アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: 書きこみが少ないのは… 0151へのコメント
No.0157  Sat, 5 Jun 1999 10:58:20 +0900  ままきん [この発言にコメントする]


>どうすればもっと多くの人に来てもらえるかな? がんばって「アスペルガーの館」を有名Webサイトにするべく、宣伝活動をするか。でもその前に、肝心のコンテンツが2年前からほとんど更新もしないままというのを何とかしないとね。

今日、宣伝活動してきます(^^)/!
アスペの親の会を長野県につくろうじゃないかということになり、今日は県立こども病院に集まって設立準備の会合(なんておおげさなものではないですが)があるのです。みんな手探り状態なのでどんな風になるのやら皆目検討がつきませんが...。今日は新聞記者の方もおみえになるとか...(地方紙ですが)。アスペ自体社会的に知られていないので、マスコミ関係でとりあげて頂けたらうれしいと思います(ただ、誤ったかたちでは困りますけど)。いろいろな人たちに知ってほしいと思います。社会的に認知されなければ、理解は得られませんからね〜。


Re: はじめまして 0155へのコメント
No.0156  Sat, 5 Jun 1999 07:27:03 +0900  キマイラ [この発言にコメントする]

にゃんすか太郎 wrote:
> 他にも目に見える範囲に光のような粒粒が見えて、直接太陽を見るとそれが大きな玉になるのを楽しんだり、風が強い日に家の中からどこからともなくドレミファソのソの音のようなのが聞こえてくるのに恐れおののいたりしていました。
>もし、このような経験をされた方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか?

私の知り合いの自閉症児のお母さんに、「子供の頃、空気の粒がビーダマやビーズのように光って見えた」経験を持っている人がいます。その人は、自閉症の診断基準で言うところの「想像力」に困難がありますが、ASと言うほどの症状はありません。
私は、幼い頃の記憶がほとんど欠落していて、いくつかのエピソードと二・三のトラウマしか思い出せないのですが、覚えているものと言えば、家の駐車場にひいてあったジャリ、何故かそれがコンクリートの上に一直線に並んでいる映像、それから、近所の神社で作った泥団子、やっぱり「まる」なんです。
そういえば、高校生の頃、散歩していたら、傍らの垣根が、突然、呼吸しているかのように波打って、葉っぱの先から空気の粒子が飛び出してくるのが見えた事があります。今でも、モードを切り換えれば、どんな物でも生きているかのように「感じる」事が出来ます。(疲れるから、やりませんけど。)これって、何なんでしょうね?


はじめまして
No.0155  Sat, 5 Jun 1999 03:19:16 +0900  にゃんすか太郎 [この発言にコメントする]

 はじめまして。しばらく前からここのHPを見させていただいておりました。私は幼い頃、奇妙な世界の中に住んでいました。例えば、送電線の鉄塔に男女差があって、見る角度によって表情があると思っていました。他にも目に見える範囲に光のような粒粒が見えて、直接太陽を見るとそれが大きな玉になるのを楽しんだり、風が強い日に家の中からどこからともなくドレミファソのソの音のようなのが聞こえてくるのに恐れおののいたりしていました。しかし、このHPのASの判断基準ではいくつかあてはまらないところもあるので、おそらく境界線上にいたのかもしれません。
 最近、興味を持っていることに幻覚・幻想があるのですが、私はこういうのはみないのですが、私の弟はこういう奇妙なものをみる人です。他にも虫のしらせとかデ・ジャヴなど様々なことが関連項目としてありますけど、ASの方はこういう体験をなされた方が多いのではないかと密かに思っておりました。もし、このような経験をされた方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか?


Re: ルノーさ〜〜ん 0153へのコメント
No.0154  Sat, 5 Jun 1999 00:26:41 +0900  館の管理人 [この発言にコメントする]

たまごのkimiの たまきみ さん(http://ww1.enjoy.ne.jp/~muneguchi/)ですね。いらっしゃい。

でも、あれれ、ルノーさ〜〜ん ってこちらにいないし、もしかして何か間違ってはいないですか??


ルノーさ〜〜ん
No.0153  Fri, 4 Jun 1999 22:17:35 +0900  たまきみ [この発言にコメントする]

歌ってますか 弾いてますか
うっとり聞きたいですわ


「愚痴」
No.0152  Fri, 4 Jun 1999 18:11:03 +0900  じゅんまる [この発言にコメントする]

私って、カーブ投げられなくて、ストレートばっかり投げるから、案外
知ってる人に、正体バレバレだったりしてと思います。(鈍いのか、被害妄想か)

たいがいにします。様子を見て終わりにしますので。「愚痴」
要するに、「愚痴」を言わせてください。
「愚痴」って、誰も言いたいと思うんですけど、私は、今まで、言う側ではなくて、言われる側だったんです。分裂病の旦那に言いたいけど、
こん棒もって、クローゼットの中に隠れて、待ち伏せしてるくらいだから。
人の事考えてる余裕は、ないだろうし・・・。

別に人の愚痴を聞くのは、嫌じゃないんです。
(耳に入ってとしても、頭の中をただ通過するだけですから。)
私は、母の「愚痴」は、たくさん聞いてきました。姑の事やら、父の浮気の事やらで。
でも、私が母に「愚痴」を言おうもんなら、
「聞きたくない!バカヤロー!私は、首つって死んでやる!」という答えが返ってきて、
「何か、生きてるのって辛いな。死にたくなった。」と言えば、
「死ね!死ね!死ね!今すぐ死んじまえ!」ですもの。ガクッときましたね。
親と子、一身同体なんて言う人の気がしれませんでした。

母は、悪い人ではありません。それなりに愛情は、かけてくれたと思います。
ただ、うちの家庭では、スカトロジーな言葉が、いつも飛びかっていていました。そして、少なくとも、母は、常識人ではないという事は、言えます。

私が、ベットで寝っ転がって、お膳に乗った食事をベットに置いて、ムシャムシャ、手掴みで食べても、何も言わないどころか、自分もやっていました。
ところが、人前になると、
「今、あの人がお前の事を見て、笑ってた。ちゃんとしないと、私が笑われる。」と、いきなり常識人ぶって、気にするので、私は、いつもそれには、違和感を覚えていました。

自分で出来ない事は、人には、教えられません。母が、常識を私に教えられるはずがなかったように、私も子供には、常識を教えられません。
常識というのは、私にとっては、ジャラジャラしたアクセサリーのように思えます。目には、見えていても、価値観がわかりませんし、身につけたら、きっと
恐ろしく、うざったいに違いありません。
人は、時にそのジャラジャラしたものを身につけているか、いないかで、人柄を
決めます。
だから、私の本質は、わかってもらえないで、よく誤解を受けるのだと思います。
私は、私なりに、子供の事を思っています。それだけは、本当です。
でも、悲しい事に、彼が、人から好かれるように生きるために、
「常識」というものを教えてあげなければならないのに、教えてあげられないのです。

今日、子供が下痢をしていたので、学校を早退して、医者に連れて行きました。
そこのお医者さん「アスぺ」でした。
彼は、
「こういう子とは、気が合うんだよ。何故だかわかる?僕も彼と同じで
変わっているからだよ。」言いました。
「君みたいに、ボーッとしてちゃ駄目なんだよ。こういう子は、敏感なんだから、
ボーッとしないで、気を使ってあげなきゃ。」と、お説教もされてしまいました。(あの、私もアスぺで。好きでボーッとしてる訳じゃなくて。こういう
キャラクターなんですけど・・・。)私は、腹の中では、思っていました。
人から見たら、ヤドランに見えますが、ヤドランは、ヤドランなりに、生真面目に
考えてるんです。
「かくあるべきっていう考え方をしちゃ駄目。かくあるべきって考えを捨てれば、
この子は、うんと伸びるよ。」

私は、このお医者さんみたいな人は、嫌いなタイプではありません。
この人も「かくあるべき」の考え方の風当たりにさらされてきたんだろうなって
事は、予想できます。
でも、自閉とアスぺって違うんですよね。アスぺ同士もいろんな人がいて
わかりあえないように。
「宇宙人同士なら、わかりあえるはずだ。もっと倍率を上げて観察すれば、
見えるはずだ。」って言われてる気がします。
「私と子供は、お互い、違う星から来た宇宙人なんです。」って
弁解したくなります。(誰も聞いてないけど。)
子供との大きな共通点は、「集団では駄目。個別(つまり、特殊学級)が適している。でも、人とのふれあいも望んでいるという矛盾。」という事です。
以上、ながーい「愚痴」でした。ごめんなさい。


書きこみが少ないのは… 0150へのコメント
No.0151  Fri, 4 Jun 1999 15:38:45 +0900  館の管理人 [この発言にコメントする]

じゅんまる wrote:
>何か、この頃、カキコ減ってますが、私、また何か気を悪くさせちゃったのかな。
>それって、「自意識過剰よ。」って、言われてしまえば、「はぁ。そうですね。」
>って感じですが。

館の管理人のボクとしては、書きこみが減っているのはちょっとさみしいので、みんなもっと書いてくれーと言いたいとこだけど、ボクもあまり書けない性格なので、まあしかたがないや、です。

掲示板の主催者がすべての発言にレスをつけるくらいマメであると、掲示板ももりあがるだろうし、書きこんでくれた人も書きこみがいがあるだろうけれど、なかなかそういうことができない性格ということで、ごめんなさい。

筆不精で、あまり返事も書かないボクであるけれど、みなさんのメッセージを読むのはとても楽しみなことです。

どうすればもっと多くの人に来てもらえるかな? がんばって「アスペルガーの館」を有名Webサイトにするべく、宣伝活動をするか。でもその前に、肝心のコンテンツが2年前からほとんど更新もしないままというのを何とかしないとね。


いろいろと悪かったら、ごめんなさい。
No.0150  Fri, 4 Jun 1999 11:46:56 +0900  じゅんまる [この発言にコメントする]

何か、この頃、カキコ減ってますが、私、また何か気を悪くさせちゃったのかな。
それって、「自意識過剰よ。」って、言われてしまえば、「はぁ。そうですね。」
って感じですが。

アスぺの人って、傷つきやすいという事を知りましたが、私の場合ですが、
いつも、自分に対しては、いい意味でも、(ほとんど悪い意味ですが)
正直でありたいっていう強迫観念があるんです。
その為、人を傷つけることがあるんですね。
私、子供を学区内の情緒に通わせるつもりでいました。
でも、希望の情緒の学校の先生から嫌われてしまったんです。

心当たりは、見学に行った時、体育の授業で、「寒いから、車の中で見ています。」と、言った事だと思うんです。
私としては、自閉症の場合、あまり知らない人から長時間観察されるという環境の変化を嫌うと思うので、遠くから、わからないように見ていてあげようという意図が、あったんです。(自分の小さい頃は、知らない人が観察されると、落ち着かずにいられず、おかしくなっていたんですね。)思いやりのつもりで言って、
相手にわかってもらえると信じ込んでいたんです。
主人や私の母から言わせると、それは、たいへん非常識な事で、相手を怒らせる事らしいのです。いまでも、わかりませんが・・・。
そういう理由で私は、現在子供を遠い、学区外の情緒に車で送り迎えしています。

そして、その事で、もう一人の人を傷つけてしまったんです。
同じ、幼稚園だった子のお母さんで、うちの子がその子と同じ情緒に通えるとわかった時から、うれしくなった私は、その事を言ってしまいました。
相手も、喜んでくれました。
ところが、最後の最後で、同じ情緒に通えないという事になってしまって・・・。
私は、そのお母さんが、家に遊びに来た時に、言えるチャンスがあるにも関わらず、言わなかったんです。
それは、結果的に弁解になるからです。
入学式の終わった後、彼女から電話も来ましたが、電話を取った主人に
「いないと言ってくれ。」と言って、電話にでませんでした。
弁解は、嫌いです。
つまり、私の心の中には、その学区外の情緒の方がいいような気もしたので、
「これこれこういう訳で、同じ学校に行きたかったけど、どうしても行けない事情があって。」と言わなければならないという事は、自分に嘘をついている事になります。
私は、悪い人である事を偽りたくないのです。
人の思い出の中で、「あの人って嫌な人だった。」と思われたって、自分に正直でありさえすれば、私は、満足なんです。とことん自己中なのかもしれません。

そして、人にも、言いたいんです。私から言わせれば、気難しい人。
私の言葉や態度で、傷ついた人。
怒っているのに怒らないふりは、やめてほしいと。理会出来ないから。
もし、傷ついたなら、気を悪くしたなら、どこをどうすればよかったのか、教えてくれさえすれば、二度とそんなことをしないようにする。
私だって、好きで、人を傷つけたり、気分を害したりしない。
私の存在そのものが気にいらないなら、気配を消すようにする。その場からいなくなってもいい。
昨日まで、口をきいてくれてた人が、急に口をきいてくれなくなったり、態度を
がらりと変えたりする。まるで、暗闇の中を、手探りで歩くみたい。
「またか」と思いながら、暗闇が怖いのに、前に進まなければならない。

私は、障害者に見えない障害者。人から見ても、馬鹿だし、自分でも馬鹿だと思う。
漫画「カイジ」に「後ろ向きの馬鹿より、前向きの馬鹿がいい。」という
セリフがあるが、私も前向きの馬鹿になりたい。
間違っていても、徹底的して前に進むという生き方しか、私には出来ないと思う。


Re: はじめまして! 0128へのコメント
No.0148  Tue, 1 Jun 1999 23:42:44 +0900  森ぽん [この発言にコメントする]

 私がいくらかましな社会適応をしているとしたら、それはたくさんの幸運に感謝しなければならないでしょう。もっとも大きいのは同僚に恵まれていることだと思います。雑談や冗談が苦手でも仲良くしてくれるのはうれしいことです。むしろ、そういう人だとわかってつきあってくれています(ASだと告白しているわけではない)。データ処理や資料作成のような仕事で便利に使ってくれているという点もあると思います。子どもの頃熱中していたことを職業にしているということも有利な要素です。

 私の側からの努力といえば、なるべく人なつっこくするとか、決まり文句(「ありがとう」「失礼します」など…最近「恐れ入ります」ってとても便利だなと思う)をふんだんに使うとか(これでとりあえず失礼な奴とは思われない)、いつもまわりに神経を使うとか、仕事をたのまれたら極力引き受けるとか…疲れはしますが、満足な仕事のための投資だとおもってがんばります。
 子どもの頃機会を逸しているので、対人スキルに関しては今も勉強の毎日といったところです。


不器用 0135へのコメント
No.0147  Tue, 1 Jun 1999 22:46:06 +0900  森ぽん [この発言にコメントする]

 不器用といえば、中学生までの体育ではいい思い出がありません。小学校5年生まで泳げなかったので、プールのときは中で歩いていました。逆上がりは結局できないままで学校を終えました。球技のときはとにかく自分にボールが回ってきたら他の人に渡すことしかできない。

 それで、どうして泳げるようになったかというと、これが小学校のときに補習を受けた先生のおかげなんですね。水の中で、手を持ってやるから自分のほうに飛んでみろ、と。そうしたら、持ってくれなくて、そのまま浮いちゃったわけです。これがなかったらずっと泳げなかったでしょう。
 私のような不器用族は、自然にはものができるようにならないみたいです。適当にやらせて怒るんじゃなくて、ちゃんと教えてくれる人はありがたいです。


ピエロのキャラクター 0144へのコメント
No.0146  Tue, 1 Jun 1999 22:13:24 +0900  森ぽん [この発言にコメントする]

 シャボン玉の先生、いい感性をお持ちですね。あやかりたいものです。
 ところで、ピエロのキャラクターということで、思ったことがあります。じゅんまるさんの場合は高校時代にそれを発見して、演じておられた…だけど先生はすべてわかっていた、ということなんですね。
 じゅんまるさんの気持ちとは合わないかもしれないけど、私は「あー、自分もそうすればよかった」のように思ってしまいました。

 私の場合そうすればいいと理解したのは最近のことなのです。ひょうきんな人、天然ボケな人と言われてかわいがられるようにすれば、人間関係をわりと楽にこなせるということにもっと早く気がつけばよかった。そうすれば、「あなたのしていることは、まちがっている」といった言いにくいことも言ってもらいやすかったでしょう。私の場合は一方的に自己主張することが多かったので、独りよがりな人と思われて、しかも気むずかしそうだからと指摘もされず、知らず知らずのうちに深刻な対立を生んでいたようです。
 私ってよく人に笑われるんです。動作やしゃべり方がおかしいんでしょうね。以前は、くそっ、からかわれたと、いちいちいらだっていました。これからは、これも自分の性質だと受けとめて、逆に社会生活に生かしていこうかなと思います。もういい歳だから、かわいがられるというわけにはいきませんが、へんなオッサンとしてそれなりに認めてもらえればいいかなと思います。

 もしかすると、ASの人にいろいろな性格の人がいるというのは、社会適応にその人なりの工夫を重ねた結果なのかも知れません。


Re: アスぺの子(私)にとって、嬉しかったこと。 0144へのコメント
No.0145  Sat, 29 May 1999 09:50:27 +0900  キマイラ [この発言にコメントする]

じゅんまる wrote:
>彼は「お前は、面白い奴だな」と言って、笑ってくれました。

>とても、独創的で、ユニークで、そして何よりも元気一杯です。
>先生は、彼が問題を起こしても、気にもとめません。
>彼の興味の対象の分野では、能力が高いことなど、いい面しか見ていません。
>(もちろん、情緒の先生という事もありますが。)
>先生も、昔に比べるとアスペルガーのお子さんを勉強され、理解してくれている方が多くなってきたんだなぁと思います。

>その頃、私は、人と付合う為には、ピエロのキャラクターを演じれば、傷つくことは比較的に避けられるという事を覚えたので、私の中のそういう一面を全面的に出して、演じていました。

こういうキャラクターが持てる人は、幸せなのかな〜? 私はいじめられはしなかったけれど、いつも、一人でした。今思えば、人の中に入っていこうとしなかったから、いじめられなかった代わりに一人だったのかな? ちょっと、と言うか、かなり人を小ばかにしていたし、いつも、「ここから逃げること」ばかり考えていた。きっと、アスペのことを知らなかったら、今ごろはうつ病のHPを作っていたかも…。
ウチの息子は、「面白いヤツ」って言うことで、けっこう人気者なんです。この違いは、受け入れる家族や学校や時代の差なのかな? それとも、本人の才能なんでしょうかね?


アスぺの子(私)にとって、嬉しかったこと。
No.0144  Fri, 28 May 1999 20:03:32 +0900  じゅんまる [この発言にコメントする]

私は、いろんないじめを受けたり、嫌な思いもしてきましたが、別に誰も恨んでいません。私も、まかり間違えば、いじめる側にまわっていたんだと思いますし、
心を病んでいるのは、種類こそ違えど、同じだからです。
それより、人に優しくされた思い出は、私にとって宝物のように心の中に大事にしまってあります。
数は、少ないのですが、一つは、中学生の時で、普段私の事をみんなと同じように馬鹿にしていた男の子の思い出です。
私が、テストの時、消しゴムを忘れて、誰にも借りられないので、問題用紙を手で消していたところ
「お前、消えない消しゴム使ってるな。貸してやるよ」と言って、貸してくれたのです。
それから、私が頭が、かゆかったので、先生に
「忘れた教科書を家に取りに帰ります」と言ってシャンプーをしに帰った時も、
私の犬が死んだ時、悲しかったので
「おばあちゃんが、危篤だから帰ります。」と言って帰ろうとして、先生に引き止められ、パニックを起こした時も、彼は「お前は、面白い奴だな」と言って、笑ってくれました。
固定観念を持つ人は、苦手です。
外見、ちょっとした言葉、態度から「お前はこんな奴」と決めつけられるのは、
とても嫌なのです。だから、私も固執はあっても、固定観念は持たないようにしています。
中学の時の担任の先生は、固定観念の固まりの人で、必ず通信簿の欄に
「この子は、いつも仮面のような顔をしています。無表情で何を考えているのかわかりません。友達と遊んで、笑った顔をしているのを見たことはありません」
と書いてきました。
高校の時の担任の先生との思い出は、私の心の中の二つ目の宝物になっています。
それまでの先生と違って、私の事を「ユニークで面白い子」だと言ってくれたのです。
その頃、私は、人と付合う為には、ピエロのキャラクターを演じれば、傷つくことは比較的に避けられるという事を覚えたので、私の中のそういう一面を全面的に出して、演じていました。
でも、先生は、みんなわかってくれていました。卒業後に先生に手紙を出した時、返事には、「あの時、君は、壊れやすいシャボン玉の中から、外の世界を見ていたね」と書いてありました。
アスペルガーの子供にとって、固定観念を持たないで見てくれる人がいるということだけで、彼らが生きていく上で、どんなに救いになるかわかりません。
子供が通っている学級にも、アスペルガーのお子さんがいます。
とても、独創的で、ユニークで、そして何よりも元気一杯です。
先生は、彼が問題を起こしても、気にもとめません。
彼の興味の対象の分野では、能力が高いことなど、いい面しか見ていません。
(もちろん、情緒の先生という事もありますが。)
先生も、昔に比べるとアスペルガーのお子さんを勉強され、理解してくれている方が多くなってきたんだなぁと思います。


Re: みんな、いいな〜! 0137へのコメント
No.0143  Thu, 27 May 1999 21:23:10 +0900  じゅんまる [この発言にコメントする]

キマイラ wrote:
>私は、見たものにすぐ同化してしまうので、映画やドラマを鑑賞できません。人の感情に振りまわされて、とってもしんどいのです。映画談義に花を咲かせられるなんて、いいですね。

私は、見たものにすぐ同化してしまうという傾向はありませんが、あまりに情緒を表に出したものや御都合主義のストーリーは、好きではありません。
みなさん、こ存知、今でも再放送をしている「大草原の小さな家」は(映画ではありませんが)好きではありませんでした。
どこが、嫌いかというと、あの家族は、何回も「愛してる」という言葉を連発するからです。私は、その度に、耳をふさぎたくなりました。
それに、この話の父親は、すぐに涙を流します。うちの母は、この番組を見ながらよく泣いていました。それも私には、耐えられませんでした。
私は、3歳の時に、腹違いの兄から、「泣いたら、もっと、ひどい目にあわせてやる」と、言われてから、人前で泣かない事に決めました。
学校で、どんなにいじめられても、彫刻刀で、首の後ろの肉をえぐられた時も
ドアの所に手を置いた時に、思いっきり閉められたので、指の骨が砕けた時も
泣きませんでした。痛いというより、人に受け入れられないショックの方が大きくて、感情も何もかも、麻痺してしまうのです。(さすがに、親は、いじめた相手の家に押しこんでいきましたが・・・。)
「こいつ、泣かねーんだぞ」「息してるだけじゃ、生きてるっていわねーんだよ」
「植物人間」「情緒障害」いろんな声が、頭に入ってきました。
でも、私は、固まったまま、小学校の6年間、トイレか目的がなければ、机から動くことがどうしても出来なかった。
「愛してる」って言葉も嫌いです。「愛」っていう概念っていちいち言わなくたって、わかると思います。
私の理想の家族は、「赤毛のアン」のマリラとマシュウです。
「マリラ」のアンに対する接し方って、本当に理想的です。
彼女は、現実的で、虚栄心がなくて、正直で、(あんな人になりたいなぁ)と、子供の頃、憧れていました。
「マシュウ」も暖かくて、静かで、空気みたいに匂いがしなくて、好きでした。
分裂病の夫も、そんな感じのところが似ています。
主人公の「アン」のような気持ちには、共感できませんでした。
きれいなものに感動する心が、私にはないのです。どんなに美しい花や宝石や服や景色を見たとしても。

>でも、ゲームなら良い、と最近発見しました。このゲーム時代に、私より重症でいろんな事ができない息子は、ゲームができません。代わりにやって見せていたら、二つの大きな発見をしました。

私も、ゲーム好きです。うちの子供は、キマイラさんのお子さんのように、視覚的な能力が優れてるわけでもないし、手先も不器用ですが、それなりに私のゲームをしている姿を見て、まねして楽しんでくれるようになったので、良かったなぁと思っています。

>傲慢な考え、そして、もうひとつは、アスペの私と私の家への嫌悪と否定でした。それで、得たものもたくさんありました。仕事もできるようになりました。でも、失ったものの方が大きかったような気がします。
>私の息子たちには、二度とこんな思いをさせたくありません。たとえ、障害があって、どこかに欠陥があっても、必ず何かのとりえがあるはずです。そういうひとりひとりの個性を活かして、自信を持って生きて欲しいと思っています。

子供は、私と違って、幸いに情緒過多な方です。きれいなものに感動する心を持っています。優しい子に育ってほしいと心から願っています。


Re: アスペと自閉症2 0140へのコメント
No.0142  Thu, 27 May 1999 08:06:38 +0900  キマイラ [この発言にコメントする]

館の管理人 wrote:
> わたしが言いたかったのは、大人になって自分を説明する能力もある本人が、いつまでも子供のときの診断名を使いつづけなければならない理由はないだろう、ということです。

>わたしは人とつきあいたくない人なのだと思われたくないし、ひきこもり症なのだとも思われたくない。対人能力がまったくないのだとも思われたくない。
>そのように誤解されたイメージをもたれてしまうというのは仕事して生活していくうえでもとても不利益なことです。

病態が加齢とともに変化したり、成長の仕方も様々なのは、当たり前の話です。その前に、診断そのものが曖昧です。見る人によって違うだけではなく、いくつかの症状のうちの目だったところを拾い上げれば、何かしらの診断名はつくでしょうが、残された問題が解決するわけではありません。
「自閉症」という診断だって、その言葉によって苦しんで来た人もいれば、それによって救われる人もいるでしょう。私の場合、ショックを受けたというのは、自分自身の自閉的な要素について「知った」からではなく、「知らなかった」事へのショックでした。今まで、無駄ではなかったけれど不当な努力を、あまりにもたくさんしてきたこと、私の人生は一体なんだったのだろう、ということでした。どんなに努力したって、やっぱり「自閉」の人の方に近かったのに、「普通と思いこんでいた」時間を取り戻すことは、もう、できません。でも、これは私自身の問題であって、私が勝手にしたことで、「アスペルガーの舘」の責任ではありません。

人間は機械じゃないから、正常と異常の違いなんかもともとないのです。普通と思っている人だって、何千も何万もある人間の能力の項目をチェックして行けば、100や200の欠陥があって当たり前です。だからこそ、ひとりひとり違っているんだし、能力に差があるのです。
その中で、「自閉」性の事柄には、それなりの対処の仕方があり、適切な対応をすれば伸びる可能性は十分にあります。「注意の欠陥」だって、「学習上の障害」だって同じことです。今まで、頭が悪い・不器用・性格が悪い、と言われてきたことの中には、本当はそうじゃなかったことがたくさんあります。私の息子がそういう困難を抱えていることが判らなかったら、今ごろはひどい情緒障害に発展していたことでしょう。
ただ、私の周囲は、「自閉」について知らない人ばかりで、この言葉を使ったほうが通りがいいので、使っています。それもまた、「私」のとるスタンスであって、使いたくなければ、いや、使う必要がなければ、使わなければいいだけのことです。


Re: みんな、いいな〜! 0137へのコメント
No.0141  Thu, 27 May 1999 04:24:18 +0900  おサルのジョージ [この発言にコメントする]

キマイラ wrote:
>私は、見たものにすぐ同化してしまうので、映画やドラマを鑑賞できません。人の感情に振りまわされて、とってもしんどいのです。映画談義に花を咲かせられるなんて、いいですね。

私は、フィクションずきですが、大人の作品、(喜怒哀楽、恨み、悪意エトセトラ
が、おもいきり、ひょうげんされているもの)には、だいぶ大きくなるまで
抵抗がありました。だから、結構大きくなっても、いわゆる児童文学の
愛好者で、今も子どもと一緒に、楽しんで読んでます。
専門が、英文学だったので、上のような作品も読まなくては、いけなかったのですが、だんだんなれました。というより、ここで、こんな話をしていいのか、わからないのですが、文学(フィクション)を、感情から、切り離して、分析的にも読める
ということを、徹底して、英国人の教授が、教えようとしていたのです。
おもうに、日本人の文化と言うのは、かなり、情緒的のようなきがします。
この先生にかかされたレポートが、私にとって、かなり、隠れたリハビリになりました。いつも、要点は、なんだ、お前の意見は、どこだ、なぜそうなんだ。
と、追求されました。
その人が、いわゆるお涙ちょうだい的な詩と論理的に構成されたドライな詩を
よませて、どっちがすばらしい詩か、と、学生に聞くと、見事にみんな
感情的な方をえらんだのですが、それは、どこかの雑誌に載っていた詩で
ドライなほうが、有名な叙事詩だったんです。
この先生自体の趣味だったのか、英国文化全体の傾向かは、留学も
していない私は、よくわかりませんが。感情にながれないので、
私には、わかりやすい世界のようなきがしました。
会話も、英会話をせざる負えない状況になって、意識的に話す。
要点をまとめて話す(そうしないと、英語力がついていきません)練習を
したので、日本語で話すのも、なんだか、すこし、楽になったんです。

いまでも、だから、日本情緒たっぷりの、世界は、にがてです。
それから、恐い、、系統の物は、全くうけつけません。

いまでは、また、結構感情移入もしますが、昔より、フィクションを、突き放して
見ている所もあります。好きなのには、かわりはないですが。
むかし、大江健三郎の小説を読んで、地下鉄の階段で、動けなくなっちゃったこともありました。そうか、キマイラさんの文を読んで、私が日本文学が、苦手
なのは、感情移入をしやすいから、かもしれないとも、おもいます。
いままでは、私は、そういう、わりと、ウェットな、世界は、嫌いだとおもって
いたのですが。苦手なのかもしれません。

子どもは、主人公がかわいそうな、場面から先に進めないときが
あります。アルプスの少女でも、山から、連れ戻されハイジがかわいそうで
だめなんです。大丈夫、辛いことは、あっても、良い事もあるんだよ
と、まるで、現実の人生を、励ますみたいに、なぐさめています。
一緒に、この辛い場面を乗り越えようね、という気持ちで、いつか
一緒に読み進みたいと思うこのごろです。(それは、息子との実生活にも
ちょっと似ています)


Re: アスペと自閉症2 0139へのコメント
No.0140  Thu, 27 May 1999 02:19:52 +0900  館の管理人 [この発言にコメントする]

子供のときにどういう診断名がついたか、そして特殊教育を受けたか普通教育を受けたかということで、そのあとの長い人生が決まってしまうわけではないでしょう。特殊学級や養護学校で教育を受けて、のちに知的な分野の仕事で活躍する人がいるというのは自然なことだと思います。成長のしかたというのは人それぞれなんだし。
 わたしが言いたかったのは、大人になって自分を説明する能力もある本人が、いつまでも子供のときの診断名を使いつづけなければならない理由はないだろう、ということです。

>  アスペが高機能自閉と同種か、似ている違うものか、どっちでもいいです。ただ、医学的に論議中ですが、「実はほとんど同じものです」と結論が出ることもあり得るのです。

ならば高機能自閉などいう言葉を使わないで、みんなアスペと言うというのでもよいと思います(「高機能広汎性発達障害」なんてのはわかりにくいし)。でも「自閉症」の語に愛着を持つアスペ本人たちも多いですし、好みの問題、あるいはそれぞれの微妙な感覚の問題ですね。
自分をどういう言葉で表すかというのは人それぞれの自由だと思います。

わたしのHP「アスペルガーの館」をみてくれてた人のなかには、「なんだおれのことじゃないか」と思いながら「いまさら自分のことをアスペルガーだとか自閉だとかいわなきゃないなんてアホらしい」と通りすぎていっている人もたくさんいるだろうし、それでいいと思います。自閉症やアスペなどというレッテルに頼らないで自分の力で生きていこうとしている人たちのじゃまをしたくはありません。そうやって満足のいく人生を送れている人たちもたくさんいるはずです。(そんな人に対して、あなたはアスペだからどうのこうのと言うのは余計なことですね)

わたしは「アスペルガーの館」をうちわのものとしてではなく、とくべつ知識をもたない一般の人にも理解してほしいと思って開いている。「自閉症」という言葉を前面にだしたのでは誤った先入観をもたれてしまうだろうと、奥にひっこめている。
わたしは人とつきあいたくない人なのだと思われたくないし、ひきこもり症なのだとも思われたくない。対人能力がまったくないのだとも思われたくない。
そのように誤解されたイメージをもたれてしまうというのは仕事して生活していくうえでもとても不利益なことです。


アスペと自閉症2
No.0139  Wed, 26 May 1999 19:01:44 +0900  さんどる [この発言にコメントする]

 管理人さんや皆さんがいろいろ悩むことを書いてしまって心苦しく思います。
 私が言いたかったのは、自閉症、特に高機能の人たちをアスペとあんまり区別しないで欲しいなあ、っていうことだったんです。このページは自閉症で能力の高い方達も訪れると思いますし、そういう場であって欲しいと、勝手ながら思います。 アスペの人が自閉に属するか属さないか、個々に考えがあって良いと思いますが、世間にもほとんど理解されていない「自閉症」をここで、「重い障害」と受け取られることにはとても抵抗があります。
 アスペである方達を傷つけるようなことはいいたくないけれど、自閉症と診断されている方にも傷ついて欲しくなかったので。 心の理論の著書をきちんと読んだわけではありませんが、私の周りの高機能自閉の中には、アスペ同様情緒的な(人の気持ちをくみ取るなど)障害の軽い人もたくさんいます。
 
 普通学級で息子も私も精神的に低迷し、もう情緒障害か特殊へ変わろうか、とまだ迷っているときにアスペの会にも参加している主治医に「選択肢の一つに養護学校もある」と言われた時はとてもショックでした。正直言って「アスペなのに小学校から養護学校?」という気持ちでした。
 今は、「学校の選択は、子供の状況に応じてで、知能や潜在能力によるものではない」と考えられる(つもりです)し、現在は特殊学級の担任にも「順調すぎるほど順調」と言われる位ですが、担任と同様、今後の状況によって普通学級も養護学校も範疇に入れておきます。
 自閉症というと知的なことも含めて、アスペより範囲が広く、重い人の割合が多いですし、本の内容も映画も重い症状が中心になっている(軽い人が中心では参考になる人が少ないということなのか)ので、アスペの人が「ちょっと違う」と思う気持ちはわからなくもありません。私も全体に重い自閉症の人と全てが共通するとは思っていません。
 
 アスペが高機能自閉と同種か、似ている違うものか、どっちでもいいです。ただ、医学的に論議中ですが、「実はほとんど同じものです」と結論が出ることもあり得るのです。(ある専門医がいっておられたので。)仮にそうなったときに、私が「養護学校」の言葉を聞いた時と同じようなショックを受けられる方もいるのかな、と思います。

息子のエピソードなど書きたいと思いますが、文才がないため、ここまで書くのに3時間もかかってしまって息子もほったらかしなので、またの機会に。


Re: 映画の中の自閉症 0134へのコメント
No.0138  Wed, 26 May 1999 14:18:08 +0900  館の管理人 [この発言にコメントする]

じゅんまる wrote:
> 最近、ビデオで「キューブ」と「マーキュリーライジング」をみました。
> 両方とも、自閉症が出ていたので、とても興味深かったです。

あと自閉症を描いたものは「学校3」ですね。原作の『トミーの夕陽』(鶴島緋沙子 著、 http://www.netlaputa.ne.jp/~tugeshin/ )は、自閉症のトミーの母親である著者がトミーの視点でつづった小説です。
このような映画によって、自閉症への一般の理解が広がってくれるのは良いことだと思う。
(というぼくも「レインマン」をみるまで自閉症がどんなものか知らなかった)
でも「自閉症」を描いた映画によってASのことがわかるかといえば、それは別。

いろんな映画の登場人物の中に、AS的なものというのは見られるように思う。
たとえばつぎのようなもの。

「エンジャル・アット・マイ・テーブル」(ニュージーランドの作家ジャネット・フレイムの自伝をもとにした映画。ジェーン・カンピオン監督。カンピオンの映画では「ピアノ・レッスン」ほど知られていないようだけど、すごくいい映画です)――若いころ「分裂病」と診断されて8年ものあいだ精神病院に閉じ込められていて、入院中に書いて出版社に送った作品が賞をとったことですんでのところでロボトミーの手術をまぬがれて、そのあと誤診だったと言われて愕然(分裂病でないならあたしは何だったの)。そしてあいかわらず人と交わることがとても不器用なのだけど、作家として成功をつかんでいきます。
この映画を観たのはASなんて知るより何年か前だったけど、とても生きていく勇気を与えてくれるものでした。

「イル・ポスティーノ」――いい年して仕事もなく恋にも無縁のぼくとつな青年が郵便配達の職をみつけ、亡命してきたチリの詩人パブロ・ネルーダのためだけの郵便配達人になって、女性からのファンレターばかりだと羨望しつつもネルーダから詩を習って、言葉の力を獲得していきます。
世界的に大ヒットした映画なので、みてるひとは多いでしょう。ぼくもとても好きな映画です。
自分の表現を手にするということ。ぼくにとってはこうしてネット上に登場できたということかな。

「恋愛小説家」――売れっ子の恋愛小説家の実態は、偏屈な嫌われ者の中年男で、実際の恋愛の経験はゼロ。それがウエイトレスに恋をして…
変なことにこだわりがあったり、だいじなひとの気分をそこなうことをつい言ってしまったり。ちょっと自分をみるようでした。
ハッピーな気持ちになれる映画です。

あまりみているほうではないけれど、感情移入してみれる映画はすきです。
そうか、それがしんどいということもあるのか。ひとそれぞれなんですね。

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