アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
自分解釈です。あまり本気にしないでください。
愛→大切にすること →理性的な「御大切」
恋→欲しがること・煩悩
性欲→生理的なもの →生殖本能からくる「衝動的なもの」
・巷で安売りされている「恋愛(元来中世貴族の文化として発明されたロマンティック・ラブが形骸化したもの)」
これなんかは実体があるのでしょうか??それがそもそも疑問。
つまり実際は「独占欲」「情欲」でしかないものを、上記の「恋愛」であると思い込んでいるだけ、とか。
自分解釈の「恋」に近いもの?よく分からないけど。
「御大切」という言葉は、好きです。 私はそれが「愛」だと思っているので、それだけでいいです。
「恋」は、別に必要でもないし、知らなくても私はどうでもいいです。
最近、パソコンを長時間見すぎて疲れるので、
なるべく投稿はしないぞー!と言っていたのに、
ここを見ると、ついつい、書き込んでしまいました。
ではでは、失礼します。
ふれ wrote:
>りるさんwrote:
>>
>>昔「たこ焼きスナック」というのがけっこう流行った時期があって(商品自体は今もあると思いますが)、
>>確かその最初のパッケージには、商品名や商品写真と共に、
>>擬人化されたタコが「おいしいよ」というのぼりを持っているイラストが印刷されていたのです。
>>「己の切り身が入ったもの(正確にはその味を再現したものでしょうが)を
>> その当人(同胞かもしれませんが)に自ら『おいしいよ』とアピールさせるとはなんて残酷で痛ましいんだー!」
>>と言ったのですが、誰にもとりあってもらえませんでした。
>
> この話、私は笑いころげてしまいました。りるさんて面白いひとですね。
>タコに理性があったら、そうかもしれないと思いましたけど。魚は食べてよいものであることが、聖書に書かれていたので気になりません。7つのパンと数匹の魚をイエス様は四千人の群集に奇跡によって分け与えました。マタイ15章のところです。
ううむ。ふれさんはクリスチャンでいらしたのですね。
私は信仰を持っていませんが、
・ふれさんは信仰をお持ちでクリスチャンである
・私は信仰を持たずクリスチャンでもない
という、
差異(が存在すること、それぞれが異なる文化背景を持っていること)を尊重します、という点を、
まず明記しておきますね。
で、宗教絡みになると、話が少々(というのは婉曲表現で、実際は「かなり/非常に」です)ややこしくなってしまうのを
何度も経験していますので(私はクリスチャンでない人の中ではキリスト教に関する知識は比較的ある方だと思います)、
宗教については置いておくことにします。
とりあえず、ふれさんが、
ご自身の趣味=釣りについての私のレスで気を悪くされてはいないこと、
面白がって笑い転げてくださった(=「気を悪くはせず、なごやかに受け止めてくださった」と理解しました。特に笑い話として書いたつもりはないのですが(^_^;))ということで安心しました。
で、「タコに理性があるか否か」ということなのですが、
私の知る限りですが、「タコに理性(知性)はない」という証明はされていませんよね。
「ヒトと同じような知性はない」と、(あくまで)ヒトの方法で証明されてはいるかもしれませんが。
この話から以下の話につなげると、もしかすると気を悪くされる方がいるかもしれません。
ですが、誤解を怖れず、この話から思い出したことを率直に書いてみます。
母親の仕事の関係で、ダウン症や脳性麻痺やカナータイプの自閉症や、重い知的障害を持つ方(子ども)に初めて接したとき
(確か小学校低学年でした)、
「普通の人(健常者)」がしないような奇矯な言動をする、「普通の人」が普通にできることができない、ということで、
そういう方々が一般的に社会の中で低く見られる傾向にあるというのは知っていましたし、その場でも感じました。
ですが、私はそのとき、
「私や『普通の人』にはわからない(感知できない)だけで、そういう人々には、その人々だけに通じる、その人々だけの何か特殊なコミュニケート法や、『普通の人』のやり方では計ることすらできない(わかりやすく例えれば宇宙人のような)独特の知性や能力があって、私たちは、その人々のコミュニティ内では、実は逆に見下されたりしているのではないか?私たちはそれを感知できていないだけで、そのこと自体も『何もわかってないよね〜』と思われているのではないか?」と、
「畏れ」のようなものを感じたのです。(「恐れ」ではなく)
長じて、知的障害や自閉症についてもう少し知識を得て、更にアスペルガー症候群という概念(発見?)を知り、
あのとき第一印象として私が感じたことは、ある意味当たっていたのだと思い、嬉しく思いました。
当たっていない、とか、気を悪くした、とか、嬉しいなんておかしい、とか、そういう方がおられましたらどうぞご指摘ください。
#Mariaさんの書き込みをじっくり読んでレスする余裕がなくなってしまった…<自分が昼間っから書きまくったせいですが。
タマさん wrote:
>もっと、わりきって、いろんなわだかまりを捨て去って
>バカにされても笑われても自分らしく生きることを大事にしたい。
>でも、それが、なかなかできない私です。
>バカにされたくない、笑われたくない、人の目が気になる…。
>だめだなあ、私って。
>
私も若い頃はそんな気持ちが強かったと思います。でもだんだん年を重ねていくうち、人間てどんな素晴らしい人でもホントのところはそんなにたいした事は無いものであり、必ず年をとって病気になったり、痴呆になったりして、最後には亡くなることを避けられないものなのだと悟ると、とても気が楽になったように思います。どのように思われるのか、ではなく、どう思うのか(自分が)という客観的な視点をいつも念頭に置くと、少しずつ変わっていくとおもいます。人間のあり様がこんなものであり、こんなところがあったり、こんな性格の人がいるのだなぁということが認識の中にたくさんのサンプルとして入ってくると、生き易くなるかと思います。
わたしは私、こんな趣味が大好き、こんな食べ物も、ってな調子で自分の感性を大事にしていくと、だんだん明るくなります。
りるさんwrote:
>
>昔「たこ焼きスナック」というのがけっこう流行った時期があって(商品自体は今もあると思いますが)、
>確かその最初のパッケージには、商品名や商品写真と共に、
>擬人化されたタコが「おいしいよ」というのぼりを持っているイラストが印刷されていたのです。
>「己の切り身が入ったもの(正確にはその味を再現したものでしょうが)を
> その当人(同胞かもしれませんが)に自ら『おいしいよ』とアピールさせるとはなんて残酷で痛ましいんだー!」
>と言ったのですが、誰にもとりあってもらえませんでした。
この話、私は笑いころげてしまいました。りるさんて面白いひとですね。
タコに理性があったら、そうかもしれないと思いましたけど。魚は食べてよいものであることが、聖書に書かれていたので気になりません。7つのパンと数匹の魚をイエス様は四千人の群集に奇跡によって分け与えました。マタイ15章のところです。
あめさん wrote:
>Mariaさんへのレスでも書いたのですが、私は読字障害+読解力が欠如しているところがあり、
>正直、あんくさんの文章は難しかったです。
読字障害については、私も知識不足ではあり、自分の文章をアップロードするときでも、常に小さな罪悪感を抱えたままではいるのですよ。「ひょっとして、あんくの文章、読めないって人も、多いんだろうなあ」っていう。
いくつか質問させていただきたいのですが、
1・「画数の多くて複雑な二字熟語」が続いたりすると(つまり漢字を沢山使うと)、判読しづらいでしょうか?
2・逆に、平仮名が続いたりするのは、どうですか? 例:「それはあまりいい考えだとは思えないな」→「あまり」というのは、ふだん「余り」とは書かないように、あえて平仮名にしたほうが、スマートになるという場合もあるので。
3・あめさんの文章を拝見していると、どちらかといえば「話し言葉」に近くて、「ひらがな」の占める割合というのも、多いような気がします。逆に、同じような文章を、ご自分でお読みになる場合には、「読みづらい」と感じますか?
もしできたら、文章の最初に、「読字障害があります」といった断り書きなどあれば(どういったところに不自由を感じるか、といった、説明があればなおよいのだけれど)、それなりに配慮してレスさせていただくことが、できるかも知れません。
あとMariaさんの掲示板が復活すれば、文章講座を開講なさっているようなので、参考になるかも知れません(←そういうときは「推奨します」と書くもんじゃろうに!)
それにしてもMariaさんのように、IQが高いとパラドックスに満ち満ちたような文章になりやすいというのは、これはもう神経症状のなせるわざと思う他ないんだろうかにゃ?
りるさん wrote:
> 「私が今直面してるカルチャーショック(=まったくの異文化を背負った人と初めてまともに接した)」というのは、先日のここでの(123さん関連の)話ではなく、まるっきり別の、私個人の、オフでのプライベートな話なのです。
なるほど。
誤読の原因は、あたしの場合、あたしの「ロジック・思考回路」を理解している人はあたしとほぼ同一の文化を背景にしていて、あたしの「ロジック・思考回路」を理解していない人はあたしとはまったく別の文化を背景にしており、そういう人はあたしが背景にしている文化を理解したくもなければする気もない、ということにありそうです。
この点について詳しく論じようとすると、「理系/文系」「理科系/文科系」「文人趣味」「スノビズム」とかいった言葉について詳しく論じないといけなくなってしまうので深追いはしないことにしますが、基本的には「考えるのが好きな人/嫌いな人」で別の文化を持っている(考えるのが嫌いな人が果たして文化と呼べるものを持てるのかどうか疑問なんだけど)ことに理由があるように思います。
> 後の発言は非常に興味深いので、じっくり読みます。
と、いうことなので、ちょっと補足。
> で、実際、プログラマーとしての仕事の中では、「異質な文化を背景にしている」ことがプラスに作用することが多いんです。
> それは、左利きのボクサーが有利なことに似ています。相手は左利きのボクサーと対戦したことがほとんどないのに、こっちはほとんど常に右利きのボクサーを相手にしているわけですから。
以前、この『アスペルガーの館の掲示板』で挙げた例としては、ある証明問題の例があります。
「4つの数字を加減乗除することで10を作る」という遊びがあります。で、「その4つの数字に0が含まれていなくて、すべて異なっている場合は、常に10が作れる」という法則があるんですよ。で、「それをどうやって証明するか」という話になったときに、「普通の人」というのは、だいたい「無理だ」とお手上げになってしまいます。
ところが、「簡単だよ」という人がいました。「どうやるの?」と訊いたら、「全部で126通り(=9×8×7×6/4×3×2×1通り)しかないんだから、全部試せばいい」。
ところが、「普通の人」は「ずるい」「それは証明になってない。『やってみたら、できた』じゃ、“証明”とはいえない」とか言って怒るのね。
いわゆる「コロンブスの玉子」というのもあります。よく云われるお話だと、コロンブスは玉子の一端をテーブルに打ちつけて玉子を立てた、ということになっているのですが、本当は、玉子というのは立つんです。
成るべく新鮮な、ざらざらした玉子を用意し、水平で安定したテーブルの上に、そーっと立てると、三個のうち二個くらいの割合で、玉子というのは立ちます。
「そうやって私のことをからかって喜ぼうというのだろう」とか言う人もいるので、実際にやって見せるのですが、それでも「いや、何かトリックがあるのだろう」とかいって信じない人がいます。中には自分でやってみて、立つことを確認しながら「きっと何か仕掛けがあるんだ。おかしい」とか「これはたまたま立ったというだけで、特殊なケースだ。普通にやったらうまくいくわけがない」とか言っている人がいます。
人間には、なにか「証明」なり「解決策」なりのイメージがあって、そこから外れたものを排除する傾向があるように思います。一種の(作為のない、先入観による)ミスディレクション(=誤誘導)と言えるでしょう。そういうものに囚われない、という意味では、変わり者というのは問題解決に役立つ部分があります。トリックスターというのは、本来的にそういうものかも知れません。
>> ある言動について、
>> 「(私)なんでそうするの?」「一般常識としてそうするものだと自分は思っているから」「なんで?」「そういうものだから」「なんで?」
>> おそらくどんな面においてもこの繰り返しで永遠に平行線なような気がします……。
>
> 「常識」というのは、けっこう偉大なものです。工学の世界では、「車輪の再発見」という言葉があって、ものを移動するにはけっきょく車輪を使うのがいちばん実用的だったりするわけです。
> そんなわけで、「常識」は十分に掘り下げる必要があるのですが、多くの人はそこのところをサボって、単なる思い込みに引きずられています。
「一般常識」といった場合、『人間はなぜ鯉や鮒を食べるのに、生物学的には同じ種であるはずの錦鯉や金魚を食べないのか?』みたいな「常識」について考えたほうがいいかもしれません。「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんかもそうです。
「蛇や猫を怖がる人がいるのはなぜか」なんかもそうなんですが、少なくともそこには人をそうさせる機序(メカニズム)が働いているわけです。多くの人は、その機序を詳(つまび)らかにすることを怖れているように思います。「そうだから、そうなんだ」というところから、外に出るのが怖い。
普通の人にとって、「理性」というのは、「自分の外にあるもの」として位置づけられているのではないかと思います。だから、理論で説明されてしまうと、自分のもの(自分の一部)ではなくなってしまうような気がするのではないでしょうか。あたしの場合は、逆に「すっきりと説明される」ことで、真に「自分のもの」になるような感じがするのですが。
> 応用数学という分野に「ゲームの理論」というのがあり、その中の意思決定理論というのによれば、「合理的判断は、必ずしも合理的な結果をもたらさない」ということが分かっています。「囚人のジレンマ」という名前で知られているのですがね。
「最近の子供はゲームと現実の区別がついていない」みたいなことを言う人がいますが、「純粋に(遊びとしての)ゲームとして楽しめる(概念としての)ゲーム」と、そうでないゲームの区別という点においては、むしろ大人のほうが混乱しているように思います。
たとえば、シェアを得るためにダンピングなどの方法で競合他社を潰しにかかる、というのは「利益を得る」という「ゲームの中の価値」に対しては忠実なのですが、「社会における価値観」には反しています。「反則が負けにつながらない範囲で、反則行為も活用する」というのがプロサッカーなどでは「正しいこと」とされていて、「上品なプレイ」は否定的に見られているわけなんですが、そういう態度こそが「ゲームと現実の区別がついていない」気がします。
世の中には価値観が混乱している人がけっこういて、それを「文化」だと思い込んでいる人もいます。こういう人を「理解」しようとするのは、危険なことのように思います。
(Maria)
ふれ wrote:
>>
回りとずれていて苦労があり、会わせなくちゃいけないという思いが、日常のストレスの原因のようです。
会わせなくちゃ→合わせなくちゃ 、です。
りる さんwrote:>
「異性は薄着でブラジャーをしていないと『ヘンな目』で見る」という事実を知っているので、仕方なくしていた時期もありました。
>(その拘束感の不快さに耐えられず長時間の外出ができなかった、パニックを起こしかけたなど、行動に制約が生まれてしまったこともあります)
>いろいろ試行錯誤して、今は「ヘンな目で見られない」ことと「拘束感が極力少ない」ことが両立するような下着を選んでいます。
>ハズレに当たることも多いですが、がんばって探せばなんとか見つかるものだなあと思いました。
>
ほとんど私も同じです。ちょっと驚いたくらい似ています。
ずっと前、きつめのセーターと上着を着て出かけたところ、地下鉄の中でパニック状態寸前となり、次の駅で降りて、どんどん脱いだら(もちろん全部じゃないよ)命拾いをしたような気がしました。このときブラジャーなんぞしていないのに、そんな風になったのです。普段はゆるめのブラスリップか、ただのスリップを着て、ブラウスにジャンパースカートでとにかく楽な服装に徹しています。ストッキングもだめで、ハイソックスかソックスのどちらかです。首をすっぽり包むタートルネックのセーターにいたっては、ゼーッタイ着ないです。人が着ているのを見るのも少しつらいですね。どうしても、ブラジャーが必要な時は、(スポーツなど)ソフトブラを愛用しています。
私は健常者なのですが、こういう話を聞くとやっぱりかなりASなのかもと思います。割合個人主義的発想が多く、回りとずれていて苦労があり、会わせなくちゃいけないという思いが、日常のストレスの原因のようです。
あつみさん wrote:
>では、異なる文化を持つもの同士が、理解し合い、お互いの存在を尊重するにはどうしたらよいのだろうか?
>と考えたわけです。
>そして、そのためにはどちらか一方だけが優位になる「ロジック・思考回路」に基づいた土俵で、意見をやりとりするのではなく、お互いの「ロジック・思考回路」をそれぞれ理解しようと努力するか、または、新たな「ロジック・思考回路」に基づいた土俵を作るということが必要なのだろう、という結論に至ったのです。
>ここの掲示板を拝見するようになって、そうした「精神力」をひしひしと感じさせる書き込みに、度々出会い、私も「本当に思っていることを、言葉を尽くして言ってみよう」と勇気づけられました。
>実際の会話となると、相手の話を聞きながら理解し、それに次々と答え、同時に自分の考えを纏めて言いたいことは言う、という、アクロバティックな技術が要求されますからね。とても難しいと思います。やはり、会話のスピードが速い人とか、押しの強い人、多数派の意見を持つ人の方が優勢になってしまう。
「自分には技術がないからダメだ」と、思ってしまう必要は、ないんですよ。相手がスピードを挑んでかかったら、逆に、じゅうぶんすぎるほどの「間」と「距離」を置きつつ、「あなたのペース」になることを断固拒否することを、言葉によらず「黙示」してみせるという技術だって、あるのです。
ほら、よく、いるじゃないですか。自転車で走っている時、無闇に追い越しを仕掛けたがってくる人間。やられた方もやられた方で、「勝った!」という、相手の独り言を聞きつけてブチ切れ、「なにおー!負けるかー!」とばかりビュンビュンビュンビュン、熾烈な競争を買って出てしまうタイプ。お互い一面識もなければ
、勝った方に褒美が出るというわけでもない、はたから見れば、ただひたすらに不毛でしかないというのに。
1年ぐらい前だったかな、小学生ぐらいの女の子に、そういう向こう見ずな「勝負」を、挑まれた記憶があるんですよ。例によって、アスペ的無用の長期記憶ってやつなんですけどね。で、私はさりげなくブレーキをかけ、停止して「試合を放棄」して見せました。女の子、追い越しながら、振り返ってみてびっくり仰天って表情だったなあ(吹)。無論、その間一語の発語もなしです。
こういった程度の技術なら、比較的軽い自閉人でも、日常的に、行使していると思うんです。言葉がすべてではないってことですな。
あんく wrote:
> 「捨て台詞」だと、意見交換にもならないんですけどね(-_-!)。「健常の第三者」と、「当事者」が、川のこっち側とあっち側のまま交わることもなければ、普段の生活で、Asやその他の発達障害について、トラブルや葛藤をも忌避することなく語り合える場、というのが、この国の土壌には見当たらないよなあ。
あつみさん wrote:
>そういう「場」を見つけたい!というのが、「異文化コミュニケーション」を達成したい、ということなのです。いや見つけるのではなく作らないといけないのでしょうかね。双方にとって、自分の価値観を揺るがされるような辛い場になるかも知れないと思いますが、もしこれが実現できれば、(ちょっと論理が飛躍しますが)戦争や民族紛争の予防などにも、役に立つのではないでしょうか。
全般的な差別問題についての話し合いの中でも、「精神」関連は、いまだタブーの最高峰視されているというのが、現状らしいですね。TV新聞にばんばん露出しては、あれだけ口うるさい有名文化人、知識人といったたぐいが、精神・発達関連分野では、人っ子ひとり見当たらない。話題にするのは超・有名人のカミングアウトなり告白本なり出てから、というのが、日本人的「ダンドリ」に、なっているんだろうなあ。
ただ、最低限、タブー視されている原因というのが、当事者側自体の「ヤバさ」にあるのでなく、たとえば病院側の扱いのような、「見えない悪事」のほうにある、という認識は、今のところは我々だけでもきっちり確認しておくべきだと思います。
ふれ wrote:
> 今度、川へ行って釣りをする予定です。誘い釣りというやり方がありますが、それを自己流に変えて、魚の闘争本能をうまく使って釣り上げるやり方でわたしは楽しんでいます。管理釣堀で、1時間半くらいの間に10匹釣ったことあります。岩魚、やまめなどでしたが、後で食べておいしかったなあ。人とはダメでも、魚とは結構うまくいくようです。釣りの好きな人、アスペに居そうだけど、みなさんはどうですか?
私は魚と同化してしまうらしくダメです・・・。といっても、私は未診断の自称アスペですが。
#もしかしたらこの発言はふれさんの釣りの楽しみを削いでしまうかもしれないと思うので、その危険を感じられるようでしたら以下は読まないでくださいね。
自己/他者の「他者」としては、私の中ではヒトと犬猫やいろいろな生き物がかなり同列です。もちろんレベルは違いますが。
あの逆トゲのついた針が自分のノドに刺さって自力では二度と抜けなくなって「うわあ痛い!苦しい!」という状態を想像してしまい、
さばくときには(自分でやってても、TVで見ていても)「ああ今このハラに包丁が入った!裂かれてる!裂かれてるよー!」と想像してしまいます。
生き造りの席には一度だけご招待されましたが、
「人が(←ここが既に間違いらしい)生きながら解体されて断末魔の苦しみにもがいている様子を
『おお跳ねてる跳ねてる、活きがいいなあ』などと喜ぶ神経が理解できないー!」と言ったのですが理解してもらえませんでした。
それでも自分は魚も肉も人並みにちゃんと食べるのですけれどもね…。
都合の悪いところは人まかせにしている(現代人や都会人にありがちと言われる)、卑怯なスタンスだとも思います。
筋子の類はかなり好きなのですが、食べる度に
「ああこの一粒一粒がそれぞれ一個の生命になるはずだったというのに、いったい今私はいくつの生命を喰っているのだろう」と毎回思います。
高校生の頃にそういうことを考え過ぎたりしてほとんどモノが食べられなくなった時期があったこともあり、
今はなるべく考えないようにしています。
それもたぶんスキルのひとつなのでしょうね。
昔「たこ焼きスナック」というのがけっこう流行った時期があって(商品自体は今もあると思いますが)、
確かその最初のパッケージには、商品名や商品写真と共に、
擬人化されたタコが「おいしいよ」というのぼりを持っているイラストが印刷されていたのです。
「己の切り身が入ったもの(正確にはその味を再現したものでしょうが)を
その当人(同胞かもしれませんが)に自ら『おいしいよ』とアピールさせるとはなんて残酷で痛ましいんだー!」
と言ったのですが、誰にもとりあってもらえませんでした。
Fuyuki wrote:
>どういった会合になるのでしょうか。
>私はいつも一人だったし、同じような人に会ったことがありません。
>皆さんは同類の人と直に会ってお話をしたことがありますか。
当掲示板には、オフ会というものが存在します。
活動理念や規則その他については、私は主催者ではないので、勝手なことは、言えないのですが…。参加する側としても、参加動機にしろ、参加してから抱く感想にしろ、おのおの十人いて四十通り以上はあろうかという気が、私にはしています。
とりあえず、次回のオフは、10月26日、都内の障害者スポーツセンター
http://www.tgs.co.jp/o_sport1.htm
(東京都障害者総合スポーツセンター)
を利用する予定。よかったら、いらしてください。
掲示板常連メンバーの一人である、こうもりさんという方が運営している、メーリングリストに登録することも、できますよ。
とゆーことで、宣伝を兼ねて。
misplaced wrote:
>昔、キリスト教の宣教師が初めて日本に来たとき、神への愛(アガペーでしたっけ)をどういう日本語にするか悩んだ末に、「御大切」と訳したそうです。
>達観だったと思います。国外逃亡者さんのおっしゃるとおり、愛とは「誰かを大切にすること」なんです。
「御大切」という訳についてはきいたことがありました。
その訳語のままで現在まできてくれていたら、少なくとも私はこんなに混乱しなかったんじゃないかなあ…。
#「愛情」とかもそうではないかと思うのですが、「日本に存在しなかった概念に対しての、日常的な実感から乖離した漢語的訳語」を広めたのは福沢諭吉でしたっけ?日本語には大きく分けて「日常用語」と「学術的用語」との「語彙レベルの違い」が存在する点は、他の言語圏のアスペよりも、より問題を複雑にしているのではないかという気もします。私の知っている欧米言語では日常的な語彙が哲学論文等に使用されていました。
>幸か不幸か、生物には生殖本能がありますからね。気に入った異性を見つけて、その相手に、自分の子供を作らせたいと思うのは本能の働きです。その本能的な衝動を理性でコントロールされるべき「愛」と混同してしまうと、大変に困ったことになります。
私は、実はこの「生殖本能」(の働きによると思われる言動)からしてさっぱりわからないのです。
女性ならば「(一緒になってくれなくてもいい、せめて)あなたの子どもが欲しいの。」
男性ならば「俺の子どもを産んでくれ。」
両性に共通して「自分の遺伝子を残したい。」(どちらかというと男性に多いようですが)
これらがどういう思考回路から出てくるものなのか、さっぱり理解できません。
なので、たとえば映画にもなったユウミリさんの一連の自伝的小説は、
読んでいないのにこういうふうに言うのはどうかとも思うのですが(読む気にもならない)、概略をきいただけですが、
どういうロジックでそういう状況になったのか、その話の何がどうそんなに感動的なのか、さっぱり理解不能なのです。
「性欲」はヒトの本能として理解できますが、
それは既に「生殖本能」とははるかに乖離したものなのではないか?と思います。
少なくとも現在の日本では、「生殖を前提としない性交渉」が圧倒的に多数だと思うので。
特に、最近の若年層には「性交渉は元来生殖のためのものである」ということが正しく伝えられていないため、
様々な弊害が起きているともききます。
つまり、misplacedさんの分類だと、世間一般で大きく「愛情」とくくられているものの中には、正確には、
・理性的な「御大切」
・生殖本能からくる「衝動的なもの」
・巷で安売りされている「恋愛(元来中世貴族の文化として発明されたロマンティック・ラブが形骸化したもの)」
の3つがあるということなのですね?
1つ目は理解できる気がします。
3つ目がさっぱりわからない・・・。
理解できなくても良いものなら理解しなくても良しとすれば良いのでしょうが、
理解不能な不可解なものが多数派であるというのはどうにも気持ちが悪いです。
国外逃亡者 wrote:
>自称アスペです。
>アスペルガー症候群というものが知られる何年も前に自分の異端性について悩み、日本が自分にむかないのかなーと思って、国外逃亡しました。
>アスペルガー症候群なるものを知っていろいろな疑問が融けましたが、なおさら日本にはむかないなーと感じています。
>
>今は言葉と文化の壁に守られて(つまり、頭から異端者として受け入れられているということ。ここの常識は教えてもらえる。会話でもたつくのは当たり前なので、始めから我慢強くて興味のある人しか語り掛けてこない。子供たちの学校・幼稚園の役員は始めから免除←これがラッキー。移民国家なので少しくらい奇矯な行動は目立たない)滅多なことで人の集まるところにも行かないし、仕事も在宅や臨時のガイドくらいなので、精神的負担もなく楽しく暮らしています。
私は十代の頃にそれなりに親しくしていた同級生から「あんたは頭が日本人じゃない」と言われました。
その後、日本人じゃない人と親しくなり、その人の国に何度か中期滞在したりする中で、
国外逃亡者さんと似たようなことを感じて、非常に楽だったのをよく覚えています。
細かい言い回しやレトリックが理解できないのは、母語でない以上当たり前であること。
私が嫌だった「日本の文化の中での一般常識」が、その文化圏では一般常識でもなんでもないこと。
非常に卑近な例で恐縮ですが、後者の例で何が一番嬉しかったかというと、
「女性が真夏の薄着でブラジャーをしていなくても誰もヘンな目で見ない」ことでした。
私は体にぴったりする衣類が非常に苦手で、特に、拘束感のあるものは大っ嫌いです。
ブラジャーなどというのはまさに「胸部を拘束(市場では『補正』という言い方をするようですが)するための下着」ですから、本当に嫌いです。
ですが、日本では、
同性には「しないのはだらしない」とか「はしたない」と言われ、
「異性は薄着でブラジャーをしていないと『ヘンな目』で見る」という事実を知っているので、仕方なくしていた時期もありました。
(その拘束感の不快さに耐えられず長時間の外出ができなかった、パニックを起こしかけたなど、行動に制約が生まれてしまったこともあります)
いろいろ試行錯誤して、今は「ヘンな目で見られない」ことと「拘束感が極力少ない」ことが両立するような下着を選んでいます。
ハズレに当たることも多いですが、がんばって探せばなんとか見つかるものだなあと思いました。
ちなみに上記の「事実」(に類すること)を知ったのは11〜12歳の頃でした。
その頃まで銭湯等では男湯に入っていて(母親はいましたがそういったケアを放棄していたので父親と)、
ある日、湯船で一緒になった少し年上の少年が、私の体を異様な目(に見えた)で執拗にじろじろ見ているのに気がついて、
「私は異常事態を引き起こしているのだ。私がここにいるのは不適切なことなのだ」と認識し、
以来「男湯は現時点では私はもう入ってはいけない場所なのだ」と認識したのでした。
>「好きな人が他の異性と仲良くしていると嫉妬してしまう」とか、いわゆる、
>自分の満足と快楽を求める「ドーパミン過剰分泌状態」であって、「中毒症状」なのです。
>この心の病と無縁な脳の状態のある人間(何もアスペとは限らないです。ただ単に淡白で、愛情云々より楽しいことに夢中な人には迷惑なことです)が、恋を「愛」と錯覚している人に「あなたは愛情のわからない人だ」と言われたからと言って、何も悩む理由はないと思います。
私は今のところ悩んではいないのですが、
もしかしたらこの先、悩むような事態に直面することがあるのかもしれないなあと思っています。
そのときに備えて、「愛情」とか「恋愛」といった、今のところ私には不可解なものを、少しでも理解しておきたいな、と思うのです。
まあ、いざそうなったときに、そのときの細かい状況に合わせて対処すればいいのかもしれませんが。
>恋というのは孤独を悲しむ(孤こ・悲ひ/こひ)心から来るものなので、
そうなのか〜。なるほど。
語源というのはかなり「本来の意味(本質?)」の手がかりになるものなのかもしれませんね。
>このことで苦しんでいるASの人たちに、悩まず気楽に、そして気長に向き合っていけるよう、遠い空の下から応援しています。
国外逃亡、正直、うらやましいです…。
ただ、「今の生活環境がガラッと変わる(自ら敢えて変える)」ことは今の私には受け入れがたい。
何らかのきっかけでやむなくそういう事態になれば別ですが、
今のところ現実的には「パートナーについていく」というシチュエーションしか想像がつかないのですね(^_^;)
(仕事をしに行くとなると、私ができる分野では、今以上にコミュニケート行動を取らなくてはいけない…)
で、その「パートナーを持つ」という問題でつまづいているというわけです。
Maria wrote:
>りるさん wrote:
>> 私の(どうやら非常にマイノリティに属するらしい)「ロジック・思考回路」を理解しようとしながらコミュニケートを取ってくれる理解者は得られた(と思う)のですが、「まったくの異文化」を背景にした人と、おそらく初めてまともに接して(これまでは「私がマジョリティのフリをする」か、「まったくの異文化の人とはハナから接触を持たない」でやってきたと思います)、かなりのカルチャーショックを受けています。
>
> えー、それはおそらく、この『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーが、『「まったくの異文化」を背景にした人と「同じ土俵に立つ」』作法を心得ているからではないでしょうか。で、そういう作法というのは、研究開発の世界では、わりと一般的なものだと思うのですよ。
ここだけ誤解ではないかと思うのですが…。
「私が今直面してるカルチャーショック(=まったくの異文化を背負った人と初めてまともに接した)」というのは、
先日のここでの(123さん関連の)話ではなく、まるっきり別の、私個人の、オフでのプライベートな話なのです。
更に、この掲示板には私は最近来たばっかり(ROMもしていなかった。そしてROMを始めるのにちょっとだけ遅れて参加を始めた)なので、
ここでは「うわ心地ええ!こんなコミュニティもあったのねー!」というプラスのカルチャーショックを味わい中だったりします。
とりあえずそこだけ補足しときます〜。
後の発言は非常に興味深いので、じっくり読みます。
しばらく前から、ROMだけしていました。正式な診断も受けていない人間が、
こういう場所に書き込みをするのは、ちょっと気が引けるのですが、
恋愛については、私も自分なりにいろいろと考えることがあったので、ちょっとだけ意見を言わせてください。
国外逃亡者 wrote:
>以前、どなかたかの投稿に「アスペは愛が理解できない」的な発言を見て、ずっと気になっていました。
>ちょっと、違うような気がして・・・。
>全人類的に、愛を、恋・独占欲・情欲と混同してそれを愛と思っている人は大勢いますよね。
現在、ドラマやマンガ等で安売りされている「恋愛(=ロマンチック・ラブ)」というのは、中世ヨーロッパの貴族の宮廷で「発明」された概念だそうです。その本来の意味は「神を愛するように恋人を愛する」ということですから、独占欲や情欲とは無縁のものでなくてはなりません。
実際、中世の騎士物語では、騎士と貴婦人が肉体関係を持つことは許されないし、最後は必ずといっていいほど悲劇に終わります。
キリスト教文化の背景を持たない日本人には、もともと理解しようのない概念です。つまり、現代の日本人の恋愛至上主義は、本質的な意味もわかってないくせに、表面的な形を真似ただけの似て非なるものにすぎません。
>でも、淡白だからって、人を愛さないわけではないのでして。
>自分にとって大切な人を見つけたら、自分の中にその人の居場所を作って(その人を受容する)大切な人を幸福にしたいと感じるのじゃないかと思います。
昔、キリスト教の宣教師が初めて日本に来たとき、神への愛(アガペーでしたっけ)をどういう日本語にするか悩んだ末に、「御大切」と訳したそうです。
達観だったと思います。国外逃亡者さんのおっしゃるとおり、愛とは「誰かを大切にすること」なんです。
>だけど、障害のあるなしにかかわらず、恋という罠にはまる人は後を絶ちません。
>「恋」というのは愛ではなく、「相手の事を思うと何も手に付かなくなる」とか、
>「好きな人が他の異性と仲良くしていると嫉妬してしまう」とか、いわゆる、
>自分の満足と快楽を求める「ドーパミン過剰分泌状態」であって、「中毒症状」なのです。
>この心の病と無縁な脳の状態のある人間(何もアスペとは限らないです。ただ単に淡白で、愛情云々より楽しいことに夢中な人には迷惑なことです)が、恋を「愛」と錯覚している人に「あなたは愛情のわからない人だ」と言われたからと言って、何も悩む理由はないと思います。
幸か不幸か、生物には生殖本能がありますからね。気に入った異性を見つけて、その相手に、自分の子供を作らせたいと思うのは本能の働きです。その本能的な衝動を理性でコントロールされるべき「愛」と混同してしまうと、大変に困ったことになります。
巷で安売りされている恋愛など理解できなくても、いつかきっと「大切な人」は見つかるはずです。その時が来たら、自分のその「大切」だという気持ちを忘れないようにしてください。
長カキコ、失礼しました。
自称アスペです。
アスペルガー症候群というものが知られる何年も前に自分の異端性について悩み、日本が自分にむかないのかなーと思って、国外逃亡しました。
アスペルガー症候群なるものを知っていろいろな疑問が融けましたが、なおさら日本にはむかないなーと感じています。
今は言葉と文化の壁に守られて(つまり、頭から異端者として受け入れられているということ。ここの常識は教えてもらえる。会話でもたつくのは当たり前なので、始めから我慢強くて興味のある人しか語り掛けてこない。子供たちの学校・幼稚園の役員は始めから免除←これがラッキー。移民国家なので少しくらい奇矯な行動は目立たない)滅多なことで人の集まるところにも行かないし、仕事も在宅や臨時のガイドくらいなので、精神的負担もなく楽しく暮らしています。
以上、自己紹介でした。本題はここから。
以前、どなかたかの投稿に「アスペは愛が理解できない」的な発言を見て、ずっと気になっていました。
ちょっと、違うような気がして・・・。
全人類的に、愛を、恋・独占欲・情欲と混同してそれを愛と思っている人は大勢いますよね。
一般に双子座とかは淡白であまり溺れるような恋はしないと言われていますし、さそり座なんかは情熱的だなんて言われていますよね。
常に愛着を確認したがる魚座が理性的な天秤座に惚れちゃったら、誠意のない(と魚座には思える)相手に失望するばかりでしょうし。
これらはあくまでたとえですが。
でも、淡白だからって、人を愛さないわけではないのでして。
自分にとって大切な人を見つけたら、自分の中にその人の居場所を作って(その人を受容する)大切な人を幸福にしたいと感じるのじゃないかと思います。
だけど、障害のあるなしにかかわらず、恋という罠にはまる人は後を絶ちません。
「恋」というのは愛ではなく、「相手の事を思うと何も手に付かなくなる」とか、
「好きな人が他の異性と仲良くしていると嫉妬してしまう」とか、いわゆる、
自分の満足と快楽を求める「ドーパミン過剰分泌状態」であって、「中毒症状」なのです。
この心の病と無縁な脳の状態のある人間(何もアスペとは限らないです。ただ単に淡白で、愛情云々より楽しいことに夢中な人には迷惑なことです)が、恋を「愛」と錯覚している人に「あなたは愛情のわからない人だ」と言われたからと言って、何も悩む理由はないと思います。
恋というのは孤独を悲しむ(孤こ・悲ひ/こひ)心から来るものなので、孤独を悲しいと思わない自閉傾向のあるひとには確かに理解しにくいものでしょう。
ドナさんの著書にも、愛情を示すことの困難さが描かれていますが、それはつまり、あれだけ重い障害を持っていても、愛する能力は持っていたわけです。
ただ、周りに理解されにくいだけで。
でも自閉症の自分と出会ってから、自分から外の世界に手を伸ばそうと努力されてますよね。
一生施設で過ごせる障害でない以上、「世界」と折り合う努力は一生ついて回ります。
「愛情」は乗り越えるべき課題のひとつにすぎないと思います。
このことで苦しんでいるASの人たちに、悩まず気楽に、そして気長に向き合っていけるよう、遠い空の下から応援しています。
りるさん wrote:
> 私の(どうやら非常にマイノリティに属するらしい)「ロジック・思考回路」を理解しようとしながらコミュニケートを取ってくれる理解者は得られた(と思う)のですが、「まったくの異文化」を背景にした人と、おそらく初めてまともに接して(これまでは「私がマジョリティのフリをする」か、「まったくの異文化の人とはハナから接触を持たない」でやってきたと思います)、かなりのカルチャーショックを受けています。
えー、それはおそらく、この『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーが、『「まったくの異文化」を背景にした人と「同じ土俵に立つ」』作法を心得ているからではないでしょうか。で、そういう作法というのは、研究開発の世界では、わりと一般的なものだと思うのですよ。
例の123さんの発言に対するコメントとして、あたしは以下のようなことを言いました。
---
> 貴方方の言うアスペルガーのすばらしい才能ってどういうものですか?
普通の(健常の)人々とは異なっている、ということです。そのことは、しばしば世の中において(特に問題解決に関わる部分で)有利に働きます。
> 具体的に何ができるのですか?
普通の(健常の)人々とは異なったやりかたで無理なく生きることができます。それはしばしば普通の(健常の)人々が望んでも得られない境地だったりします。
> LDやADHDの行動、思考をどこまで認識して発言しているのでしょう?
123さんが、「LDやADHDは、自分の障害を認識できない」と信じておられるなら、その質問自体が無意味です。「認識している」ならば、LDでもADHDでもないはずですから。
> もしかして、自分は天才だ。自分にはすばらしい才能があるのに
> 社会は誰も認めてはくれない。そんな感情が貴方たちのうらにあるようにしか、私には思えてなりません。
あなたは、「障害者は自分の才能や能力を信じたり誇ったりしてはいけない」と主張なさるわけですね?
なお、あたしは、自分に才能があるために、あたしが障害者であり、あたしのその才能が本質的にその「障害」の「症状」そのものであるということが信じてもらえなくて苦労しています。
---
で、実際、プログラマーとしての仕事の中では、「異質な文化を背景にしている」ことがプラスに作用することが多いんです。
それは、左利きのボクサーが有利なことに似ています。相手は左利きのボクサーと対戦したことがほとんどないのに、こっちはほとんど常に右利きのボクサーを相手にしているわけですから。
つまり、「普通の発想で解決できる問題は、たいていの場合、すでに解決されている」から知識によって(つまりありものをパクッてくることで)解決でき、「普通の発想では解決できない問題」は、たとえ解決できなくたって文句は言われませんから。そんなわけで、研究開発に携わっている人間は、「誰も思いつかなかったこと」「まだ誰も試していなかったこと」を追いかけることに血道を上げているわけです。
> ある言動について、
> 「(私)なんでそうするの?」「一般常識としてそうするものだと自分は思っているから」「なんで?」「そういうものだから」「なんで?」
> おそらくどんな面においてもこの繰り返しで永遠に平行線なような気がします……。
「常識」というのは、けっこう偉大なものです。工学の世界では、「車輪の再発見」という言葉があって、ものを移動するにはけっきょく車輪を使うのがいちばん実用的だったりするわけです。
そんなわけで、「常識」は十分に掘り下げる必要があるのですが、多くの人はそこのところをサボって、単なる思い込みに引きずられています。
「常識に従うべし。一般の愚に従うべからず」です。
> ふと思ったのですが、
> 「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はしない」という「ロジック・思考回路」もあり得るのかな、と。
> (例にあげた人がそうだというわけではありませんが。
> あまりにも会話が噛みあわず、理解の手がかりになるような充分な情報量はほとんど得られませんでした)
応用数学という分野に「ゲームの理論」というのがあり、その中の意思決定理論というのによれば、「合理的判断は、必ずしも合理的な結果をもたらさない」ということが分かっています。「囚人のジレンマ」という名前で知られているのですがね。
で、人間(あるいは動物)というのは決して合理的には行動しないように見えて、理性による合理性を越えて行動していたりもするわけです。
「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はしない」ではなく、 「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はするけれども、自分の行動を決める際には必ずしもそれを考慮に入れない」という態度が、相手の行動を変えるケースが実際にあります。
マイノリティにはマイノリティの戦略・戦術があり、マイノリティであるがゆえのアドバンテージもあります。そうしたものを、スタイルとして身につける、というのは、一つの方法として覚えておくといいと思います。
(Maria)
今度、川へ行って釣りをする予定です。誘い釣りというやり方がありますが、それを自己流に変えて、魚の闘争本能をうまく使って釣り上げるやり方でわたしは楽しんでいます。管理釣堀で、1時間半くらいの間に10匹釣ったことあります。岩魚、やまめなどでしたが、後で食べておいしかったなあ。人とはダメでも、魚とは結構うまくいくようです。釣りの好きな人、アスペに居そうだけど、みなさんはどうですか?
この間まで、たまたまあつみさんの発言を機になんだかすごいことになっていましたが、
あつみさんが妙な責任を感じたりへこんだりしておられない様子でほっとしています。
あつみ wrote:
>しかし私は、ネットでのコミュニケーションというものに今までになかった可能性を感じます。(中略)
>今回も、もしあんくさんや、他の方々のご意見がなければ、「私はまた何か悪いことをしたのだな」と理由も分からず思いこんでいたでしょう。そして自分一人で考えて、誤った結論に至っていたと思います。
本当にそうですよね。私もいろいろと勉強になりました。
>「他人と一緒に生きていく」という現実の問題に取り組んでいるうちに「自分の今後の生き方をどうするか」ということに繋がった、というか。(中略)
>なんとなく見えてきたテーマというのは、「異文化コミュニケーション」(こんな言い方が合っているのかわかりませんが)の達成、のようなことです。幼い頃から、みんなとうまく波長を合わせようと努力してきましたが、上手くいかず、最近になって、同居中の彼とのやりとりや、AS関連の情報などからの影響を受け、「合わせようとすることが、失敗の原因なのでは?」と気づき始めました。
>
>そして、「合わせようとすると、余計に上手くいかない」のは何故かというと、「みんなのロジック・思考回路」と「私のロジック・思考回路」は違うものなのに、それを無視して合わせようとしていたからだと思ったわけです。更に、「ロジック・思考回路」は、各々の持つ文化によって裏付けられるものであって、文化が違えば「ロジック・思考回路」も変わってくると思うのですね。ですから私がみんなと上手くいかなかったのは、私の持つ文化が、多くの人と異なっていたからだといえるのでしょう。
>
>そう考えると、私が幼い頃から直面していた「みんなと合わないのはなぜか?」という問いは、世の中における「マイノリティとマジョリティが相容れないのは何故か?」だとか、「先進国は途上国に自分たちのレベルまで上がってくることを何故要求するのか?(そもそも『先進』『途上』という言い方自体ひっかかりますが)」といった疑問とも、繋がってくるわけなのです。
>
>では、異なる文化を持つもの同士が、理解し合い、お互いの存在を尊重するにはどうしたらよいのだろうか?
>と考えたわけです。
>そして、そのためにはどちらか一方だけが優位になる「ロジック・思考回路」に基づいた土俵で、意見をやりとりするのではなく、お互いの「ロジック・思考回路」をそれぞれ理解しようと努力するか、または、新たな「ロジック・思考回路」に基づいた土俵を作るということが必要なのだろう、という結論に至ったのです。
私はまだ自分自身のことで手いっぱいで、
広い意味での異文化コミュニケーション(社会問題や異文化圏間の紛争問題など)には考えが至っていませんが、
あつみさんがあげられた「異文化コミュニケーション」という言葉は、
まさに今私が直面している問題にしっくりくる気がしました。
私の(どうやら非常にマイノリティに属するらしい)「ロジック・思考回路」を
理解しようとしながらコミュニケートを取ってくれる理解者は得られた(と思う)のですが、
「まったくの異文化」を背景にした人と、おそらく初めてまともに接して
(これまでは「私がマジョリティのフリをする」か、「まったくの異文化の人とはハナから接触を持たない」でやってきたと思います)、
かなりのカルチャーショックを受けています。
ある言動について、
「(私)なんでそうするの?」「一般常識としてそうするものだと自分は思っているから」「なんで?」「そういうものだから」「なんで?」
おそらくどんな面においてもこの繰り返しで永遠に平行線なような気がします・・・。
ふと思ったのですが、
「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はしない」という「ロジック・思考回路」もあり得るのかな、と。
(例にあげた人がそうだというわけではありませんが。
あまりにも会話が噛みあわず、理解の手がかりになるような充分な情報量はほとんど得られませんでした)
あつみさんはパートナーの方との関係構築の問題をキーに発言されましたが、
友人関係でなく、「(法的な婚姻関係の有無は問わず)パートナーを持つ」とはどういうことなのだろう?と、
今私の中ではぐるぐるしています。
『アスペルガー的人生』にあった、「私は夫の顔のパーツが好きなのだ」というのは私にはとてもよくわかります。
「パーツ」というのは、視覚的なものにとどまらず、考え方や行動様式などにも当てはまると思います。
「この人はこういう考え方をするから信用できる」。
「この人はこんな言動はしないから好感が持てる」。
それは理解できるし、私自身も人との相性を評価するときにはそういう表現が一番しっくりくるのですが、
パートナー(恋愛関係)となると、「それ以上の、言葉で説明できない何か」が存在するらしいということを知りました。
自分の考え方や嗜好や行動様式・生活形態と、相手のそれとに、どんなに相容れない部分やズレがあっても、
それをどうにかして擦りあわせたり妥協しあったり、
そんなおそろしく鬱陶しく面倒な(ときにはとても嫌な)ことをしてでも、
「パートナーになりたい、パートナーでいたい」と思う「何か」があるらしいと知りました。
それは、いったいどのようなものなのでしょうか。
「パートナーを持たない」ことについて(私は自分の生活習慣や生活空間に他者が介入してくるのがとても嫌です)、
カウンセラーには「あなた自身がそれで淋しいとか悲しいとか感じないのならまったく問題はない」と言われました。
ごくたまにそんな風に思うこともありますが、
「自分の生活様式を他者に乱されたくない、ひとりで過ごしたい」という感覚がそれをはるかに上回ります。
その、「淋しい」とか「悲しい」とかいう部分が、
「人恋しい」とか、「ひとりでいたくない」とかの感情、
最終的には「恋愛感情(→パートナーを持つ)」ということにつながってくるのでしょうか。
だとしたら、やはり私は、自分には情緒的に欠落部分があるのだろうと思います。
あさかぜさんwrote:
> たまたま逆ですけれど、わたしは限界をむかえてしまいそうですので離婚を決意しました。今後の生き方について長期中期短期と計画を立てた上で、少しずつ実行に移していこうかと思っています。とりあえず中期計画(?)としては、娘の小学校卒業と同時に離婚にもっていけるようにするつもりです。けっこうこれがワクワクしてるんで、自分のありようはいったい何なのだろうって思ってしまいます。まぁ、わたしは娘の母親にはなりたいですけど、夫の母親がわりを期待されるのはもう御免だという気がしていますので……。
ちょっと、きつい言い方をさせていただきますよ。
お子さんの小学校卒業云々…言ってないで、別れてしまいましょうよ。
あさかぜさん、結局逃げているだけって気がします。ご主人もなんとなくかわいそうです。私はあさかぜさんのご主人のことを、実際は知らないからこんなこと言ってはいけないんだろうけれど、ご主人も追い込まれておられるのではなでしょうか?
ご主人のことを自覚の無いASだと、あさかぜさんも感じ取っておられるようですし、同じ土俵で喧嘩もできない夫との生活を先へ先へ延ばしても、お互い良い結果は生まれないでしょう。
ただ、あさかぜさんが離婚を先へ延ばされる理由が、僅かながらの未練(可能性)みたいな感情を秘めておられたのなら、ホントに余計なレスをつけてしまいました。すみません。
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© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami