アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
自分は他の人と違ったところがある、苦手なものがあってどうしても上手くできない、ということを知ることと、自分が上手く行かないことをすべてそのせいにすることは、違うことだと思います。
甘えることのできない人生は息苦しいと思うけど、甘えているだけでは前に進めない。
でも、本人は一生懸命やっているのにどうしても上手く行かないこともあるので、周りの人の理解って大切だと思います。
ぺりこ wrote:
>聞いても良いのかどうかよく分からないのですが・・・
>自分以外の人と接したとき、その人たちに重みというかランク付けみたいな物はありますか?
うっすらとあります。
職場の同僚など、毎日会っている人には知らない人より親しみを感じ、離れていても家族のことは家族と認識しています。
ただ、特に、友だちだから大切だとか家族だから大切だとか特別だとかいうのはないです。
同僚にしても、その人が仕事をやめて会わなくなったら、自分の中から消えてしまうということはないけど、こちらから連絡をするということはまずありません。
同じ職場で毎日顔をあわせている人の機嫌はなるべく損ねたくない。
嫌な空気が漂って仕事がしにくくなるし、話したいとき相手してもらえなくなるから。
(無理してまで好かれたいとは思ってないけど)
対等な関係の場合、Aさんには話せるけど、Bさんには話せない、といったことは、個人的なことではないです。
「これはここだけの話」のようなものは、誰に言ってはいけないかをはっきり聞いていないと、うっかり喋ってしまうので、好きではありません。
それとは別にひとりの人に執着することがあります。
身近な人の場合も、ネット上の知人のような顔を知らない人の場合も、芸能人の場合もあります。
執着しながら、その自分を観察しているもうひとりの自分が(頭の中に)います。
気持ちに振り回されそうになると(のめり込んで苦しくなるとか、思い通りにいかないので相手を悪く思うようになるとか)、その自分が警告を発して、対象から距離をとるようにします。
最近では、最初から振り回されないように気をつけてる感じ。
なにかのきっかけで、今まで関係があった人とばっさり縁を切ってしまうこともあります。
縁を切ってしばらくは、その部分だけ空白になって寂しいけど、すぐに慣れます。
心の隅では気にかけてるけど、自分の気持ちはもう別のところに行って次の段階に進んでいる感じ。
また何か縁があったら、その人に関わることもあるだろうけど、それは前の関わり方とは別のものになっているでしょう。
なんだか非常に「当たり前」のことを書いているような気がしないでもないです。
ぺりこ wrote:
>聞いても良いのかどうかよく分からないのですが・・・
>自分以外の人と接したとき、その人たちに重みというかランク付けみたいな物はありますか?
>たとえば、Aさんにはこの話をしてもよいと思うが、Bさんには話せないと思うとか。
>または、Cさんと喧嘩したら仲直りしたいけれど、Dさんと喧嘩したら(まだEさんFさんがいるんで)もう知り合いじゃなくてもよいとか。
>じつは、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさんは自分ではないので、全部同じように思う。もしくは接するとか・・・
>
>私は人に対して、自分の中の重みに照らし合わせたつきあい方をしていると思います。
>その重みは、突然重くなったりしますし、長いつきあいの中で自然に芽生えてくることもあります。
>やっかいなのは一度重くなってしまうと、なかなか軽くすることが出来ない、たとえ相手が自分を受け入れなくなってもです。(これは人それぞれだと思いますが・・・)
それは普通ではないのでしょうか???親しさの度合いというのか...。
少なくとも私はそうです。うまくいえません、ごめんなさい。
でも、この人は人間としてとっても好きだという人、いませんか?
そういう人とは喧嘩しても何とか修復の努力をするし、仲がいいから喧嘩したりもあるのではないでしょうか?
「君が教えてくれたこと」の公式ホームページの掲示板(http://www.tbs.co.jp/kimioshi/s-voice2.html)が期間限定で復活しています。
聞いても良いのかどうかよく分からないのですが・・・
自分以外の人と接したとき、その人たちに重みというかランク付けみたいな物はありますか?
たとえば、Aさんにはこの話をしてもよいと思うが、Bさんには話せないと思うとか。
または、Cさんと喧嘩したら仲直りしたいけれど、Dさんと喧嘩したら(まだEさんFさんがいるんで)もう知り合いじゃなくてもよいとか。
じつは、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさんは自分ではないので、全部同じように思う。もしくは接するとか・・・
私は人に対して、自分の中の重みに照らし合わせたつきあい方をしていると思います。
その重みは、突然重くなったりしますし、長いつきあいの中で自然に芽生えてくることもあります。
やっかいなのは一度重くなってしまうと、なかなか軽くすることが出来ない、たとえ相手が自分を受け入れなくなってもです。(これは人それぞれだと思いますが・・・)
ある本に、ASは”基本的な問題は病気ではないが、脳の組織が他の人と違っていて、それが有利にも不利にもなる”とありました。
ここで”他の人”の定義が述べられていないのが不満ですが、私はほとんどそう思っています。
またまた失礼ですみません。
お返事本当にありがとうございます
私の親ばかな 勝手なおたずねに答えていただきうれしいです
私は福岡県に住んでいます 11月11日に京都のアスペの講演に行きました
京都は盛んに活動しているようですが 福岡はそんな話をききませんし自閉症の会に何度電話しても留守電なのです それと今ひとつ公に相談できないのは まだ診断をうけていないのと 誰にもわかってもらえないような微妙な障害ですから 親でさえNHKのテレビを見なかつたらまだしらないとおもいます
テレビを見た日からああそうだったのかと 私の中では納得できて一度はすっきりしたのですが 今度は先行きどううなるのかと親のエゴですが心配しています
最近覚えたばかりのパソコンでこうしてお話できるのもうれしいことですしまた大勢の中間の方がしっかり意見や思いまた悩みをはなして助けあっていけるのもいいと思います 私の立場は本人ではないので皆さんの気持を正しく理解できないかもしれません でも毎日この館のメールを読むのを楽しみにしています そしてますます息子にたいして理解が深まったようにおもいます あせって解決しないで時間をかけようとおもいます またなにかあったら教えてください
かやさん、気を悪くされたみたいでごめんなさい。
以前私の周りにいた人で、やはりASの傾向がある人が
うまくいかないのをいつも周りのせいばかりにして、本人が相談してきて、
「こうしたらどう?」とかこちらが言っても、自分の考えと違うとむくれるばかりで、挙げ句の果てに自殺する、とか
言い出したのを思い出したもので。視点を変えたら違う局面が見えるかも、というのを言いたかった
だけなんです。他の人も気を悪くされてたらごめんなさい。
いきなり否定的で申し訳無いですが、
「それで済めば苦労はしない」
これが私の本音です。
みなさんが書かれているように、私たちは人と付き合うことにかなり労力が必要です。でも、普通の人だって大なり小なり、対人関係には苦労しているのではないでしょうか?私も一時期、「自分は大変苦労している」と変な優越感があり、「もっと分かってくれても良いじゃないか」と結構不満がありましたが、でも自分の方からはなにかしているのか?とある日はっとしました。普通の人より対人関係や仕事には苦労するかも知れないけれど、そこでとどまらず、自分なりの工夫をしないといけないんじゃないだろうか、と思います。沢山の友達と広く浅く付き合うのだけが、友達づきあいじゃないと思います。だれか2~3人で良いから、ほっとする友人があるだけでも十分じゃないか、とも思うんですが。なんだか変な書き込みでごめんなさい。
訂正です。
シュッツ wrote:
>ダウン症ならば原因がはっきりしていて、原因によって「21-トリノミー症候群」と名付けてもいいくらいですが、ADHDもASもそこまで発展していない。
「21-トリソミー症候群」の間違いでした。
風のひろた wrote:
>ADHDは症候群つまり症状なんだろ
>それが何を原因にして引き起こされているかどうかは何も言ってない
>たとえば熱がたくさんの原因によって引き起こされるように、ADHDだってそうだろう (たとえば「狂気と正気のさじ加減」という本に数少ないかいめいできているさまざまなADHD(やアスペや鬱)(どれも脳の気質異常)の原因となる肉体の異常や脳の物理的異常について書いてある。古典的なのだとぎょうちゅうや過去の脳血栓など。(症状は”悪い”ところのうち、外に出ている即物的な結果ですよね )
医学に限らず、どんなものでも発展途上のものは似たような現象が起きますね。
例えば天動説から地動説、ニュートン力学から相対論も同じようなものだと思います。
ダウン症ならば原因がはっきりしていて、原因によって「21-トリノミー症候群」と名付けてもいいくらいですが、ADHDもASもそこまで発展していない。
ずっと将来、それが私が生きているうちかどうかは分かりませんが、原因による名前が付けられる日がくると信じています。
だから
>病院て何のためにあるんだろうね
>
>診断て何のためにあるんだろうね
>
>(古典)西洋的には
>正確な診断=正確な治療≡効果的な治療
>だったけれど
この辺のことは遠い(?)未来への課題だと考えた方がいいような気がします。
アスペの親 さんへ
こんにちは。
近くの専門機関に相談するのがいいのでは?
(少ないけどね)
アスぺの親さんは何県にお住まいですか?
うみねこ さんへ
教えてくれてありがとう。
マメにチャットに行かせてもらいますね。
こんばんは、おむにさんの発達chat普及委員会(勝手に作りました)のうみねこです。
猫目 wrote:
>前々から気になってたのですが、
>アスぺなどの人達は何処でオフ会の情報を仕入れているのでしょうか?
おむにさんがアスペルガー症候群、ADHDなど発達障害を持つ人向けにチャットを作っています。
http://www.netlaputa.ne.jp/~oyama/chat/
1000行までログが残る掲示板風のチャットです。アスペの館掲示板に書き込んでいる方も参加していて、オフ会も何度か開いています(1ヶ月ほど前にもこどもの国でオフ会がありました)
興味をお持ちの方がいたらお気軽にお越しください(^^)
#深夜0時半~1時半くらいに来ると誰かがいることが多いです。
>これからクリスマスや忘年会シーズンですが、
>どこかでアスぺ達のオフをやる予定とかあるのかな?
おむにさんのチャットでは今のところクリスマス会や忘年会を開く予定はないのですが、ご要望があれば実現するかもしれません。
チャットが苦手な方はオフ会にのみの参加も大丈夫です。オフ会では話したくなければ無理して話す必要もないし、疲れたら途中で帰ってもOKです。僕も1ヶ月前のオフ会が初参加だったのですが、とても雰囲気がよかったです。
リンコ館長さん、丁寧なレスポンスありがとうございます。
「シャドー・シンドローム」探してみます。(他の本も)
リンコ館長(この館のじゃないよ) wrote:
>統計的にいって、何かの山の裾野に位置することは、情報として(事実として)知っておいて損にはなりませんが、その人のことを(あるいは自分のことを)、裾野の人間だって思うのは間違いだと私は思ってます。その人にとっては、そこが中心なんだから。「裾野にマッピングできる人」≠「裾野な人」。裾野ってのはあくまで、自閉っていう尺度でマッピングしたものですからね。人を並べる尺度は無限にあるわけで、別の尺度ではその人だって頂点にくるわけですから(少なくとも一つはね。「その人度」っていうか、「自分と趣味が一致する度」って尺度では、本人が頂点だもの)。
この部分を読んで、「堂々としていよう」と思いました。
>さくらかのえ wrote:
>>「違っている」ことを理由にいじめたりするのは差別だが、「違って」いるのに「同じでしょ」と強引に仲間にするのも、その人の独自性を認めないという点では差別ではないだろうか。
>
>私はこの状況を、よく「創氏改名」や「方言札」になぞらえて表現するんですが。この表現が通じそうなバックグラウンドを持ってる人に対してはね。
わたしも、在日コリアンや「名誉白人」問題に近いものがあると思っています。
沖縄や奄美やアイヌの人に対するものにも近いものがあるかな。
歴史的・文化的には、別の国であったものを「ヤマト者」が侵略併合した過去があるのに、それは無視して「同じ日本人だ」とか言いがち。
そしてそうは言いながらも、彼らの文化を興味本位で扱ったり、彼らの言葉を「わけわからん」と一蹴したり、出身地で差別したりということをやっている。
>で、さくらかのえさんのおっしゃる通り、私ははっきり、これは「差別」だと思ってます。それも、言い出したその人個人に対する差別というだけでなく、グループ全体に対する差別を土台にした差別。あくまで非自閉者が上で、自閉者は下。その中でもASは自分たちに近いから上。だから名誉白人にしてあげる。嬉しいでしょう、って論法。いや、言ってる本人たちはそう思ってないだろうけど。
そう。「「健常者」だよ」と言えば、こちらはほっとすると思いこんでいる。
>>診断を受けたら違うことを言われるかもしれないし、単なる勘違いで「自分をマイノリティになぞらえたい症候群」の健常者かもしれません。
>
>まあ、たとえ勘違いだったとしても、そこには何か、勘違いするだけの根拠があるはずでしょう? 表面的にすごく良く似た状態像で苦労してきたとか。それを区別できないのは専門家じゃない以上、当たり前なんで、勘違いするのが「恥ずかしいこと」っていう周囲の価値観が間違ってると思うんですよね。
>
>勘違いした人を笑い物にする人たちは、「勘違いする前からあった、最初からあった大変さ」っていうものを経験していないわけだから。
>
>あるいは、中には「何でも簡単に勘違いしやすい人」というのもいるのでしょう。でも、そのことは、それ自体が非常に不利な性質であって、そういう不利な性質をかかえて生きているのは、ずいぶん大変なコトなんじゃないかと思うのです。勘違いしてそのたびに舞い上がったり沈みこんだりするのって、大変なエネルギーを消耗しそうなものでしょう? だとすれば、「勘違いしやすいこと」そのものが、既に一つの苦労であるわけで、(その上さらに、勘違いせざるを得なくなった「最初からある大変さ」が重なってるわけですからね。いくら勘違いしやすいタイプの人だって、順風満帆であれば、その性質が花開く機会も必要性もないはずですから。その段階でもう、十分な負荷がかかっていると推測するのが妥当でしょう)外野が笑い物にしていい性質のモノじゃないと思うんですけどね。(この点に関しては、M・フェルドマン、C・フォード共著「病気志願者」原書房 が、とても参考になりました。これは仮病を使ったり、仮病を目的とした自傷を行なう、「虚偽性障害」っていう病気の人たちについての本ですが、患者の多くは、鬱病とか人格障害とか不安障害とかが先にあって、それに対するその人なりの適応として、この病気が出てくるみたいな感じだったし。心気症や、単なる心配性の人たちだって、そこまで極端じゃないけど、共通する所があるんじゃないかな? 著者たちも、患者たちのことを決して笑ったり責めたりしてない所が好感持てます。また、詐病と区別すべき状態として、本当に軽度の障害がある人が、『この程度では信じてもらえないのではないか』という不安から病気を誇張するケースも挙げられていたことが印象的でした)
>
>外野の無関係な人たちが、たとえば勘違いしてる人のことを「カブレやすい人」とか「イタい人」なんて言って笑い物にするのは、おそらくは、自分の中にもうっすらとそれに似た性質を自覚しているからじゃないかと思ったりもするんですが。自分が「気をつけよう」と思ってる性質に、表面的によく似たものを、凝縮された形で見せられたりすると、その「気をつけよう」が外部(対象)に投影されて、「イタい人」っていう表現になったりするのかもしれない(でも、その「似ている」っていうのが、実は大ハズレだったりすることも、良くあるんですよね。結果的な行動だけ共通だけども、理由が違ったりとかさ)。
>
>つまり、人をわざわざ笑い物にしたりする人たちには、その人なりの事情があり、動機があることが多いんじゃないかな。それなのに、「その人なりの事情に影響された批判」をあたかも中立のものででもあるかのように勘違いした上で、さらに、それを内面化してしまう、自分で自分を縛ってしまうっていうのは、なるべくヤメにしたいと、私などは自分で自分に言い聞かせているのですが、なかなかうまく行きません。
>
>いや、長年、「分かっていないのは自分だけ」という状況を経験することが多かったため、自分以外の人の言うことは何でもマトモなのかと思って、やみくもに暗記してきた蓄積があるものだから。ついねー。
>
>さて、もしかしたら勘違いかもしれない「イタい人」という評価の出どころっていうかルーツの話ですが、どうも「AS」なり「自閉症」なりが、たまたま障害「でもある」ために、そして、障害として「しか」知られていないために、こっちが自閉的性質一般(有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめて、質的な違い)の話をしているのに、先方には、「病人ぶっている」「弱者ぶっている」「悲劇のヒロインを決め込んでいる」「特別な人間だと言いたがっている(いわゆる『不思議少女』系ね)」と見られてしまうっていう形があるんじゃないかと思います。
>
>まず、自閉ってもんが、有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめた質的な違いであること自体が、あまりにも知られていない。その性質の質的な違いのうち、不利な部分を切りとって「症状」と呼んでいるのだってことが知られていない。専門家は知ってるんでしょうが、知っていても、いかんせん、不利な部分をフォローするのが本業であるだけに、どうしても緊急度から言えば不利な部分を語るのが最優先になってしまうのはしかたがない。
わたしも、「勘違いしてる人にはそれ相応の理由があるのだからバカにしてはいけないのではないか」とよく思います。
アダルトチルドレン(AC)が流行語のようになったときにも、まっさきに目についたバッシングは「甘えたい人間の言い訳になっている」というものでした。
しかしなぜ甘えてはいけないのか? ひとのせいにしてはいけないのか?
それで少しでも救われるのなら、その概念を自分に適用することは意味があるのではないか? と思ったものです。
>その上さらに、世間一般に、「病人ぶる」「弱者ぶる」「悲劇のヒロインを決め込む」「特別な人間だと言いたがる」人たちに対する蔑視というか冷笑というか反感のようなものが、たまたま、ある(小浜逸郎「『弱者』とはだれか」とか、春日武彦「不幸になりたがる人たち」とか、香山リカの「〈じぶん〉を愛するということ」や「インターネット・マザー」などは、著者がそう意図していたかどうかはとりあえず別にして、そういう人たちの需要にもたまたま応えるものだったせいもあって受け入れられているんじゃないだろうか)。
>
>で、「質的な特徴のことを言ってるんだ」ってことがわからない人の耳には、「私ってASっぽいんだけど」という発言が、あたかも「仮病発言」「大げさ発言」であるかのように聞こえてしまう。でも、もしかしたらそれって、その人たちの中にも、ほんのうっすらと「仮病願望」みたいなものがあるせいかもしれないんですけどね。
思い当たることがあるから反感を抱くということかな。
それは自分にも思い当たる(自分も別の場合にはそのような「反感」を人に対して抱いてしまうという意味で)。
なるべく人をバカにしないでいられる人になりたいけど、難しいんだなこれが。
>でも私、将来的には、健常者もひっくるめて、自分の認知スタイル、学習スタイルを誰もが客観的な情報として知ることができ、しかもそれに余計な価値観や意味を持たせずにニュートラルに語れるような状況になったらいいなあと思ってるんですが。
>
>健常者だって、自分に向いたスタイルで勉強できて、仕事を選べて、仕事ができたら、ずっとストレスも少ないし、効率もいいと思うんですよね。無用な摩擦も避けられるかもしれないんだし。
「障害者」「弱者」のストレスを緩和するものは「健常者」のストレスも緩和できるものではないかと思っています。
歩道の段差なども、「視覚障害者が歩きやすいように」ってことでスロープになったりなくしたりしてるけど、晴眼者だって段差には蹴躓くんだし、ないに越したことはないです。
>その一方、私にできることとしては、「自閉(ASも含めて)とは、有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめて、質的な違いであり、そのうちの不利な部分を切りとって『症状』とよんでいるのだ」「自閉はある程度以上濃ければ障害にもなるが、それがすべてではない」ということを、声を大にして言い続けていくこと、くらいでしょうか。
>
>それが結局は、裾野に位置する人にも、もっと上の方に位置する人にも、裾野かもしれないけど違うかもしれない人にも、全員に役に立つんじゃないかなと思っているのです。えらい遠回りな話ですけどね。
わたしもそれを言いたいです。
まだ自分でも上手く説明できないのがもどかしいです。
「イタい人」で思い出したけど、日本人って、いわゆる「社会的差別」と言われているもの以外に、「センスや信じているもので差別する」ところが、かなり大きくあるように思います。(特に若者の間で)
「こういう服を着ている」とか「こういう歌手のファンをやってる」とか、そういう誰にも迷惑をかけないはずのことにいちいち「どっちがかっこいい・悪い」というのがあって、たまたま「かっこ悪い」のほうを選んでしまった人に対しては、徹底的にバカにする。
最近は、コミュニケーション下手な人、ちょっと過剰に自己主張しているだけの人を「イタい人」と言っているのもよく見かけます。
わたしも以前は「イタい人と思われるのは嫌だな」というのがあったのですが、最近では「どう思われようが構わない」と思うようになって、そしたら楽になりました。
ひろたの虫瞰図的で独断的な独り言
なにやら人気のADHDなどではとくに最近自分はADHDなのではと思う人がADHD専門病院に押しかけて、大半が、あんたは違うと追い返されるらしい(多分半年以上まつのだろうけれど)
ADHDは症候群つまり症状なんだろ
それが何を原因にして引き起こされているかどうかは何も言ってない
たとえば熱がたくさんの原因によって引き起こされるように、ADHDだってそうだろう (たとえば「狂気と正気のさじ加減」という本に数少ないかいめいできているさまざまなADHD(やアスペや鬱)(どれも脳の気質異常)の原因となる肉体の異常や脳の物理的異常について書いてある。古典的なのだとぎょうちゅうや過去の脳血栓など。(症状は”悪い”ところのうち、外に出ている即物的な結果ですよね )
でもそれにたいして自分はそうなんじゃないかといってくる人はそこに単なる診察以上の何らかの神話(脚本)の実体化を求めてくるわけやろ
>
>>それでも自分のことについてはそのときどき自分の納得行く形で理解したいと思う。
>
>っていう願望(というより、その基盤かな)が存在することが、知られてないってわけです。「裾野」だろうが何だろうが、その人にとっては中心であることにさえ気づいてない人は多いし。
>
これは、確かにりんこさんもいうとおり恥ずかしいものじゃない 哲学的には
それに社会から批判的刺激がくるのだって、僕は不満を言いたくは無い。世界は本来、根本的なところでは決して甘えを許さないのであろうし (そうでない、実はどうでもいいところでは、かなりのところまで甘えが許されるらしいね N人はあんまり知らないみたいだけれど)
でもね
病院て何のためにあるんだろうね
診断て何のためにあるんだろうね
(古典)西洋的には
正確な診断=正確な治療≡効果的な治療
だったけれど
(今の)精神科の診断でそれは成り立つの? 精神はやんわりと脈動し変貌する「肉体‐世界」のマグマだ
リタリンはADHDの人に効くんだってさ もちろん解熱剤的(対症療法的)にだろうけれど それに周囲の理解を促すことが(ここは本人ではなくあくまで周囲なのだろう)、とても効果的なんだと
それで、その医者が言うADHDのふりをした人にはADHDはもちろん効かないんだ それに周囲の理解を促すようなadhdの患者にするようなことも
へー だけどそれは自明なの? そんなにあたりまえに本に書いていいことなの?
ADHDのふりをしたひとも患者だ そのADHDってのは診察する側が勝手に作った概念でしょ そんなんで患者を差別するの
精神科を訪れるADHDのふりをした人に対するケアがおろそかになれば、それこそ、精神科が精神状態を悪化させかねない
もし、adhd専門病院の一部でそうなってるのなら、わらっておこう わはは
知性や思考を四大元素のうち物質でなく風になぞらえたのは古代世界だったが、最近買ってみたタロットカードのソード(風、数はエースから10まで)の9(Ⅸ)は閉塞感を、10(Ⅹ)は死とかすかな希望の気配を髣髴させる印象深い絵柄だ
PS
なお 上の事柄はまったく同等のことがアスペルガー「症候群」に対しても言えると思われます
発言はちょっと急いで書き30分見直し15分で仕上げてみました
久々にアスペ語を使ってかきこんで
あーたのしかった
風は去ります しばらくはまたきません
ひろた@ http://chiba.cool.ne.jp/hirota/
ん~難しいね。なぜ、現実はバーチャルなのか?現実を現実と思わないことが潜在能力を発揮させるという訳ですか?つまり、ひとつの映像あるいは物体をバーチャルで見ることにより、無限の発想を生み出し、追及する。やはり、凡人には出来ない神業だな。
ご無沙汰してました。べつの館の館長です。まだ、読んでないのが山ほどあります。
さて。「ダメですか」がショッキングだったんで、出てきてしまいました。
「悲しいですね」というのが第一印象です。いや、「ダメですか」という発言がではなくて、「ダメですか」という表現がぴったり当てはまってしまう、周囲の状況がね。
私はあまり裾野の方じゃないというか、かなりはっきりした困難もある方で、それもあって、いきなりすんなりと診断されてしまったくらいなのですが、それでも、言葉が流暢に話せるとか、知的な遅れがないとかいうことから、知的な遅れの重複している子どもたちの保護者からは、「裾野」と見られることもあります。「外野がナニ言ってる」みたいな感じだと思うんですけどね。
そのたびに思うんですが、「すそ野」とか「軽度」とかいうのって、統計的にたくさんの人をマッピングして初めて出てくる概念、きわめて「鳥瞰的」な概念でしょう? でも、その人その人にとって、「自分」ってのは必ず「中心」ですからね。
当たり前の話だけども、軽度の発達障害を持って生まれてくるってことは、何も最初から、「よっしゃ障害者に生まれてみよう、でも重度はシンドそうだから軽度にしておこう」と思って生まれてくるわけじゃない。何も知らずに生まれてきて、何も知らずに育って、そのことが後になって何らかの障害であることを知って、さらに、【自分の困難の延長線上には、もっと重度の人たちがいる】ことを知るだけなんですよね。それから改めて鳥瞰図を見せてもらうと、自分の近くに山があり、自分が裾野の位置にいることがわかったりする。障害とはいえないくらい裾野の周辺にいる人だって、きっとそれと同じだと思うんです。個人は必ず、虫瞰図から出発するのが当然でしょ。
ところが、いきなり話を聞く人には、最初から鳥瞰図が見えますからね。その辺を勘違いしやすいんでしょうね。
統計的にいって、何かの山の裾野に位置することは、情報として(事実として)知っておいて損にはなりませんが、その人のことを(あるいは自分のことを)、裾野の人間だって思うのは間違いだと私は思ってます。その人にとっては、そこが中心なんだから。「裾野にマッピングできる人」≠「裾野な人」。裾野ってのはあくまで、自閉っていう尺度でマッピングしたものですからね。人を並べる尺度は無限にあるわけで、別の尺度ではその人だって頂点にくるわけですから(少なくとも一つはね。「その人度」っていうか、「自分と趣味が一致する度」って尺度では、本人が頂点だもの)。
ところで、「すそ野問題」については、丸々1冊「すそ野」を扱ったいい本があります(とっくにご存じだったらごめんなさい。でも、ここは他の人も読んでるから)。レイティー、ジョンソン共著「シャドー・シンドローム」(河出書房新社)。軽度の人の苦しみを軽視する専門家は全員、これを読むべきだと思うな(まあ、専門家の人数が少なすぎ、時間が足りなすぎるっていう物理的な問題は、向こうの責任じゃないのですが)。
さくらかのえ wrote:
>「違っている」ことを理由にいじめたりするのは差別だが、「違って」いるのに「同じでしょ」と強引に仲間にするのも、その人の独自性を認めないという点では差別ではないだろうか。
私はこの状況を、よく「創氏改名」や「方言札」になぞらえて表現するんですが。この表現が通じそうなバックグラウンドを持ってる人に対してはね。
アメリカやカナダなどの方が、この種の比喩表現は通じやすいのかもしれません。「おれはイタリア系だ」とかいう言いかたを耳にする機会が、ふだんから日本人よりは多いでしょうから。
スタートレックを比喩に使うようになったのも、その辺の戦略なんです。「ウォーフやトゥヴォックに『地球人流』を押しつけたら絶対反発されるでしょ。それとおんなじだよ」って言えば、通じることも。まあ、スタートレック自体がマイナーなんで、そこが難ですが。
で、さくらかのえさんのおっしゃる通り、私ははっきり、これは「差別」だと思ってます。それも、言い出したその人個人に対する差別というだけでなく、グループ全体に対する差別を土台にした差別。あくまで非自閉者が上で、自閉者は下。その中でもASは自分たちに近いから上。だから名誉白人にしてあげる。嬉しいでしょう、って論法。いや、言ってる本人たちはそう思ってないだろうけど。
この辺は、在日の二世の人たちから学んだことも多かったですが(私自身は、年齢的には三世の人たちと近いんですが、三世の人たちは多分良い意味でもう一段複雑になってますから、あくまでもこの件に関しては、二世の人たちからが多かった)、ろう社会を外から見て(というか、ながめて)学んだことも多かったです。斉藤道雄「もうひとつの手話」やオリバー・サックス「手話の世界へ」(ともに晶文社)の後半などを読めば、何となく意味がわかってもらえるんじゃないかと思うんですが。
>診断を受けたら違うことを言われるかもしれないし、単なる勘違いで「自分をマイノリティになぞらえたい症候群」の健常者かもしれません。
まあ、たとえ勘違いだったとしても、そこには何か、勘違いするだけの根拠があるはずでしょう? 表面的にすごく良く似た状態像で苦労してきたとか。それを区別できないのは専門家じゃない以上、当たり前なんで、勘違いするのが「恥ずかしいこと」っていう周囲の価値観が間違ってると思うんですよね。
勘違いした人を笑い物にする人たちは、「勘違いする前からあった、最初からあった大変さ」っていうものを経験していないわけだから。
あるいは、中には「何でも簡単に勘違いしやすい人」というのもいるのでしょう。でも、そのことは、それ自体が非常に不利な性質であって、そういう不利な性質をかかえて生きているのは、ずいぶん大変なコトなんじゃないかと思うのです。勘違いしてそのたびに舞い上がったり沈みこんだりするのって、大変なエネルギーを消耗しそうなものでしょう? だとすれば、「勘違いしやすいこと」そのものが、既に一つの苦労であるわけで、(その上さらに、勘違いせざるを得なくなった「最初からある大変さ」が重なってるわけですからね。いくら勘違いしやすいタイプの人だって、順風満帆であれば、その性質が花開く機会も必要性もないはずですから。その段階でもう、十分な負荷がかかっていると推測するのが妥当でしょう)外野が笑い物にしていい性質のモノじゃないと思うんですけどね。(この点に関しては、M・フェルドマン、C・フォード共著「病気志願者」原書房 が、とても参考になりました。これは仮病を使ったり、仮病を目的とした自傷を行なう、「虚偽性障害」っていう病気の人たちについての本ですが、患者の多くは、鬱病とか人格障害とか不安障害とかが先にあって、それに対するその人なりの適応として、この病気が出てくるみたいな感じだったし。心気症や、単なる心配性の人たちだって、そこまで極端じゃないけど、共通する所があるんじゃないかな? 著者たちも、患者たちのことを決して笑ったり責めたりしてない所が好感持てます。また、詐病と区別すべき状態として、本当に軽度の障害がある人が、『この程度では信じてもらえないのではないか』という不安から病気を誇張するケースも挙げられていたことが印象的でした)
外野の無関係な人たちが、たとえば勘違いしてる人のことを「カブレやすい人」とか「イタい人」なんて言って笑い物にするのは、おそらくは、自分の中にもうっすらとそれに似た性質を自覚しているからじゃないかと思ったりもするんですが。自分が「気をつけよう」と思ってる性質に、表面的によく似たものを、凝縮された形で見せられたりすると、その「気をつけよう」が外部(対象)に投影されて、「イタい人」っていう表現になったりするのかもしれない(でも、その「似ている」っていうのが、実は大ハズレだったりすることも、良くあるんですよね。結果的な行動だけ共通だけども、理由が違ったりとかさ)。
つまり、人をわざわざ笑い物にしたりする人たちには、その人なりの事情があり、動機があることが多いんじゃないかな。それなのに、「その人なりの事情に影響された批判」をあたかも中立のものででもあるかのように勘違いした上で、さらに、それを内面化してしまう、自分で自分を縛ってしまうっていうのは、なるべくヤメにしたいと、私などは自分で自分に言い聞かせているのですが、なかなかうまく行きません。
いや、長年、「分かっていないのは自分だけ」という状況を経験することが多かったため、自分以外の人の言うことは何でもマトモなのかと思って、やみくもに暗記してきた蓄積があるものだから。ついねー。
さて、もしかしたら勘違いかもしれない「イタい人」という評価の出どころっていうかルーツの話ですが、どうも「AS」なり「自閉症」なりが、たまたま障害「でもある」ために、そして、障害として「しか」知られていないために、こっちが自閉的性質一般(有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめて、質的な違い)の話をしているのに、先方には、「病人ぶっている」「弱者ぶっている」「悲劇のヒロインを決め込んでいる」「特別な人間だと言いたがっている(いわゆる『不思議少女』系ね)」と見られてしまうっていう形があるんじゃないかと思います。
まず、自閉ってもんが、有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめた質的な違いであること自体が、あまりにも知られていない。その性質の質的な違いのうち、不利な部分を切りとって「症状」と呼んでいるのだってことが知られていない。専門家は知ってるんでしょうが、知っていても、いかんせん、不利な部分をフォローするのが本業であるだけに、どうしても緊急度から言えば不利な部分を語るのが最優先になってしまうのはしかたがない。
>それでも自分のことについてはそのときどき自分の納得行く形で理解したいと思う。
っていう願望(というより、その基盤かな)が存在することが、知られてないってわけです。「裾野」だろうが何だろうが、その人にとっては中心であることにさえ気づいてない人は多いし。
その上さらに、世間一般に、「病人ぶる」「弱者ぶる」「悲劇のヒロインを決め込む」「特別な人間だと言いたがる」人たちに対する蔑視というか冷笑というか反感のようなものが、たまたま、ある(小浜逸郎「『弱者』とはだれか」とか、春日武彦「不幸になりたがる人たち」とか、香山リカの「〈じぶん〉を愛するということ」や「インターネット・マザー」などは、著者がそう意図していたかどうかはとりあえず別にして、そういう人たちの需要にもたまたま応えるものだったせいもあって受け入れられているんじゃないだろうか)。
で、「質的な特徴のことを言ってるんだ」ってことがわからない人の耳には、「私ってASっぽいんだけど」という発言が、あたかも「仮病発言」「大げさ発言」であるかのように聞こえてしまう。でも、もしかしたらそれって、その人たちの中にも、ほんのうっすらと「仮病願望」みたいなものがあるせいかもしれないんですけどね。
>ひとにもその形で受け入れてほしい。
>それだけのことが、なぜかすごく難しいんですよね・・・・
>
>もともと「自分はこうだ」という話をするのが好きなわたしにとって「わたしのパーソナリティの一部はASに基づくものかもしれない」と説明しても受け入れてもらえないのはフラストレーションが溜まります。
星占いとか、血液型とかだったら、受け入れてもらえ易いのに、なんででしょうねー。星占いとかの方が、「偶然だよ」っていう大前提がはっきりしているから、「カブレ易い人に対する蔑視のとばっちり」みたいなのがまぎれ込む余地がなくて、普通の人たちにとっても安心なのかな、とも思いますが。
あるいは、星占いや血液型にはあまり優劣のイメージがないため(血液型を根拠に人を差別する人もいるみたいですけど、それとて「AS」ほどではないでしょう)、「悲劇のヒロインぶっている」とか「特別な人ぶっている」とかいう評価と結びつけられにくいこともありそうです。
でも私、将来的には、健常者もひっくるめて、自分の認知スタイル、学習スタイルを誰もが客観的な情報として知ることができ、しかもそれに余計な価値観や意味を持たせずにニュートラルに語れるような状況になったらいいなあと思ってるんですが。
健常者だって、自分に向いたスタイルで勉強できて、仕事を選べて、仕事ができたら、ずっとストレスも少ないし、効率もいいと思うんですよね。無用な摩擦も避けられるかもしれないんだし。
たぶん、それに似たことは、スポーツの最先端の分野(たとえばオリンピックを目ざすような人たち)では、既に行なわれていることなんじゃないかと思うんです。トレーニングのメニューを組むためにね。
あるいは、そのうち、ビジネスマンなんかを対象とした、技能習得のための講習会なんかでは、認知スタイルの個性を考慮したコース別編成みたいなものが、生まれてくるかもしれない(第一線で稼ぎまくっている人たちにとっては、時間が高価だからです)。
一方は障害児の療育から、もう一方はエリート向け再教育からの「はさみ撃ち作戦」で、「脳みその個性をもっと客観的な事実として語れる雰囲気づくり、基礎知識の普及」ってのが進んで行けばいいんですが(ちょっと壮大すぎました?)。
その一方、私にできることとしては、「自閉(ASも含めて)とは、有利なこと、不利なこと、有利でも不利でもないこと、有利でも不利でもあること、全部ひっくるめて、質的な違いであり、そのうちの不利な部分を切りとって『症状』とよんでいるのだ」「自閉はある程度以上濃ければ障害にもなるが、それがすべてではない」ということを、声を大にして言い続けていくこと、くらいでしょうか。
それが結局は、裾野に位置する人にも、もっと上の方に位置する人にも、裾野かもしれないけど違うかもしれない人にも、全員に役に立つんじゃないかなと思っているのです。えらい遠回りな話ですけどね。
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