アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
風鈴 wrote:
>マザー wrote:
>>
>>このHPを見るようになってから、子供にやさしくなれた。
>>以前はけっこう自分の思いを押し付けてた・・・・
>>私はこのHPに、出会えてよかった!
>>
>>館の管理人さん、皆さん ありがとう。 マザー
>
>私も、マザーさんと全く同じです。このHPに出会えて良かった!!
>館の管理人さん、こんな素敵のHPを作って頂き有難うございます。
>そして、ここへ来られている皆さん、本当にいつも有難う御座います。
>もう、何かあるのかしら?って位に中毒で、1日に何度もアクセスしたり、
>それだけに1日でも見ないと禁断症状がでそうな程ですよ。(笑)
>家で見られない日は、翌日会社で!」・・・・という程のハマリようです。
>来月2日間見られない日が続くし今から心配です。
今の私も ハマリくってます!
心の安定剤になってるかも?・・・
幻覚
幻覚とは感覚上は現実とまったく区別がつかない。いわゆる心霊体験のほとんどはこの幻覚であると断言しよう。ただし、心霊体験=無視すべきもの、と考えることは適切ではない。詳しくは後述。
ふつうに体験するのは入眠時幻覚、とくに閉眼時の幻聴である。
眠ろうとしていると、誰かがどこかで喋っている。声ははっきりしているのに、何を言っているのかがわからない。かといって外国語だという訳でもないのである。大きな声でもなく小さな声でもなく、ただがみがみと頭に響く感じがする。そこで目を開けるのだが……そのとたん声は消えて、そこは特に変わったことのないホテルや旅館の一室である。そこでまた眠ろうとすると、またしても声が聞こえる。これを繰返してとうとう夜明け近くになり、眠ったところで今度は覚醒時幻覚である。いわゆる金縛りで、目を開けてみると、髪振り乱した若い女が上から覆い被さって自分を押さえつけているのである! 金縛りが解けたとたんに「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁあっ!」。こうなると立派な怪談であるが、半分は千葉大で医者をしている従弟の体験、半分は私の体験である。
幻覚と現実を区別するのは理性によるしかない。ところが半分覚醒時には理性はちゃんと働いてくれていない。そんなわけで寝ているときに出る幽霊はほぼ間違いなく幻覚だから、せいぜいスリルを楽しんでもらいたい。ナルコレプシーの患者にとってはわりと日常的である。また、高熱を発したとき、薬物に中毒しているとき(ハシリドコロという毒草に当ったときや強い解熱鎮痛剤を使っているときなど)にもしばしばこの手の幻覚が出る。
これに対して昼間の幻覚は、幻覚自体が強烈なため覚醒時でも幻覚が出る場合(薬物中毒の患者や重度の精神分裂症の患者が体験するのがこれ)や、意識レベルが低下しているために出る場合(ナルコレプシーやいわゆるハイウェイ催眠など)や、サブリミナル・メッセージに敏感な場合(いわゆる霊能者がこれ)などがある。
サブリミナル・メッセージというのは、いわゆる「気配」である。そんなものがあるのか、と信じがたい人もいるだろうが、針式の時計を五分進めておく奴はいてもディジタル時計を五分進めておく奴はおらんのである。これはつまり、針の時計は「時間の気配」を感じさせるけれど、ディジタル時計は時刻そのものを伝えてくる、ということでもある。
「なんか変な気がする」「どっかおかしい気がする」というのは論理型である。それが視覚に対して直接来るひとというのがいるのである。ノーベル賞物理学者リチャード・ファインマンは、「方程式の変数や項に色がついて見えた」という。山の中では「こっちの道はヤバいような気がする」なんていうことがよくある。これもサブリミナル型の「幻覚」ではあるが、現実に即しているだけに「幻」と言っていいのかはよくわからない。
この項は続くかもしんない KILROY
これからおそらくは数週間にわたって、ある文章を書きつづけようと思う。
これには三つの理由がある。ひとつはこの文章を目にしている人がおそらくよく知っているであろう私の大切な友人が、ちょっとした発作を体験したことである。
で、もうひとつは私がちょっと医学的にみてヤバいことを書いてしまったがために(他に理由があるとも思えない)、No.3344の書込みが削除されてしまったことだ。そして最後のひとつは、私の人生経験という奴に関係してくる。
私の大学時代の担当教官は有機化学合成と毒物の専門家である一戸良行先生である。『のぎへんのほん』シリーズの『毒草の雑学』『毒草の歳事記』などを出されているから興味のある方は読んでいただきたい。で、私は高校時代から胃炎・胃潰瘍・十二指腸潰瘍といった持病があり、長年精神安定剤のお世話になっている。訳のわからんものは服(の)みたくないというのはAS傾向の人間には共通の感覚らしく、不完全性定理で有名なゲーデルもそれが原因で死んだとされている。そこで私は自分の飲んでいる薬の成分からはじめて日常われわれが使用している市販の薬の成分、あるいは麻薬だの毒薬だのの成分について調べはじめた。なんと酔狂な、と思われるかも知れないが、うちの家業はペンキ屋であって家の中には有機溶剤であるトルエンだのキシレンだのアセトンだのの瓶がゴロゴロ転がっていたという家庭なのである。
たがために私は酒と薬のチャンポンという一般の常識では考えられないような無茶をやる(No.3344もこのあたりの記述が問題となったらしいことは想像に難くない。読者は真似せぬこと)。ところが歴史的にいうと酒そのものが薬であり、古代ギリシャでは薬というのはビールで飲むものだったのである。薬効成分を抽出するのにアルコール抽出を行なうのは珍しくなく、養命酒を始めとする薬酒はあまた存在する。また、正月に飲むお屠蘇の屠蘇散のように、酒で煮出して服用する薬などというのもある。
で、そんな話をしておったら、喘息持ちだとか茸マニアだとか精神神経疾患を患ってる奴だとかラリハイ飲み(つまり、リーガル・ドラッグの愛用者)だとかいった、自分の身に起こる各種の症状を冷静に観察する能力のある人々の話をいろいろと聞くことになった。
世間からキチガイ扱いされている我々とてキチガイに対する偏見からは自由ではない。精神神経症状の発作に襲われた場合、我々の多くは「私はキチガイになってしまったのだろうか」と狼狽しパニックを起こす。もちろんそれが単なるパニックなのか、それとも精神神経症状としてのパニック発作なのか判断する余裕もない。そういう時のためによかれと思って「当人にとっての躁発作というものはどんなものなのか」というのを赤裸々につづった文章は、書いた当人が少なからずアブナい奴だったがために削除されていて、大切な友人の危機(具体的な危険がどうこうという話ではなく、当人にとっては危機的な心理状態だったという話である)にあまり役に立ってなかったかもしれない、という事実を知って、ふと気づいたのが「患者から見た症状」に関する、患者のためのガイドブックというものが存在しないことなのである。
この『アスペルガーの館』にアクセスしてくる人々の多くは、自閉症者やASの人間の体験談を読んでもいるだろうし、医師が書いた患者およびその家族のための解説書も読んでいるだろうし、中には専門書にまで目を通している人だっているはずだ。だけど、そういった本が、「これは何だ? いま私の身に起こっているのは何なんだ?」というきわめて切実な問いに答えてくれるかというと……くれないのである!
ついでながら私は四度にわたって心臓病による一ヶ月以上の入院を経験している。宣伝めいていて申し訳ないが、私の著書である『ふたりで聖書を』はその経験から生まれた(とはいえ執筆時点での入院回数は三回め)。で、そのとき考えたのが、文学にできてマンガやアニメや映画にできないことは何か、ということである。それはすなわち感覚描写だ。健康な人間には体験できない「感覚」を、文章によって疑似体験させること。それである。その腕前を磨くために私はポルノグラフィを読みあさり、自分でも書いてみた。これはけっこう役に立ち、練達の読み手である編集者を唸らせた。ことにいわゆる「拒食症(これは相当に問題のある呼称なのだが、それについても追って記述)」発作に関しては、「拒食症というのが、やっとわかった」とお誉めをいただいた。つまり、こうした感覚描写は、我々自身にとって役に立つだけでなく、いわゆる健常者に我々を理解させるためにも有効なのである。
そんなわけで私がこれから書こうとしているのは、自分の身に起きている症状が何であるかを判断するためのガイドである。
躁状態とは何なのか。パニック発作と心臓神経症は同じものなのか違うものなのか。実際にそうした発作に襲われたとき、適確に判断できるためのガイドブック。そういうものを書きたいと思った。
そういった主旨であるから、私はあらゆる意見を歓迎する。特に専門家と患者本人の意見は重視する。そして、これから書く文章の著作権を、とりあえず全面的に解放する。どこに掲載しようが紹介しようが自由である。ただし、この文章に対するフィードバックだけは筆者に届くよう配慮していただきたい。
ただし医師でもなんでもない私がこういったものを執筆することには内心忸怩たるものがある。私が拠り所とするのは、ただひとつ「私」だ。それが「あなた」にとって役立つとは必ずしも言えない。しかし……誰かがやってみる価値があるとみた。
私に勇気を与えてくれた、tori、ASの妻もどき、マザーの三氏に大いなる感謝を捧げる。それからみどりちゃんの「あ、私のことだ!」の一言は、私をやる気にさせてくれた。ありがとうね。そしてその他のひとたちにも、また感謝を捧げたい。
よぉーし、やってやろうじゃねぇか KIRLOY
やんちゃん wrote:
>「素直になれ」ってどういうことだと思いますか?
本来「素直になる」というのは、自分を飾らずありのままに出すことだと思うのですが、
職場などの組織内で「素直になれ」と言われる場合、
それは、組織の和を乱さない、組織の中で受け入れられるふるまいをせよ、
ということになっていると思う。
まわりから見て理解できない態度というのは、
「ひねくれている」と見られるわけです。
「ひねくれている態度をやめろ」=「素直になれ」
しかしそれは、自分を飾らないということとはまったく違う。
さらに「素直」という言葉が「従順」という意味で使われているきらいがある。
つまり「素直になれ」=「自分(上司・先輩など)の言うことに口を挟まず
反抗せず従順に従え」という意味。
「素直になれ」と人に言う人の心理。
すべての問題は心構えの改善でなんとかなる、と思っている。
人間は本来組織を好む生き物だから本来の姿は協調的なはず、という幻想。
故に「問題のある」人間が「素直になれ」ば事態は好転するという単純な計算。
まあたぶん、実際、「素直になる」ことが相手の望む姿と合致する幸運な(?)
人もいるのでしょう。
>仕事ができないっていうなら努力のしようもあるけど、素直とか誠意とか持ち出されても。で、結構そういうことが「人間として一番大切なこと」みたいなことになっている。「明日から心を入れ替えて、誠意を持って仕事できるな?」「・・・努力します。」「誠意を持つということは、わかるな」「わかりません」なんて会話もやったなー。怒らせるつもりはなかったけど、実際わからないことをわかるとは言えないでしょう。案の定、人間のクズよばわりされたけど(まあその時は日常茶飯事だったから)。
わたしも、お客さんに怒られて、そのあとその人が延々と語る愚痴話を聞いていたら、
あとからその人が再度職場にやってきて、
「ききかたに心がこもっていない」「偉そうだ」と苦情を言っていったということがありました。
一度こちらに先入観をもってしまった人に対しては、何をやってもダメです。
土下座しても「誠意がない」とか言われるし。(これはまた別の客)
何をしようが悪くとる人はいるものだと割り切って仕事をするしかない。
「素直になれ」ってどういうことだと思いますか?
私は「自然」の殻をかぶった「予定調和の強要」だと思っているんですが。
つまり、相手の期待に沿う行動を、つくりをいれず自然にやってしまう、という離れ業。
ていうか、私が「自然」にしていると傍目にはめちゃくちゃ不自然に見えるので、「その場にそぐっていること」を第一に「自然」にみえるように行動しているんです。結果、相手の期待とはずれてしまって、「自分勝手」と思われたりするけど、そうじゃないんです。そんな状態で「素直になれ」って言われても、どうすればいいのか・・・。
本当のところ、職場でそんなこと評価されるのは理不尽だなぁ、と思ってしまう。
仕事ができないっていうなら努力のしようもあるけど、素直とか誠意とか持ち出されても。で、結構そういうことが「人間として一番大切なこと」みたいなことになっている。「明日から心を入れ替えて、誠意を持って仕事できるな?」「・・・努力します。」「誠意を持つということは、わかるな」「わかりません」なんて会話もやったなー。怒らせるつもりはなかったけど、実際わからないことをわかるとは言えないでしょう。案の定、人間のクズよばわりされたけど(まあその時は日常茶飯事だったから)。
こんなこと書いて、何言ってやがる、と思ったら無視してくださいね。
マザー wrote:
>
>このHPを見るようになってから、子供にやさしくなれた。
>以前はけっこう自分の思いを押し付けてた・・・・
>私はこのHPに、出会えてよかった!
>
>館の管理人さん、皆さん ありがとう。 マザー
私も、マザーさんと全く同じです。このHPに出会えて良かった!!
館の管理人さん、こんな素敵のHPを作って頂き有難うございます。
そして、ここへ来られている皆さん、本当にいつも有難う御座います。
もう、何かあるのかしら?って位に中毒で、1日に何度もアクセスしたり、
それだけに1日でも見ないと禁断症状がでそうな程ですよ。(笑)
家で見られない日は、翌日会社で!」・・・・という程のハマリようです。
来月2日間見られない日が続くし今から心配です。
ちなみに、夕方帰宅後に一度アクセス
8:00-10:00の間に一度アクセス⇒バイトへ行く
バイトから帰宅後夜中12:00〜またアクセス⇒やっと寝られる?
・・・・とこんな状態です。私くらいでしょうねぇ・・・やっぱり中毒?
それが、先週末仕事は2週間休みなし、バイトは週5日とさすがにバテテ、その時
だけはさすがにアクセス回数も減りました。
そんなこんなで、とても楽しみなので、今後共宜しくお願いしま〜す。
KILROYさんwrote
>ようやく気持ちの上でひと区切りついた KILROY
もう虚脱状態から抜け出せましたか?
>そして館の管理人さんと、その他の皆さんにもThanks!
このHPを見るようになってから、子供にやさしくなれた。
以前はけっこう自分の思いを押し付けてた・・・・
私はこのHPに、出会えてよかった!
館の管理人さん、皆さん ありがとう。 マザー
私がアスペだったから、、その特徴的なことにより、私の実家の家庭が崩壊
したのだろうか?って最近思うんです。
でも親の遺伝子はって考えると私のせいだけじゃないと思うんだけど。
そんなことを考えたことのある殊勝な、子供的立場の人はいますか?
ASの妻もどき さんへ
早くお子さんとの二人暮しに慣れる事を祈ってます。
いつか、また戻ってきてね。
tori効果の検証
− toriさんとASの妻さんへの卒業証書として −
今年正月からの書込み数の変化(週単位)
1/ 7〜 13 54メッセージ
/14〜 20 42メッセージ
/21〜 27 51メッセージ
/28〜 2/3 40メッセージ
2/ 4〜 10 75メッセージ
/11〜 17 83メッセージ
/18〜 24 63メッセージ
/24〜3/ 3 63メッセージ
3/ 4〜3/10 95メッセージ ←KILROY出現
/11〜 /17 166メッセージ
三月に入ってからの一日ごとの変化
1日(木) 12
2日(金) 14
3日(土) 9
4日(日) 6
5日(月) 11
6日(火) 17
7日(水) 12
8日(木) 8
9日(金) 16 ←KILROY出現
10日(土) 25
11日(日) 23
12日(月) 26
13日(火) 14
14日(水) 36
15日(木) 27
16日(金) 25
17日(土) 15←tori&ASの妻もどきさん 卒業
いきなり書込み数が落っこっている。toriよ、お前はこんなにも大きな存在だったのだぞ。
……しかし、あんまり盛り上げてしまうとtoriも帰ってきにくいだろうな。一週間くらいして、
「帰ってきてしまいましたぁー(^_^);」
「だぁぁぁぁぁぁぁあ。」
とかな(^_^;)。まあ、それも嬉しいけど。
ようやく気持の上でひと区切りついた KILROY
Special thanks (3/9、No3299-3/17、No3503の出演者のみなさん)
武田好史/さるすべり(ガーデニア)/ASの妻もどき/るおう/さくらかのえ/くると/Kana/風鈴/mint/qwert/マザー/りふれくと/Nava/やっちぃー/SUN/シュッツ/みどりちゃん/ねこめ4/かっしー/くりりん/チイママ/ぴよ/双児の毋/ななは/Bio/Hiro/Mira/こと/やんちゃん/ゆーり(登場順・敬称略)
そして館の管理人さんと、その他の皆さんにも Thanks!
職を失い製品の権利も奪われてしまい、せっかく出した本の印税も入ってこなければ心臓を壊して体力もなく仕事もできず、そのうえ婚約者も失踪してしまったというめちゃくちゃな状態のとき、ひっそりと部屋に隠って鬱々としていた時期があります。こういうのを「引きこもり」とは言わない(だって心臓ヘタッちゃってるからほとんど出歩けないんだもん)だろうし、「鬱病」とも言わない(だって鬱になって当然の理由があったんだもん)でしょうが、とにかく状況的にはあんまり変わりませんでした。
で、そういう鬱な気分のときにさらに私を鬱な気分にさせてくれるのが、いわゆる「宗教の押売り」です。つまり「聖書についてお知らせしたくて、各家庭を訪問させていただいております」とかいうアレ。しかも子供連れてくるんだよな。あれは反則だ。
彼ら(普通はおばさんだが若い男のこともある)の言い分は、「あなたが不幸なのは、あなたの罪に問題があるのです」というのと、「信仰を持てば、天の国に迎えられる」というのと、「我々はあなたをお救いしたいのです」というののおおむね三点なわけです。
世の中には小児白血病の子供なんていうのがいて、彼らがどんな罪を犯したというのか私には理解できんかったわけです。私だって悪いことをしたわけでもないし、状況から判断してしかるべき処置をとったにもかかわらず結果的に不幸になっただけであって、私が悪いわけじゃない。こういう、被害者に向かって「あんたに問題があったんじゃない?」と言っちゃう心理状態を、「被害者非難心性」といます。確かに何も悪いことをしていないのに不幸が襲いかかってくるというのは理不尽だよなぁ。だけど、障碍を持った子供が生まれたからって、「あたしが妊娠期間中に煙草を吸ったのがいけなかったんだわ」と自分を責めたりとか「あなたに問題があったんじゃない?」と夫を責めたりとかするのは見当違いという気がします。交通ルールを遵守して走ってても酒酔い居眠り運転の大形トラックが突っ込んできて死んじゃう、みたいなどうしようもない災難だってあるわけだし、それと同じようなもんなんだよね。
それに「天の国に迎えられる」とか言われたって、死んでからどうこうより私は現世利益を追求したいし、私を救いたいんだったら「金をよこせ」とは言わんから仕事をくれと言っても聞く耳を持ちません。で、いくら追い払ってもしつこくやって来るのですね。「罪深いあなたをお救いしたいのです」と。で、こちらが強く拒絶すればするほど、連中はこの「哀れな罪深き者」を救おうと必死になるわけです。
……困るよなぁ、こういうの。
しょうがないので私は「相手の信仰を突き崩す」という本質的な手段で対抗することにしました。で、まず『エホバの証人』についての資料を読み、次に聖書の中のイエスについて直接述べてある部分、すなわち四つの『福音書』を徹底的に読みこなすことにしました。
そうすると、面白いことが分かっちゃったんですね。ジョン・レノンの『イマジン』は、ゴスペルだったんです。彼は自分と同じ名前を持つ聖人、聖ジョンことバプテスマのヨハネの言葉を歌にしたわけです。
「思いなさい。『天国なんか、ない』と。」
この一言は、じつは
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
の言い換えだったんです。
福音書は、もともとギリシャ語で書かれています。で、この「悔い改め」というのは「回心」とも訳す言葉なんですが、「そのように発想を変える」「ゲシュタルト・チェンジする」というのが本来の意味で、「反省する」なんていう意味はなかったんですね。
で、「近づいた」というのも、「いま近づきつつあるんだけど、まだ来ていない」のか、「近づいた結果、もう来ている」のか、じつは判断できないんです。
つまり、天の国はもう来ていて、いま我々がいるこの世界が天の国なんだよ、だから、どこかにある理想の「天の国」を待ち望んでもムダなんだよ、だから、我々が天の国で行なわれるように行なえば、この世界はすなわち天の国なんだよ、とジョンは言っているわけです。
で、イエスは我々のこの世界が「天の国」であることを説明するのに、自然がどれだけ神秘と驚異に満ちているか、というのを語るんですが……このスケベオヤジは「女性が妊娠して子供を産む」とかいった、Hネタを譬えに使うわけなんですよ。ところが宗教関係の皆様というのは、なんやら訳のわからん理屈をひねくって、なんだかやたら高邁な思想をイエスが語っているみたいに解釈しちゃって、またそれをもったいぶって信者に押しつけておるわけです。
昔の人というのは、説明が難しかったもんだから教えられても分かんなかったんだと。だから、私は譬え話を使って、誰でも分かるように説明するんだと。イエスはそう言っとるというのに、弟子どもときたらどいつもこいつも……ちゃんと分かっているのはイエスと同じ聖ジョンの弟子である、ジョン、アンドリュー、フィリップ、ナサニエルの四人くらいなんですね。で、「イエスとベタニア四人組」の珍道中(これを「イエスの公生活」といいます)の記録が、いわゆる『福音書』だっちゅーのが分かっちゃったわけです。で、このおじさんは異邦人の女に声をかけるついでにエッチな冗談を言ったら相手もその気になっちゃってその場で妻にしちゃったり、不倫(もっとも子供を育てるために娼婦をしていた未亡人と寝たとか、そういう話らしいけど)を告白してみたりとか、癩病患者の村で知り合った女の子とねんごろになっちゃったりとか(「復活」の場面で、イエス先生にしがみついて離れないもんだから、「ノリ・メ・タンゲレ(私を離しなさい)」とか言われているベタニアのマリアちゃんがその女性です)しているわけです。
で、このベタニアのマリアちゃんの弟のラザロ君もなかなかお馬鹿で、死後三日目に復活する、という奇跡を演じようとして墓穴に埋葬されたのはいいのだけれど、その連絡がイエス先生に届くのが遅れ、一人だけ事情を知らされていたマリアちゃんが先生に事情を説明して「ええい、ばかものが」とか叱られていたり(そういうセリフはありませんが、「イエスは大いに怒って」と書いてあります。これを後の聖書学者は「嘆いて」と勝手に変えてしまいました)とか、あげくに「ラザロ、出てこい」とか言われたのはいいのだけれど屍衣でぐるぐる巻きのみのむし状態で、芋虫のように這って出てきたものだから、「誰か解いて連れてってやれ」とか見捨てられたようなことを言われております。ひどいのはラザロの姉のマルタさんで、事情を知らされてなかったもんだから、イエス先生が墓を開けようとすると、「もう四日めです。臭いますよ」とか言ってたりします。
そして私はやってくる偽預言者どもを(すでに本人はどっぷり福音書にハマッていたりする)端から論破していったのですね。
で……思ったんですけど、イエス先生というのは本当に私によく似ている。まあ、時代的いうと私がイエス・キリストに似てるってことになっちゃうからこういう言い方になるんだけど、なんかイエス先生の悩みっていうのがやたら切々と胸に響いてくるんですね。で、今現在つらつら考えるに、イエス先生というのははっきり言ってAS傾向の持ち主です。
いっぺん福音書を読んでみてください。面白いから(でなかったら『ふたりで聖書を』でもいいけど)。
読んで解んないところがあったらメールで質問してね KILROY
精神病院について書いておこうと思います。
精神病院(正確には、精神科病棟)というのは、なんだかとても恐ろしいところのように考えている人が多いと思います。それには確かに理由もあって、かつての精神病院というのは、重度の精神分裂病の患者を強制入院させるところだったからです。現在でも一部の病院についてはこうした部分が存在します。いわゆる「シャブ惚け」の患者が放りこまれるのはこういう場所です。
自分から入るタイプの精神病院は、このところ解放病棟のところが増えてきたので、こういった恐ろしげな場所ではなくなっています。
雰囲気からいうと、地方にあるのはサナトリウムか企業の研修所のような感じの場所です。森田療法を採用しているところが多く、菜園なんかがあって作業療法をしている患者さんがいます。ただし、森田療法には絶対仰臥療法というのがあって、入って一週間はとにかくベッドに横になっているだけ、ということをします。これが意外にしんどいかも。
都会の病院の場合は一階に内科などの普通の病院と精神神経科の診療室、二階が精神科病棟があり、いちばん奥の非常口の階段から入るとなぁーんにも書いてない鉄扉があってインタフォンがあって、それで呼ぶと中から看護婦さんが開けてくれるシステムになっていました。
「病棟」というだけに寝巻の上にガウンをはおっただけの女性がふらふら歩いてたりもします(なぜか美人が多い)が、旅館の受付のあるべきところにナース・ステーションがある、みたいなフシギな空間です。病室は個室の場合和室が多いようです。ただし入口にドアはなくカーテン。四畳半くらいで押入れがありません。毎朝布団をたたんで机に向かう人もいれば、鬱状態がひどくて寝っぱなしのひともいます。
二人部屋だと学生寮みたいなベッドの部屋もあり、女性が利用することが多いようです。
意外なことに、摂食障害の女性はあんまりいません。そういう人は内科病棟に入院しています。ただし、「摂食障害」という症状を持った、あるいは経験した女性はけっこういます。『ふたりで聖書を』に登場するマリアちゃんの摂食障害体験は、入院していた後輩の見舞いに行ったときに知り合った女性からうかがった話を元に書きました。後輩は私ばっかりがもてると怒っていましたが、AS傾向の人間は「苦痛」については共感できるものの、「苦悩」については理性を駆使してどうにかこうにか共感する、程度のことができません。ですから、普通の人だったら同情のあまり泣き出してしまうような話も、「うわぁ……」「ひぇぇ……」と悶えながらもそこでひとまず終わってしまい、わりと熱心に聞いてしまえます(だから友人が発作を起こした場合でも、「大丈夫ですか?」みたいな言葉より先に「自分に何ができるか」が先に頭に浮かびます。で、事態を分析し、自分にもうなすべきことがない、と思ってから励ましの言葉をかける、という順序になってしまいます)。ですから相手の女性も、「人に自分のことをこんなに話したの始めてだった。すっきりした」と言っておられました。なお、過食するときはパンの耳と牛乳がいいそうです。牛乳の中の蛋白質と胃酸が反応するので、胃液で喉が焼けたり歯が溶けたりしにくいとか。
住み心地については、「論文を書くにはいいところだ」そうです。「日本から来た黒船」と呼ばれてアメリカのコンピュータ業界を震撼させた第五世代コンピュータ・プロジェクトの若手研究者(発足当時、メンバーは三十五歳以下という制限がありました)の一人は、博士論文を精神病院で書き、ついでに奥さんまで見つけて(同じ時期に入院していた患者さんだそうです)出てきたと言っていました。
常識的には禁酒ですが、ごくまれに認めているところもあります。なぜかというと、タバコを吸う人に禁煙を強制すると隠れタバコをして火事の原因になるように、外出時に深酒をして状態を悪くすることがあるからです。そこで決まった量の晩酌などで、適性な飲酒習慣を身につける訓練の一環として、飲酒を認めてもいいのではないか、ということなわけです。もっともそういうお医者さんは、本当に僅かだそうですが。
鬱状態がひどくてセルフケアができない、という人には、わりとお勧めの場所です。
自分の身の回りのことができて、しかも薬などで状態がコントロールできていて、そこそこお金がある、という場合は、どこかシーズン・オフの温泉地に安アパートを借り、自炊をしながら一ヶ月くらいなぁーんにも考えないでお風呂通いをするのはいいかもしれません。いわゆる「湯治場」です。若い女のひとだと、慢性病の治療のために同じように温泉療治に来ているお年寄りに可愛がってもらえるそうです。ごはんだけでも一緒に食べると料理と後片付けの手間が半分になるし、生活が規則的になるというメリットがあります。買い物や運転などの仕事を引き受けるのもいいでしょう。誰かの役に立つというのは、いいものです。
卒業生が二人になって、ますます虚脱状態の KILROY
ゆーり wrote:
>きょうはようちえんで卒園式でした。
>わたしは、壇上で園長先生に証書をわたす役をしました。
今年の卒業式で送辞を読む役でした。
役を割り振った担任曰く「クラスで一番早く学校に来たから」ということ。
まあ、会長だから心の準備はできてましたけど・・
決め方が前々から分かっていれば、わざと遅刻していくところでした(^_^;
>とちゅうで、子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
>泣き始めた女の子がいました。
>式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
>泣き始めました。
>「ありがとうさようなら〜ともだち〜♪」の歌のころには
>ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
卒業生担任の先生方や保護者の方々は・・泣いてましたね。
ホントに涙で言葉すら出てこない・・という感じでした。
それに比べて、生徒の方はあまり涙はありませんでした。
ただ、冷めてるって感じもなくて・・
涙はなくても、別れを惜しむ気持ちはいっぱいだったと思っています。
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
>すごく悲しいのですが。。。
>ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
そんな時は、その雰囲気自体をを変えてしまえばいいんです。(^_^;
かくいう自分も、「ちょっと今年は変わった送辞にしてみようかな」感覚で、
「笑顔で卒業生を送り出す」というテーマのもとに話してみました。
「これが本当の別れじゃない。いつでも会えるんだ・・だから、今は笑って送り出そう」との思いを託して。
もしかすると、生徒の涙が少なかった理由は、この送辞にあったのかもしれませんね。
そう考えれば、この作戦は成功だった・・ということになるんでしょうか(^_~;
私も、15日息子の卒業式に行って来ました。感動するべき所なのに、やはりその場の雰囲気で・・・というよりも、保護者同士の雑談に、「話するなら外でしたら?」とか、校長他スピーチにも、「本当にそんな事思ってたん?」と言う疑問ばかりが沸いてきて感動する暇もなくて・・・(笑)
おまけに、「情緒障害児や難聴学級の皆さんとの交流により、様々な事を皆さんは体験されました」なんて事言い出したもんだから、「なんやって〜!!」と心乱れてしまって・・・・健常児主体の卒業式かい!と不愉快に思ってしまって・・・
どうも”普通”社会の人は無神経で困るなぁ〜と一人怒り狂っていました。
おまけに、昼から会社に行けば、みんな口を揃えたかの様に「感動した?」ってくるから、もう「はぁ〜??」って感じなのを抑えるのに苦労しました。
歌とか感情移入しやすい傾向のある私も、さすがに今回は最低の卒業式やとつくづく思いました。
どうも、心乱れて、言葉も乱れて失礼しました。
私は小学生の頃、どういう訳か女の校長先生に、今思えば教育委員会に訴えてやろうかいと思うほど攻撃(他の人には一目置かれて愛されていると見えたかもしれないが・・・)されました。
朝登校すると、必ず校門のところで落ち葉なんか掃きながら子供たちを出迎えてる。
会うのがいやでわざと遅刻すると、私が来るまで待ってる。私より後に来た人には興味がないようでした。
直接ではなく、人を介して私のことを調べたり、全くの赤の他人に親にも言わない私の話をしたり、公私混同甚だしく、立場で接しようとする私が気になるようで、担任に”正直言って校長のああいう態度はほんとに困る。”とまで言われていました。
いろいろあって思い出すのもいや・・・
卒業式で、私が代表でお礼の言葉を言う時、校長を前にして”雨の日も風の日も、門の前で出迎えて下さった校長先生・・・ありがとうございました”と言ったとたん、思わず悔しくて涙が出てきました。(この言葉、あんたにだけは言いたくなかったヨ)
後からみんなに、あそこのところで感極まって泣いてたね。みんなもらい泣きしてたよ。卒業式が盛り上がって良かった良かった。って言われて、はあ?と思ったけど、そのままにしておきました。
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涙にも、いろいろあります。
なんで、みんな泣くんでしょうね。なんか、卒業式って泣くことになっているから、つられて泣いてしまうのかなあ。
よしもとのギャグみたいな、「お約束」。
私の卒業のときはひたすら幸福感でいっぱいで、ずっと笑ってましたよ。
もっとも私には別れを惜しむトモダチもいなかったから、寂しいって感覚がわからなかったのかもしれません。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>
うーん、でもこういうのって日本独特のことみたいですよ。
笑っておめでとう!ってのもアリだと思います。
ゆーり wrote:
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
こういうのってありますね。
わたしの場合、卒業式などのセレモニーでどうだったかは
あまり覚えてないのですが(ただ歌で高揚することが多いので、
「螢の光」とか歌いながら泣いたかも)、
コンサートに行ったときに、みんながひとつの方向を向いて盛り上がってて、
それはわたしにとっては「つながり」めいたものが感じられる
楽しい時間でもあるのだけど、そこで突然、素に戻って
「ちょっとこの状況は不気味かも」と思ってしまったりもします。
そう思ったからと言って楽しさが減じるわけではないのですが。
ただ、コンサートなどの盛り上がりを表現するのによく使われる
「一体感」という感覚はわたしにはよくわかりません。
ひとの話をきくと、楽しかったコンサートの場合
「我を忘れて」夢中になっていたなどというのですが、
どうすれば「我」を忘れられるのかわたしにはわからんぞ。
常に、ステージと共に会場の「盛り上がり具合」も観察して
みんなが楽しそうにしてればわたしも楽しいというのが、わたしの楽しみ方です。
で、帰宅したらステージのことより、自分の近くにいた人が
こういうことをしてた、なんてことのほうをよく覚えている。
>
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>
>お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
>すごく悲しいのですが。。。
>ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
お互いに別れを惜しんで泣いて笑ってみたくても、
そういうことをする相手がいなかった、わたし・・・(^^;)
ひとが盛り上がってると観察する側にまわってしまうのよね・・・
さっきたくさん書き込みしたのに誤って消してしまって。もう一度書く気力がなくなってしまいました。
皆さんわたしのつまんない悩みに数々の答えを書き込んでくださって、ありがとうございました。やっぱ私はASである皆さんの個性が大好きですし、うちの夫もどきのこともぐちゃぐちゃいいながら、やっぱりその並外れた個性を愛してたと思います。
でも、もう終わりです。
来週出て行きます。彼は知りません。云ったところでわかってはくれないし、予定のひとつである私がいなくなれば、彼はどんなに怒り、監禁すらしそうな人ですから・・・。
彼の子と私の子がもうだめになりました。それが大きい理由です。
彼の子も彼に似て人の気持ちを、理解できず。はっきりとものをいいすぎ、其れに対抗した私の子がすっかり自律神経をやられてしまいました。
親はわたしだけなので私は子を守らねばなりません。仕方のないことです。
しばらくはうれしいけど、あの強烈な個性の彼を知ってしまった私は、物足りなくて、寂しいとおもいます。一日に二十回は必ず電話をかけてきて、私の動向を
チェックしていた人ですから、彼も手持ちぶたさでつらいでしょ。
でもさよなら。心とからだを壊してまで一緒に居ちゃいけないと、私の奥底で叫んでるの。
家をでればパソコンも当分買えないし、投稿はしばらくできなくなります。
いろいろみなさんのはげましがあったればこそ、と感謝いたしております。
本当にありがとうございました。
でも、楽しかった。毎日ここをひらくのが楽しみだったの。
KILROYさんはほんとにかっこいいよ。大好きでした。
結婚相手に立候補したいくらいでした。
それではみなさん。さようなら。
みんなの個性を大切に・・・・。愛をこめて・・・・・・・・・・・・。
ゆーり さんwrote:
>
>子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
>泣き始めた女の子がいました。
>式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
>泣き始めました。
>ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
>「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
43歳ASっぽい男性のqwertです。
私の卒業式での経験でも(卒業生・在校生としてですが)やっぱり
共感できなかったですね。みんな泣いているので泣かないとまずい
かなあとは思いましたけど。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
toriさんも発言してた「世界が共有できる人達」の世界ですね。
取り残されてしまった感じですね。集団で同じ感情になってるの
は怖いッス。
私も、そういったお仕着せの儀式の時は冷静ですね。
感情が高揚することはないです。
武田好史 wrote:
>そうですよ。鬱だろうが・躁だろうが・分裂だろうが・ASだろうが・
>ADHDだろうが・LDだろうが、不幸にして脳の機能が普通の人と
>比べて弱いだけ。
躁鬱は誰でもかかるカゼみたいな病気だし、ASは「高機能」広汎性発達障害。べつに脳の機能が弱いわけでもないし、分裂やADHDやLDではない人間が必ずしも「普通」ではないのは、犯罪者が必ずしも心の病気とは限らないことから明らか。
>後はなんら変わりなし!
人間というのは総体として人間なのであって部分の集合ではない。つまり全体性というのがあるのである。私からASの部分を取り去って、ASでないものをくっつけたら、私は私ではなくなる。
>町の中で錯乱状態になった人は、警察の手で病院に運ばれます。
そりゃまあ、薬物中毒患者と見分けがつかんからな。
>「ポンと肩をたたいて、ようと声をかけてくれるような、そんな人間関係
>が欲しい」というその人の言葉が印象に残っています。
ニコポン(ニコッと笑ってポンと肩を叩く)・キンメシ(「近いうちに食事でも一緒にどうかね?」と声をかける)なんていうのは、toriがいちばん厭がりそうな行為のような気がするが。
KILROY
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