アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
くると wrote:
>「身体のふれあい」が苦手ですか?それとも「心のふれあい」が苦手ですか?
「身体のふれあい」は、相手と場合により。 イヤな相手じゃなくても、突然だと かなりビビっちゃう。
「心のふれあい」は、多分嫌いじゃないけど他の人々より能力が不足しているような気がする。
tori wrote:
>でも気を許した人と寝るのは一向に構わなかったりする。
うんうん、そーいうことよね。
ガーデニア wrote:
>私は、これで相手の男性にひどいことをしてしまいました。
>どうしても我慢できない接触を相手がしてきたので、泣いてしまったんです。そうしたら、その人は、すごい落ち込んで何度も謝ってきました。
>私も、「こんなんでごめんね。」と謝りましたが、相手は相当落ち込んでいました。
私も経験あります。 多分おんなじようなシチュエーションだったんじゃないかなぁ。
しかも、私の場合、同じ様な事を数回(=数人に)してしまった。
更に言うと、そんなところまでたどり着くもっと前の段階で似たようなことをやっちゃったこともあります。
肩に触れられてフリーズしちゃったり(しかも交差点の真ん中で)
相手が手を差しのべてくれたときにその手を取ることが出来ずに後ずさってしまったり・・・ その人とはそれで終わってしまった。。。
中学生くらいの時の話じゃないんですよ。 いい加減おばさんの域にさしかかった28才の恋。
相手も驚いたと思うけど、私自身も とてもかなしかった。
くると wrote:
>わたしは異性との「心 のふれあい」には苦しみました。なぜか、自分に好意を寄せてくれる異性が脅威に なってしまうことが多かったです。
ちょっと違うかも知れないけど、私も「自分に好意を寄せてくれる異性が脅威になって」しまった事あります。
相手が自分に恋心を持っていると気付かずに 期待させるような態度を取ってしまったようで、相手は相当盛り上がっていました。
で、私がそういう気持ちではないと相手に分かってからは、もう、ストーカー状態で 脅威 脅威でした。 こわかったよ~。
ガーデニア 改め さるすべり wrote:
>接触を避けるために過度に身をかわす(よける)のは、他の人にとって不快なのでしょうか?ご意見伺いたいです。
他人にあからさまによけられたら、嫌だと思う人は多いんじゃないかなぁ。 道を譲るようにスマートによけられたらいいんだけどね。
ところで、どうして『さるすべり』?
tori wrote:
>私は精神医学の診断基準をあまり信用していません。
診断基準の制定には保険屋が絡んでいると聞いたことがあります。
だから仕事しているかどうかなども関係付けられているみたいで、純粋な医学とも言えないようです。
その一方で、すでにASの名前のもとに定義されているものがあって、そこから大きく外れたものに対しても、同じASという名前を使うことには疑問を感じます。
もっとシャレた、新しい名前を作った方がいいのではという気もします。
SUN wrote:
>大阪オフ会、風邪でひとり来れなくなって(残念ー)、
>参加者は合計7人でした。
>言い出しっぺなのにどこに行くとか決めてなくて、なんか人まかせのなりゆきまかせですみませんでした。
>でも、いろんな話ができて、面白いお店に行けて、楽しい一日でした。
>
>オフ会では、聞き取れなくて何回聞き返しても、ぼーっとしてても、
>あー、どうしようどうしようって迷ってても、
>みんな寛大なので気持ちがとても楽だったです。
>また時々大阪や京都でミニオフなんかもしたいです。
>(予定があったら誘ってください)
>
>またどうぞよろしくお願いしますー
私が一番落ち着きがなかったような気がします。
前々日に仕事でネクタイをしていたので、首のまわりの違和感がオフ会の間も残ったままでした。
これからは関東のオフ会にもっと顔を出したいと思います。
大阪オフ会、風邪でひとり来れなくなって(残念ー)、
参加者は合計7人でした。
言い出しっぺなのにどこに行くとか決めてなくて、なんか人まかせのなりゆきまかせですみませんでした。
でも、いろんな話ができて、面白いお店に行けて、楽しい一日でした。
オフ会では、聞き取れなくて何回聞き返しても、ぼーっとしてても、
あー、どうしようどうしようって迷ってても、
みんな寛大なので気持ちがとても楽だったです。
また時々大阪や京都でミニオフなんかもしたいです。
(予定があったら誘ってください)
またどうぞよろしくお願いしますー
武田好史 wrote:
>#また私が「彼は専門医の診断を受けるべきである」といったのは、やはりその本に「治療に当たっては、チック症状のみではなく、合併症(AS・ADHD等)への考慮も大切です。合併する障害や随伴する行動、情緒の問題が大きければその治療が優先されます。」というふうに書いてあったからです。
なるほど。
そうですね、情緒的な問題はかなりありますなー。
まず、怒るとき(タイミング)とかが分からないらしいですね。
笑うのと、泣くのはなんとか。
チックはうーん、僕が気づいた程度だからなー。
なんて言うか、連れは友達がいないの(断言してもいいことか?)で、これまで全く彼の言動、行動に特異なところがあるとは思われなかったらしいですね。
うーん、合併症。
もっとも考えなくてはいけないのは、パニック行動をすることかも。
たまーに、不可解な行動するんですよね。
これって、問題かな?
確かに僕の前だけならいーのだけど、職場でやったらやばいな、とは思っています。
連れと相談してみよう。
あ、連れにはASの傾向があるのではないか、と本を読ませているところです。こーゆーことすると落ち込んだりするものなのかな?
僕は全然偏見ないつもりなんだけどなー。
偏見を怖がる人は、同じ偏見を自分でもしているからだと思うのだが、なかなか認めてもらえなくってね。
ガーデニア wrote:
>質問です。
>皆さんは、結婚するなら、アスぺの人と結婚したいですか。それとも、そうではない人と結婚したいですか。
これかなりシビアな問題ですね。
かくいう僕の連れもAS(の可能性濃厚)で、現在結婚するか、どうかと、ま、年齢的にもちょくちょく話には出てきますし。
僕の妹らは、彼(連れの事ね)との結婚はかなり強固に反対してきますね。
だって、彼が僕を幸せにするとは思えない、と断言してくれますから。
それには、僕も反論できませんね。
悪いが、僕は極めて男好き^^;で、かなりの許容範囲を持っていると自負してやまないけど、連れとつきあい出して(つきあっている、という定義すら怪しいけど)3年になるが、未だ一度たりとも連れのことを好きだと思ったことないからなぁ。これって、僕にとってはかなりのショッキングな人付き合いですよ。
僕は基本的に好きだなぁ、と思う人たちと男女問わずつきあっているのに、じゃ、この連れの存在は一体なんだろう???ってよく思うよ。
連れ自身は、僕と是非結婚した一らしいけど。
何が原因か、って、僕のこと考えてくれてたことある!、ってことかな。
いつでも話題の中心が、自分から離れないからね。
僕の思惑に関係なく、自分の思惑だけではなされたら、結構きついですよ。
#ま、こういった性格の人は、別にASの人に限ったことでは全くないけど。
一緒にいるとかなり疲れるのは否めないしな。
僕は恋愛のエナージーが低くできているので、僕と一緒にいるときに1秒でも僕に幸福感を感じさせることができたら、ま、良しとしよう、といってやってるけど。
結婚するかしないかは、その人が相手の何に思い入れるかじゃないかな?ってのが、うちの親の意見。
うちの親は、自分が気に入ったなら、決めるのは自分だって、理解あるからなー・・・なのか、ほんとに。
結婚しても遊び歩く連れ合いとかいるし、これは、ASだとか、そうじゃいとか、あんまり関係なくって、どういう生活を2人で築きあげていくかを検討すべきでしょう。
僕的には、ASだから結婚したくない、ってのは、ないですよ。
気に入ったら、ま、運命なんてやつじゃないの?
さすがに、法律上相手が女だったらだめだけど。^^
りふれくと さん wrote:
>もう話がどっか飛んでしまってますね(T_T)
そうではないのです。この掲示板に対する書込みの量が尋常ではないのです!
たかだか一週間前の話題の後に山ほどの書込みが入っちゃってるもんだから、「うっ……場違いかも」と、「空気や雰囲気が読めない」はずのASの私ですら思ってしまいます(^_^;)。週一や月イチでアクセスしてる人には確かにしんどいよなぁ。
だけど、別に構わんではないですか。「その時の話題は一個に絞んなきゃならない」とかいった縛りがあるわけでなし、同時並行的にいくつもの話題が進行してるわけですから。そもそも「[この発言にコメントする]」なんていう機能は、そのために用意されてるわけだし。できれば「####へのコメント」の「####」の部分をクリックするとその発言にジャンプするとか……ひょっとしたらもうなってるのか? なんか似たような機能はありそうですね。そのうち調べてみようっと。
>さて……最近考えている事の一つに、なぜASは存在するのか。そして、
>なぜ自分「が」ASなのか。ということがあります。
ちょっと関係なさそうな話題から入らせてください。
最近、「ホモは遺伝である」とする説が流行しています(この場合の「ホモ」は「ヘテロセクシャル」の反対語で、いわゆる「バイセクシャル」を除いた、「レズビアン」を含む同性愛者のことです)。で、これを仮に正しいと認めると、「『ホモが嫌いだから』という理由でホモを弾圧している人間が、ホモを増やしている」ことになると私は主張したことがあります。
つまり「ホモを弾圧する」→「ホモが偽装結婚して子供を作る」→「ホモの遺伝情報が残る」→「次の世代のホモが生まれる」ということになるわけですね。逆に「ホモを賞賛する」→「ホモはホモ同士、幸せに人生を全うするので、無理に子供を作る必要がなくなる」→「ホモの遺伝情報が残りにくくなる」→「次の世代に生まれるホモが減る」ということになるわけです。
正直者が馬鹿をみて、その結果次世代に遺伝情報に残せなかったとしたら、とうの昔に正直者はこの地球上から絶滅していたはずです。にも関わらず、日本においては「正直者」はしっかりマジョリティだったりするわけですよ。
アメリカや韓国から日本にやってきた人は、「日本人というのはなんと親切なんだ」と感激します。「これなら日本での商売はちょろい」と考えてしまいます。ところがアメリカや韓国のビジネスマンは日本で成功せず、日本のビジネスマンはアメリカや韓国では「情無用のマーケッター」として恐れられています。それはなぜかというと、「永続的な取引を考えた場合、日本人と組むのがいちばん安全確実だから」なんですね。確かに一度きりの商売だったらユダヤ人や中国人やインド人やオランダ人といった商売上手な人々というのがおるわけですが、そういった人々が、「日本人には勝てん!」とぼやいているわけです。
つまり、「正直である」というのは適応戦略として有効に働いているわけです。それと同じように、ASというのは適応戦略の一部であって「突然変異」なんでいうものではなく、むしろ単に「発現しにくい遺伝子」であるのではないでしょうか。いわゆる「隔世遺伝」のようなものです。これはASの場合、「親類の1人かそれ以上の類似のパーソナリティを有する人がしばしば認められる」という事実によっても補強されます。
で、ASの人間というのは、おそらく企業の研究開発部門のようなものだと思うんですよ。研究開発をまったく行なわなかったら、ニーズの変化によって生産部門は衰退してしまいます。とはいえ研究開発部門は、製造部門のように安定した利潤につながりません。ベネフィットも期待できる代わりに、リスクも大きいわけです。ですから、「次世代の売れ筋商品」を開発するための研究要員(実験動物だったりして(^_^:))が、ASだと思うんですよ。じじつ、新しいパラダイムはAS傾向の人々から出てくるとか、ASは創造性が高いとか云われるんですね。
確かに今現在人類が絶滅する可能性は限りなくゼロに近いでしょう。ですが、縄文時代には漁撈採集から農耕文化への移行が行なわれました。クリやクルミやトチのような木の実から、稲・麦・粟などへの食料の移行がありました。近年では家内制手工業から自動化・機械化による大量生産があり、軽工業から重工業への変化があり、かと思えば重厚長大産業はアジア大平洋諸国の他の国に移って日本は軽薄短小への道を選び、社会は情報化社会へと変貌を遂げつつあります。
つまり、文化のあるジャンルに注目した場合、文化的な大絶滅はしばしば起きているわけですよ。で、こうした大絶滅を含めた社会構造の変化によって国際社会を生き抜き、日本を世界第二の経済大国へと成長させたのは、歴史の中にあまた登場したAS傾向の持ち主である、おっちょこちょいな先駆者たちだったんです。
現代の情報化社会を支える半導体製造に関わる周辺技術は、東の大森・西の東大阪の町工場で数多く生まれています。日本の産業の強みは、一部のエリートの強さにあるのではなく、底辺における底力にあるわけです。
で、最後にひとつ。だったら取り柄のないASには価値がないのか、という話です。
私はASの人というのは泥鰌だと思っているのですよ。
金魚を運ぶとき、小さな器に金魚をいっぱい入れて運ぶと、弱い奴は下の方に行ってしまって、呼吸ができずに死んでしまいます。ところがそこに泥鰌を数尾入れておくと、泥鰌は底と水面を往ったり来たりするものだから、上下の金魚に入れ替わりが起きて金魚が死ににくくなるんですね。で、自然状態では金魚は生きてけませんけど、泥鰌は田んぼから渓流からあらゆるところに適応して生きています。それに金魚食ったってうまくないけど、泥鰌は食ってもうまいぞ。
だから、ASの人間というのは局所的には迷惑な奴でも、そいつがいるから世の中が腐らない、という意味で、「ASであること」そのものに価値があるような気がします。
だから私は嫌われるのも嫌いじゃないのさっ! KILROY
くると wrote:
> (例)満員電車のなかでひしめき合う,思わず体が触れる
私は、本屋や図書館などにもよく行きますが、どうしても他人と接触してしまわなければいけないことが嫌いです。他人の体に触れたくないから、私はぶつかる前に、身をかわします。しかし最近、身をかわされた人にとっては、失礼なのではないかと思うようになりました。小さいころから、子ども特有の「えんがちょ」と言われてきた人にとっては、「私はそんなにきたないのか」と思ってしまうのではないかと思いました。
私は、自分の感じ方も大切にしながら、歩み寄って暮らしてゆきたいと考えていますが、やはり、接触を避けるために過度に身をかわす(よける)のは、他の人にとって不快なのでしょうか?ご意見伺いたいです。
http://homepage2.nifty.com/patti_ld/index.html
りふれくと wrote:
>どうも、りふれくとです。
>>ここでの発言を見ていると、ASは新たな環境に適応するため・・や、「人間」という種に多様性を作っておいて、種全体の絶滅を避けるため・・という名目で生まれた「突然変異」という考え方が多数のようです。
「変異」というものには大きく分けて、生物の進化の過程で環境に適応しようとして生じてくる「環境変異」と、遺伝子や染色体の変化によって先天的にある個体に生じてくる「突然変異」の2つがあります。
ASは100%というわけではありませんが、遺伝性の面もありますし、また「突然変異」という用語を「胎内での不運な事故(例えば風疹ヴィールスへの感染など)による障害も含む」と見なした場合、「AS=突然変異」といった解釈も可能ではないかと私は考えました。
もっとも、それでも私たちが人間というすばらしい生き物の一員であることに、何ら変わりはありません!他の先天性の障害の方もみんなそうです!
>でも・・「新たな環境」ってなんでしょうか?
>「種全体が絶滅する」って、どんな事態が起これば起こりえるものなんでしょうか?
>ASが発見されてから50年は優に経つのに、未だにASは(一般人には)社会的に殆ど認知も・・そして理解もされていません。
>そんな状況下で・・そう簡単にASが適応できるような「新たな環境」ができあがると期待するのは、あまりに楽観的な考えなのではないでしょうか?
私たちが暮らしやすい「新たな環境」は、私たちが協力し合って探さなくてはなりません。私たちを理解してくれる人と一緒に、創り出さねばなりません。きっと
それができたときに、「僕(あたし)はASに生まれたけど、生きていてよかった!」という自己肯定感が生まれ、私たちは幸せになれるのだと思います。
がんばりましょう!
>反論はないですよ(笑)。面白く読みました。
ありがとうございます(^_^;)。
とはいえ「相手の主張を真摯に受け止める」ためには「批判的な立場から相手の主張を見据える」という手段が有効なので、本当のことをいうと、ただ「面白く読」まれてしまうよりは強烈なツッコミを入れられるほうが嬉しかったりします。福沢諭吉も『福翁自伝』で、塾生時代に誰かが議論していると、「なんだ、そんな馬鹿なことがあるものか」と割込んでゆくのが習慣だった、と書いています。「優しさって、時には残酷なものなのよ」。ふっ(遠い目をしている)。
「人間どうしの摩擦って、強すぎると苦痛だけど弱すぎても物足りなくて、ちょうどいいと快感なのよ」
「……スケベ。」
だからこういうこと書いてっから品性を疑われ……(←苦難のセルフつっこみ)
>家族や友達ではない「社交的な関係」とは?
>「社交的な関係」とは、「上辺だけの付き合いですむ関係」と考えて
>いいんでしょうか?
>仕事さえ出来れば、それに見合った給料がもらえると考えていたのに、
>実際は仕事と人間関係の割合が5:5。
私がいう「社交的な関係」というのは、「義務だけ果たしていればいい関係」、あるいは「仕事だけしていればいい関係」のことです。で、この「義務」というのには「社会人としての義務」「親としての義務」も含めますし、「仕事」というのは「社会人としての実存のよりどころとしての、�自分の仕事�」です。だから、必ずしも「上辺だけの付き合いですむ関係」ではないですね。
「『自分の子供だから特別に可愛い』とかいったことは全然ないんだけど、親としてできることはしてあげたい」というのは、私の規準では「いいお母さん」なのですよ。で、「愛しているからこそ子供が思い通りにならないのが腹立たしくて、虐待してしまう」みたいな「可愛さ余って憎さ百倍」みたいなお母さんは、私の規準だと「悪いお母さん」なんです。「両親の期待と愛情を一身に浴びて育った」りすると、なんか、かえってグレちゃいそうな気がします。世間には「どうしたらああいういい子に育つのですか?」みたいな質問をする人がいますが、そういう子供の親には、あんまり「育てた」という意識がないように思います。
仕事の面でも、「仕事の上では間違いなく尊敬できるし、学ぶことも多いのだけれど、人間性とか言われると、どうこう言えるほど知らない」みたいな関係が心地よいです。面と向かって私の仕事のやりかたを批判する人が、私の悪口(態度だとか言葉遣いだとかに関してです)を言ってくる人に対して「あの人は仕事はできる人だ。だいいち、文句があるんだったら本人に直接言え」と怒ってくれていたというのを人伝に聞いて、「おお、もったいなやかたじけなや」と感謝したりとかいうこともありました。「AさんとBさんは仲が悪いから、Aさんの悪口をBさんに言えばBさんに気に入られるだろう」みたいな考え方をする人が、私は嫌いです。
さらに、偉くなっちゃった人というのは周りに自分を批判してくれる人がいないので、私みたいな馬鹿(=馬鹿正直)な奴を呼んで、そいつが自分のことを遠慮なく批判するのを聞いて喜んでしまう、ということがあります。
岩波書店から最近文庫で出たR.P.ファインマンの『「ご冗談でしょう、ファインマンさん」』にある『下から見たロスアラモス』には、こういう雰囲気がよく出ています。
『ちょうどその頃ハンス・ベーテを除いて大物は皆どこかへ出払っていた。だからベーテは自分の考えをぶつけて試す相手が必要になると、僕のオフィスに入ってくる。そしてこの駆け出しの青二才相手に彼の考えを説明しては議論をふっかけるのだ。すると僕は「いや違う。君は頭がどうかしてるぞ、これはこうなるはずだ」などと言う。するとベーテは「ちょっと待った」とさえぎって、頭のどうかしてるのは僕の方で、彼の考えは間違っていないことを説明する……といった調子で、二人で大いに議論を闘わすのである。ひとたび物理ときけば物理のことしか念頭になくなる僕は、相手が誰であるかなどとんと忘れてしまう。だから「いや、違う、違う。君はまちがってるぞ」とか「気でもふれたか」などと、とんでもないことをつい言ってしまうのだ。だがこれこそベーテが最も必要としていたことだったのだ。』
で、私みたいな人間は、「人間関係だけで給料もらってる人」には蛇蝎の如く嫌われるわけです(^_^;)。「他人の指図は絶対受けない頑固な技術屋」が、私の説得には快く応じてくれたりとか、「恐くて、とても普通に口がきけないような偉い人」に向かってめちゃくちゃ言ってんのに、可愛がられ重宝がられているわけですから。で、「人間関係だけで給料もらってる人」に足を引っ張られていろいろと痛い目を見るはめになったり煮え湯を飲まされたり、ということになりました。だから「ASの人間は人間関係を持つことの困難さがある」とかいうのは嘘だと思っているわけだし、「ASはかえって社交性が高いような気がする」と主張するわけです。
「ASは人間関係を持つ相手を選ぶ」んだけど、それは戦後民主主義における「みんな一緒に みんな仲良く」の精神に反するんですね。武者小路実篤ではないけれど、「人は人 されど仲良く」というわけには、なかなかいかないようです。帰国子女いじめも、根は一緒のような気がします。
KILROY
toriさん、こんにちは。
tori wrote:
>私は服を選ぶとき、デザインよりも機能優先です。
>
>重い服は肩がこるから着れません。
>フリースは静電気で気分が悪くなるので着れません。
>同じ理由で、Tシャツは綿100%のしか着れません。
>それと、首を絞めつけるタートルネックのような服も苦手です。
>靴下は、綿100%でないと皮膚がかぶれます。
>他にも、腕時計が苦手です。
>
>基本的には自然素材のものを選んで買います。
>綿が一番好きです。こんな人いませんか?
はーい!(^^)/
#腕時計は、かばんにはめてます。
私は、意見が一致することにはそれほど意味がないと思ってます。
各々妥協し合って、意見がまとまるなら、それはそれでいいと思う。
でも、意見の一致を見ない場合、妥協できない場合は、
それはそれでいいではないかと思うのです(そのままで無理に意見の統一を行わないということ)。
むしろ人の考え方や習慣を認めることで、何か得られるものがあるのでは、と思っています。
私は、「味方じゃなければ敵」という考え方には同意できません。
かといって、↑こういう考え方の人たちと対立しようとも思いません。
もちろん自分の身を守るためには闘いますが・・・。
意見や文化や生活習慣が違っても、共存できるはずだと信じています。
(別にきれいごとを言ってるわけじゃないですよ。外国に居た時に受けた外国人差別よりも、
日本に帰ってきてからの帰国子女差別の方が、ずっとずっとハードだったと思うからです。
だって陰険なんだもん)
私は、人と違うということに異様に敏感に反応する人たちに、
いつも泣かされてきました。
私はいつも人と違うことを考えていて、人に上手く合わせられないので、
馬鹿にされたり、排除の憂き目に遭ったり、嫌な思いをたくさんしたので、
上記のように考えるようになりました。
こんなことをここの掲示板に書いてもしようがないかと思うんですが・・・。
すみません、書きたかったんです。
どうも、りふれくとです。
前のカキコで、テストが終わったらすぐ戻ってくるような物言いをしていながら、なんと1ヶ月もここから遠ざかっていました(^_^;
まあ、様々なゴタゴタがあってここまで遅れたんですが、もう話がどっか飛んでしまってますね(T_T)
まあ、これからはつかず離れずみたいな感じでぼちぼち書き込んでくので、改めてよろしくお願いします。
さて・・最近考えている事の1つに、なぜASは存在するのか。そして、なぜ自分「が」ASなのか。ということがあります。
ここでの発言を見ていると、ASは新たな環境に適応するため・・や、「人間」という種に多様性を作っておいて、種全体の絶滅を避けるため・・という名目で生まれた「突然変異」という考え方が多数のようです。
でも・・「新たな環境」ってなんでしょうか?
「種全体が絶滅する」って、どんな事態が起これば起こりえるものなんでしょうか?
ASが発見されてから50年は優に経つのに、未だにASは(一般人には)社会的に殆ど認知も・・そして理解もされていません。
そんな状況下で・・そう簡単にASが適応できるような「新たな環境」ができあがると期待するのは、あまりに楽観的な考えなのではないでしょうか?
また、現状ではすぐに人類が絶滅するような要素は無きに等しく、それにいくらASが普通の人間と違うとはいえ、人間と体つきが極度に異なるわけでもなし。毒性物質に対する耐性が強いわけでもなし。まして、必要な物質なしに生きられるわけがありません。
だから、今現在人類が絶滅する可能性は限りなく0に近く、また仮に絶滅したときには、恐らくASも一緒に絶滅すると思います。
そうなれば、前者は望みの薄い希望でしか無く、また後者は全く意味を成さない事になります。
すみません。眠いので続きは明日書きます。
KILROY wrote:
>とはいえ上記の話はすべて私の個人的な見解です。反論等がおありでしたら遠慮なく(AS傾向
>の人間が「遠慮なく」と言ったら、本当に「遠慮なく」です。「そんな馬鹿な話があるかっ!」とか
>いうお叱りも当然OKです)。
反論はないですよ(笑)。面白く読みました。
>ただし、ASは決して知能が低いわけでもないし、家族や友達ではない「社交的な関係」につい
>てはそれほど不自由でなかったりします。
家族や友達ではない「社交的な関係」とは?
私は家族との交流は問題ないですが、他人に対して他人行儀すぎて失敗することが多いです。
なかなか人と親密な関係を持つことができません。
(私はそのせいで、3年勤めた会社を辞めざるを得なくなりました)
一回限りの出会いなら全然問題なかったりしますが・・・。
「社交的な関係」とは、「上辺だけの付き合いですむ関係」と考えていいんでしょうか?
>他にも医学、コンピュータ・サイエンス、数学、天文学、物理学、英文学それぞれの分野で活躍
>しておられるASらしき人はかなり多いわけで、強いて助言をするならば「いじめにあったりしない>ように、なるべくマイナーな分野を選び、無用の競争を避けて、人間関係の軋轢を避ける」ことだ>と思います。私はそれで人生を誤りました。
私は帰属意識というものを全く持ち合わせていないので、会社というものがどうも苦手です。
(まあ、これはどこに行っても付いてまわる問題だと思いますが・・・)
>「いじめにあったりしないように、なるべくマイナーな分野を選び、無用の競争を避けて、
>人間関係の軋轢を避ける」こと
これはまったく同感ですね。私は仕事と人間関係の両立が難しいです。
仕事さえ出来れば、それに見合った給料がもらえると考えていたのに、
実際は仕事と人間関係の割合が5:5。
(もっとかも。人の悪口は言いたくないけど、人間関係だけで給料もらってる人もいましたから)
>私はそれで人生を誤りました。
よかったら、なんでそんな風に思うのか教えてください。興味があります。
昼間、小学生らしき男の子たちが、あの昭和二十九年の初代『ゴジラ』のテーマ曲に合わせて、
「出たぞ 出たぞ ゴジラがまた出たぞ
出たぞ 出たぞ ゴジラがまた出たぞ(出たぞ出たぞ)
だん・どん・だん・どん・どん・どん
だん・どん・だん・どん・どん・どん」
と歌いながら行進していました。
あああああああ、その歌声が耳について離れない!
繰返し繰返し何度も何度も頭の中で鳴っているぅ~!
面白いやら嬉しいやらしんどいやら。
どっかの学校の先生が教えたのかな?
誰かに教えてあげたくて KILROY
No.3353 tori さん wrotes:
>私は精神医学の判断規準をあまり信用していません。
>だから、実のところ自分がASなのかどうかもあまり興味ないです。
>ただし、自分のことを知るための一手段として、
>精神医学と脳科学の研究成果を利用しようと思っています。
>私はいつも、ASの掲示板だからって、
>ASじゃない人が書き込んではだめってことはないと思います。
Asperger症候群は、そもそもたかだか四人の男の子の症例から導き出された概念ですから、現在われわれがASと呼んでいるものとは、必ずしも病像(「病気」ではないというのが私の主張なんだけどもさ)として一致するものとは判断できなかったりします。それに、このボードに書込みをされている方の多くは「症状」と言うほどにはその症状に対して苦痛を感じていなくて、むしろ、「いわゆる�普通の人々�」との軋轢に苦しめられているわけですね。
それを考えると、“ASの人”という典型的な人間像と、自分や自分の周囲の人を比較することによって、人間、あるいは人間関係を理解しようとする……あるいは見つめなおすことができるのではないか? そして、そのことによって、その人の人生が豊かになるのではないか?といったあたりに、「ASを理解すること」の意義があると考えていいんじゃないか、と思います。
ですが、それにしてもASについてはなんとなく誤解が多いような気はするんですよね。
ASというのはいわゆる「自閉症(autism)」と違って幼児期における言語発達の遅れがなくて、分裂症(スキゾフレニア)と違って幻覚がない、という点で、独立した病像(というか、人間像あるいは人格像)であるにも関わらず、自閉症にも分裂症にも似ているわけです。
「自閉症」というと、なんとなく内に閉じこもってる感じ(確かにこういうのを「自閉的」とか「自閉傾向」とか云うんだけどさ)ですが、「自閉症」というのは別に「閉じこもっている」わけではなかったりします。また、「人間に対して興味がない」という訳でもありません。
たとえばの話、我々は(というか、自閉症でない人は)「電動の猫のぬいぐるみ」と「動物の猫」では、どこかが決定的に違うと感じているわけです。我々は「猫のぬいぐるみ」に「見つめられている」とは思わないわけですし、ぬいぐるみは呼んだって寄ってこないし(電子ペットだとどうだか分かんないけど)、�音�は出しても�声�は出さないし、自分の意志で動いてるとも思わないわけです。
そこで自閉症の子供の行動を見てみると、我々が「電動の猫のぬいぐるみ」に対してとる行動と同じ行動を人間に対してとるわけですね。視線は合わないし、言葉で相手に対する働きかけをすることはないし、言葉に対する「返答」はなくて単なるオウム返しだし、相手の注意を引こうともしないし、相手に対して「指差す」ことで対象を示すということをしないし、「クレーン現象」といって、「相手の手に何かを持たせようとするときは、相手の手を取ってその物の上に移動する」ということをするわけです。
相手が猫だったとすると、猫をある方向に向かわせようとするときは、「よっこらしょ」と猫をそっちの方に向けます。にもかかわらず猫が右に曲がっていっちゃったりすると、次はもっと左に向けて「よっこらしょ」と向きを変えたりとかしちゃうわけです。で、これが「クレーン現象」なんですね。で、猫が「にゃー」とか鳴くと、「にゃー」とか真似するんですが、声のトーンが一緒なんですね。これが自閉症でない人だと、「にゃー」「にゃあ。」「にゃー」「にゃ?」「にゃー!」「にゃにゃにゃにゃにゃ」とかいって、それなりに会話っぽくなるんですが(それとも、そういうのは私だけでしょうか?)、自閉症の場合はそういうことはありません(まあ、「いわゆる�普通の人々�」でも、亀だのカブトムシだの魚だのには感情移入できない人がいっぱいいますから、これだけで「自閉症」と決めつけられても困るんですが。私もビル・ゲイツが死んだって何とも思わんけど、うちで飼ってるメダカがみんな死んじゃったら泣くだろうし)。
つまり、自閉症の子供にとって、我々は「電動の人間のぬいぐるみ」(と言いつつも、彼は「本物の人間」を理解していないわけですが)と変わることがないわけです。「だったら自閉症の患者は、玩具を壊すように人間を殺すのか?」といった怖い考えになってしまうかもしれませんが、ふつうの人は物を壊すときに、その物に対して「人格」を貼りつけることによって攻撃性を向けているわけですね。ですから、自閉症の患者には自傷行為はあっても攻撃行動はなくって、むしろ攻撃行動が出るということは、自閉症の症状が改善されているということだったりします(これは逆にいうと、いわゆる「正常な人」は、単なる物体に「人格」を貼りつけてしまうという点で「異常」だったりもするわけですが。遊牧民にとっては、我々農耕民族が、家畜が殺されるのを見て「可哀想」だとか「残酷」だとか感じるのが理解できないと思います。「なぜ食料に感情移入できるのだ? お前らが食っている米や野菜だって、家畜と同じように生きているではないか」と言うかもしれません)。
こんなわけだから、自閉症の子供は「言葉」とか「人間」に対する興味というのは発達しにくいわけで、事物や秩序・法則に対する興味のほうばかりが発達してしまいます。ところがこの自閉症児がコンピュータに出会うと、俄然熱中しちゃったりするんですね。コンピュータの世界においては「情報=行為」だし、コンピュータは人間のように気まぐれで飽きっぽくなく、与えた情報に従って従順かつ正確かつ飽きることなく行動してくれるからです。
これに対してASの場合は、言語の遅れがないことから、人間は人間として見ていると考えられます。だけど、人間って機械やコンピュータみたいに分かりやすくないんですよね。何するかわかんないし。特に感情的に爆発しちゃう人なんかは本当にわからない。だから人間に対してあんまり興味が持てなくて、事物のほうに興味が行っちゃう……ような気はするんだけど、それだけだと、ふつう「分裂傾向」と呼ばれるものが説明できません。
そこで鍵になりそうなのが、「幼児期の言語発達の遅れがない」にもかかわらず、「言葉と言語表現の問題がある」という点なんですね。たとえば「ことこと」と「とことこ」はなんで違うんだろう、とか、「ことことと」と「とことこと」がよくわかんなかったりしているうちに、「ことことことことことこと」とか「とことことことことことこ」とか、何度も何度も繰返して違いを確かめてみたりとかしちゃうわけです。これは聴覚的なことだけじゃなくって、「ぬ」と「ね」と「め」を見比べていると、なんだかよく分かんなくなってきて、「ぬめぬめ」「めぬめぬ」「ねめねめ」「めねめね」とか書き並べて「うーん」とか考えこんでみたりとかしちゃうわけです。
ただし、ASは決して知能が低いわけでもないし、家族や友達ではない「社交的な関係」についてはそれほど不自由でなかったりします。そこで、
No.3364 マザーさん wrotes:
>若いゆえに「大丈夫かな?」とおもいもしましたが、子供は、兄貴のような
>感覚で頼りにしている感じです。
ということにも(おそらくは)なるわけで、第三者的な「先生」との関係は良好で、他の子供からいじめを受けたりしなければ、学校にもわりとすんなり適応しちゃうと思います。これが自閉症と決定的に違う点で、だからこそ�高機能�広汎性発達障害と呼ばれるわけです。ただし、先生が嫌いだとその学科も嫌いになっちゃう可能性が高くて、成績にムラができるのはいたしかたないと思います。なにせ�広汎性�発達障害ですから。
そういうときに面倒見のいい従兄姉かなんかがいて勉強とか教えてくれると、けっこう大丈夫だったりするみたいです。ただし親兄弟だと感情移入しすぎちゃってダメかも。二つか三つくらい年上の従姉かなんかだと、「先生と生徒ごっこをするのにちょうどいいオモチャ」くらいの感覚で遊びながら勉強教えてくれるしね。
で、そういう子供は一生苦労するんじゃないだろうか、とか考えてしまうんですが、まあ人間一生苦労は絶えないわけだし、苦労のない人生なんて面白くもなんともないし、苦労だらけの人生が楽しくないかっていうとそうでもなかったりします。で、逆にそれが才能に結びつくことだってないとはいえない。筒井康隆さんなんかは、エッセイを読んだ限りにおいてはモロにASですし、『バブリング創世記』なんかはASであるがゆえに生まれた作品だと言えるでしょう。
他にも医学、コンピュータ・サイエンス、数学、天文学、物理学、英文学それぞれの分野で活躍しておられるASらしき人はかなり多いわけで、強いて助言をするならば「いじめにあったりしないように、なるべくマイナーな分野を選び、無用の競争を避けて、人間関係の軋轢を避ける」ことだと思います。私はそれで人生を誤りました。
とはいえ上記の話はすべて私の個人的な見解です。反論等がおありでしたら遠慮なく(AS傾向の人間が「遠慮なく」と言ったら、本当に「遠慮なく」です。「そんな馬鹿な話があるかっ!」とかいうお叱りも当然OKです)。
そんなわけで KILROY
tori wrote:
>それと、首を絞めつけるタートルネックのような服も苦手です。
わたしもタートルネックとネクタイとマフラーが苦手です。なんか首が気に
なって体が硬直します。開襟シャツの第1ボタンを開けていれば、なんとか落
ち着いていられます。でも仕事(塾の講師)の時はネクタイを着用しなければ
なりません。なんか嫌です。
さくらかのえ wrote:
> さっそくのレスありがとです。
>その人といると楽しいとか、話していると楽しいという感覚でしょうか。
>
>あ、そういうのを「心のふれあい」と言っていいのか。
>
>わたしもときどき不思議なくらい話がかみ合って会話が弾むことが
>あります。めったにないけどね・・・
厳密にはもっと深い「心のふれあい」があるような気がしますが、わた
しはそこまでは経験したことがありません。特に「愛」という名前のつく
「心のふれあい」にはまだ到達できていない感じです。
ガーデニア wrote:
>私は、これで相手の男性にひどいことをしてしまいました。どうしても我慢できない接触を相手がしてきたので、泣いてしまったんです。そうしたら、その人は、すごい落ち込んで何度も謝ってきました。私も、「こんなんでごめんね。」と謝りましたが、相手は相当落ち込んでいました。
>とにかくこの問題は、触覚過敏を持つ人にとって難しい問題です。相手が柔軟な人だったらいいのですが、そうでない人だと、私みたいな事例は、「信じられない」ことの領域に入ることのようです。これからも、私にとって、これは、問題です。
「心のふれあい」にしろ「身体のふれあい」にしろ、自分に好意をもってくれる
人の接触が受け入れられないのは辛いですよね。ちなみに、わたしは異性との「心
のふれあい」には苦しみました。なぜか、自分に好意を寄せてくれる異性が脅威に
なってしまうことが多かったです。最近は少し改善してきましたが…(くると)
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