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Re: 診断について 12392へのコメント
No.12393  Fri, 10 May 2002 21:02:19 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

てらば wrote:
>私はどうしてもきちんとした診断名がほしいのです。
>
>そこで、診断を受けた皆さんはどこの病院でどのようにしてASや高機能自閉症
>と診断されたのか、また費用や検査の内容について、診断後の療育
>について詳しく教えてください。お願いします。

 まず次のことを理解しておく必要があります。
自閉症の障害には、一次的なものと二次的なものがあります。一時的な障害とは、感覚の過敏性・著しい不器用・コミュニケーションの困難さなどで、二次的な障害は、うつ状態・ノイローゼ・不安障害・自傷などです。
 一時的な障害というのは、その人が生まれつき持っているウィーク・ポイントということで、治すのは『消す』というよりはむしろ『目立たなくさせる』という感じで、そのためには、回りの環境をその人に合うようなものに調整するということです。こちらのほうには、そんなに精神科の先生というものは介入できず、カウンセラーやソーシャルワーカ・作業療法士が受け持つということになっています。
 二次障害は内容を見ればわかるとおり、精神科の治療の領域で、緩和の目的でしばしば薬物による治療が行われます。

というわけで、診療の流れというのはだいたい次のようになっています。

初診⇒検査(問診・IQ)⇒検査結果発表⇒カウンセリング・投薬治療⇒手帳・デイケアなどの紹介⇒定期的な経過の観察

私が現在通っているYPDCの場合は、検査で5万円・カウンセリングは一回につき1万円とかなり高いです。これは保険外診療の扱いになるためです。しかしそのぶんより詳しい私の状態の把握に努めてくださり、また地元(埼玉県内)の保健所や障害福祉課にも、それをフィードバックしてくれたのが良かったです。


診断について
No.12392  Fri, 10 May 2002 18:39:02 +0900  てらば [この発言にコメントする]

私はどうしてもきちんとした診断名がほしいのです。

そこで、診断を受けた皆さんはどこの病院でどのようにしてASや高機能自閉症
と診断されたのか、また費用や検査の内容について、診断後の療育
について詳しく教えてください。お願いします。


「わかる」という言葉の漢字の表記の使い分けは?
No.12391  Fri, 10 May 2002 17:00:45 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

僕は最近疑問に思っていることがあります。
「わかる」という言葉の漢字の表記には、

「分かる」「解かる」「判る」

の3通りがあるのですが、これらはどのように使い分けたら良いのでしょうか?

自分としては、

「分かる」は、「分別がつく」ということに関連していて、社会のことわりが見えること。

「解かる」は、「理解する」ということに関連していて、勉強をして物事を覚えたこと。

「判る」は、「判断・判明」に関連していて、物事が混沌の中から浮かび上がって、それと断定できること。

という感じだと思いますが、これで良いのか何か釈然としません。


Dルームの感想
No.12390  Fri, 10 May 2002 16:20:40 +0900  くじら雲 [この発言にコメントする]

 あさかぜさんが何か思うとことがあれば、と書いてくださったので。
 Dルームのような所は、増えてきているのでしょうか。
 校長先生や市町村県教育委員会が納得するようなやりとりがあったのですね。
 子どもをはじめて就学させる保護者の方がけんか腰でなくねばり強く学校側と 交渉するのは大変かもしれませんが。いいお話をありがとうございました。


Re: Dルーム 12384へのコメント
No.12389  Fri, 10 May 2002 15:23:05 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 わたしの個人的な意見。AS児教育は以下のような目標をいかに実現
するかを考えていけばいいと考えています。

(1)本人が障害を自覚し向き合えるようになるための教育
(2)自己評価が下がらないような配慮

 この2つさえ、満たせていればAS児に対して、極端な特殊教育を行
なう必要はないでしょう。後は本人が失敗や試行錯誤を繰り返しながら
、自分の力で発達していけると思います。

 ただし、現状はAS児が誤解されたり、いじめや虐待に遭う機会が多
く、自己評価が低くなるため、失敗や試行錯誤を繰り返すだけの心的な
余裕がありません。そんな訳でわたしは不適応をおこしているAS児を
あれこれいじくり回すのはほどほどにして、本人が発達しやすい環境を
調整することが最も重要だと思っています。

 発達は最終的にはAS児本人の力で行なわれていくべきものです。


Re: 恋愛関係の解消 12381へのコメント
No.12388  Fri, 10 May 2002 15:08:19 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

まろんすさん wrote:

> 普通の人はそれを「別れた」とか言いますよね?

 完全に分かれてしまう訳ではないのです。今後も発達障害者の
自主活動などで、協力することはあると思われます。

>> すばらしきかな、人生。
> で、普通の人は落ち込むよね。

 わたしはあまりそういう配慮をしたことがなかったんですけど
、多くの場合、恋人のいる人間には周囲の人間は遠慮をして接す
るみたいです。で、今回の恋愛解消によって、ひとまずそういう
配慮をしなくてもよくなりましたよ、ということを告知するのが
今回のコメントの目的だったのです。説明不足ですみません。


ASかもしれません
No.12385  Fri, 10 May 2002 14:16:55 +0900  まるる [この発言にコメントする]

こんにちは、はじめて書き込みさせて頂きます。宜しくお願いします。
実は現在20代後半の私の従兄弟のことなのですが、ASではないかと思うのです。
専門家ではないのではっきりとは云えませんが、おこがましいとは思いながら何とか力になれないものかと思っています。
ちなみに私の息子(7歳)はPDDなのですが、言語性IQ<非言語性IQという自閉症児の典型で非常にお喋りですがASではありません(多分)。
その息子と彼が非常によく似ているのです。
彼は普通高校に入学し、留学も経験し、普通に就職もしたそうですが、何故か数ヶ月後に解雇されてしまいました。それから現在に至るわけですが、何年間も毎日ただ自分の部屋で過ごしているようです。ネット環境でもあれば気晴らしにもなるかと思うのですが・・・
彼がASだと思う理由です。
●叔母の話では幼児期はとてもおとなしい子だったとのこと
●学童期には駅の名前を全て暗記していた
●5時に雨戸を閉めることを教えると、夏の明るい時であろうが毎日欠かさず実行した
●「おかあさんいる?」と電話をかけると「いません」と言って電話をきってしまう
●街中で親戚に会っても視界にはいっていないのか無視して通り過ぎてしまう
●高校時代の同級生によると、とにかくかわっていたとのこと
●現在は親戚中の生年月日を記憶している
●子供の声(高い声?)を聞くと耳をふさいで違う場所へ行ってしまう
そして先日祖母の葬式の時、何年ぶりかで彼に会いました。
一所懸命会話をしてくれようとするのですが、とにかくかみ合わないんです。
視線はあわないし、笑いのツボがはずれているんです。
叔母も彼が小さい時に色々な病院を回ったそうです。
でもどこも悪くなかったのよ、と云っています。

こちらは当事者の方がたくさんおられるようなので、失礼かとは思いましたがお知恵がありましたら拝借させてください。
それともそっとしておいてあげる方がよいのでしょうか?


Re: Dルーム 12374へのコメント
No.12384  Fri, 10 May 2002 10:49:20 +0900  ひま人 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>ひま人 wrote:
>>>ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別
>であるが)
>
>いえDルームに子供をほっぽってしまうことも、かといって強制的に勉強をやらせることも、根本的な解決にはなりません。
> AS児には通常の子供に比べると、何十倍ものやらなくてはならないことがあります。例えば『感情の処理法』『思考力の強化』『ソーシャル・スキルの訓練』・『先駆的な作業指導』など、今日は学校では教わる機会のないものも、その中には含まれています。しかし強制的に覚えさせようとしても、かえって塞ぎこみなど望ましくない結果がでる恐れがあります。

こうした課題に、AS児が興味を示し、自主的に学習するようになるでしょうか?

そのためには、『満遍なく』と『無理なく』という相反する概念の両立が不可欠なのです。AS児の教育、これはもはや専門家のみ・教師のみが個別にやっていては、らちがあかないものなのです。
> 今一番求められているのは、TEACCHに見られるような子供・保護者⇒専門家⇒教師というようなネットワークであろうと思います。私たちは最適なこの活動のオブザーバーであるといえます。なぜなら最も客観的な視点から、事の推移を見ることが可能だからです。既存の教育方法を無理矢理子供に押し付けるのではなく、このネットワークを利用して得られた、様々な知見をもとに建設的な方向へ刷新すれば良いのです。

僕はTEACCHというのがどんなものなのか知りません。これについては言及しません。
関係者のネットワーク云々や、その続きの説明も抽象的でイメージが沸きませんが。
強制的ではない方法で教育できるのなら、それも良いでしょう。本人が退屈さだるさ不快感を感じずに能力が向上できるのなら、これも言うことなしでしょう。

が、、そんなにうまく事が運ぶでしょうか?


Re: Dルーム 12371へのコメント
No.12383  Fri, 10 May 2002 10:13:52 +0900  Mr.Moto [この発言にコメントする]

ひま人さん wrote:
> 結局教育というものは、医療行為のようなものにすぎないのである。それ自体おもしろくも楽しくもないが、やらないよりかはやったほうがましだから、やむをえず我慢して消化していくものなのである。

 欧米では子どもというのは野獣のようなもので、教育し秩序を叩きこむことで文明人となるという考え方が支配的だった。
 日本では子どもは人間本来のありかたに近いものだと考える自然主義的な考え方が主流である。
 どっちも極端に走るとまずいが、総じて後者のほうが正しい見解のように思う。創造的な人間は(もちろんいい意味でだが)子どもっぽく見える。

> すでに述べたように、学校を子どもにとって楽しめる場所にしようというのは、病院や医療行為を、患者にとって楽しくおもしろく快いものにしようというようなもので、しょせん無理があります。しかしこのことは、AS児が楽しみを見つけたり人生をより楽に過ごし、感動のあるものにしようとすることを否定するものではないでしょう。

 毎度毎度同じことばっか言うとって申し訳ないのだが、マズローの「欲求の段階説」つーものがあって、人間は基本的(動物的)欲求が満たされると“よりよく”生きようとするものなのである。子どもなんていうのは放っといてもなんとか生きてゆける程度の智恵はつくのだが、もっと「よい」生き方を求めて学校にやってくるのである。戦禍のカンボジアや飢餓のインドや疫病のアフリカでも、子どもは「学校に行って勉強をする」ことを求めていた。
 これに対して昔の親(あるいは苛酷な生活のなかにあった親)は「普通の」生き方で十分、と考えていたので、「××に学問はいらない」とか言って子どもを学校に通わせるより仕事をさせようとした。義務教育はこれを禁じたものである。
 「学校に行きたがらない子どもをむりやりにでも学校に通わせる」ための法律はなく、「学校に行きたがる子どもをむりやりにでも学校に通わせないことを禁じる」法律がある。子どもがどっちを欲しているかは明らかである。

> とくに最近、こういった「子どもの好きなようにさせる」とか「子どもの立場を尊重する」といった考えで教育しようとする親御さんが増えているように感じる。だがこれは無責任ではないか。たとえば、すべて子どもの好みに合わせてカリキュラムを組むのなら、毎日毎日来る日も来る日も朝から晩までゲームや遊び、おしゃべりなどをするのがたいていの子どもにとって一番楽しいことになるだろう。それはそれで結構かもしれないが、もしもこうした方針で幼児期から育てていけば、文字も読めず、計算もできず九九も分からず、といった子どもが大量に出現するようになるのではないか。自分で自主的に勉強に取り組む子どもなど、小数の例外を除いているものではない。

 これは因果関係が逆だとおれは思っている。教育側が子どものニーズをはき違えているから、子どもは勉強が嫌いになるのだ。子どもは学校に、「学校にあって学校以外にはないもの」を求めてやって来ているのである。ゲームをしたいならゲームセンターに行くのだ。学校はゲームセンターでもなければ遊園地でもない。学校はあえて言うなら「学問のテーマパーク」なのだ。
 勉強においてなにがいちばん面白いかというと、それは「わかる」ということなのだ。「とことんわかりやすい」授業は間違いなく面白い。反面、鬱陶しい背景に小煩いキャラクターがちょろちょろするような教育ソフトなんぞは何を考えているかさっぱりわからん。

> これは障害児をもつ親御さんに共通するように感じる。のみならず、障害児本人も、普通学級へ通うことを望むことが多いらしい。友達がたくさん欲しいからでしょうか?
> これは、親御さんにとってみればそういう心情が出てくるのはある程度やむを得ないのではないでしょうか。「あそこのお子さんは、特殊学級へ通っているらしいよ」などと陰口をたたかれるのは、あまり嬉しくはないでしょう。

 おれの立場は「英才教育は特殊教育の一種である」だ。オーダーメイドあるいはカスタムメイドの教育が不可能であるならば、どうしたってマスプロダクション的な画一教育にならざるを得ない。これは確かに教育の質の均質化には貢献したが、教育を受ける側の資質にばらつきがある以上、取りこぼしが出るのは当然なのである。そこを補うのが「特殊教育」だ、とおれは考えている。どっちがいいとか悪いとかいったものではあるまい。
 じっさい、女子体操選手やバイオリニストというのは、あれはあれで可哀相な気がするので、能力というのはあるにせよないにせよ苦労の多いものだなぁ、と思う。

>> Dルームのような存在は、これから重要になってくるだろうと思われる。人数割りで教師数が決められる特殊学級とは、またちがうのである。「学校へ行ったら、勉強でしょ!」と思っている親御さんには、物足りないかもしれない。が、「教育に特別なニーズを必要とする子どもたち」にとっては、ありがたい場所だと、わたしは思う。
>> 教科学習だけが勉強のすべてだとは、思わないからである。
>↑
> その言い回しは、事実性としては間違っていないが、じっさいにはその背後に現実逃避の心情が紛れ込んではいないだろうか?

 ↑「とりあえず学校の成績が良ければ」「とりあえず素行が良ければ」とかいって「普通の子ども」像を子どもに押しつけ、その結果子どもの才能を潰してしまう親というのも多分に現実逃避をしていたりするのだ。

 たしかマイケル・ファラデーがサロンで電磁気の実験をしてみせたときに、あるご婦人が「それは大変に興味ぶこうございましたが、いったい何の役に立つのですか?」と質問されたそうだ。ファラデーは「歩き始めたばかりの赤ん坊に仕事をさせようとする人間がおりましょうか?」と答えたそうである。

 才能なんぞというものは、とりあえず伸ばしてみなけりゃ何の役に立つかはわからんのである。才能に対するニーズが後から追いかけるように出てくる場合もある。おれなんぞもマイクロプロセッサの発明とパーソナルコンピュータの急速な普及というのがあったからまっとうに社会人していられたので、それがなければ社会不適格者だ。

> そのうち、おやつを買ってきてほしいなどと言うようになるのではないか。

 綿菓子やカルメラ焼は作ってみると面白いぞ。パンや煎餅なんかも自分で作ってみるといろいろ発見がある。

> ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。

 ASの人間は他人には無意味に見える作業に没頭し、受容よりも理解が先行し、苦痛に対して鈍感に見えると云われておるらしい。
 行為の先にある結果をはっきり理解している人間は、努力を努力と思わん。「強制」に頼る教育は、それ自体反・教育的である。

> もしも本人がやりたくて楽しいと思うことだけを自由にやらせる学校というのがあるとしたら、それは教育機関ではなくてレジャーランドに近い。それでもかまわないと考える親御さんもいるのかもしれないし、それもひとつの立場ではある。しかしそれは同時に、本人の能力学力、現実適応能力、対人能力、社会的能力等の向上の可能性を放棄(あるいは断念)しているに等しいということを肝に命じるべきであろう。

 すでに述べたが、おれは教育機関というものを「学問のテーマパーク」だと思っている。で、学問というのは基本的に「一度だけの楽しみ」なのだ。同じことを二度学ぶということはない。そこに発見がないからだ(海馬かなんかが壊れてて記憶障害でもあれば別だが)。そんなわけで、新しいもの、より高度なものを求めるのである。
 テーマパークの中で、「順番を守って並ぶ」とかいった対人能力・社会的能力が身につくという部分もある。悪いことではあるまい。

> 論点を整理しましょう。AS児が学校や普通学級がおもしろくないということの背後には、ふたつの問題が潜んでいると解釈するのです。ひとつはすでに述べたように、AS児の能力向上のためには、普通学級のシステムは適していないということ。もうひとつは、AS児が本当に楽しめる時空間が存在しないということ。これは学校教育の問題を超えた問題でしょう。

 ↑これってAS児特有の問題なのか? 普通学級のシステムというのは健常児にとっての理想的学習環境なのか? そもそも学校は子どもに対して「わかる」という楽しみをきちんと提供しているのか? 「学校に行くより塾に行ったほうが楽しい」という子どもが少なからずいることをどう説明するのか?

> とりあえずここでは、両者を二元化して考えましょう。そもそも子どもは教育されるためだけに生きているわけではありません。いちばん大切な、本人にとって楽しいと感じる場所、状況に、教育的観点を介入させないこと。いわば、ジュースに青汁を混ぜるようなことをしないこと。
> そしてそのようなたいせつな領域は、学校教育とは別の時空間に作るべきでしょう。

 「楽しいこと/気持いいこと」=「悪」ではない。ジュースがうまくて青汁がマズいという決めつけだって相当に貧困な発想である。渋茶が好きな子どもやジュースより(砂糖の入っていない)麦茶が好きな子どもは珍しくないし、胡瓜やトマトを丸齧りするのが好きな子どもも大勢いる。畑から抜いた大根を水で洗ってバリバリ食うのもなかなかのもので、小学生が喜んでやっておった。

 「わかる神様」「授業の達人」である遠山啓さんのことだから割引いて考えなければならないが、授業のあとで遠山さんが「これは勉強か、遊びか」と子どもに質問したら、「面白かったから遊びだ」と答えたという有名なエピソードがある。「できる」ということは楽しく、「わかる」ということは面白いのだ。

 おれは「わかる」ことにこだわりたい。

 (Mr.Moto)


Re: 恋愛関係の解消 12381へのコメント
No.12382  Fri, 10 May 2002 09:55:01 +0900  Rosamonde [この発言にコメントする]

まろんす wrote:
>こうもり さんへ
>
>>恋愛関係解消という運び
>>になりました。
> 普通の人はそれを「別れた」とか言いますよね?
 
私は終わっちゃいました」又は「やっちゃいました」と言うんだけどね。

>> すばらしきかな、人生。
> で、普通の人は落ち込むよね。

私の場合は落ち込むんだけど、落ち込む理由は「やはり私は“普通”になれなかった、“普通”の人ではなかったんだ」と言う理由です。
恋愛したら“普通”の人でいられる発想自体変わっているのだと言われています。

> やはりAS系は感じ方が違うのね。

私も感じ方については他の人とは相当違います。親も「嫁に行け」とは一切言わないんです。
私より先に「娘は相当変わっているから余程の物好きでないと絶対嫁には行けない」と言ってるのだから。
私は究極のエミューだと思っていますから。


Re: 恋愛関係の解消 12377へのコメント
No.12381  Fri, 10 May 2002 09:40:38 +0900  まろんす [この発言にコメントする]

こうもり さんへ

>恋愛関係解消という運び
>になりました。
 普通の人はそれを「別れた」とか言いますよね?

> すばらしきかな、人生。
 で、普通の人は落ち込むよね。

 やはりAS系は感じ方が違うのね。
でも、恋愛が終わっても落ちこむよりは
前向きでいいですね。


恋愛関係の解消
No.12377  Fri, 10 May 2002 01:48:13 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 今日、つきあっていた女性と話し合って、恋愛関係解消という運び
になりました。どちらに非がある訳でもないし、お互い好意を持った
ままなのですが、こういう事ってあるんですね。ふう…

 でも短い間だったけど、素敵な経験ができてうれしかったです。そ
の女性に心から感謝したいと思います。

 すばらしきかな、人生。


Re: Dルーム 12371へのコメント
No.12374  Thu, 9 May 2002 23:26:38 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

ひま人 wrote:
>>ただ、AS向けの指導の専門家が、本人がいやがることも強制的にやらせるというシステムのなかで指導していくというものが本当は望ましい。普通学級がASに適さないからDルームに移籍するというのも、それが現実逃避になってはならず、ちょうど医療行為というものが、いかに患者に苦痛と負担を与えずに治療成績を上げるかということが重要であるように、AS児への負担をどこまで少なくして、かつどれだけ能力を向上させることができるかというのが、専門家の力量である。つまりポイントは、どうせ通わせるなら、本人の負担と能力向上との比率で比較した場合、そのDルームのほうがましだと判断できるならそちらに通わせるべきであるる。本人にとってどちらに通うほうが楽しいのかということだけを判断材料にするのは無責任である。(いじめられていてやむを得ず不登校にさせるというのなら別
であるが)

いえDルームに子供をほっぽってしまうことも、かといって強制的に勉強をやらせることも、根本的な解決にはなりません。
 AS児には通常の子供に比べると、何十倍ものやらなくてはならないことがあります。例えば『感情の処理法』『思考力の強化』『ソーシャル・スキルの訓練』・『先駆的な作業指導』など、今日は学校では教わる機会のないものも、その中には含まれています。しかし強制的に覚えさせようとしても、かえって塞ぎこみなど望ましくない結果がでる恐れがあります。そのためには、『満遍なく』と『無理なく』という相反する概念の両立が不可欠なのです。AS児の教育、これはもはや専門家のみ・教師のみが個別にやっていては、らちがあかないものなのです。
 今一番求められているのは、TEACCHに見られるような子供・保護者⇒専門家⇒教師というようなネットワークであろうと思います。私たちは最適なこの活動のオブザーバーであるといえます。なぜなら最も客観的な視点から、事の推移を見ることが可能だからです。既存の教育方法を無理矢理子供に押し付けるのではなく、このネットワークを利用して得られた、様々な知見をもとに建設的な方向へ刷新すれば良いのです。

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