アスペルガーの館の掲示板(旧)

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近未来の発達障害倫理学(2)
No.13498  Sun, 28 Jul 2002 15:07:30 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 再び、ヘンテコな物語を作って、実験的な考察をやってみます。

 遺伝子や脳の研究が進んだ2015年のこと。ASの診断を受け
ている障害者の1人が病院を受診して、以下のような医療行為を希
望した。

 「周りの人から全然障害を理解してもらえないし、障害者手帳を
取得して公的支援を受けることもできません。仕事をやってもうま
くいかないし、このままでは生き地獄です。どうか、わたしを健常
者に改造していただけないでしょうか。」

 幸い、遺伝子治療や脳の手術の発展により、発達障害者の心身に
あってうまく機能していない部分を、うまく機能するように改造手
術をすることは技術的に可能になっていた。その病院の医師たちは
患者の要望を叶えることにした。その障害者は健常者となって今は
平穏に暮らしている。

 しかし、手術をした医師たちの方はその後は散々だった。その手
術をめぐってAS顔負けの倫理学的な議論に巻きこまれてしまった
からである。(あ〜あ、お気の毒様)その手術に対してあがった疑
問や批判点は以下の通りである。

(意見その1)

「そもそも健常者とはどのような人を指すのかを定義することがで
きない。あまりにも多様であるし、医学的に作られた健常者の概念
など、医学的に健常者とされる人々でさえ実現できない理想モデル
に過ぎない。健常者の定義がはっきりしていないのに、どうして障
害者を健常者に改造することなどできるだろうか?」

(意見その2)

「改造手術を望んだAS人の患部はどこにあったのだろうか?本人
が抱えていた発達障害そのものか?それとも自らが発達障害者の一
員であることを受け入れることができないでいる心の状態なのか?
例えば、人を殺したいという願望を持っている患者に医療行為を加
える場合、わたしたちが行なう医療行為はその人の心の状態に合わ
せて人殺しを実現させてあげることではなく、人を殺したいという
願望そのものを消去ないしは沈静化させることである。健常者にな
りたいと願う障害者の心の状態に合わせて健常者に改造することは
妥当なのか?」

(意見その3)

 「その障害者が抱えていた生きにくさの問題は、果たして本人を
健常者に改造することによって根本的に解決するのだろうか?肌の
黄色い人は差別され生きにくくなる可能性があるので、肌を白くす
べきだ、という考えはどこかおかしいはずだ。問題を根本的に解決
するためにはどんな肌の人でも、生きにくさを感じなくなるような
社会を作る必要があるのだ。今回の手術でも、その障害者が生きや
すいように健常者に改造する前に、なぜその障害を抱えている人が
それほどまで社会の中で生きにくさを感じていたのかが問われなけ
ればならないだろう。」

(意見その4)

 (その3の意見とよく似ているが)「要するにその障害者が必要
な支援を受けることさえできれば、そんなややこしい手術をする必
要もなかったのだ。」

(意見その5)

 「脳を改造してしまう場合、患者の自己決定権は改造される以前
の脳にあるのか?改造された脳にあるのか?例えば、改造された脳
が健常者としての判断で「別に健常者になってもいいことはなかっ
たので元に戻りたい」とか「健常者になってみて、普通になりたい
と願うこと自体が同じ障害を抱えていた人への冒とくであること気
がついた」とか「けっきょく一番大切なことは自分の障害を受け入
れることだったことに気がついたんだ」と言って、再治療を要求し
た場合、どちらの意志が尊重されるべきなのか?仮に元に戻したと
しても改造以前の脳は改造された脳と別のことを考えるかもしれな
いのだぞ。体験したり認識することのできる世界が違っているのだ
から。

 これらの問題が決着する日がやってくるのか…、ちょっと疑問で
ある(おしまい)

 以上のことを踏まえてご意見よろしくお願いします。部分的な意
見全体的の意見いずれも大歓迎。どの意見が正しいと思うかを言っ
てくださっても構いませんし、全ての意見を批判的に検討してくだ
さってもかまいません。

 ただし、「そんなことは医師ではなく患者が決めることだ」とい
う意見は今回はなしです。物語では医師が意見を出すという形式を
取っていますが、じっさいには障害者本人がどんな支援を選び取っ
ていくのかを考えていくことを目的として作られたフィクションだ
からです。では


Re: 激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となると思う 13493へのコメント
No.13497  Sun, 28 Jul 2002 14:50:21 +0900  あんく [この発言にコメントする]

シロさん wrote:
>激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となるのだろうと思います。個人の記憶に深く刻まれ、再び相手の具合が悪くなり始めると、前回の入院騒動時に自分が味わった不安などが強烈に蘇えって自分を苦しめる。わたしも、この何年かにそういう体験をしました。

 ん〜と、これは横レスになってしまうかな。あんくです。
 2年ほど前のこと、私の母が友人の精神科医の病院で、入院治療中の統合失調症者のために、慰安ミニ・コンサートを開いた時の話です。(ちなみに、母はおそらく自覚のないアスペルガー・タイプと思われる)ドクターに頼まれ、母はいわゆる「音楽療法」の一環として、モーツァルトの小曲等を演奏していました。小ホールに集まった人々は、ほとんどが、高齢者で、しかも女性ばかりです。ステージ上の母には、その中の誰が看護婦で、誰が患者であるか、はじめのうち見分けがつかなかったといいます。

 ひとしきり演奏が終わり、いったん休憩が入ると、ドクターは小用があるとかで、病院のホールから離れた自宅へ戻ってゆきました。そのとき母は、ちょっとしたいたずら心を起こし、日本の曲、♪お江戸日本橋〜を、ピアノで演奏しはじめました。
 すると、いままでザワついていたホール内が、一瞬しんとなり、今までおしゃべりを続けていた老婆たちは、ステージに目を向け、ひとりまたひとりと、母の周りに集まってきたそうです。母はこう考えたといいます、このひとたちは高齢者で、しかも日本人だ。いかな音楽療法とはいえ、モーツァルトだのクラリネットだのの西洋の曲で、この世代の人々が癒されようはずもない―その思惑どおり、彼女たちは母の演奏に、一心に聞き入っていました。演奏が終わると、中のひとりのお婆さんが、母に近づき、こう話しかけたそうです。
「おや、あなたのしているブローチは、お趣味がよくていらっしゃいますわねえ」

 コンサートが終わると、母はドクターに言いました、「男の患者さんが、ここには見えませんが、どこで何をしているのですか」ドクターは、「みなさん、末期の患者なので、危険ですので連れてくることはできません」母はさらに尋ねました、「でもここにいるみなさん、けっこう落ち着いた、普通の人にみえますが」「みんな、薬で抑えてあります」
 ドクターは答えました。
 その瞬間、母は、患者たちと、ドクターやスタッフの人たちの、一体どちらがまともなのか、まったく分からなくなった、と、私に話しました。

 このような話を、今現在も精神症状に苦しむ人々の前で、していいものかと思い迷わないわけではないのですが。誇張や創作はないものの多少私のアレンジは入っていますが、もちろん事実を元にした実話です。

 ただ、今、私はこの話の意図したところとは、別のことを考えています。おそらく現代というのは、ドラマ『ダーク・エンジェル』でもそうだけれど、医薬品の開発が、進みすぎていやしないか、と。たとえば近所の誰か、学校の友人、街を歩いている人々、仕事を持って忙しく立ち働いている人々。みんな、日本人の性格上、ちょっと疲れて、不機嫌そうである以外、「けっこう落ち着いている、普通の人」に、見えます。
 ただ、それもみな、「薬で抑えてある」だけの、みせかけの健康さであったにすぎなかった、としたら…。痛み止めを飲んだり点滴を打ってでも仕事に出掛け、自分の家族や同僚には笑顔を向け、なんでもないかのように振る舞う。ちょうど、頭痛薬のCMのように。それでいつか、ほんとうに倒れてしまうわけだね。
 
 われわれAsや、ADD者たちの大部分が、常に抱えていると言われるのは、「同じ障害のない、他の人たちにできることが、自分だけできない」という、あの感覚です。けれども非・自閉者、非・ADD者のなかでも、ほんとうなら貧血でとても立っていられないような疲労状態なのに、病院でちょっと応急処置をしてもらっただけで、「休んでなんかいられない。作業に穴を開けるわけには行かない」と、その日のうちに仕事に戻る。ほんとうは全員が、いまにも倒れそうなのに、全員が、(ほんとうは薬で抑えているのに、そう見えているに過ぎない)元気そうな周囲を見回して「自分一人だけが、なまけるわけにはいかない」と、考えているわけです。これは私の、いささか誇張ぎみの作り話。

 「がまんをするのが美徳」とされていたのは、過去のこととされているけれど、「がまんをしないで、今はこんないいくすりがあるのです」と、TVCMのせりふじゃないが、こう考えていくと、「くすりに頼る」というのも一種のがまんなわけだな。礼儀作法の一環であったはずの「がまん」が、今では単なるストレス増幅剤の役目を果たすものでしかない。ような気がする。

 いったい現代の人々というのは、くすりというものの存在を、一体どんなふうに捉えているのだろう?たとえばリタリンを「それさえ飲めば、<ふつう>になることのできる魔法のくすり」だと、考えるから、飲むのか?「体内の不快感を抑える」ためや、「その人の激しい精神症状を見てしまった者に、深刻な外傷体験を起こさせるのを防ぐ」ためなのか?上の母のエピソードを聞くにつけ、こんな疑問が湧き起こってきてしまうのは、私に強い精神症状や、精神病院への入院体験が欠けているがゆえのものなんだろうか?
 
 ………

 私一人だとちょっと結論が見えてこないな。まあ分かっていることは、「くすりが根本治療の決め手とはなり得ない」ってことぐらいのような気がするんだけれど。
 いずれまた。
 


Re: 8月4日オフ会のお知らせ 13462へのコメント
No.13496  Sat, 27 Jul 2002 22:48:54 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

いちおう再告知です。

こうもり wrote:
> 発達障害相互支援ネットワーク主催の東京の8月オフ会の正式な告知を
>行ないます。
>
>(集合場所)8月4日(日)AM11:00にJR御茶ノ水駅聖橋口改札
>      口に集合。
>
>(目印)わたしが水の中に入れると40倍に膨らむという世にも不思議な
>    ゴム人形を入れたペットボトルを持って、突っ立っています。
>
>(会場)昼食を摂った後、カラオケパーティールームに行く予定。場所は
>    メールでの申しこみのあった方のみにお知らせします。(今週末
>    ぐらいに)
>
>(申込方法)可能な限り、下記のメール・アドレスに参加の旨を明記して
>      送信してください。この掲示板での参加表明でもいいのです
>      が、その場合、緊急連絡先や詳細をお知らせすることはでき
>      なくなります。
>       
>      seijinld@msg.biglobe.ne.jp
>
>(緊急連絡先)メールを頂いた方のみにお知らせします。

 会場もなんとか今日決定しました。現時点での参加予定者は7人です。
皆様のご来賓を心よりお待ち申し上げます。では


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13494へのコメント
No.13495  Sat, 27 Jul 2002 12:20:23 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

Maria wrote:
>シペラスさん wrote:
>> ある意味では、クルーの方のその言動は「自分たちのにのまえを踏ませまい。」という暗喩だったのだと思えます。
>
> ×「にのまえを踏む」
> ○「二の舞を演ずる」「同じ轍(てつ)を踏む」
>
> 「二の足を踏む」=「躊躇(ちゅうちょ)する」
>
> (Maria)

校正ありがとうございます。
この場合は「演ずる」なんですね。
勉強になりました。


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13492へのコメント
No.13494  Sat, 27 Jul 2002 10:32:45 +0900  Maria [この発言にコメントする]

シペラスさん wrote:
> ある意味では、クルーの方のその言動は「自分たちのにのまえを踏ませまい。」という暗喩だったのだと思えます。

 ×「にのまえを踏む」
 ○「二の舞を演ずる」「同じ轍(てつ)を踏む」

 「二の足を踏む」=「躊躇(ちゅうちょ)する」

 (Maria)


Re: 激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となると思う 13492へのコメント
No.13493  Sat, 27 Jul 2002 10:18:16 +0900  シロ [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
> 私自身は入院の経験はないのですが、1年半前のこと私の母が・・・

身近な人の激しい精神症状を目の当たりにしたり、強制入院の場に居合わせたりするのは、本当につらい体験だと思います。そして、症状の激しい時期がおさまり、再び前と同じような感じで交流できるようになったときには、本当にほっとします。

激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となるのだろうと思います。個人の記憶に深く刻まれ、再び相手の具合が悪くなり始めると、前回の入院騒動時に自分が味わった不安などが強烈に蘇えって自分を苦しめる。わたしも、この何年かにそういう体験をしました。


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13482へのコメント
No.13492  Fri, 26 Jul 2002 23:29:09 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

シロ wrote:
>>病院で嫌だったこととして、どんなことがありますか?
 >
>その後、幾つもの精神病院に面会に行く立場になってから思うのは、家族中心主義がイヤだということです。友人の面会をなかなか許可してもらえなかったり、友人の立場だと医師や看護者らとなかなか話せないということに、精神病院というものの壁を感じます。整理整頓や、朝起きることなど、基本的生活習慣と看護者らが呼ぶものの基準に達しないと大問題のようにされることにも憤りを感じます。「安定するまで」「落ち着くまで」という訳のわからない言葉によって、1ヶ月、3ヶ月、半年という時間が過ぎていくことにも、いたたまれない想いをすることがあります。入退院を繰り返すうちに「慢性患者」と呼ばれる存在になって、障害年金と生活保護で暮らしながら作業所に通うというような「精神障害者としての人生」のコースに吸い寄せられていく/寄せ集められていくことにも疑問を感じます。

 私自身は入院の経験はないのですが、1年半前のこと私の母が長年の家族戦争のためにガタが来てしまったせいか、街中で私と一緒にいた時に錯乱状態に陥ってしまい、警察に保護された上で山のふもとの病院に運ばれました。強化プラスチックでできた、警察の保護室の壁を母が激しく叩いている音が、未だに耳の片隅に残っています。
 入院後1ヶ月は全く面会謝絶状態で、手紙も病院の人からは「落ち着くまで出さないように…」といわれたので、ある程度そういった面を覚悟できていた私はそんなに苦にはなりませんでしたが、父はものすごくまいっていました。
 やっと面会できたとき母は、同室の方から習ったという折り紙細工を「疲れるけどがんばった…」とうれしそうに見せてくれました。また私が自転車で1時間かけて生活雑貨を届けたときは、それから1週間後に「荷物を届けてくれてありがとう。」と絵入りの手紙が届き、それがうれしかったです。
 初めて一時帰宅した時母は、「ああやっぱりうちは落ち着く…病院はただ寝て起きての生活だよ…5時には食事でそのあとは薬飲んで寝るの…薬を飲まない人は無理矢理口の中に薬を押し込まれるし…」と言いました。精神病院の凄惨な内部の様子を初めて身近に感じた言葉でした。

 私は今、隣町の精神障害者福祉作業所に通っています。作業所のクルー(通所者)のほとんどの人が、やはり入院経験者です。入って1ヶ月くらいしてから、クルーの人たちから、「通院の人がここにくるのは、ずるいです!」「あなたは、働けるよ…」ということを言われ続けたので、私は今日、とうとう堪忍袋の尾か切れて、「そういうことを言うと、やっとの思いで入所してきた、入院を拒んだうつ病の人が孤立してしまったり、プレッシャーで自殺に追い込まれることもあるよ!」と説教をこいてしまいましたが、ある意味では、クルーの方のその言動は「自分たちのにのまえを踏ませまい。」という暗喩だったのだと思えます。



>精神病院は、何よりも、「安心して休息できる場」であって欲しいと思います。どういう環境であると安心して休息できるかは人によって違うと思いますが、先入観なく、管理のための規則を優先させるのではなく、個々人の希望にできるだけ応えるということを第一に考えるようになって欲しいと思います。

 「ならずもの・きちがいの廃棄場」でなく、「新たな人生の出発点」へと精神病院が生れ変っていくことを私も望みます。


Re: ソーシャル・スキル・トレーニングの本ってない? 13489へのコメント
No.13491  Fri, 26 Jul 2002 22:24:16 +0900  Maria [この発言にコメントする]

Luluさん wrote:
> さすがこういった意見が出るあたり、アージル博士はさすが英国紳士だな、と感じました。

 アージルは、社会心理学者として、日本を含めた四か国で行なった調査に基づいて、「多くの人が『人間関係において守るべき基本的なルール』と感じていること」を分析によって明らかにしたわけで、「アージル博士は英国紳士だから、このようなルールを守るべきだと考えた」わけではありません。

 それに対して、「英国紳士だから」という理由づけをしてしまうと、「学問的事実と称して自分自身の倫理観を押しつけている」ということになってしまい、それは学者としてのアージルを侮辱することになります。

 あたし自身の見解としては、

1)相手のプライバシーを尊重する。
2)相手の目を見て話す。
3)秘密の話をしたときには、その内容を他人に漏らさない。
4)人前で相手を批判しない。

 というルールのうち、(1)(3)(4)は、「相手が自分自身のイメージ(自分自身にとってであれ、社会的にとってであれ)をコントロールしようとする意思を尊重すること」と要約できると思うし、(2)についても、「『私はあなたの見解について配慮をしていますよ』というメッセージを相手に伝えること」と言い換えることができると思います。
 すなわち、「相手の(自分自身に対する)コントローラビリティを侵害しないこと」と「相手のコントローラビリティを侵害する意図がないことを相手に伝えること」が、もっとも基本的な人間関係におけるルールであると言えるとおもうのね。
 だから、(4)の「人前で相手を批判しない」というのは、それが相手の価値観を脅(おびや)かすものでなければ、必ずしもルールとして立てる必要がないと考えます。「客観的な正しさ」に価値を置く人の場合、「それが正当な批判であるならば、素直に受け入れて自分の非を正す」という行為を好ましく思うものですし、だからこそこの『アスペルガーの館の掲示板』においては生産的な議論が行なわれ、それによって人間関係は悪化するのではなくむしろ良くなっているのですから。

 そんなわけで、

1)お互いの関係がつねに公正であるように努める。
2)相手が自信を持って語った話の内容を批判しない。
3)自分の好きなように相手の時間が利用できると考えない。
4)相手を無視しない。
5)予告なしに訪問しない。
6)借りや好意に対してお返しをする。
7)うわべだけの好意的感情を表わさない。

のうち(1)(2)(3)(5)もまた「相手のコントローラビリティを侵害しない」というルールの一部であり、(4)は「相手のコントローラビリティを侵害する意図がないことを相手に伝えること」の一部と考えられます。

 (6)と(7)はおそらく(4)と関連してくるのだと思うのですが、たぶん「相手の正当なコントロールを受けいれる」ということに関係してくるのだと思います。「自分が相手の要望によって何をするつもりがあって何をするつもりがないかをはっきりさせる」というのは、それが相手にとって正当と感じられるものなら、人間関係を良好にさせるもののようです。

 この件についてはもうちょっと書くことがありそうなので、そのうちに。

 (Maria)


ダイエットクラブのお話
No.13490  Fri, 26 Jul 2002 21:40:12 +0900  ぴょんぴょん [この発言にコメントする]

ぴょん子は「ダイエットクラブ」で毎日ダイエット運動にはげんでいます。
ぴょん子は毎日体重計にのって、一喜一憂しています。
部長のトン太は厳しい人で、チョコを食べているといつも白い目でみてきます。
ぴょん子はチョコが大好きなのでトン太の目を盗んでこっそりチョコを食べます。
こっそり食べる方が本当においすぃのです。
クラブにはまる太という過食症の男の子もいました。
まる太はちょっとぽっちゃりしている事からみんなに「ブタ」と呼ばれていました。
まる太は「DietCola」をいつもかかえて朝から夜まで何も食べません。食べられないのです。
夜みんながダイエットウォーキングに出かけた後、まる太の食欲は目覚めるのです。
ご飯を10合ぐらい食べるのです。
胃も食道もパンパンになってあふれ出す頃、満プク感を感じ次はいっせいに吐き出すのです。
まる太を助ける事はできませんでした。
まる太は苦しい。でもみんなも苦しい。一番やせてるトン太も苦しかったのです。
でもぴょん子は苦しい事は嫌いです。
だからクラブをやめました。
クラブをやめた方がやせました。
食べられない・食べちゃいけないコトがなくなると、食べたいと思わなくなったのでした。


Re: ソーシャル・スキル・トレーニングの本ってない? 13478へのコメント
No.13489  Fri, 26 Jul 2002 20:45:21 +0900  Lulu [この発言にコメントする]

こんにちは、Luluです。いきなり失礼します。

Maria wrote:
> イギリスの社会心理学者のアージルというひとが、日本を含めた四か国で行なった調査を行なった調査に基づいて、「人間関係において守るべき基本的なルール」というものを分析しています。
>(中略)
> で、アージルは「嫌いな相手との間で守るべきルール」というのも挙げています。
>
>1)お互いの関係がつねに公正であるように努める。
>2)相手が自信を持って語った話の内容を批判しない。(←とはいえ、これは「根拠なく批判し、議論を受けつけない」ようなことをしない、という意味だとおもう)
>3)自分の好きなように相手の時間が利用できると考えない。
>4)相手を無視しない。
>5)予告なしに訪問しない。
>6)借りや好意に対してお返しをする。
>7)うわべだけの好意的感情を表わさない。
>
> これって意外に難しいと思います。「相手が先に自分に対して不公正な態度をとったのだから」みたいな理由づけをして、こうしたルールを破ることを正当化する人がけっこう多いからです。

さすがこういった意見が出るあたり、アージル博士はさすが英国紳士だな、と感じました。
私も参考にしたいです。


Re: 同性に触れること 13486へのコメント
No.13488  Fri, 26 Jul 2002 20:40:54 +0900  Lulu [この発言にコメントする]

こんにちは、Luluです。いきなり失礼します。

私は逆のケースでしたね。
私が♂で、相手が♀だという点も逆ですけれど、私は(おそらくASでない)女の子が近寄ろうともしませんでした。
それも中学生のときまでで、高校ではあまりフォークダンスでパートナーを拒否されたことはありません。

私はむしろ、
まろんす wrote:
> 単に私は男性のいやらしい触り方が気色悪いだけかもしれない。
と感じるのがむしろ普通のような気がします。
そのうち、いろいろな人と接していくうちに免疫になるのでしょう。(野郎どもの勝手な想像でしょうが)


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13482へのコメント
No.13487  Fri, 26 Jul 2002 19:12:45 +0900  Lulu [この発言にコメントする]

こんにちは、Luluです。いきなり失礼します。

シロ wrote:
>精神病院は、何よりも、「安心して休息できる場」であって欲しいと思います。どういう環境であると安心して休息できるかは人によって違うと思いますが、先入観なく、管理のための規則を優先させるのではなく、個々人の希望にできるだけ応えるということを第一に考えるようになって欲しいと思います。

私も同感です。
私は精神科の入院歴はありませんが、社会には相変わらず精神病に対する偏見が根強く、それがますます精神科を閉鎖的な体質にしているような気がします。入院患者の皆さんや、入院歴のある方々の、それぞれの御家族の方々も肩身の狭い思いを余儀なくされています。
こういった事情がある限り、「シロ」様のご意見は、絵に描いた餅で終わってしまうのでしょうか? 私もそうあって欲しくないです。


Re: 同性に触れること 13485へのコメント
No.13486  Fri, 26 Jul 2002 11:48:51 +0900  まろんす [この発言にコメントする]

シロ さんへ

 私も異性には触られるのがイヤです。
主人にさえ触られるのがイヤです。
別に手足とかならいいけどね。
だから主人は私の事を同性愛の気があるのか?
と疑ってます。
でも、私は別に同性愛って程では無い気がします。

 単に私は男性のいやらしい触り方が気色悪いだけかもしれない。


Re: 同性に触れること 13468へのコメント
No.13485  Fri, 26 Jul 2002 11:12:08 +0900  シロ [この発言にコメントする]

わたしは同性に対して、触れたい、抱き合いたい等の気持ちを持ちます。
20代後半に同性との性的なかかわりを経験するようになってから、
はじめて性が、やすらぐものや楽しいものや自ら求めるものになりました。
セクシュアリティについて語っていくのは大切なことだと、わたしも思います。

わたしがたまたま訪れたものですが、

ゲイでASである人の文章「Being autistic and Gay」
http://quest.apana.org.au/~tlang/autgay.htm
レズビアンでASなり自閉症圏である人の文章「Thoughts on Finding Myself Differently Brained」
http://www.inlv.demon.nl/subm-brain.jane.eng.html

トランスセクシュアルで発達障害もある人のサイトなど、色々あるようです。

------------------------------------------
そういえば前にわたしは、HIV/AIDSに関心があり支援する気持ちがあることを表す印としてのレッドリボン、また、同性愛者のシンボルのレインボーカラーやピンクトライアングルのように、発達障害に関心があり支援する気持ちがあることを表す視覚的記号が何かあるといいのではないか、ということを書きました(No.13181)。既にご存知の方もいらしたかと思いますが、シルバーリボンが、そういう意味で使われているらしいということに、きょう海外のサイトを見ながら気がつきました。

Consider this silver ribbon a special gift.
Please wear it to promote the awareness
and support of children with disabilities.

とありました。やっぱりあるんだな、と思いました。


Re: 触られること 13480へのコメント
No.13484  Fri, 26 Jul 2002 00:14:47 +0900  ぱーこ [この発言にコメントする]

こうもり wrote:

>日本では発達障害というと「子供の問題を扱う
>領域」というイメージがあるせいか、セックスというテーマがあまり
>扱われておりません。扱われたとしても、「発達障害児への性教育を
>いかに行なうべきか?」というテーマに留まってしまうことがしばし
>ばです。「いかにすれば双方が満足のいくセックスが可能か?」とい
>うのはまだ未開拓の分野と言えるでしょう。人知れず悩んでいる人は
>けっこう多いらしいのですが。

ぱーこです、眠気ふっとんじゃいました!あはははは・・・
mariaさん、はるかさん、こうもりさん、ありがとう〜!(感謝)

まじめにこうもりさんが言われることも、そりゃそうだ、とうれしくなりました。
大事なことです!

でも、本人が自覚してないし、女性経験があるのかないのかも知らないし、
男のプライド、みたいなものを傷つけてはならない、と思っているので
はっきりと拒絶できるようになったのが、去年です。毅然と、きっぱり!
でも、生理的にそれではストレスフルな状態らしいです。
デリケートな問題ですねぇ。

口にするのもはしたない、という時代?のなごりかな・・・・


Re: 触られること 13473へのコメント
No.13483  Thu, 25 Jul 2002 23:37:06 +0900  はるか [この発言にコメントする]

みなさま、レスありがとうございます。
感覚過敏になるのかなぁ、やっぱり。
首筋とか肩とか、わき腹とか
ええもう感じすぎちゃって
自分からねだったくせに「それは意地悪だ〜」
とのたもうて、不思議がられました(笑)

>でも、夫にも誰にも、いえないでしょーー??
>おかしいとは思っていたんです。変でした!
>そうだったのね・・・・・・・
>キスしたこともないですよ、夫とは。
>だから、自分がモノとしか扱われていないと感じていたわけで〜す。

相手をものと思ってじゃないと思いますよ、
え、ええ多分(冷や汗)
なんていうのかな、不快感じゃないけど
そこに他人の感触や熱があるのが落ち着かない感じ?

>本人は不自由ないのでしょうかねぇ?

ほかのことが好きなら不自由はないんじゃないかと。
だってやなことする方が不自由な気がしますもの。
そうか・・・こういうのも特性の一つなんですね。
でもキスが嫌って、言うのもはばかられるし・・・
そういう相手を探すしかないかな。うーん・・・。


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13479へのコメント
No.13482  Thu, 25 Jul 2002 23:28:32 +0900  シロ [この発言にコメントする]

>病院で嫌だったこととして、どんなことがありますか?

わたしの場合は、精神科医や精神療法家が精神分析を治療理論として持っている人たち、つまりフロイト派だったのですが、その理論をこちらに押しつけてくるところがイヤでした。『PTSDの医療人類学』(アラン・ヤング著、中井久夫ら共訳、みすず書房、2001)という本に、ベトナム帰還兵たちを対象とした米国の国立PTSD治療センターの1980年代の様子が載っていますが、ある部分、そこと雰囲気が似ている病院でした。何を語っても、どんな行動をしても、精神分析的にしか解釈されないというのは、いま思うと、非常にカルト的だったと思います。当時のわたしは懸命に精神分析を学習し、分析治療をやり遂げようとし、治療者たちの言うことに違和感や抵抗はあっても、「もしかしたら、そうかもしれない」と否定しきれないでいたのですが。ちなみに、わたしは境界例(境界性人格障害)と診断されていました。

わたしは治療によっては苦しみました。でも、病院で暮らすことが好きでもありました。建物への愛着があったし、精神病院特有の独特な臭いにも馴染んだし、<世の中から遠く離れている場所>というのもよかったのだと思います。閉鎖病棟の静けさも好きでした(服薬している抗精神病薬が強いのか、閉鎖病棟では、昼間は大抵の人が眠っていました)。開放病棟はある程度の社交性を要求される場で、着替えもしなくてはいけないし、会話があり、人付き合いというものがあるのですが、閉鎖病棟では何もなし。どんな在り方も許容される。それも、わたしにとってはよかったと思います。モノの制限も、わたし自身はあまり不自由を感じませんでした。3年以上入院していたのですが、本を読み、絵を描き、日記を書き、散歩をして過ごしました。食事が決まりきった配膳の食事だというのも、わたしにはよかったです。同性のみの病棟というのもよかったです。

その後、幾つもの精神病院に面会に行く立場になってから思うのは、家族中心主義がイヤだということです。友人の面会をなかなか許可してもらえなかったり、友人の立場だと医師や看護者らとなかなか話せないということに、精神病院というものの壁を感じます。整理整頓や、朝起きることなど、基本的生活習慣と看護者らが呼ぶものの基準に達しないと大問題のようにされることにも憤りを感じます。「安定するまで」「落ち着くまで」という訳のわからない言葉によって、1ヶ月、3ヶ月、半年という時間が過ぎていくことにも、いたたまれない想いをすることがあります。入退院を繰り返すうちに「慢性患者」と呼ばれる存在になって、障害年金と生活保護で暮らしながら作業所に通うというような「精神障害者としての人生」のコースに吸い寄せられていく/寄せ集められていくことにも疑問を感じます。

>またその経験から考えるに、現在ある病院をどのように改善していけば、精神障害者の人たちに対して、真に心が休まる場所になると思いますか?

精神病院は、何よりも、「安心して休息できる場」であって欲しいと思います。どういう環境であると安心して休息できるかは人によって違うと思いますが、先入観なく、管理のための規則を優先させるのではなく、個々人の希望にできるだけ応えるということを第一に考えるようになって欲しいと思います。


Re: 触られること 13473へのコメント
No.13481  Thu, 25 Jul 2002 23:00:26 +0900  Maria [この発言にコメントする]

ぱーこさん wrote:
>>  ASやADHDの人の場合、感覚敏感のためにセックスにお
> > いてパートナーとの間で問題が発生することもあるようです。
>
> ありあり!!!
> でも、夫にも誰にも、いえないでしょーー??
> おかしいとは思っていたんです。変でした!
> そうだったのね……
> キスしたこともないですよ、夫とは。
> だから、自分がモノとしか扱われていないと感じていたわけで〜す。
> コミュニケーションにはならない、と言う感じ。

 ふはははははははは。(←久々の出番なのでちょっと張りきっている)

 ここでは夫がAS、妻が機能性感覚過敏のケースを考えてみましょう。
 夫は、「愛している→セックスしたい」という発想がないわけです。「愛している→相手の喜ぶ行為を行なう」というのは自然なのですが、「セックス=相手にとって気持のいい行為」という図式がないのですから。
 で、いわゆる「不感症(←呆れたことに一発で漢字変換されたぞ)」の九十%は、「肩凝り」(正確にいうと、精神的な緊張が僧帽筋の慢性的な鬱血状態を引き起こすことによる自律神経の失調)が原因なわけです。
 と、いうわけで、夫が妻の肩をほぐすためのテクニックを習得すればよいのですよ。夫が、「そーか、自分は相手に快感を与えることができるのだ」と納得し、妻が「そうか、人に触れられること、人が与える行為に身を委ねることは気持いいことなのだ」と納得すれば、それが別にセックスでなくっても、有意義なことなのですよ。

 たとえばの話、「自分が気持いい」だけでセックスするというのは、相手の人権を無視しているわけです。「相手が気持いい」からといって、自分が苦痛を我慢するというのも、どこか歪んでいます。
 男性は、女性に快感を与えることで、男性としての自我を確認あるいは強化している部分があります(自分の快楽を中心に置くエピクロス派に対して、「禁欲」の代表とされるストア派はこういう考えかたをします。べつに「ストイック」だからといって、セックスを禁じているわけではありません)。そんなわけで、男性には「女性を悦ばせる喜び」があり、女性には「悦びを得ることによって男性を喜ばせる喜び」というのがあるわけです。
 ところがですね、男性はときに自分の快感に溺れてしまって、女性に快感を与えるという義務を果たせない場合があるのですね。そういうときに、「役立たず!」とかいって相手をののしってしまう女性も女性にはいるわけですが、多くの(フェミニストに「価値観が古い」と批判されるようなタイプの)女性は「男性にとって魅力的であること」に価値を置いているので、そういうふうに自分の魅力(=性的な快感を与える力)を確認することで喜びを得るわけです。そんなわけで、そういう男性を「かわいい」と感じるのだな。

 性産業にたずさわっている多くの女性が、単に「高収入」というだけでその職業に就いているわけではなく、自分の「性的な快感を与える力」を確認することで、自分の「女性としてのアイデンティティ」を確認し、自分の顧客である男性を「かわいい」と感じるというのには、こういう理由があるわけです。

 そんなわけで、相手を気持よくさせる技能を磨き、同時に相手が与えてくれる快感に溺れて我を忘れることができるように自分を解放する(これは、相手との信頼関係を築くことが根底にあります)ことが、基本になってくるわけです。

 その入口としては、マッサージというのが手頃ではないかと。そういうことだったりします。

 では。

 (Maria)


Re: 触られること 13473へのコメント
No.13480  Thu, 25 Jul 2002 22:58:45 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

レスがついたこともあり、補足説明も兼ねてコメントします。

ぱーこさん wrote:

>> ASやADHDの人の場合、感覚敏感のためにセックスにお
>>いてパートナーとの間で問題が発生することもあるようです。
>
>ありあり!!!
>でも、夫にも誰にも、いえないでしょーー??
>おかしいとは思っていたんです。変でした!
>そうだったのね・・・・・・・
>キスしたこともないですよ、夫とは。
>だから、自分がモノとしか扱われていないと感じていたわけで〜す。
>コミュニケーションにはならない、と言う感じ。
>でも、年とってきて、どうでもよくなったけどね。
>本人は不自由ないのでしょうかねぇ?

 まず、不自由するかしないかについて言えば、セックスに淡白なタ
イプの自閉人ならば、それほど不自由することはないと思います。そ
もそも異性を求める必要がないのですから。でも、触覚過敏はあるけ
れど、性欲もあるというタイプの自閉人の場合、不自由を感じる人は
多いと思います。

 また、性別で言うと、どちらかと言うと女性の自閉人の方がこのこ
とで悩んでしまうケースが多いように思えます。実体験がないのであ
まりはっきりしたことは言えませんが、あるジェンダー論の本によれ
ば男性が主導権を握るセックスが現在も多いとされており、そのこと
が原因として考えられるかもしれません。主導権を握っている側は自
分が苦手としている身体接触をうまく避けることができますからね。
男女を問わず。

 話は変わりますが、日本では発達障害というと「子供の問題を扱う
領域」というイメージがあるせいか、セックスというテーマがあまり
扱われておりません。扱われたとしても、「発達障害児への性教育を
いかに行なうべきか?」というテーマに留まってしまうことがしばし
ばです。「いかにすれば双方が満足のいくセックスが可能か?」とい
うのはまだ未開拓の分野と言えるでしょう。人知れず悩んでいる人は
けっこう多いらしいのですが。


精神病院へ入院した経験のある人へQ。
No.13479  Thu, 25 Jul 2002 21:18:17 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

精神病院へ入院した経験がある方に、お尋ねします。

病院で嫌だったこととして、どんなことがありますか?

またその経験から考えるに、現在ある病院をどのように改善していけば、精神障害者の人たちに対して、真に心が休まる場所になると思いますか?

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