アスペルガーの館の掲示板(旧)
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tori さんへ
大丈夫?
分裂になちゃったのかそれとも
自閉の影響なのか・・。
すぐに観てくれる専門家がいればいいのだけど・・。
めぼしい病院には連絡した?
ぴよ wrote:
>武田好史 wrote:
>
>> 私もそう思います。ボランティアとは、「自ら進んで、何の見返りもなく、社会を良くするためにがんばること」であると思います。とてもじゃないけど、「単位取得のためにやっているんだ・・・」なんていう生半可な気持ちでやっていたら、受け入れてくれた組織に失礼です。
>
>ここの「がんばる」というのは、私が想像するに、
>「気が付いたら、がんばっちゃっていた」という感じだと思います。
>
>ぜんぜん無理のない「がんばる」ですよね。
「がんばる」といっても、やたらめったらに「がんばる」というわけではなく、その組織に今何が必要なことなのか、よく考えて隙間を見つけて、奉仕を行うことが大切です。
つまりボランティアというのは、ことに我々AS族が苦手とするところの、「気を利かせる」ということの鍛錬の場なのです。
シュッツさん wrote:
>私の意図としては、ASに変わる言葉ではなくて、ASに似ているけど
>ASのカテゴリーから少しずれた辺り、ASのお隣さんのような部分に
>関して、ASの集合に取り込んでしまうのではなくて、名目上独立した
>物として扱った方がいいのではないか、という意味でした。
……これが言っている意図がよくわからない。
本来、「Asperger(氏)症候群」というのは診断・治療上のカテゴリーであり、はっきり言ってビョーキの名前です。
しかしながら、Asperger(氏)症候群と同じカテゴリーに分類されるパーソナリティの持ち主の中に、普通人以上に高度に社会生活に適応している人々が存在するために、これを「疾病」と考えるのに無理がでてきた結果、それを単なる「症状」ととらえて「高機能公汎性発達障害」というカテゴリーができたわけですね。
この意味では、「高機能公汎性発達障害」がビョーキの域に達したものが「Asperger(氏)症候群」だとも言えるんですが、逆にビョーキと捉えるのはやめようではないか、という配慮の結果、「Asperger(氏)症候群」の定義から「社会生活から逸脱した」という条項が外れ、「高機能公汎性発達障害」=「Asperger(氏)症候群」という認識になったとみていいと思います。「診断書に『高機能公汎性発達障害』と書いてあったらアスペのこと」だというのは、「AS」というと昔の意味でのASと今でいうASのどっちであるかが不明確になってしまうし、現在では「高機能公汎性発達障害」というカテゴリーに対するケアの方針がある程度確立している、という診断・治療上の体制があるということでしょう。
で、『アスペルガーの館』は、後者の意味での「Asperger(氏)症候群」の「苦しみ」(すなわち「症状」として認知されている)をケアするために存在する、と考えております。
で、さらに私はASを「症状である」という発想自体がおかしい、と主張し、「症候群」「障害」といった呼称を改めるべきだ、という観点から「ロゴシズム(logosism)」という名称とその定義、およびそれに対する私の捉えかたを示したわけです。
意地の悪い見方をすれば、シュッツさんは「ASの人と同じ『苦しみ』は抱えているものの、ビョーキと決めつけられるのは嫌だ」と言っているようにも見えてしまうのですよ。これでは「いいとこどり」と言われてもしかたがないのではないでしょうか。「それってASに対する差別じゃない?」とか言われてしまうぞ。
そんなわけで、あなたの「差別」感覚チェーック!
「バカチョン」という言葉があります(例:「バカチョンカメラ」)。
この言葉について、
・語源はなんだと思うか。漢字ではどう書くか。
・これは差別語か。あるいはどういう時には使ってよくて、どういう時には使ってはいけないか。
・あなた自身は使うか。あるいは使わないか。
なお、私は最初の二つに関してはとりあえずナイショ。三番目については、「どしどし使う」立場です。
さあ、遠慮なく罵倒してくれ KILROY
ことさん wrote:
>KILROYさんかっこいい。
それはどうも(^_^;)。
しかしあなたは勘違いしておられる。私は人に気に入られたくて「恰好のいいこと」をくっちゃべってるだけで、その「恰好のいいこと」というのは、どっかの偉いひとが苦労して得た結論を、あたかも自分の得た結論であるかのように勝手に話しとるだけなのですよ。
「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』。管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ、こうしよう。管理の仕事を辞めさせられても、自分の家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』。そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百パトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで腰をかけて、五十パトスと書き直しなさい』。また別の人には、『あなたには、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』。主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、光の子よりも賢くふるまっている。私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」『ルカによる福音書』、十六章一節
私みたいな奴を安易に信じてはいけません。おとなしそうに見えても、そのじつ下心があったりもするわけですよ。私の言うことが役に立つって言うんなら、まあ信じても悪くありませんが。
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨から葡萄が、アザミから無花果が採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶ。」『マタイによる福音書』、七章十五節
下手に尊敬されたりすると馬鹿も言えなくなるからな KILROY
リンコさん訳の
「片づけられない女たち」
「片付かない、見つからない、間に合わない」
など、ADD(ADHD)の一般向けの簡単な解説書はあるのですが、同じようにASについての簡単な本はないでしょうか。
御存じの方、教えて下さい。
人に説明するのに、専門書では「読んで下さい」とは言いにくいのです。
ちなみに私が今まで読んだ本は
http://www12.freeweb.ne.jp/art/h_schutz/aspe/reference.html
にリストアップしています。
KILROY wrote:
>シュッツさん wrote:
>>もっとシャレた、新しい名前を作った方がいいのではという気もします。
>みどりちゃん wrote:
>>さんせー!
>
>ロゴシズム(logosism)(名)
(以下略)
私の意図としては、ASに変わる言葉ではなくて、ASに似ているけどASのカテゴリーから少しずれた辺り、ASのお隣さんのような部分に関して、ASの集合に取り込んでしまうのではなくて、名目上独立した物として扱った方がいいのではないか、という意味でした。
武田好史 wrote:
> 私もそう思います。ボランティアとは、「自ら進んで、何の見返りもなく、社会を良くするためにがんばること」であると思います。とてもじゃないけど、「単位取得のためにやっているんだ・・・」なんていう生半可な気持ちでやっていたら、受け入れてくれた組織に失礼です。
ここの「がんばる」というのは、私が想像するに、
「気が付いたら、がんばっちゃっていた」という感じだと思います。
ぜんぜん無理のない「がんばる」ですよね。
こと wrote:
>今の日本が、豊になりすぎていることが危機的なのかもしれません。
そうそうそう。
私も、そう思います!
I wrote in No.3450
>→なははさん+toriさん
ごめんなさいっ! ミスタッチしてしまいました。慎んで訂正させていただきます。
>→ななはさん+toriさん
ああ、これで胸のつかえが下りた。(けっこう気にしてたりする)
>> こんな私と結婚してくれる人がいるでしょうか?
>いると思いますよ、世間では「どうしてくっついてるわけ? メリット無いのに。」
>って思える夫婦だって沢山いるじゃないですか!
優しさというのは時に残酷だったりします(^_^;)。
私が元いたソフトウェア・ハウスというのは「駆け込み寺」と呼ばれておりまして、あらゆる会社に断られた仕事が回ってまいりました。だから、「なんとかしてくれるところが、どっかにありますよ」みたいな発言ができません。具体的な見積りを出すか、実際に引き受けてくれるところを紹介するか、どっちかです。
で、ついつい「分かりました、やりましょう!」って言っちゃうんだよな。「こんなメチャクチャな条件の仕事、どっこも受けねぇよな」と思っちゃうと。ほん……っと、馬鹿。だけど、死にもの狂いになって取組んでみると、けっこう何とかなって、あろうことか黒字になったりするんですよね。で、こうやって捉まえたお得意さんが、うちの財産だったんです。
結婚も、同じようなものだと私は思ってました。相手の条件なんてどうでもいい。とにかく一所懸命に「夫婦」してれば、「うん、間違ってなかった」と思うときがくると、わりと簡単に思ってました。
私が婚約した当時は、まさに(個人的には)絶好調の昇り調子、CG関連の仕事でヒットを飛ばし、会社の業績回復のめども立ち、「短期的な利益に結びつかない」ということで凍結されていた日本語処理の仕事にようやく戻れそうだという時期でした。
で、藤本っちゃんはMac 界のカリスマ、私は陰の実力者、みたいな感じで、Mac に仕事のほとんどを依存しているイラストレーター諸氏には、けっこうなエリートに映ったようです(実際には開発費に貯えを使い果たして、しかも会社は借金返すのがやっとで給料もちゃんと出ておらず、立食いのイカ天玉子蕎麦がご馳走、みたいな生活をしてましたが)。そんなわけで、ようやく「これで結婚してもなんとか食ってける」と思って相手を探してた時期だったわけです。
「あたし、結婚できるのかなぁ?」
「俺じゃ駄目かね。」
たしか、こんな感じのセリフがプロポーズの言葉だったように思います。
彼女、ブッ飛んでました。私の方としては、「私なんかと結婚できるって喜ぶ女がいるとは思わなかった」とか思って感動してたんですが。
とはいえこれがのちのち禍根を残すことになりまして……相手の女性とその御両親が、「そんな、いい家のお坊っちゃんがあんたと結婚するなんて、どう考えてもおかしい」とか思っちゃったんだそうで、「だったら興信所にでも頼んで身辺調査してもらったら?」と勧めたら、まずいことにうちはこの土地にかれこれ半世紀以上住んでたもんだから、「なんか興信所の人間が結婚調査をしている」みたいな話が母親の耳に入ってしまいまして、それで母親が態度を硬化させてしまったりとか……
釣合おうが釣合うまいが、当人同士が結婚したいって言ってんだからどうでもいいじゃない? 「婚姻は両性の合意のみによって成立する」っていう憲法の条文は空文なわけ? と憤ってしまいますね。
私が現在ろくに仕事もできずにいるというのに生きてゆけるのは、べつに貯えがあったとかいう話ではぜんぜんなくて(残らず開発費に叩っこんでしまいました)、うちがアパート経営をしているのでその家賃収入が入ってくるからなんですね。ところがこの資産というのがある面では曲者でして、契約上プロジェクト・リーダーというのは途中で仕事を放り出すわけにゆかなくて、勤めていた会社がぶっ倒れて納品してもお金が入ってこないのが明々白々でも、ちゃんと物件を納品しないと損害賠償請求をされてしまって資産を持ってかれてしまうんですね。資産がなけりゃ自己破産しちゃえば「ないものは、ない」で済んじゃうんですが、あったら取られてしまってうちの母親の老後の収入源がなくなってしまうわけです。
で、私は死ぬような思いをして(実際に病院のベッドで発作起こして死にかけましたが)ブツを納め、その結果債務者になることを逃れたんですが……けっきょく心臓は正常時の四割くらいの能力にまで落込んでしまって、まともな会社勤めができなくなってしまいました。そしたら婚約者が逃げちゃったと。
昨今の人間っつーのは、「損になるのを承知で行動する」人間を信用できなくなっちゃってるわけです。で、当事者同士が納得してても、回りの人間が寄ってたかって「バランスを取ろう」とするわけです。
どうして「世間の規準」ていうのにむりやり合わせられなきゃいけないんでしょうか。私には理解できません。だもんだから、私は『ふたりで聖書を』には三十路に近いシステム・エンジニアの納屋さんと、高校生のマリアちゃんという変則カップルを登場させて、こんなセリフを吐かせています。
「それにさ、たとえば……お嬢さん、結婚相手って何を基準に選びます?」
「あたしのこと大事にしてくれるひと」
あたりまえだと思う。
「いいなぁ、そういう迷いがないのって。ところが世間では、年齢これこれ、身長これこれ、収入これこれ、学歴これこれ、家族構成これこれ、という感じでですね、相応なところに振り分けられるというランク付けのシステムができあがっておるわけです。で、ここには人間性というものはとりあえず含まれていないわけですよ。そこに齟齬(そご)が生まれるんです。女性が男性として私という人間を見た場合、私の本質を見てくれる女性というのは非常にまれなわけ」
「それって女が馬鹿なんじゃない?」
「世間ではそういう人たちのことを『大人(おとな)』ということになっていて、『人間としての本質』だとか『人間性』だとか言ってる奴はガキだということになっているわけです」
「大人なんか嫌いだー、とか言ってしまいましょうか」
「我々が子供の頃って、『大人』っていうと、『分別のある人』という意味でしたよね。『大人』という言葉には、何か憧れのようなものがあった。それが、いつの頃からか『お前、もっと�大人�になれよな』とかいう物言いばかりが耳に入ってくるようになった」
「それは、ありますね、確かに」
「だけどさ……客観的にいって、俺と結婚してお嬢さんが幸福になれる要素って、少ないんだよなぁ……もちろん俺自身はお嬢さんを幸せにする努力を放棄するつもりはないけど」
「幸福に客観性を求めること自体、間違ってるんですよ、きっと。あたしが自分で言いだして勝手に結婚したんなら、不幸になったって全部あたしの責任じゃないですか。それで傍から見るとすっごく不幸なんだけど、あたしは幸せって、けっこう理想じゃないですか。うちの親たちって、あたしに『幸せになってほしい』っていうけど、その幸せって、うちの親たちが考える幸せなんですよね。その幸せっていうのをクリアしないといけないっていうのが苦痛なんです。あたしの幸せでどこがいけないんですか? 『あんたたちが「子供を幸せにしてやった親」として、世間に認めてもらいたいだけじゃないか』って言いたいですよ。世間並みの幸せってなんなんですか? お金とか、家柄とかですか? 違うでしょ?」
いけない。つい興奮してしまった。
「……ごめんなさい。変なこと言って」
「変じゃない。断じて変じゃないぞ、それは」
そんなわけで、世の中「放っといてくれ! 勝手にさせてくれ!」と怒鳴り散らしても、周囲からわらわらと人が寄ってきて、物事を台なしにしてしまうということが少なからずあるわけです。
「うるさいっ! あたしはあんたと結婚することに決めたんだっ!」
そういう女性が現れたら、はっきり言って相手は誰でもいいし俺はなんでもやるぞ。容姿年令は(よっぽど問題がなければ、と注釈をつけてしまう自分が哀しいが)問わんっ!
とはいえそうやって退路を断っちゃったもんだから、婚約者にさんざん振り回されたあげく棄てられたんですが。
ちょっと自暴自棄かもしんない KILROY
KILROY wrote:
>
> 救急法を身につけるということは、「目の前に死にそうな人がいる」ときに、「なんとかしなくちゃいけない」という義務を背負い込むことです。
>
> ですから、「何かをする」という直接的なボランティアではなく、「何かを身につける」という、「間接的なボランティア」を行なったほうがいいと私は考えてます。
>
> これはもちろん「義務」ではありません。やりたくない人はやらなければよろしい。だけど、そういうのってカッコ悪いよな。
>
> お粥にはちょっと自信がある KILROY
いつもHPは見ていますが、初めての書き込みです。
人間は生きるか死ぬかというぎりぎりのところでないと、
生きていくために必要なことを認識するのが難しいですね。
今の日本が、豊になりすぎていることが危機的なのかもしれません。
やりたくない人はやらなくても認められる。
これが危機的だと思います。 KILROYさんかっこいい。
みどりちゃん wrote:
>困ってないけど 多分AS。 ASだからって困ってなきゃいけないワケじゃないしね。
>さくらかのえさんも そんな事で(失礼!)迷うことはないでしょう。 堂々とAS人生(???)を送りましょう!
そうですね。ありがとうございます。
頭では、こうじゃないといけないとか、ASでなかったら発言しちゃいけないと
する合理的な理由などない、とわかっているのですが、ついね。
「AS=障害」「障害=ハンディキャップ=困難がある」
「判断できるのは専門家だけ」という考えに捕らわれているから、
あんまり困っていない=ASと言えないのでは?という考えになるのでしょう。
公式な場においては、ひとつの基準としてそれも必要かもしれませんが、
本来、自分がなにかというのは自分が決めることのはず。
ただ最近は、ASかどうかとか、自分がなんであるかというのは
もういいかな、とも思っています。(自分にとって、ということです)
大切なのは、自分が何かと定義することではなく、
ひとつひとつの場面でできることやできないこと、必要なことを見極めたり、
自分が感じていることや反応の仕方を楽しんでいくことだよね。
で、必要なら堂々と誰かの助けを借りたって、ひとと違ってたっていいってこと。
ASに関する知識は、そのために使おうと思います。
ASのことを知ってよかったなーと思うのは、
ASを知る前よりも他人の行動に寛大になれたような気がすることです。
見てていらいらするような行動をとる人がたまにいるけど、
このひとにとってはこれが自分のペースなんだろうなぁと思えるようになりました。
シュッツさん wrote:
>もっとシャレた、新しい名前を作った方がいいのではという気もします。
みどりちゃん wrote:
>さんせー!
「何か違うんだよな」症候群
電算業界における職業病ともいえる病気、特に仕事のできるSEに発症するため始末が悪い。
ミーティングの際に「これはなんたらかんたらで、あれはどうたらこうたらで……」と説明し、全員が納得したところで、「……けど、なんか違うような気がするんだよな。」のひとことで全員が「だぁぁぁぁぁぁぁあ。」とずっこける、というのが典型的な症状。で、「とりあえずこれでいこう」と決めて仕事を進め、ようやく形になってきたあたりで、また「新しいアイディアが出た」とか言いだすのである。で、それを聞いてみると、確かに前より格段にいいのである! ところがそのとたん、「……けど、なんか違うような気がするんだよな。」「だぁぁぁぁぁぁぁあ。」。
しまいには周囲も呆れて、「……また始まったよ」「どっか閉じ込めといたほうがいいんじゃない?」とか言いだすのだが、やはり「完成度を上げたい」という欲求に勝てず、けっきょく作りこんでしまうのである。で、自分の仕事のできまえを見て、「うーん……だけど、なんかこう、ちょっと違うような気がするんだよな」とか言っていたりするのである。
なお、この「何か違うんだよな」症候群(「なんか」にアクセント)と似た症状に、「何か違うんだよな」症候群(「違うんだよな」にアクセント)があり、こちらは新しく出るアイディアが前より悪い、という点で別の病気であるので、診断には注意を要する。
アスペルガー症候群との関連が疑われているが、定かではない。
(救世義也『DP笑辞典』より抜粋)
重ねて言っておくが信じてはならんぞ KILROY
ぴよ wrote:
>武田好史 wrote:
>>みなさんおはようございます。
>> またちょっと、聞いてみたいことがあったので、質問します。
>>
>>あなたが、今日本の世の中で、危機的だと思うことは何ですか?
>
>教育改革国民会議:奉仕活動の義務化とか。
>
>奉仕って、「みずからすすんで」やるものでしょ。
>「奉仕」と「義務」って、矛盾してます。
>
>こんな偽善的なことは、絶対にやめてほしいです。
>
私もそう思います。ボランティアとは、「自ら進んで、何の見返りもなく、社会を良くするためにがんばること」であると思います。とてもじゃないけど、「単位取得のためにやっているんだ・・・」なんていう生半可な気持ちでやっていたら、受け入れてくれた組織に失礼です。
あまり気を入れすぎてもまた良くなく、適度な「自分は・・・・でお役に立てます!」「こんどは・・・をやってみよう」という積極性を持ってやることが大切です。
学校に導入するなら授業としてではなく、クラブなど課外活動の一環として、あくまで人間性の鍛錬・陶冶のための活動として、子供たちの自主性を尊重した形で
行うべきです。
ぴよ さんwrote:
>奉仕って、「みずからすすんで」やるものでしょ。
>「奉仕」と「義務」って、矛盾してます。
ボランティア(volunteer)は、英語で「志願兵」のことをいいます。
義務化すると「徴兵制」になります(^_^;)。
とはいえ自衛隊の人と三年半ほど一緒に仕事した経験からいうと、徴兵制ではなくて「兵役の制度化」はそう悪いことではないように思います。自衛官は基本的に「人殺しの道具を扱う」商売なので、訓練が厳しいのは事故防止のためなんですね。ですから基本的に「お客さん」である体験入隊者にはすこぶる甘く、そこいらの体育会系のクラブ活動よりよっぽど民主的です。
軍隊っちゅーところは基本的に「なんでも自分でできなきゃいけない」というところですから、掃除洗濯ベッドメーキング裁縫食事の支度に救急法にロープワークといった、ボーイスカウト(和訳すると「少年偵察兵」)あたりに必須の技術を身につけることができます。ところが現在義務化が検討されている「ボランティア活動」なるものは、「誰でもできること」を「手伝わせよう」という態度です。これでは役に立つ技術は身につきませんし、自主性も育ちません。
救急法を身につけるということは、「目の前に死にそうな人がいる」ときに、「なんとかしなくちゃいけない」という義務を背負い込むことです。おいしいお粥が炊けるようになるということは、妻が具合が悪そうだったら精魂こめてお粥を炊いてあげる義務を背負い込むことです(『軍隊調理法』には病人食がいろいろと載っています)。
そういう「責任」を背負い込むことを、「鬱陶しい」と感じる部分は確かにあると思います。「私、そういうの分かりませんから」と、仕事を拒否する新入社員もいます。だけど、そういう「責任」を背負ってすっくと立ってるひとというのは、これはもう理屈抜きでカッコいいんです。
過労で心臓ぶっ壊してハードな肉体労働に耐えられなくなって逼塞状況にある私ですが、それでも「アルゴリズムを書く」「プログラムを書く」「文章を書く」といった仕事はできて、それが誰かの役に立つんですね。で、その喜びを経験するには、「私にはこういう『できること』がある」という自信と責任が必須なわけです。
ですから、「何かをする」という直接的なボランティアではなく、「何かを身につける」という、「間接的なボランティア」を行なったほうがいいと私は考えてます。
これはもちろん「義務」ではありません。やりたくない人はやらなければよろしい。だけど、そういうのってカッコ悪いよな。
お粥にはちょっと自信がある KILROY
レスありがとうございました。
qwert wrote:
>これ、こまりますよね。相手と話をしていても心がふれあっているという実
>感がなくてねえ。そのくせ自分の中では気持ちが盛り上がってしまうと。
>あ!私はそんな感じですけど同じですか?違うかな?
ただ、食事とかたまにはデートみたくしたい、と思うんです。
会ってるときは確かに楽しいけれど、思い出が増えて良かった、
と、すぐ過去のこととしてしまいます。
時間の感覚がおかしいのでしょうか?
>私も毎日働いて週末の休日を抜け殻のように過ごすのが精一杯です。
>女性とは知合い程度にはなれても、それ以上ふれあうことができない(という
>か心のふれあいそのものが実感できない)ので、いまだに独身です。
>自分でも何が楽しくて生きてるんだかよくわからないです。
ちょうど絵本の好きなページのように、私の思い出は、ごく小さいときから
連続性を持たず、切れ切れです。それも自分の発した言葉が伴うことは
一度もありません。常に映像のみです。思い出したい思い出は、背景の色や音や香りまではっきりと説明できるのに、自分の人生が切れ切れなのでなんかむなしい感じもするときがあります。自分の人生ってなんだろうかと淡々と考えてしまいます。人と会うときは楽しいけれど、それ以上自分に関わって貰いたくないと思います。これもASの特徴でしょうか?仕事と食べる寝るだけだったら、どんなに楽か、
と一時期考えたこともありますよ。
tori wrote:
>ななはさんより追いこまれてます。でも全然悩んでなかったりします。
>と言うのは嘘で、時々不安で堪らなくなります。でも、それって人と比べるからな>んですね。
>私は友達が一人もいません。第一、誰が友達なのかよくわからなかったりします。
>電話を掛けてきてくれる人がたまにいるのですが、
>元々人と遊ぶことがそれほど好きではないので、別に困ってないです。
>貯金もない、年金も払ってない、しかも20代後半で無職。何か技能があるわけで>もない。でも落ち込んでも仕方がないです。
>落ち込んでうつ状態でイライラしたり、床に伏せっているよりは、能天気にしてる>方がずっと楽です。そうすればものも考えられるし、うつ状態よりもずっといいと>思ってます。私も以前は、杓子定規にものを考えて、白か黒か、割り切れないと許>せない性格でした。
tori さん、レスありがとうございました。
私は白黒より、常に灰色なんですね、思考が。どうでもいいと思えることは
どうでもよくなってしまいます。
>社会のルールは守らねば、そういう基準でガチガチに自分を縛っていました。
>無職だなんてとんでもない、という考え方をしてました。その基準を人にも当ては>めていました。それで自分が実際にその立場になると、ものすごく落ち込んだので>す。自己嫌悪ですね。今でもそういうところはあるのですが、自分の性格をASに>よって説明することで、客観的に自分を分析できるようになってからは、だいぶ楽>になりました。
そうですね、考えに幅が出て来られたんですね。
>私は事務職とサービス業を経験しましたが、どちらも向いていなかった。
>仕事を辞めたことで、結局は自分の適性に気が付くことになりました。
>だから今では逆によかったと思っています。
>AS傾向の人が困るのは、AS傾向がもたらす人との違いに悩むことによって、う
>つ状態になることではないかと私は思います。多分ASの症状そのものは、環境さ>え整えばおそらくあまり問題にはならないのではないでしょうか。それどころか、>最大の長所なのでは?
触媒みたいな職場やパートナーがいると、秀でた能力が増幅されるのでは
ないか、と私も良い方向に最近考えるようになれました。
>
>と、ここまで書いてNo.3409 の KILROY さんの書き込みを見て思い直しました。
>やっぱりASの人は「うつ」になる運命なのではないでしょうか。(笑)
>すみません。逆に落ち込ませてしまったかもしれないです。
いいえ、そんなことありません。鬱傾向は常に私もあります、でもそれは
症状ではなく、人から拒絶・裏切られたと感じた過去経験からの後天的
なものではないでしょうか?でもたびたび思います、「今私の年で、他人は
どう考え、将来を設計しているのだろうか、楽しそうだな。」と。
今は自分のASが悪い方に働かないよう気を付けて過ごすのが日課ですね。
常に、大多数の他人を尺度にしなければならない自分が時に哀れです。
みなさん、つたない私の独り言に温かい励まし本当にありがとうございました。
嬉しかったです。
> 散々言われました。面と向かって「キチガイ」と言われたこともあります。
はい、私も親からキチガイと言われました。
> いよいよ仕事がなくなってしまった私を見かねて、友人が仕事を紹介してくれま>した。ところがその仕事が裏目に出て、逆に私は損害を受けてしまいました。以
>来、その友人とは気まずくなってしまい、逆にこちらが気を遣わせては悪いと思っ>てつきあいを遠慮しています。そういう友人が私には何人もいます。
どこからか友達あるいは友達みたいな人って出現するものなんですね...。
> 有能であるがゆえに、あるいはがんばったがゆえにトラブルが生じることだって>珍しくありません。「言われたことだけやってりゃいいや」みたいな人だってちゃ>んと給料を受取る権利があるんです。善意に基づいて頑張ってるひとがちゃんと評>価されないなんていうのは、組織が悪いんですっ!
今むちゃくちゃ薄給なんですけど、そしたら親が「あんたはその薄給分しかない
人間だって事なんだからね。」って。口論の時それを「やっぱりそうなんだって
つくづく感じてるよ。」って言ったら、「そんなこと行った覚えない。」
って...人から言われたことって信じるべきじゃない???
> 恋っていうのはそういうものです。私なんか自慢じゃないけど婚約者がバイクで>事故っちゃったもんだから懸命に看病したんだけど、看病疲れで心臓の状態が悪化>して今度は自分が倒れてしまいました。そしたら私の婚約者は、(保険の切れたバ>イクを乗り回していたうえに、免許の更新を忘れて無免許運転をしていたために、>事故の相手への補償金を払わなきゃいけなくなっていたために)結納金を持ったま>ま行方をくらましてしまいました。
そりゃひどいじゃないですか!
> こんな私と結婚してくれる人がいるでしょうか?
いると思いますよ、世間では「どうしてくっついてるわけ?メリット無いのに。」
って思える夫婦だって沢山いるじゃないですか!
> 私なんか通う職場もありゃしねぇ。
ごめんなさい、私考えが甘いですね?
> きつい言葉に聞こえたと思います。ですが、赦してください(←とか言っときゃ>赦してもらえるとかいった甘いことを考えているんだろうがこの馬鹿が、と苦悩の>セルフつっこみ)。私は「甘えるな!」みたいなことを言える立場ではありませ
>ん。私だって病気になんなかったらここまで深く人生に悩むこともなかったと思い>ます。「私よりよっぽどマシだろう」とも言いません。下を見て安心するのはゲス>のすることです。
>「だから上を見て歩け」っつーのも無理なんだよね。「がんばれ」とか言われるの>が苦痛なときってあるんですよ。思いっきりめそめそ泣くとか、誰かに甘えると
>か、そうしたほうがいいときっていうのが、確かにあるんです。
いいえ、もろいくせに人一倍私もひねくれているし、なんか逆境に強いかも。
全然きつくないです。
私がんばれという言葉を憎悪しているので、聞こえないんですよ(笑)。
> 傷つかないように。そして、自分を傷つけないように。堪えてください。幸い支>えてくれそうな人もいらっしゃるようだし、他人の私でも愚痴くらいなら聞きます>から(←とかいって相手が若い女性だと思ってつまんない下心とか出してやがんだ>ろう、と自戒のセルフつっこみ)。
そうですねー。でも文句言われて号泣しても、翌朝には「ばっかじゃん、私は好きにするさ。」と開き直る自分のもう一面もあり、それもまたいわゆる「反省がない」って思われる原因かも、と思うのです。支えてくれる人?それこそ錯覚
(爆笑)。
> 役に立たん奴で申し訳ありません KILROY
いいえ、すかっとありがとうございました。
自分で出来ることを考えます...。
シュッツさん wrote:
>もっとシャレた、新しい名前を作った方がいいのではという気もします。
みどりちゃん wrote:
>さんせー!
ロゴシズム(logosism)(名)
脳機能学者キルロイ・W・アシュア(Kilroy.W.Ashere)の命名による、いわゆる高機能広汎性発達障害(Asperger症候群)に代わる名称として用いられる語。自閉症(autism)に似るが、自閉症の特徴である他者に対する反応性の欠如がほとんどの場合に軽微であるため、そのメカニズムは異なるとするのが一般的である。
命名は論理・秩序・法則性・言語等全般に対する親和性によるもので、一般には「ロゴス希求型性向」と訳される。多くは形式的推論に優れ、機械親和性が高い。社会性は良好である。
歴史的には精神分裂症(スキゾフレニー)との関連も疑われ、「分裂パーソナリティ」と呼称されたこともあるが、精神分裂症における抑圧機構の不全による幻覚がほとんどロゴシズムにおいてはほとんどみられない。そこで、ロゴシズムにおける類分裂症症状の原因を、意識-前意識-無意識の協調状態に由来するものと考える説が注目されている。すなわち、「魔術の年令」と呼ばれる幼児期から少年期に移行する過程で、抑圧機構による意識状態の分断が行なわれず、意識と無意識がゆるやかに連合した形で人格形成が行なわれたとみる。このため、高度に抑圧的なパーソナリティ(ヒステリー傾向)の人物との軋轢に悩まされることが多く、そのため人格形成に問題が起きる場合がある。その典型的な症状は発達過程における論理固執(「if-then」ルール固着とも呼ばれる)であるが、社会的人格形成の過程で解消するケースがほとんどである。
(救世義也『セルフ・コミットメントの心理学』より抜粋)
はっきり言っておくが信じてはならんぞ KILROY
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