アスペルガーの館の掲示板(旧)

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精神科について
No.12959  Sun, 23 Jun 2002 21:31:20 +0900  チュウメイ [この発言にコメントする]

 3ヶ月前に、「アスペルガーでは?」と会社のメンタルヘルス担当医に言われてから、勧めもあって以前通っていた精神科に5年ぶりに通院を始めました。カルテはかろうじて残っていたようですが、以前と同じく、私の今の状況はいったいどういうものなのか全く説明がなされないまま、あっさりと抗不安剤を2種類(ミラドール、レキソタン)を処方されて現在に至っています。カウンセリングも以前に3年ほど続けてやっていましたが、特に状況が改善されず、止めてしまっています。担当医にも、アスペルガーの疑いありと言われたことは言ってあるのですが、それについては全く触れる様子もありません。もちろん検査なども行われませんでした。担当医にしてみれば、とりあえず毎日会社に行けてて(それがどんなに歯をくいしばったギリギリのことで、職場では絶えず不安にさいなまれて仕事が手についてない状態であっても)合間に遊んでるようなら異常なしと判断しているような気がしてなりません。しかし私のキャパとしては今かなりいっぱいいっぱいの状況なのでかなりつらいです。肩の力を抜いたら二度と会社に行けなくなりそうです。挙句の果てに「あまり考えすぎないほうがいいですよ」などと言う始末!不安でつぶれそうになって精神科に来る人間にそんなことを言っても、できることならとっくにそうしてます。自分の状況がアスペルガーからくるものなのか、それともただの嫌われ者の変人なのか分からず、毎日鬱々としています。病院を変えようかとも思っています。


Re: 訂正 12953へのコメント
No.12958  Sun, 23 Jun 2002 21:11:28 +0900  釈 [この発言にコメントする]

こうもりさん rote:
> 障害者手帳を取って福祉作業所で働くようになってからは、やたらとわた
>しに対していばりはじめ、こちらから意見をすると「俺は障害者なんだから
>仕方がない」とか「配慮を受けるのは障害者の特権だ」と言って意見を封じ
>てくるようになりました。さらに「俺は障害者なんだからああしてほしい、
>こうしてほしい」という要求があまりにも多くなってきたため、けっきょく
>関係が維持できなくなってしまいました。
 なるほど,病人だからではない話ですね。No.12934 の
>「弱者」観念の「特権」に立てこもる現象も起きてくるのである。
の見本ですね。そこまで屈折してしまった元ご友人が哀れですが,
こうもりさんの謙虚で磨かれた人格の,成立過程がわかるエピソードでした。


Re: 健常者の居ない明るい社会を作ろう!! 12938へのコメント
No.12957  Sun, 23 Jun 2002 20:32:02 +0900  ららら [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
>『健常者』の協力

私もこの表現はちょっと気になります。私達の障害の程度はいろいろですが、たとえば、私は人間関係は苦手ですが、ゆっくりしたテンポの仕事なら、できると思っています。私達の障害は、主に、協調できないことにあり、生きることに他の人の協力が必要な程度は他の健康な人と、同程度と思っています。あまり、自分を障害者という枠にはめない方が、いいかもしれませんね。私にとって、障害を自覚することは自分を理解することでした。


Re: 健常者の居ない明るい社会を作ろう!! 12955へのコメント
No.12956  Sun, 23 Jun 2002 19:52:18 +0900  みどり [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
>みどり wrote:
>>シペラス wrote:
>>>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生活できないことが、よく分かると思います。
>>
>>またこれだ……
>>なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?
>>
>>健常者を毛嫌いするのと、根はまったく同じ。諭したつもりかもしれないけど、油を注いでるだけ。
>
>はっきりいっておきますがね、僕は上下関係のことを言っているのではありません。

あなたに自覚がないだけです。

> 例えば電車やバスは、健康な視力・注意力・運動能力がある人でなければ運転できませんし、銀行業や飛行機の設計には、高度な計算力が必要です。

銀行業や飛行機の設計者にはASも多そうですね。そしてもちろん健常者もいます。

くりかえします。「健常者が必要」という発想は、「健常者なんていらない」のと根は同じです。


Re: 健常者の居ない明るい社会を作ろう!! 12950へのコメント
No.12955  Sun, 23 Jun 2002 19:22:47 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

みどり wrote:
>シペラス wrote:
>>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生活できないことが、よく分かると思います。
>
>またこれだ……
>なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?
>
>健常者を毛嫌いするのと、根はまったく同じ。諭したつもりかもしれないけど、油を注いでるだけ。

はっきりいっておきますがね、僕は上下関係のことを言っているのではありません。
 この世の中の人は、どんなに1人で生きているという人でも、必ず誰かとつながっている。ASだろうと他の障害だろうと健常だろうとみんな『人間』という一つの仲間です。
 敵だと思っている人の中には、十分に話し合えば、みかたに変わってくれる人もいるでしょう。だから、はなっから抹殺しようという考えは、間違っています
 『我々が健常者の協力なしには生きられない』というのは、確かにいささか行き過ぎた表現ですが、現実的に考えれば確かにそうで、例えば電車やバスは、健康な視力・注意力・運動能力がある人でなければ運転できませんし、銀行業や飛行機の設計には、高度な計算力が必要です。我が国は世界でも指折りの石油輸入国で、長期の航海に絶えられるような、屈強な海の男たちががんばっているおかげで、私たちは、冬暖かい石油ストーブで暖を取れるのです。健常・障害にかかわらず人間というものは一人一人、世の中の連鎖の中で生きている生き物で、その連鎖から切られれば、生活できないのです。あのロビンソン・クルーソですら、故郷の人から・彼よりも以前の人が残した書物から学んだ知識と、難破した彼の乗っていた船の中に残されていた荷物の一袋の小麦があったから、28年間の長きにわたって無人島での一人暮らしを続けられたのです。
 もちろん彼が『恨んでいるヤツ』を恨むのはかまいませんが、『絶対に分かり合えない』と、はなっから全ての『健常者』の抹殺を唱えるのはどうかと思います。今は無理かと思うけど、そのうち『どんなに1人で生きているという人でも、必ず誰かとつながっている』ということが、分かることを僕は期待します。


Re: 昨日チラッと見たドラマ 12932へのコメント
No.12954  Sun, 23 Jun 2002 17:10:05 +0900  ららら [この発言にコメントする]

シュッツ wrote:
>分からないのが当たり前と思ってきた私です。

私も、体験を分かち合うことはできなくても、排除されなければ十分と思っています。それだけでも結構難しいです。


Re: 訂正 12952へのコメント
No.12953  Sun, 23 Jun 2002 16:21:05 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

釈さん wrote:

> >大学時代に友人だった統合失調症患者と関係が悪化したことがあります。
>際限もなく弱者としての配慮を要求されたために。 ( No.12944 )

> ご友人は,要求しようと思ってそうしたんじゃないと思います。統合失調
>症という病気が力をなくす病気なので,どうしようもなくそうなってしまっ
>たと思います。分け与えるほどの力のない人にすれば避けて通るしかないと
>しても,悪くは思わないであげてほしいです。きちんと自分を守ることが正
>気なので,病人を助けられるほどの超正気は誰にでもは持てないものですか
>ら,文句をつけてるわけじゃありません。

この話があったのは学部生になった頃。ASという言葉すら知らないし、
教育学的LDとも判断されていない時期のことでした。(ちなみに判断され
たのは21才の頃)周りから奇異な目で見られることが多い奴だったので、
自分の子供の頃によく似ていると思って、それとなく配慮していました。あ
る程度、親しくなってから、統合失調症(当時の言葉では精神分裂病)であ
ることをカミング・アウトされました。

 自殺未遂や自傷行為をしたり、そう状態になって周囲の人間と衝突を繰り
返したり、毎晩のように2〜3時間電話をしてきて同じ悩み事や説教を繰り
返ししてきたりの連続で統合失調症には全く免疫のなかったわたしには混乱
の連続でした。もっともこれらの行動自体はわたしには許容範囲だったので
すが。

 障害者手帳を取って福祉作業所で働くようになってからは、やたらとわた
しに対していばりはじめ、こちらから意見をすると「俺は障害者なんだから
仕方がない」とか「配慮を受けるのは障害者の特権だ」と言って意見を封じ
てくるようになりました。さらに「俺は障害者なんだからああしてほしい、
こうしてほしい」という要求があまりにも多くなってきたため、けっきょく
関係が維持できなくなってしまいました。今だったら距離をおきながらもう
少しうまく関係を維持できたようには思いますが。

 統合失調症患者全体には敵意を持ってはいません。ただ、「自分の障害は
重いんだから」とか「お前は恵まれている」という言葉をわたし以外の障害
者から浴びせられると、その相手に支援者のような立場で接していかなけれ
ばならなくなり、気が重くなります。(仕事なら話は別だが)

 子供の頃の知的障害児との関係もそうでしたが、逆に深く関わってきたた
めに、却って不幸な関係に終わってしまったことがよくあります。今は「失
敗をしたということがいつか大きな財産につながる」ことを信じて、他の障
害者との異文化交流を続けていくしかないのですが。

 ともあれ、ご指摘ありがとうございました。


Re: 訂正 12949へのコメント
No.12952  Sun, 23 Jun 2002 14:51:05 +0900  釈 [この発言にコメントする]

こうもり さんwrote:
> 絶望していると受け取られても仕方がない部分もありますね。シクシク

 泣かないでくださいな。別にこうもりさんにからむつもりじゃなくて,自分の焦点のいい加減さのいいわけがしたかったんです。私の文章は不特定多数へ向けた抽象的なのが多くて,厄介ものです。それより,
 >大学時代に友人だった統合失調症患者と関係が悪化したことがあります。際限もなく弱者としての配慮を要求されたために。 ( No.12944 )

 ご友人は,要求しようと思ってそうしたんじゃないと思います。 統合失調症という病気が力をなくす病気なので,どうしようもなくそうなってしまったと思います。分け与えるほどの力のない人にすれば避けて通るしかないとしても,悪くは思わないであげてほしいです。きちんと自分を守ることが正気なので,病人を助けられるほどの超正気は誰にでもは持てないものですから,文句をつけてるわけじゃありません。


Re: アイ・アム・サム 12940へのコメント
No.12951  Sun, 23 Jun 2002 14:06:24 +0900  Helix [この発言にコメントする]

らららさん wrote:
>今、公開中の映画、「アイ・アム・サム」 ごらんになった方はいますか? 

らららさん、はじめまして。
私はまだ見てないですが、前売りだけは買ってあります。
(買っておかないと、行く気力が萎えていつのまにか終わってるんですよね。)
レビューなどで知的障害ということだけは知っていましたが、アスペ的となるとますます楽しみです。

>アメリカの映画を見ていると、しばしばアスペ的な人間が登場します。主役ではありません。世の中の片隅で掃除の仕事などをしながら、ひっそりと生きる人間として、登場します。けれど、彼らがそれなりに周囲から、受け入れられている様子が伝わります。

ディカプリオが自閉の少年として脇役で出ていた映画もありましたね。
題名忘れましたが。

>私の子どもはアスペ的、ADD的です。時々、子どもを持ったのは間違いだったかと思うことがあります。私の苦労ではなく、子どもがこの社会で、幸せになることができるだろうかと思うからです。

日本では「人と違う」事を認める努力がまだまだ足りないと思います。
画一的な扱い方に不満ばかりたまる私ですが、それでもさがせば居心地のいいところはありました。まあ幸せということになると私もよくわかりませんが。

>映画を見に行こうかと思っています。映画では主人公の好きなビートルズナンバーがたくさん使われているそうです。本を読んで、あらすじを知ることはできても、音楽を聴くことはできません。音楽を聴きに行ってきます。

サントラ買いました。うまく言えないんですが、原曲をとても大切にしているコピーが多かったです。


Re: 健常者の居ない明るい社会を作ろう!! 12938へのコメント
No.12950  Sun, 23 Jun 2002 13:46:58 +0900  みどり [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
>あなたを含めて我々は、『健常者』の協力なしには、ぜんぜん生活できないことが、よく分かると思います。

またこれだ……
なんであなたはどうしてそういう上下関係の発想から抜けられないの?

健常者を毛嫌いするのと、根はまったく同じ。諭したつもりかもしれないけど、油を注いでるだけ。


訂正
No.12949  Sun, 23 Jun 2002 13:30:46 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

ちょっと話に矛盾が発生していた部分があったので…。

(12948のコメント)

> ひとまず、「限界を示す=後ろ向きになる」ということではない点だけは
>ご理解ください。

(12945のコメント)

> もっとも、他人の悲しみを「我がこととして悲しむ」ことができる人がい
>たとしたら、自他の区別がはっきりしていないということになり、それはそ
>れで問題のような気がします。

 確かに12945のコメントを見たら、絶望していると受け取られても仕
方がない部分もありますね。シクシク


Re: 焦点の違いについて 12947へのコメント
No.12948  Sun, 23 Jun 2002 12:56:38 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

釈さん wrote:

>「我がこととして悲しむ」のは,仏教の修行法のひとつです。個別のリアリ
>ティのはかなさ,愚かさを嫌い,全力で全体性の次元へ潜るのです。近代合
>理主義の目からは,仏教の立場の方が幻想的,呆けということになります。

どうも、わたしの格闘している世界というのは合理主義からはかけ離れて
しまうような気がします。わたしがもっと合理的な人間ならば、社会にうま
く順応できているはずですから。(もっとも、あまり順応できているという
ことには価値観を置いていなかったりする。社会に順応することと社会に寄
与することは別の次元の問題なので。)

> AS,ADDの違いは主観の位置の確かさですよね。どちらにしろ,諸々
>の困難は変幻自在を目指しての試行錯誤という風に考えています。障害を苦
>にして後ろ向きになると,ぶつかるものがひどくなる気がします。

 これは哲学の発想とも関わってくるのですが、20世紀の哲学は「限界を
示す」ということに大きなウェイトが置かれてきました。その結果、近代合
理主義の限界というものがあちこちで提示されてきた訳ですが、ではその限
界を乗り越えるためにはどうすればいいのか、ということが示されていない
のです。そのためにけっきょく真剣に問題を考えている当事者以外の人から
見れば不可知論(所詮、人間は真理に到達することができない)であるかの
ような誤解を受けてしまったところがあります。

 「人間は所詮、真理に到達することができない」という不可知論は、一見
するとかっこいいのですが、見方によってはこれほど怠惰で卑劣な立場はあ
りません。真理に到達しようという努力をしなくても文句は言われないし、
自分自身が批判的に検討されている場合でも、「どうせ真理には到達できな
いのだから」という逃げ道を作ることができてしまうからです。(同じ批判
は相対主義にも当てはまり、あらゆるものは絶対的ではないと主張する限り
、どんな批判からも逃れることができる)

 つまり、本来の哲学的営みは、現時点での認識の限界を自覚しつつ、その
限界を乗り越えるための試行錯誤を続けることにあったのです。あまり哲学
的人間とは言えませんが、わたし自身が「限界を示す」場合は、それを「乗
り越えなくてはならない課題」として認識したことを意味しています。もっ
ともここまで話を進めてしまうと、自閉の議論ではなくなってしまうのです
が。

 ひとまず、「限界を示す=後ろ向きになる」ということではない点だけは
ご理解ください。

> 目指すところが大きいほど,現実の焦点は合いにくい。若いときに苦しん
>だ人ほど,老いてからの収穫の規模は大きいと断言します。 

 これはすごく重要だと思います。障害者の世界では時として「現在わたし
はよくない状況にあるので、これからもよくはならないであろう」という下
り坂的な思考に陥りがちです。昔読んでいた『スラムダンク』という漫画の
中で負けたチームの監督が「這い上がろう…。負けたということがいつか経
験に変わる日がやってくる。」というセリフを吐いていました。人生は勝ち
負けではないのですが、「今、生きることに苦しんでいるということがいつ
か財産になる日がやってくる」という観点は是非とも持っておきたいところ
です。


焦点の違いについて 12945へのコメント
No.12947  Sun, 23 Jun 2002 11:56:48 +0900  [この発言にコメントする]

「我がこととして悲しむ」のは,仏教の修行法のひとつです。個別のリアリティのはかなさ,愚かさを嫌い,全力で全体性の次元へ潜るのです。近代合理主義の目からは,仏教の立場の方が幻想的,呆けということになります。
 AS,ADDの違いは主観の位置の確かさですよね。どちらにしろ,諸々の困難は変幻自在を目指しての試行錯誤という風に考えています。障害を苦にして後ろ向きになると,ぶつかるものがひどくなる気がします。
 目指すところが大きいほど,現実の焦点は合いにくい。若いときに苦しんだ人ほど,老いてからの収穫の規模は大きいと断言します。 みなさん,あんまり早めにあきらめないようにしましょう。


Re: 欠落人生 12927へのコメント
No.12946  Sun, 23 Jun 2002 11:31:40 +0900  ららら [この発言にコメントする]

私もとっとちゃんはかなりあやしいと思っていました。(笑) 障害を持ちながら、なんとか世の中と折り合って生きることが、できる人とできない人がいます。でもとっとちゃんもなかなか大変だったかも。

以前、NHKの番組で、何人かが、時間制限付きで何かを語る場面がありました。しかし、黒柳さんは時間制限があったにもかかわらず、時間をかなり、オーバーして、話してしまい、その後、話すことになっていた、山川静夫アナウンサーは、もう時間がありませんのでとかなり、怒り露わでした。山川アナウンサーの怒りが激しいので、私はテレビの前で、なんだかドキドキしてしまいました。

黒柳徹子さんは、やはり、「徹子の部屋」のような出演者と一対一の番組の方がいいのかもしれません。

アフリカの子ども達のところへ、ドレス姿で、訪問したと一時、非難が集中したことも思い出します。いつも彼女は彼女なりの価値観で誠実に行動しているのでしょうが。

彼女がAS、ADD、LDについて興味をもってくれるといいですね。
>
>
>
> 
>
>
>
> 


Re: 昨日チラッと見たドラマ 12932へのコメント
No.12945  Sun, 23 Jun 2002 11:04:51 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

シュッツさん wrote:

>「あなたなんかに私の気持ちが分かるもんですか」
>
>分からないのが当たり前と思ってきた私です。

 基本的には、わたしができることというのも、相手の言動(しぐさ,表情
語調なども含む)を観察して、相手の気持ちを推測することぐらい…。それ
が自分でも経験していたり、理解可能な苦痛であれば、悲しい気持ちになる
こともあります。

 ただし、わたしと相手は立場を交換することはできないので、相手と同じ
気持ちになることはできないでしょう。例えば、我が子が自殺してしまった
親が泣いているのを見て、「その自殺した子供はかわいそうだな」とか「我
が子に先立たれた親御さんはお気の毒に」と思うことはよくあるのですが、
その親御さんと同じ立場(つまり我がこととして悲しむ)ということはでき
ません。やっぱり第三者の視点から悲しむことしかできないんですよね。

 逆の立場でわたしが何か悲しいことがあったとしても、他人には第三者の
視点から悲しむこと以上のことを要求することはできないでしょう。それす
らも要求しないことも多いのですが。

 もっとも、他人の悲しみを「我がこととして悲しむ」ことができる人がい
たとしたら、自他の区別がはっきりしていないということになり、それはそ
れで問題のような気がします。(日本語でも「我がことのように悲しむ」と
いう言い方はしても「我がこととして悲しむ」という言い方をしないことに
注意。「我がことのように…」というのは比喩であって、本当に「我がこと
として悲しんでいる」訳ではない)

 


Re: 昨日チラッと見たドラマ 12943へのコメント
No.12944  Sun, 23 Jun 2002 10:38:52 +0900  こうもり [この発言にコメントする]


>シペラスさん wrote:
>
>> 実は僕はまさにこのジレンマに直面しています。と言うのも、僕が今お世
>>話になっている精神科のディケアに通ってくる人は、ほとんどが統合失調症
>>で長期入院を経験された方なのです。
>> 彼らの側から見ると、僕のように通院だけという人間がディケアに参加す
>>ることは、「ずるいこと」なのだそうです。知的障害の人が手厚い福祉を受
>>けているのも、とてもうらやましく感ずるようです。
>> まあこれは、「差別的かつ屈辱的な体験を強いられてきた自分たちに比べ
>>れば、あなたはずっとハッピイ」ということでしょう。
>
 う〜む、この議論を見ていると、あんくさんやさるすべりさんの紹介して
いる小浜逸郎の「弱者」批判(あくまで弱者という概念の批判)が見事に当
てはまってしまいそうです。

 わたしが障害者同士で話し合いをしている時に絶対言われたくない言葉は
「あなたは恵まれている」という言葉。じっさいにわたしよりも重い困難を
抱えている障害者は多いのですが、この言葉を聞くと「自分はお前よりも弱
者障なのだから、その点を配慮して接してくれるべきだ」という対人操作を
その障害者から受けている気分になります。いちおうボランティア活動の経
験もあるので、医学的により重度の障害者に配慮した対応というのはできる
のですが、基本的に支援・被支援の関係というのは権力関係です。サポータ
ーになることはできても友達になることができないんですよね。

 じっさい、大学時代に友人だった統合失調症患者と関係が悪化したことが
あります。際限もなく弱者としての配慮を要求されたために。


アイ・アム・サム
No.12940  Sun, 23 Jun 2002 09:59:31 +0900  ららら [この発言にコメントする]

今、公開中の映画、「アイ・アム・サム」 ごらんになった方はいますか? 私は本で読みました。サムはスターバックスで、働いています。彼の仕事は店内のかたずけ。タンブラーやカップのスターバックスのマークをきちんと同じ方向に並べたり、シュガーの袋の色をきちんと統一したり、そういうことをしています。彼はおそらくアスペルガー症候群。私達ととても近い人間です。本ではアスペルガー症候群ということばはでてきません。知的障害所の施設で育った7歳の知能しか持たない男性と紹介されています。けれど彼は、私達ととても近い。ものに対するこだわり。ナイーブさ。物事の本質をみぬく目。

けれど彼は愛する幼い娘を育てる能力がないと判断され、そこから、物語が始まります。

アメリカの映画を見ていると、しばしばアスペ的な人間が登場します。主役ではありません。世の中の片隅で掃除の仕事などをしながら、ひっそりと生きる人間として、登場します。けれど、彼らがそれなりに周囲から、受け入れられている様子が伝わります。日本の映画にはそういう人間はほとんど、登場しません。日本では、社会の片隅で、ひっそりと生きることもできないのかもしれません。

私の子どもはアスペ的、ADD的です。時々、子どもを持ったのは間違いだったかと思うことがあります。私の苦労ではなく、子どもがこの社会で、幸せになることができるだろうかと思うからです。

映画を見に行こうかと思っています。映画では主人公の好きなビートルズナンバーがたくさん使われているそうです。本を読んで、あらすじを知ることはできても、音楽を聴くことはできません。音楽を聴きに行ってきます。

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