アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
ぴょん子とトン君のデートのお話です。
ぴょん子はニンジンが嫌いです。
トン君はぴょん子がニンジン大好きだと思っています。
ぴょん子とトン君はいつも公園でデートをします。
公園に行くとトン君がニンジンを持って待っていました。
トン・「プレゼントだよ。」
ぴょん「ニンジンは嫌いなの。」
ぴょん子は怒って帰りました。
トン君は明日はキャベツにしようと思いました。
明日がきました。
トン・「プレゼントだよ。」
ぴょん「・・・ありがとう。」
昨日よりも大きなニンジンでした。。。
ぼたんさん wrote:
>ぼたんと言います。
>皆さんにお聞きしたいのですが。
>ASの診断名を、皆さんはどのように受け止めてこられたのでしょう?
>私は、ASの診断名を受けてから半年になります。
>やっと診断名が出た、ということと、自分は大げさに感覚を言っているの
>では、という二つの思いに日々、揺らいでいます。
>皆さんの、「気持ちの経過」のようなものを少しでも聞かせていただけた
>らと、思っています。
去年の11月にASの診断を受けました。こうもりです。まず、診断を
受けた直後ですが、やっと自分の障害者としての所属が決まったことがと
てもうれしかったです。その気持ちは今も変わりません。
「大げさなのでは」という感覚は全く持っていませんでした。病院でも
「子供の頃の話を聞いているとけっこう重度だったような印象を受ける」
と言われていたし、母親あたりは「(幼少時は)言葉の発達がかなりおか
しかったので、高機能自閉症か非定型自閉症と言われた方がしっくり来る
」という感想を漏らしていたぐらいでした。また、幼少時より様々な病院
や相談機関を転々としており(たらい回しになったとも言う)、障害を身
近に感じることができていたことも大きかったと思います。
で、ぼたんさんが抱える問題というのは特に大人になってから診断を受
けた自覚的な発達障害者に多く見られるような気がしてなりません。大人
になるまで未診断だった発達障害者の多くは、ある所では異常扱いされ、
ある所では普通扱いされると言った一貫性のない状況に置かれたまま大人
になってきました。このために誰がどうみても障害者と認めてもらえるよ
うな自覚的障害者に比べると、障害者としての精神的基盤とか自己意識が
不安定になってしまっているようにも思われます。障害を知らないまま発
達をしてきたために、障害者特有の発達課題(大きく言えば障害者として
の自我の確立)が積み残されたままになっていると言いかえることも可能
でしょう。
つかれているためちょっとまとまりが悪いコメントになっています。ご
容赦を。
ぼたん wrote:
>ぼたんと言います。
>皆さんにお聞きしたいのですが。
>ASの診断名を、皆さんはどのように受け止めてこられたのでしょう?
>私は、ASの診断名を受けてから半年になります。
>やっと診断名が出た、ということと、自分は大げさに感覚を言っているのでは、という二つの思いに日々、揺らいでいます。
>皆さんの、「気持ちの経過」のようなものを少しでも聞かせていただけたらと、思っています。
ぼたんさん、こんばんは。私はまだ検査中で結果が出ていないのでなんとも言えませんが、ぼたんさんの「やっと診断名が出た」っていう気持ちはなんとなく解るような気がします。私も自分の悩みがどこからきてるものなのかはっきり知りたいです。それと、(医者も含め)周りの人に自分を理解してもらいたいという気持ちがあります。関係ないですが、今日病院で『WAIS』という知能検査をしてきました。パズルとか、絵の関連性を見て並べ替えるヤツとか、「えへへ。なんか楽し〜」って思いながらやってきました。「子供の頃こういうのやったな〜」とか、「こういう毎日だったら楽しいな〜」とか、馬鹿なことを考えながらやってました(^^; ← 幼稚度70%
ぼたん wrote:
>ぼたんと言います。
>皆さんにお聞きしたいのですが。
>ASの診断名を、皆さんはどのように受け止めてこられたのでしょう?
>私は、ASの診断名を受けてから半年になります。
>やっと診断名が出た、ということと、自分は大げさに感覚を言っているのでは、という二つの思いに日々、揺らいでいます。
>皆さんの、「気持ちの経過」のようなものを少しでも聞かせていただけたらと、思っています。
僕の場合、『ASの疑いあり』と言われて3年あまり、正式に診断がついてほぼ1年経っています。
やはり似たような気持ちの揺らぎを持っています。
というのもこれは僕だけでなく、恐らくみなさん全てそう感じているのでしょうが、『軽度発達障害というものは、{障害観}として、どんなふうな位置付けができるのか?』ということが不鮮明なものなのです。
私たちは、ぎこちなさがあるものの、言葉を駆使することができるし・自分の意志で体を動かせるので、車椅子に乗せられた、くにゃっとした脳性まひの子供よりは、確かにハッピイな存在ですし、『分裂病』ということで10年以上も精神病院に缶詰状態だった人から見れば、単なる『小心者・怠け者・ずるい人』の類にしか見えないのでしょう。
『健常の人』からは、『あなたは、普通じゃない…』と言われ、『知的障害の福祉関係者』からは、『あなたは、正常です』と言われます。
とどのつまり、現行の『身体・精神・知的』という障害分類のどれにも、我々は該当していないのです。
みくさん wrote:
>
>会話以外にもいろいろ問題がありますが、やっぱり根本は会話が出来ないことにあるんだと思います。(例えば仕事の場面で、自信がないことでも自分の判断でおかしな事をしてしまう、複数人で頼まれたことを自分ひとりだけ理解していない、自分の意見がない、ボキャブラリーが極端に少ない、漢字が思い出せない、人の名前を覚えることが出来ない、簡単な計算が出来ない(計算機に頼る)、、など後半の3つは昔は出来ていたので、うつ状態からくるものか、それともボケているのか、よく判りません。)それと、私は未だに『普通』になる事にこだわっています。だから初対面のときは普通に話せてます。自分の本性がばれていくと、一気にあきらめて『だんまり』になります。というより何を話していいのか分からなくなります。ところでRosamondeさんは“本当の自分”を持っているんですね。羨ましいです。私は“本当の自分”とはなんなのか探っていったら“空っぽの自分”に辿りつきました。だからこそ病名が付く事にこだわっているのかもしれません。あれ?そういえば極端なこだわりがある事も自閉症の診断事由でしたよね。こういう事も”こだわり”のうちに入るのかな?それともこれはノイローゼ?
↑このようなことは私にもあります。
「話が出来ないこと」自体は「緘黙」と言います。
初対面の人より、少し親しくなりかけた人の方が緊張するのは、「対人恐怖症」の典型的な症状です。
ただし、「二次障害」の話もあったように、緘黙自体は症状の名前でしかなく、根本的な原因は人により様々だと思います。
私は今はかなり話せるようになりましたが(それでも基本的に事務的な接し方しかできない)、学生の頃まではひどかったです。一日中口を利かないなんてのもザラでした。それが、発達障害が入っているのか、ただの場面緘黙症なのか、「知恵遅れ」の類なのか、今でも悩んでいます。
私の場合「暗黙の了解が苦手」という自覚があったので、そこに引っかかって、ほとんどその一点だけでここに来ています。
何が言いたいんだか、よくわからない文章になってしまいましたが、思ったことをいってみました。却って惑わせてしまったらすみません。あまり気にしないでください。
ぼたんさん wrote:
> 私は、ASの診断名を受けてから半年になります。
Helixさん wrote:
> 私は先日AS、ADDの診断が出ました。
キリコさん wrote:
> 診断を受けてからは3ヶ月だけど自己診断は1年半以上前。
『本書の著者の場合、近くに大人を診断できる機関がなく、正式の診断を受けるに至っていないとのことです。そのことを著書の中で堂々と説明してしまうのは、いえ、それ以前に、診断というお墨付きなしに本書を著すことは、「ニセモノ」呼ばわりされる危険と背中合わせであり、よほど勇気のいることだったのではないでしょうか。ASの知名度が上がるにつれて間違った自己診断も増えていることは事実なので、確かに微妙な問題ではあるのですが、彼女が勇気を持って自分の学んできた知恵を分かち与えてくれたのは、とてもありがたいことだと思います。訳者自身も教えられる点が多く、おおいに役に立ちましたから。』
− ニキ・リンコ、リアン・ホリデー・ウィリー著/ニキ・リンコ訳『アスペルガー的人生(Pritending to be Normal:Living with Asperger's Syndrome)』(東京書籍)の『訳者あとがき』より −
あたしなんか未診断なものだから肩身が狭くて(T_T)。診断受けて「あなたには自閉症のケはまったくありません」とか謂われたら身の置きどころがない……
それはさておき。
上記のリアン・ホリデー・ウィリー著/ニキ・リンコ訳『アスペルガー的人生(Pritending to be Normal:Living with Asperger's Syndrome)』(東京書籍)にもカムアウトについての助言がいろいろと記されているのですが、「自分がASであることを伝えておいたほうがいい人々」が、「ASについて理解があるか、またはASというものを理解することが可能」で、しかも「“この自分”がASであること」をきっちりと受けとめてくれるのなら、ASの診断を受けることには確かな意味があるのだけれど、自分自身の「受容」という点においては、むしろ「ASであること」というより「障害であること」のほうが重要であり、(癌なども含めた)「告知」の問題に近いんじゃないかなぁ、と思います。
あたしの場合は突発性拡張型心筋症という後天的(だと思う)障害を持っているのですが、その診断を受入れて身体障害者手帖の交付の請求手続きを行なうに際し、「障害者として生きる」ことに対するいささかの感慨があったりしました。それまで周囲に期待されることが多かったので、その責任から“降りる”という意味での安堵感があったというか。
とはいえ責任を押しつけられるのは障害者手帖を持つようになってからも、まったく変わらなかったのですがね(-_-X)。
そんなわけで、「診断を受容する」というのは、「周囲の人たちとの関係の変化を受容すること」と強くかかわっているように思います。
(Maria)
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