から入ってしまいます。。
こうもりさん wrote:
>わたしはASの診断を受けてい
>ますが、一切の薬物治療はやっていません。でも、健常者だと言われるのはイ
>ヤなので、障害者という立場を維持しています。
わたしもこの意見に共感で、「自閉症者」が喋っているのは
どんな内容を喋ろうが「自閉症者」であるということがどうも周囲の人間には
理解しがたいらしく、
私が、「だって人と違うんだもん」
と言ってもどうも「あのねえ、僕は「自閉症者」とか初めから診ていないで一個人として星子くんを見ているんだけど」
ってな風に言われてかなり「それってちょっと違うと思う」と違和感感じて困惑し
てしょうがない。
でも「自閉症者」として「観て」くれなきゃ困る。
どうも、そっち側の解釈で扱われても、裏切るとかするつもり無いのに
「ワカラナイ」から毎回それちゃうんです。
当たり前です。
私は「自閉症者」なんですよ。
悪いけど正直な話し、私の毎回言う「ナニ言っているのかワカラナイ」は変らな
い。
哀しいかな百回聞こうが千回聞こうが「ワカラナイことはワカラナイ」。
理屈理論での展開でなくって、無理なことの重要な「中身」を理解しているのかなあ先生。
> 障害を否定された障害者は自分の障害を受容できなくなり、却って他人と対
>等の立場になることができなくなる場合があります。この掲示板に来ている障
>害者の多くの悲劇も、障害者のレッテルを貼られたことにあるのではなく、障
>害を認められないまま生きてきたことにあります。
そうですよねえ。
ほんとうに・・・・・・・ワカッテイルノダロウカ・・・・・・・・・。
発達障害者に適度な環境や扱いを与えずに放っておいている社会は絶対大馬鹿
だ。
星子です。
ときどき思っちゃうことを一つお話。
企業ビル内の書棚裏から発見された、マルコビッチの穴。
通るとマルコビッチという男性の脳内に入り、彼の脳内世界から外界が見渡すことができ、
自由に操れるという、映画 /『マルコビッチの穴』をご存知でしょうか。
最後にマルコビッチが自分の脳の中に入ってしまうのですが、
私は、「星子の穴」に誰か入ったらきっとすごいびっくりするんだろうなって
思う時があります。
自閉症者の脳内に誰か入ってみんか〜いっ?
って思う時あります。
きっとびっくりすると思う。変なツギハギ世界・居心地・視界で。
自閉症スペクトラムという世界を知った時、なぜか初めに「マルコビッチの穴」を
ふっと連想してしまった私でした。
(にしても、人の脳内に入って自分の意識があることって無いと思うんけど・・
あ、でも霊感体験ってそういうやつか・・・・ボソボソ)
川合 哲也くん wrote:
>久しぶりです!またアスペルガー症候群の事で大騒ぎしてしまいました。
>もう家族で分かってくれる人が居なくてもう嫌です!誰にも分かってくれなくて....
初めまして、川合くん。
川合くんは、誰も自分のことを分かってくれないと思って苦しいのですね。
うちにも18歳の息子が居て、アスペルガー症候群と診断されています。
うちの息子も、後で後悔することが多いです。
例えば、ゲームカセットを売りに行って、後でやっぱり売らなければよかったとボヤいたりしています。
川合くんはどんな時に先走っていると注意されるのか、よかったら教えてもらえませんか?(この問いかけは無視されてもかまいません)
私個人的な意見ですけど、先走ってしまう性格は発達障害とは関係ないと思います。今の川合くんは、アスペルガー症候群という病名が重くのしかかって、ちょっとした非難めいた言葉でも敏感に反応してしまっているのではないかという気がします。
川合くんも気持ちを落ち着けて、自分が不満に思っていることや戸惑いを感じていることを手紙に書いてお母さんに伝えてみてはどうですか?(ちょっと、恥ずかしいとは思いますけど…)
てらば wrote:
>思ってることを頭で整理してモノを言えないんだと思う。
>
>質問する時も言葉がまとまらなくて会話が長引いたりすることアリ。。。。
>
Rosamondeです。私は思っている事を言えるんですけど。問題は会話内容なんですけどね。
思っている事を頭で整理して物が言えられない場合は自分のデータに入ってない予想外の会話が出て来た時に起こるんです。
私がしている工夫など:
・新聞や雑誌など読みまくり、自分のデータのキャパを増やしておく事。
・紙に書いて整理する事。
・SSTなど話し方教室に通う。
・連想ゲームをすること。(テーマを作り、自分が浮かぶそのテーマのイメージを上げるだけ上げる。この連想ゲームは私の行っていたデイケアのSSTで実際使われていた)
・無理に話し手の役にならず、聞き役になる。聞き役の方が楽である。
・家で会話のシュミレーション練習をしておく事。
私の場合はデイケアのSSTよりもAS女性にとって最も向かないといわれているお水(水商売)の世界で勉強しましたね。
最近の客は自分から話かけず、聞き役になってしまう客が多いですね。遊びなれている人は結構話してくれる人が多いので、私が聞き役に徹したり、客に乗せられて私が話してしまうことが多かったです。(自分の体験から)
毎日が本番なので、神経を使いすぎるくらい使ったが、今思い出したらSSTの生きたトレーニング実践講座になっていたのかもしれませんが。
かといってお水の世界はお勧めできません。(お水の世界はとにかく混乱するし、過剰な接触もあるからね)
他の人はいかがでしょうか?
てらば wrote:
>思ってることを頭で整理してモノを言えないんだと思う。
>
>質問する時も言葉がまとまらなくて会話が長引いたりすることアリ。。。。
>
Rosamondeです。私は思っている事を言えるんですけど。問題は会話内容なんですけどね。
思っている事を頭で整理して物が言えられない場合は自分のデータに入ってない予想外の会話が出て来た時に起こるんです。
私がしている工夫など:
・新聞や雑誌など読みまくり、自分のデータのキャパを増やしておく事。
・紙に書いて整理する事。
・SSTなど話し方教室に通う。
・連想ゲームをすること。(テーマを作り、自分が浮かぶそのテーマのイメージを上げるだけ上げる。この連想ゲームは私の行っていたデイケアのSSTで実際使われていた)
・無理に話し手の役にならず、聞き役になる。聞き役の方が楽である。
・家で会話のシュミレーション練習をしておく事。
私の場合はデイケアのSSTよりもAS女性にとって最も向かないといわれているお水(水商売)の世界で勉強しましたね。
最近の客は自分から話かけず、聞き役になってしまう客が多いですね。遊びなれている人は結構話してくれる人が多いので、私が聞き役に徹したり、客に乗せられて私が話してしまうことが多かったです。(自分の体験から)
毎日が本番なので、神経を使いすぎるくらい使ったが、今思い出したらSSTの生きたトレーニング実践講座になっていたのかもしれませんが。
かといってお水の世界はお勧めできません。(お水の世界はとにかく混乱するし、過剰な接触もあるからね)
他の人はいかがでしょうか?
名無しさん wrote:
> だんだん世間が競争社会になっていってるよね。そういうなかで、昔だったらたいして問題にならなかったちょっとした不器用さが、落ちこぼれ→学習障害LDと言われるようになった気がするんだ。
おれの記憶が確かならば、「競争社会」という言葉が盛んに言われるようになったのは昭和四十年代、「教育ママ」だとか「四当五落」だとかいった言葉が使われていた時代だと思った。
昭和五十年代にはすでに学校群制度が東京でも施行され(たしか京都が先だったはずだ)、「モーレツからビューティフルへ」とかいった言葉が流行語になっていたハズである。
一九八十年代のバブル時代の馬鹿騒ぎはもはや「競争」とも言えないものだ。そこには共通する伝統的価値観が欠けており、ルールが欠けている。
天下りに与えられたルールに乗っ取った競争に参加しなければ人間として認められない、みたいな時代は、おそらくは三十年も昔に終わっておるのだ。「一中(府立一中。現在の都立日比谷高校)・一高(現在の一橋大学)・帝大(東京大学)」だとか、「番町(小学校)・麹町(中学校)・日比谷・東大」だとかいう言葉はもはや死語である。
そんなわけで、ちょいと脇へ逸れれば競争のない抜け道みたいなものはいくらでもあるのだ。ただ、「世間並み」「一般的」「普通」ということに固執していると、そういった抜け道に逸れることができない。あるいは、そういった「抜け道志向」を「逃げ」として糾弾するメンタリティがまだ支配的ではあるのだ。
> 障害児になることで、無理な努力を課せられないメリットはあるかもしれないけど、その努力って学歴中心主義の社会じゃなかったら、もともとしなくていい努力でしょ? 世の中が進みすぎているから、遅れてみえるだけ。
「学歴中心主義」というが、トップ・プログラマーとして君臨しとる連中の学歴を見ると何がなんだかわからない連中がけっこう多い。官僚・閣僚・医者・弁護士あたりを目指すならともかく、「現在学校で教えられていること」が現場ではすでに時代遅れになっているケースは少なからずあるし、必要なことがすべて学校で学べるかというとそうでもない。
「自閉症だからプログラマーくらいしか職業選択の余地がない」とかいうのはいっそ気楽なもんである。おれらの頃は現在でいう「プログラマー」という職業そのものがなかった。当時の「コンピューターのプログラマー」というのは現在でいう上級システムエンジニアのことで、何億・何十億円もするシステムを維持・管理する、弁護士や医者や物理学者なみの知的エリートだったのである。当時はマイクロコンピュータなどはコンピュータのうちには入れてもらえず、わしらは「『プログラマー』などと名のるもおこがましい」と言われて「マイコン坊や」と馬鹿にされておったのである。
そんな中でコンピュータのプログラマを目指したおれらというのは変わり者でしかなかったが、いつの間にか、かつての大型機世代やミニコン世代と肩を並べて大規模システムの開発なんぞをやっていた。なんでかっちゅーと、分散ネットワークなんちゅー話は昔は存在しなかったから、現在主流の技法なんぞはわしらの領分だからだ。ともあれ現在のように「とにかくインターネットだとかITだとか言っとれば商売になる」みたいな世の中は行き過ぎだと思うが。
> 「落ちこぼれ」ながら人生を健康に過ごせたかもしれない子が、リタリン中毒。
> なのにLDを障害として認定した医者たちは学士先生。
「子どもたちは落ちこぼれているのではなく、“落ちこぼされて”いるのだ」と遠山啓先生が言ったのは三十年以上も昔の話である。
“drop-out(落ちこぼれ)”ではなく“brow-out(吹きこぼれ)”と云われたナード(computer nurd)ども(スティーブ・ウォズニアックやリチャード・ストールマン)がカリスマ・プログラマーとして名を馳せたのがすでに二十年以上前。
日本でも『TRONプロジェクト』や『新世代コンピュータ技術開発機構(第五世代コンピュータ・プロジェクト)』が発足した時代はすでに二十年も昔である。
社会が盲目的主体であった時代はすでに終わっているのだ、とおれは思っている。エリートにも落ちこぼれにも、そこそこ平等に世の中を動かす力は備わっておるのだ。ただ、そうなると実力のない奴には自我を支えるものがなくなってしまう。昔のように天下りに与えられる価値のようなものがないからだ。
そんなわけで、他人の足を引っ張ることで自分を確認することしかできない馬鹿が増えた。困ったことである。で、こいつらがありもせん秩序だとか権威だとかを持ちだして自分を正当化するので、「世の中を動かしている、逆らいがたい大きな力」みたいなものがあるような勘違いをしてしまう奴が出てくるのだ。
世の中を動かしているのも個人ならそれを邪魔するのも個人である。世の中はけっこう個人の力で変えられる。そこそこの才能とそこそこの運とそこそこの要領のよさがあれば、けっこう世の中なんとかなる。
> 早発性痴呆が、精神分裂病と改められたころ「(今でいう)神経症」の青年が青春期の悩みで病院を訪れたとき「分裂病」と診断されて、後の人生を投げうち無為にすごしたという。
> 精神医療や脳神経医療の歴史は、失敗の連続につぐ模索。
> そのことをもう一度考えてみてくれないかなって、思う。
誰とは言わんが第五世代コンピュータ・プロジェクトの参加メンバーの一人は精神病院で論文を書いておったそうな。なかなか居心地はよかったらしい。「ついでに嫁さんも捉まえた」というので「看護婦か?」と訊いたら「いや、患者だ」と言っておった。
昨今は精神病院も精神医療も様変わりしておる。まあ、体質が古いところもあるだろうが、そういうところは避けることだ。
> 俺は同居人には、仕事や生活に支障がないかぎり診断は受けさせたくない。
> なぜなら、不器用でもなんとかやっていけるなら在るがままでいいと思うから。
> 競争についていけなくても、障害者になる必要はないと思う。
> ついていけなくても、それはそれでいいと言っている。
「仕事や生活に支障がない」という場合、「外から見れば正常そのものだが、本人はめちゃめちゃしんどい」というケースを含むのかどうか。
仕事や生活に支障がある、はっきり言って「ずっこけた」生活をしとらんとしんどくてしゃーないというわしらみたいな人間がおって、そういう人間にも仕事が勤まる職場というのが世の中にはあり、ソフトウェア開発の現場っちゅーのはそういうところだった、というのでわしらはこうして生きている。九時五時で仕事をしろだの背広ネクタイで出てこいだの酒を飲むなだの言われたらわしらは生きてゆけない。「診断」というのはある意味「ずっこけてるのはしかたがないのだ」という御墨付きである。電算業界の人間がことさらにおたくっぽい風情を演出するというのも、「世間の規範(コード)っちゅーものに煩わされたくないから、こういう業界にいるのだ」というアピールである。ミュージシャンが反社会的なポーズを取るのも(あまりスポンサーに迎合してもいいことはない)、『暮しの手帖』の花森安治さんがスカートを履いていたというのも、「好きにやらしといてんか」というメッセージなのである。
「わしらは競争に追い立てられたくないのだ」と言っても、世の中はなかなか通らない。「わしらは別の競争をしておるのだ」というのなら、いくらか大目に見てもらえる。とはいえそれには「落ちこぼれ」の立場から脱することが必要になってくる。
「落ちこぼれ」が「わしらは競争なんかしたくないのだ」と言っとると、いろいろ意地悪をする奴がおるのだ。そういう連中を追い払うためには、「診断」が有効なこともある。
身障者手帖を持っていれば、電車の中でも坐っていられる。たとえ具合が悪くても、「そうは見えない。だったら立つべきだ」とかいった訳のわからんことを言う奴がおる。身障者手帖を持っているから具合が悪くなくても堂々と坐る、とかいう訳ではないが、「身障者手帖を持っていなければ、本当に具合が悪くてもなかなかゆっくり坐らせていてもらえない」現実というものがある。
そういうことだ。
(Mr.Moto)
シュッツさん wrote:
>現在の診断基準は外面的なものであるため、障害となるかどうかの境界があいまいであると思います。
>そのために、どのような障害であるかが分かりにくくなっているのでしょう。
>
>そこで、神経や遺伝子といった、実在のものによって定義することができれば、障害の正体が分かりやすくなると考えます。
>だから私は、その分野で障害が解明されることを望みます。
わたしが漠然と考えていたことを、端的に分かりやすく書いてくださって、うれしいです。わたしも、シュッツさんと同じように望みます。
名無しさん wrote:
>俺は同居人には、仕事や生活に支障がないかぎり診断は受けさせたくない。
>なぜなら、不器用でもなんとかやっていけるなら在るがままでいいと思うから。
>競争についていけなくても、障害者になる必要はないと思う。
>ついていけなくても、それはそれでいいと言っている。
う〜む。全体を見て思ったこと。障害者でありたいと願うことと治療を受け
たいと願うことは別の次元の問題なんですよね。少し同居人の考えを細かく確
認しておいた方がいいのではないでしょうか?わたしはASの診断を受けてい
ますが、一切の薬物治療はやっていません。でも、健常者だと言われるのはイ
ヤなので、障害者という立場を維持しています。
また、あるがままというのはちょっと難しい言葉です。名無しさんのニュア
ンスとしては「障害者というレッテルを貼らないこと」という意味なのだと思
いますが、ニーチェという哲学者のニュアンスでは「自分の障害をあるがまま
に受け入れること」という意味になります。わたしは後者の立場を取っていま
す。
障害を否定された障害者は自分の障害を受容できなくなり、却って他人と対
等の立場になることができなくなる場合があります。この掲示板に来ている障
害者の多くの悲劇も、障害者のレッテルを貼られたことにあるのではなく、障
害を認められないまま生きてきたことにあります。
で、同居人の件ですが、診断を受けたがっているというのは、ある意味では
障害をあるがままに受け入れる心の準備が整ったのだと言う事ができます。こ
こは名無しさんがこの掲示板でコメントしていたように、それこそ放っておい
てやった方がいいのではないでしょうか?
名無しさん wrote:
>鬱の相手との距離感って難しいから、こうしたネットでは放置かせいぜい一
>般的に鬱の人にかける言葉(鬱のときは重大な決断をするなとか、休息をと
>れとか)をかけるくらいが、相手にも自分にもリスクが少ない気がするんで
>す。
わたしは鬱の人にかける言葉をかけましたが、別に自分のリスクをさける
ためにそうした訳ではありませんよ。相手のリスクにはならないような配慮
はしましたけど。kakoさんのコメントにレスをつける時は、ひどく葛藤
しました。「放っておいた方がよい(見捨てることは違う)」という言説は
以前からわたしも聞かされていましたからね。しかも、わたし自身が「深刻
に悩んでいる時はただ放っておいてほしい。」という感覚の持ち主です。状
況が状況だけに、自分が望まないことを他人に対して行なっていいものかど
うかひどく悩みました。さらにこの場合は蛮勇を振るって積極的に自殺を阻
止した方がいいのではないか、という考えも頭をもたげました。じっさい、
秘密結社AのMLに参加している人ならば、メール・アドレスが分かる訳で
、自殺のサインを出している人がいるということをプロバイダーなりに通報
して連絡をしてもらうという選択肢もあった訳です。けっきょく、鬱の人に
かける言葉をかけると言う選択肢を選んだのは、kakoさんが落ち着いた
環境でいられるということを最優先したためです。
他人とは自分が思い通りにすることができないし、また思い通りにしては
ならない存在です。他人に対して働きかけをする時は、いつも葛藤していま
す。
(続き)それは、お医者さん先生方なんじゃないかってこと。
早発性痴呆が、精神分裂病と改められたころ「(今でいう)神経症」の青年が青春期の悩みで病院を訪れたとき「分裂病」と診断されて、後の人生を投げうち無為にすごしたという。
精神医療や脳神経医療の歴史は、失敗の連続につぐ模索。
そのことをもう一度考えてみてくれないかなって、思う。
俺は同居人には、仕事や生活に支障がないかぎり診断は受けさせたくない。
なぜなら、不器用でもなんとかやっていけるなら在るがままでいいと思うから。
競争についていけなくても、障害者になる必要はないと思う。
ついていけなくても、それはそれでいいと言っている。
シュッツ wrote:
>自分個人の中でどう受け止めているかといことなら、4「脳の機能障害」または似てるけど「遺伝子の障害(遺伝的障害ではない)」、これは7になるのかな。
>理由は、理解しやすいから、それと私の興味の対象である「自閉症(AS、ADHD)とは何か?」という課題に結び付けやすいから。
理由を追加します。
現在の診断基準は外面的なものであるため、障害となるかどうかの境界があいまいであると思います。
そのために、どのような障害であるかが分かりにくくなっているのでしょう。
そこで、神経や遺伝子といった、実在のものによって定義することができれば、障害の正体が分かりやすくなると考えます。
だから私は、その分野で障害が解明されることを望みます。
最初に謝っとく。発達障害のことには全くの門外漢でゴメン。
ただ同居人が診断を受けたがっているんで、彼女を通して感じたこと・俺なりに発達障害の本を読んで感じた懸念をカキコさせてほしい。
あくまでも無知の門外漢の言うことだから、こういう見方も健常者の中にはあるんだよってとこで。
だんだん世間が競争社会になっていってるよね。そういうなかで、昔だったらたいして問題にならなかったちょっとした不器用さが、落ちこぼれ→学習障害LDと言われるようになった気がするんだ。
でも、それって障害にくくっていいのかな?
障害児になることで、無理な努力を課せられないメリットはあるかもしれないけど、その努力って学歴中心主義の社会じゃなかったら、もともとしなくていい努力でしょ? 世の中が進みすぎているから、遅れてみえるだけ。
なのに、LDのコは障害として扱われて薬飲まされる。
リタリンが効くっていうけど、そんなの当たり前じゃん。覚醒剤だもん。
そして、今 アメリカじゃLD児がリタリン中毒になってる。
成人の間でもリタリン中毒は社会問題になってる。
なのに、LDの診断や治療で荒稼ぎした精神科医達はいまだ診断を求める親から搾取しているという。
「落ちこぼれ」ながら人生を健康に過ごせたかもしれない子が、リタリン中毒。
なのにLDを障害として認定した医者たちは学士先生。
これとおんなじことが将来、このままじゃ日本でも起きるんじゃないかって懸念ね。
今 競争社会で「不器用」や「人嫌い」や「他人についていけない」程度の事がすごくのしかかってくるようになったよね。その不安につけいって、新しい障害(ASとかADHDとか)をつくりだすことで、利益があるのは本当は誰なのかってこと・・(続く)
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami