アスペルガーの館の掲示板(旧)

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=POWER("Re",6): (←違いげ) なぜ人を…(補) 3871へのコメント
No.3873  Thu, 5 Apr 2001 22:29:05 +0900  ぴよ [この発言にコメントする]

>Motoさん wrote:
>>exp(5*ln(Re)): なぜ人を…(補)
> ちなみに所長は「Re**5」(-_^)b~*。(←古くて悪かったな by 所長)

がはははは。


>>#ちなみに、私にとっては、セックスは「情報交換」ぐらいの意味をもちます。
> それで済んじゃいますか(^_^;)。

まぁ、私のつきあう相手とは、プラトニックラブの段階で、
「相手と自分の境界がほとんどない」状態でしょうから、
すでに、とんでもなく深い関係です。
なにしろ、「以心伝心」ともいえる状態なんです。

そういう意味で、お互いにとって、
セックスは、「情報交換」ぐらい、軽いわけです。
でも、楽しいし、心が癒されるし、やっぱし、大好きです。

ちなみに、私は、いちおう男性です。
つきあう相手は、「情報量が大きい」という理由で、女性のほうが好きです。


有難うございます。 3846へのコメント
No.3872  Thu, 5 Apr 2001 21:27:21 +0900  風鈴 [この発言にコメントする]

るおうさん

Mebiusさん

レス有難うございます。何とか準備も終わり、後は行く荷物を詰めるだけってとこです。
毎日、息子の部屋に行っては喋ったり、ゲームしたりしてます。
昨日はなぜか掲示板アクセス出来なくて、何でだったんだろ〜?
プラウザがなんとか・・・??っと表示されてた。
どんなに疲れてても、夜中に帰って来ても、見てから寝てるだけに昨日は残念でした。


exp(5*ln(Re)): なぜ人を…(補) 3868へのコメント
No.3871  Thu, 5 Apr 2001 20:31:44 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

(以下、Mr.Motoによる)
ぴよさんwrote:
>Re^4: なぜ人を…(補)
 するとあなたはBASICプログラマ(^_^;)。
Moto wrote:
>exp(5*ln(Re)): なぜ人を…(補)
 ちなみに所長は「Re**5」(-_^)b~*。(←古くて悪かったな by 所長)

 私にとって「Xを殺す」というのは、「Xの未来における可能性を(全部にせよ部分的にせよ)奪う」の同義語です。で、私は極力他人の人生に介入したくはないし、私の人生をオモチャにされたくもありません。
 私の「ぶち殺してやりたい」という感情の根っこには、「私の未来における可能性を侵害する対象に対する防禦反応」というものがあって、それがあるレベルを超えると「相手に対する攻撃性」というものに変化します。

(以下、Joshyaによる)
 「Xを殺す」が「Xの未来における可能性を奪う」の同義語と考えると、「女性に対する独占欲」というのも「殺したい」という願望とイコールだということになります。「死蔵」とか「飼い殺し」という言葉もありますし、その意味で他人の人生を邪魔したくない反面、そのひとの人生に(そのひとの「才能を生かす」ことによって)積極的に関わりたい、という気持もあります。そこまで考えると、「生きる」(未来における可能性を選び取ってゆく)ことと「殺す」(お互いの可能性が干渉する)ことはイコールであるように思います。

 ですから、ぴよさんにとっては
>ちなみに、私にとっては、「殺したいと思った」時点で、
>すでに、「殺したこと」と同じ重みを持ちます。
であるのに対し、私にとっては「愛する」も「憎む」も「殺す」ことの一部だったりします。

>#ちなみに、私にとっては、セックスは「情報交換」ぐらいの意味をもちます。
 それで済んじゃいますか(^_^;)。
 「セックスは嫌いじゃないけど(っていうか、好きなんだけど)、自分がなくなっちゃいそうで怖い」という女性が多いものですから、こちらとしても責任重大なんですよね。
 「女としての自分」というものを抜きで(つまりセックスの対象でない相手として)つき合ってる期間が長いと、「男と女」の関係になったときにパニックを起こしちゃうということがあります。セックスという行為の間は逆らいがたく「女」であるわけで、セックスの時の「男と女」の関係とそれ以外の「ひと対ひと」の関係が競合しちゃって訳がわかんなくなっちゃうんですね。キレイに使い分けようとするんだけど、保たなくなっちゃう。べったり「男と女」の関係になっちゃうというのは、自分が「ただの女になり下がっちゃう」みたいでいやだ、と。そんでもってぐちゃぐちゃに混乱したあげく逃げ出しちゃう、みたいな女性は多いようです。
 「気持ちいいセックスより、ぜんぜん気持よくない、ただのセックスの道具みたいに扱われる乱暴なセックスのほうが気が楽」とか、「相手のことが好きになると、気持ちいいセックスがしんどくなる」という女性がいたりするんですよ、じつは。
 「相手と自分の境界がなくなっちゃうくらい、どっぷり深い関係がいい」という女性って、いないもんですかねぇ……


Re: 春(2) 3869へのコメント
No.3870  Thu, 5 Apr 2001 19:01:25 +0900  ぴよ [この発言にコメントする]

春風の中で昼寝のぬいぐるみ


春(2)
No.3869  Thu, 5 Apr 2001 18:56:08 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

夕焼けや 新緑の向こうに 蒼き峰

涙目か 桜の上の おぼろ月

菜を取りし 畑つぶされ 駐車場


Re^4: なぜ人を…(補) 3867へのコメント
No.3868  Thu, 5 Apr 2001 18:54:00 +0900  ぴよ [この発言にコメントする]

>> Re^4: なぜ人を…(補)

これって、(〜について)^4 ですね。私は、この書き方(Re^N)を認めています。

> 「Moto氏」あるいは「Mr.Moto」とお呼びいただければ嬉しゅうございます。べつに「Moto」でもよろしいんですが……

了解です。

> 「『殺してはいけないもの』でないものは『殺していいもの』」

ここなんですけど、
私の場合は、「殺したい」という感情を持つことが困難なんです。
だから、何かの理由がないと、殺すことができません。

ちなみに、私にとっては、「殺したいと思った」時点で、
すでに、「殺したこと」と同じ重みを持ちます。

#「あなたは姦淫してはならない」についても、同じような解釈をしてしまいます。
#ちなみに、私にとっては、セックスは「情報交換」ぐらいの意味をもちます。


> 私の場合、「殺したものは食え」「食えないものは(できうる限りにおいて)殺すな」というのが大原則なんですが、時に食えないものまで殺さざるをえない場合があるので、その場合は個別に対応する、という方法を取っています。したがって、「ヤッちゃったらプロポーズする」「人妻には手を出さない」「結婚したら女房一筋」が原則です。

私の場合は、仮定と結論が逆になります。
「食べさせてほしい」という気持ちが先にきます。

結婚についてなのですが、私には博愛主義みたいなところがあるので、
何者も愛してしまいます。
まあ、「結婚」というのはルールですから、それには従ってやりますが。
結婚しても、他の人と友達でいることはできますから。

>>私は、アニマティズム的な感性を持っているので、
>>すべてのものに人格を認めます。
> つまらない事ですが、「アニマティズム」ではなくて「アニミズム」ではないでしょうか。

すみません。訂正します。

まあ、私にとっては、自他の区別が曖昧で、
「みんながひとつ、ひとつがみんな」という感覚だったりします。


>>ですから、私にとってのデフォルト値は
>>「何者も殺して/壊してはいけない」
>>だったりします。
> 「蛇の生殺し」っていう言葉もありますので、「引導を渡してやる」というのが親切、というケースもあると思いますよ。
> 私は釣り上げた魚は鮮度を維持するためにその場で締めます。
> 「本当にこのひとと結婚してもいいのだろうか?」みたいに悩んでる女は強引に犯っちゃうと安心する、みたいな話もありますし。ただ、「なまじ逃げ道があると腰が引ける」と思って退路を断っちゃう女性というのはあまり存在しないらしく、こっちが退路を断ったとたんに怖くなって他の男に走って一方的に関係を断ってしまう、という「ナチュラル・ボーン・結婚詐欺」みたいな女性が多いのは困ったもんだと思います。

私は、どんな人も許してしまうので困ったものです。
他人を裁くことができないんですね。

まあ、私の場合は、波長のぴったり合ったひとと結婚するつもりなので、
(これって、共鳴すると、とても危険なんですが)
お互いにとって、即断即決です。たぶん。


Re:Re:Re: なぜ人を…(補) 3863へのコメント
No.3867  Thu, 5 Apr 2001 17:53:29 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

ぴよさんwrote:
>Mr.Moto氏の見解を拝見しました。
>#たしかに、"Mr."と、"氏"が重複しているなぁ……
 「Moto氏」あるいは「Mr.Moto」とお呼びいただければ嬉しゅうございます。べつに「Moto」でもよろしいんですが……

>Mr.Moto氏と私では、
>「殺していいかどうか」のデフォルト値が正反対なのかもしれません。
 というより、採用している論理自体の差だと思います。
 ぴよさんがDN(Low of Double Negation:二重否定の法則)を採用しているのに対し、私は「直感主義の論理」を採用しています。
 ぴよさんの場合、
 ¬(¬A)=A
ですから、
 「『殺してはいけないもの』でないものは『殺していいもの』」
と考えて、
 「Mr.Motoのデフォルトは、『殺してはいけないもの』以外は『殺していいもの』である」
と解釈されたのだと思います。けれど、直感論理では
 ¬(¬A)≠A
です。ゲーデルの不完全性定理によれば、「証明可能ではない」にもかかわらず「正しい」命題が存在する可能性を否定できないわけですから、「証明できないからといって、誤っているわけではない」ということが言えます。たとえば連続体仮説や選択公理なんかがこの「証明不能であるが正しい」公理であると考えられています。
 したがって、
 「『殺してはいけないとはっきり分かっているもの』でないものだからといって、『殺していいもの』であるとは限らない」
ということになります。

 私の場合、「殺したものは食え」「食えないものは(できうる限りにおいて)殺すな」というのが大原則なんですが、時に食えないものまで殺さざるをえない場合があるので、その場合は個別に対応する、という方法を取っています。したがって、「ヤッちゃったらプロポーズする」「人妻には手を出さない」「結婚したら女房一筋」が原則です。

>私は、アニマティズム的な感性を持っているので、
>すべてのものに人格を認めます。
 つまらない事ですが、「アニマティズム」ではなくて「アニミズム」ではないでしょうか。

>ですから、私にとってのデフォルト値は
>「何者も殺して/壊してはいけない」
>だったりします。
 「蛇の生殺し」っていう言葉もありますので、「引導を渡してやる」というのが親切、というケースもあると思いますよ。
 私は釣り上げた魚は鮮度を維持するためにその場で締めます。
 「本当にこのひとと結婚してもいいのだろうか?」みたいに悩んでる女は強引に犯っちゃうと安心する、みたいな話もありますし。ただ、「なまじ逃げ道があると腰が引ける」と思って退路を断っちゃう女性というのはあまり存在しないらしく、こっちが退路を断ったとたんに怖くなって他の男に走って一方的に関係を断ってしまう、という「ナチュラル・ボーン・結婚詐欺」みたいな女性が多いのは困ったもんだと思います。

 (Mr.Moto)


Re: 薬について 3864へのコメント
No.3866  Thu, 5 Apr 2001 17:09:38 +0900  sf [この発言にコメントする]

またまたつけたしです。

あの、一日の中で様子に変動があるとかいうことも、薬を飲ませる際に気になることであれば、そういうことも伝えて聞いたら、そういうことにも対応したアドバイスとかもらえるんじゃないかということも思いました。

やっぱり考えがうまく整理できてないです。
何度もすみません。


Re: 薬について 3864へのコメント
No.3865  Thu, 5 Apr 2001 16:31:35 +0900  sf [この発言にコメントする]

すみません。
違うふうに読める気がするので、改めて少しつけたしです。

処方する医師を信頼できたりコミュニケーションがとれたりするなら、
薬の名前を知っているのは悪いことはないと思います。
知っていた方がいいこともあると思っています。

これだけです。


Re: 薬について 3829へのコメント
No.3864  Thu, 5 Apr 2001 16:15:24 +0900  sf [この発言にコメントする]

はじめまして。
以前から拝見していました。

PHOO さんの書き込みに対する直接のレスにはなっていないのですが、
ななはさんやJETさんのレスなども見て、思ったことがあったので
書いてみようと思います。

処方された薬の名前がわからないなどのことですが、
そのような情報は医師とのコミュニケーションが十二分にとられていれば、
要らないということもあるのではないかと思いました。
逆に医師を十分に信頼できない状況でそのような情報を得ることは、
必要以上の(?)不安や不信を感じることにもつながりかねないと思います。
そういった情報を得るのが良くないと思うというわけではなく、
自分から関わっていくために大切だということもあると思うのですが、
それで処方する医師との関係が気分的にでも損なわれてしまうことがあっては、
それは良くないのではないかと思いました。
薬の名前やどういう薬なのか、どのような飲ませ方が良いのかというようなことは、
まずは処方する医師に尋ねてみるのが良いのではないでしょうか。
あと、とりあえず大切なのは薬の名前よりも
どういう薬でどのような飲ませ方が良いのか、ということの方だと思うので、
そういうことは医師にも、
薬の名前そのものより聞き易いのではないかと思うのですが、
そういうことをまず医師によく聞いてみるということもできるのではないかと思いました。

これを機会に、ときどき書き込んだりできたらいいと思っています。
考えが整理できないのでなかなかむずかしかったんですが。


Re: なぜ人を…(補) 3857へのコメント
No.3863  Thu, 5 Apr 2001 15:40:51 +0900  ぴよ [この発言にコメントする]

Mr.Moto氏の見解を拝見しました。
#たしかに、"Mr."と、"氏"が重複しているなぁ。。。

Mr.Moto氏と私では、
「殺していいかどうか」のデフォルト値が正反対なのかもしれません。

私は、アニマティズム的な感性を持っているので、
すべてのものに人格を認めます。

ですから、私にとってのデフォルト値は
「何者も殺して/壊してはいけない」
だったりします。

で、それから「殺すことが許されるもの」を特別視していく。
「成仏してもらいます。」といって、ものを食べるわけです。


Re: お久しぶりです 3852へのコメント
No.3862  Thu, 5 Apr 2001 12:29:20 +0900  猫目4 [この発言にコメントする]

JET さん

なにはともあれ
退院おめでとう。


Re: はじめまして 3841へのコメント
No.3861  Thu, 5 Apr 2001 12:26:38 +0900  猫目4 [この発言にコメントする]

うめ さんへ

こんにちは。
ASについて書かれている本は少ないけど
「この星のぬくもり」というコミック本はわかりやすいと思うよ。


あっ!それから・・・
No.3860  Thu, 5 Apr 2001 11:39:38 +0900  Mebius [この発言にコメントする]


あっ! それからね、・・・るおうさん。
人も羨むような家庭だった私の実家も長い年月をかけて崩壊してゆきました。
私の父はアスペでした。私が生まれる以前から既に家庭などというものは形骸化していました。でも、それは父がアスペだったせいではありません。
周囲の人間達が勝手に自分の都合の良いように理想を描きエゴを剥き出しにした結果です。父が死んで実家は完璧に崩壊し、私はようやく自由になりました。

幸せの形に理想形なんてありません。幸せだと思ったら、それが幸せ。
時には崩壊した方が幸せな事だってあるのかも知れない。



 <猫は初めて自分の猫になりました。
     猫は自分が大好きでした。> 
          ―「100万回生きた猫」より―


  私は初めて“自分の私”になりました。
     私は自分が好きになりました。
              ―Mebius―


るおうさんへ
No.3859  Thu, 5 Apr 2001 11:08:10 +0900  Mebius [この発言にコメントする]


るおうさんへ

ずーーとずーーと前、るおうさんが教えてくれたおむにさんのチャット、
ようやく昨日行って来ました。
緊張しちゃいました。失敗しちゃいました。逃げ帰ってきました。
慣れるまでちょっと大変。

ケンシローさ〜ん。ご挨拶も出来なくてごめんなさ〜い。
おむにさ〜ん。私、北海道にいま〜す。おむにさんといつかお会いしたいです。
るおうさ〜ん。お誘いありがとう。また行ってみるつもりです。

リアルタイムのコミュニケーションと新しい環境が苦手なMebiusでした。


Re: なぜ人を…(補) 3855へのコメント
No.3857  Thu, 5 Apr 2001 10:43:31 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

 訂正です。
Moto wrote:
> ご拝察感謝申し上げます。
 正しくは、
> ご賢察感謝申し上げます。
でございます。失礼申し上げました。

 ついでながら、「なぜ人を殺してはいけないか」、あるいは「ぶち殺されても当然と思われる奴であっても、いざ殺すとなると逡巡してしまうのはなぜか」については、「それが境界(リーメン)を犯す行為だから」という説があります。これは『タブーの謎を解く 食と性の文化学』(ちくま新書)の中に紹介されている人類学者のターナーの説を敷衍したものなのですが、世の中には「殺していいもの」と「殺してはいけないもの」が存在し、人間は「殺してはいけないもの」に属するがゆえに、「殺人」は「日常」から隔離されなければならない、ということだったりします。

 鮒と金魚は生物学的にいえば同一種であり、鯉と錦鯉も同一種です。一方、「ペット」は「食べはいけないもの」であり、「サカナ」は「食べていいもの」です。したがって金魚や錦鯉を食べることは「ペット」と「サカナ」、「食べてはいけないもの」と「食べていいもの」の境界を侵すがゆえに食べてはならない、ということになります。

 とはいえ、この「境界を侵す」行為は非日常的であるがゆえに人をしてドキドキさせるものなわけですから、殺人だの不倫だの幼児性愛嗜好だのといった行為に魅せられる人というのが存在するわけですが。

 で、こうした「境界を侵す行為」は人をして不安にならしめる行為であるがゆえに、それを「タブー」として禁止することで安心する、というのがタブーの起源である、と人類学者は説いています。

 古代の日本では、戦って死んだ人間やニワトリを食う(あるいは戦えなくなった人間やニワトリを殺して食う)のはタブーではないのに、食べるために人間やニワトリを殺すのはタブーであったらしい、というのが分かっています(これは「禁止されている」というより、飢饉になっても人間やニワトリを食う奴がいなかった、あるいは食った奴は「罪人」ではなく「狂人」とみなされた、といったレベルの話です)。そして江戸時代に食用とされたニワトリはすべて軍鶏であったとか。つまり、「相手の生命あるいは精力を継承する」という意味でのカニバリズム(人肉食)、というのは認められており、「ニワトリを食う」というのはカニバリズムの代償行為だったと思われます。
 なお、カニバリズムの場合、「食べる」側ではなくて「食べられる」側のカニバリズムというのがあって、ボクシングを題材にした劇画の「選手生命に限界を感じたチャンピオンが、リングの上で戦って死ぬためにふさわしい相手を選ぶ」というパターンはこの「食べられる側のカニバリズム」の一形態と見なすことができると思います(代表例:松本大洋『ZERO』、小学館、ビッグコミックス、全2巻、本体485円)。

 なお、『赤ずきん』も古典的解釈によればこのカニバリズムにおける「食べる」側と「食べられる」側の「結婚」の物語だったのですが、フランスのロマン派を代表する作家であるシャルル・ペローの馬鹿野郎とドイツの後期ロマン派を代表するグリム兄弟の糞ったれがロマン主義的な立場からその解釈をぶち壊した、と所長は考えています。

 ついでながら、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では兄妹相姦あるいは姉弟相姦は「罪」である以前に「狂気」ですが、日本では単なる「罪」でしかありません(なにしろ「妹」という字には「妻」という意味があります)。その意味で、「タブーは狂気と犯罪を分かつものである」と言うこともできると思います。

 (Mr.Moto)


Re: なぜ人を殺してはいけないのか 3850へのコメント
No.3856  Thu, 5 Apr 2001 06:14:29 +0900  ぴよ [この発言にコメントする]

私は、人は「殺さないほうがいい」と思っています。
ちょうど、ものを「壊さないほうがいい」のと同じです。

自分が、「ものを捨てられない」性格だからかもしれません。
なんだか、もったいない気がするんです。


Re: なぜ人を殺してはいけないのか 3850へのコメント
No.3855  Thu, 5 Apr 2001 04:02:50 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

Xanadii wrote:
> なぜ人を殺してはいけないの?
 お呼びにあずかりましたMr.Motoでございます。
 私は「人を殺してもいい」と思ってます。その理由はXanadiiさんにはすでにお解りのことだと拝察するんですが、おそらくはXanadiiさん自身意識されておられないと思います。
 死刑以外の合法的殺人を認めない、というのは法治国家を維持する以上しかたのないことで、安楽死を認めていない国(あるいは州)でも「法律上は犯罪だが、運用上罪に問わない」という形で安楽死を認めているケースはあります。
 ですから、安楽死を実質上認めている日本において、安楽死の要件において「医師の手による」といった条件が付与されているというのも、言ってみれば「言い訳」にすぎないわけで、殺される本人が、たとえば「病気」というものに屈服、あるいは敗北する形で死ぬことに精神的な苦痛(屈辱)を覚え、恋人なり配偶者の手によって「殺される」ことによって相手に対する「何か」でありたいと望んだならば、その旨遺書なりビデオ・レターなりに残して「殺され」ればいいのであり、その場合は「依托殺人」ということで最高で四年だか六年だかであり、自首すればおおむね執行猶予がつくということになります。
 で、殺す側にしても、「有罪」という判決を受ける、ということで心理的な句切りがつく、というメリットもあります。恋人あるいは配偶者が死病に冒されているにもかかわらず何もできない、という状況が続くことは恐ろしく精神を消耗させることであり、「殺人」という世間では最大級のタブーを犯すことによってそれに関わる、というのは、「喪の仕事」として効果的であると判断します(ところが警察がこれを「自然死」と認定しちゃったもんだから、犯人がなんとか自分を裁いてもらおうとして手記を書いて警察に訴える、というネタでミステリーを一本書こうと思っております。なお、この註は所長によります)。

 で、問題は「ヤな奴をぶち殺してやりたい」という衝動についてですが、人間の生理というのはなかなかそれを許してくれません。頭では「ぶち殺してやりたい」と思っていても、身体がなかなかいうことを聞いてくれないのです。
 だったら生かしておいていじめた方が面白いしこっちの心理的な負担も少ない、と思います。できれば「世間」というものを利用すると、より心理的に楽です。マスコミなんていうのはそういった機能を担っています。

>私は今までの人生、「今度会ったら殺してやりたい」と本気で思う相手が、
>少なくとも3人はいるんですけどね(当館に当該者はいませんからね!)、
>だからといって殺したからって、私の汚された自尊心が戻ってくるわけでは
>ない。だから殺さないってだけの話。
 所長氏は実際に二人は「殺して」います(ついでながら、相手が失踪しちゃったりしたために三人ばかり殺しそこねてます)。「合法的に、社会的に抹殺する」という意味でですが。ただし「復讐として」ではなく、「邪魔だから排除した」んですが。説得の通じない相手には恫喝くらいしか手がないんですが、感情を抑えきれない人間は損得感情もクソもなく、相手を破滅させることしか考えられなくなります。言葉の通じない人間は「動物」と同じですから、「有害鳥獣駆除」と同じ感覚でぶち殺してやってもいいんじゃないでしょうか。

>こうなってくると「必殺仕事人」みたいのがいてくれないかなーってなって
>くるけど、法で裁けぬ相手を、天に替わって…ってやつね。
 「天が赦しても俺が赦さん!」というのはKILROYの決めゼリフです。すべての責任を自分で引き受ける覚悟のない人間は、その手の行為に手を染めないほうがいいと思います。サポート業務を引き受ける業者はあってもいいと思いますが、最終的に手を下すのは本人であるべきだと思います。

> えっと本日最後になりますがKILROYさん、いやMr.Moto(呼び
>捨て風になったのはなにも敵意があるわけでなく、みすたー・なんとか「さん」
>ってのも変だと思った訳)でしたっけか、以前の女性差別なんとやら、の部分
>もしかして私に振ってらっしゃったのですかね。
 ご拝察感謝申し上げます。なお、「Mr」の部分を省略して「あの fuck'n な Moto の野郎」くらい言っていただけると、こちらも毒舌の吐き甲斐があるというものです。

>(前略)そもそも土俵が「神聖」であるっていうのも、もしかして近世以降の
>考え方なんではないでしょうか。男であろうと女であろうと相撲取りは肥満の
>巨体、つまり「フリークス」(畸形)によっておこなわれるもので、不可触と
>された人々の生業のひとつであり、「聖別」された儀式として完成されていった、
>というのが真相なのでは?
 『古事記』や『日本書紀』にはタケミナカタの神とオオナムチの神(違ったかも知んない)の闘いなんかが出てきますので、「神聖な場所」というより「異界」なのだと思います。だから「一般人の社会」とは明確に隔絶された社会の住人、ということでああいう形になったというのは十分に頷けます。女子プロレスと小人(「コビト」は差別語なのだそうで(そうだろうな)、最近は「ミゼットプロレス」と呼ぶらしい)が一緒に興行を打つ、というのも、同様に「女性+闘い」がタブーを犯すという理由だと思われます。

>でもMr.Motoの言うとおり、女が全部無防備で、異常な男をみんな排除して
>いっちまったら、あとに残るのは腑抜けばっかりになっちゃうでしょうが。
 私は馬鹿は差別されてしかるべきだと思っています。「私が馬鹿なのは私のせいじゃない! 世間のせいだ! 馬鹿の人権を認めろ!」みたいな身勝手で傍迷惑な馬鹿は、寄ってたかって袋叩きにされることで、せいぜい我々のストレスの解消のお役に立ってもらいたいと本気で思っています。

 私がいう「慎み」と「尊重」というのは、たとえば「職場で知り合った女性(仕事上のパートナー)と一緒に飲んだあとに彼女を送ったとして、マンションの敷地内に入らずにドアの見える場所で「じゃあ」と分かれて彼女が部屋に入るところで手を振って別れる」という一線をこちらから超えようとしない、とかいった意味です。
 「だけど部屋にヘンな人がいるかもしれないから」とか言われたら、玄関まで行って靴を脱がずに待機して、彼女が安全を確認してから「じゃあ」。で、「せっかくだからコーヒーくらい飲んでいってください」みたいな話になって、話しこんでるうちに「電車終わっちゃうから」で「じゃあ」。「なんなら泊まってけば?」と言われてそのまま終電の時刻を過ぎるまで部屋に残ってから、「やっぱりタクシーでも拾うよ」で「じゃあ」。
 で、玄関まで行って靴履いて、なおかつ相手の女性が別れがたそうにしてたら、すぅっと額を寄せてって、相手が目ぇつぶったらもう遠慮なし。そのまんまベッドまで連れてってぐちゃぐちゃに犯してしまいます。で、その後は「ひどい。こんなつもりじゃなかったのに」みたいな相手の泣き・愚痴を甘んじて受けるのね。ただし、「本当に厭なときは英語を使うか、タップをすること」というのは事前に申し合わせておきます。すなわち「だめ」とか「やめて」とか言うのはOKで、「ストップ!」「タイム!」とか言われたらNO。「ストーップ!」というから何事かと思ったら、ピアス外してブラウスの袖口のボタン外してパンティ・ストッキングを脱いで、それから改めて「ああっ、だめぇっ!」(^_^;)。私はシャレの分かる女が好きだ。
 ここまで配慮しておいて、なおかつ「むりやりヤッちゃったんだから、責任取って結婚してください」とか言われたら、素直に「承知いたしました」と頭を下げてしまうのが男っちゅーものなのだな(言われる前にプロポーズするのが本当は礼儀なのだが)。それを女房と別れる気もないのに部下の女の子に手を出すだの、結婚する気もないのに女の子に手を出すなんぞは言語道断。こっちにその気がない場合は、もはや平身低頭、土下座をして謝るわけです。「けっしてあなたが女性としての魅力に欠けているわけではありません。すべて私が悪いのでございます」と謝罪する(「ごめんなさい、私、女房が怖いんです」というのもいい。女性に恥をかかせないためにも、理由は徹底的に情けないほうがいい)。
 ……で、それが女性にとって「自慢」になるような男でないといかんのだな。「私、××さんに振られちゃいましたよ。ひどいと思いません?」「それって食っちゃうのが常識よね」「『据え膳食わぬは男の恥』って言うじゃない。ねぇ?」みたいなことを職場で聞こえよがしに言われ、「ううううう、言わんでくれぇ」みたいに苦悶する、というのが、ある意味「男の勲章」でございます。仕事のできる男は、それを見て「くそー、カッコええのう」と思うんですね。

 そういう「男の美学」を理解せん奴は職場でいじめられても当然、と私は考えます。女を扱えない男が人の上に立つなんていうのは、はっきり言って迷惑だから。

 結局のところ、私は法治国家の限界というものを感じているために、社会通念のレベルで歯止めをかけようという考え方をするわけです。日本はそれが可能な国だと思いますし。

 (Mr.Moto)


Re: 障がい者? 3851へのコメント
No.3854  Thu, 5 Apr 2001 02:06:10 +0900  KILROY [この発言にコメントする]


(以下、KILROY)
 「障がい者」問題が続いていて非常に不快(議論をしているひとを責めているわけではない。単に読んでて気持ち悪いだけだ)なので、一発コメントを入れることにする。

 「障礙者」、あるいは一歩譲って「障碍者」。これ以外の表記は使うなぁ〜! 読めないんならルビを振ってくれぇ〜! それも無理ならせめて括弧でくくって読みを示してくれぇ〜! 「礙」あるいは「碍」の字が使えないなら、「ショウガイシャ(シヤウガイシヤ)」と書いてくれぇ〜! 気持悪くて気持悪くて死にそうなんじゃぁ〜!

 「礙」という字は、「さまたげる」という字なのである。「碍」は俗字だ。日本碍子(NDK)という会社があるけれど、あの「碍子」というのは、電気の絶縁体である。つまり、電気が流れるのをサマタゲる、つまりはジャマをするのが「碍子」なのである。

 私にとって「障碍」と「障害」は別の言葉なのである。「摂食障碍」といえば、「食べることに困難がある」ことだし、「摂食障害」といえば、過食を含めて「摂食行動にトラブルを抱えている」という意味になる。前者はお年寄り(「老人」でいいのだこんなものは。中国拳法の世界には二十代三十代の「老師」はゴロゴロいる。「老」は「なつかしい」の意味で使うから、「旧友」は「老朋」である)に多い「噛む・呑みこむのが困難な人」も含めた概念だし、後者はアナレクシア・ナルボーザなどを含めた乖離性障害である。

 だいたい「えん罪」だとか「すい星」だとか「ら致」だとか「ふ頭」だとか、見てて気持悪いと思わんのかぁ〜!

 これが平気でいられる人間がASだとすると、私はASの定義をまた見直さなければならなくなる。私はこういう「理屈で割切れないこと」が大っ嫌いなんじゃぁ〜!

 (以下、Mr.Moto)
 オレは「障害者」という表記こそ普及させるべきだと思っている。現代において、「障礙」のほとんどはテクノロジーによって解消可能である。昔だったら近視は「障礙」だったろうが、現代において眼鏡を掛けている人間を全員「障礙者」と決めつける奴がいたらそっちの方が異常である。
 世間の連中、すなわち「普通の人間」にとっては、「障礙者」は「害虫」と同じように「存在自体が悪」であり、世が世ならこの世から抹殺すべき対象なのである(ナチス・ドイツでは実際に行なわれた)。

 逆の立場から言えば、生まれつきの「障礙」というのはそれほど苦にならないのである。小学校時代の所長氏は典型的なASだが、それを苦にしたことはなかったらしい。
 なにしろ授業をまともに聞いていたことがないのである。勉強はすべて二歳年上の従姉に教わっており、教科書なんていうのはとっくに読み終わっており、授業中は騒ぐと叱られるのでずっとお絵描きをしていた。所長氏の母親の言うには、授業参観なんていったらその時間中ずっと後ろを向いて母親を見ていたそうである。
 しかし上には上がいるもので、高校の天文部で一緒だった鈴木明江氏は高校に入ってなお授業中はずっと寝ていた。物理の教諭に加川さんという名物教師がいたのだが、演習問題を解ける奴がいない時は「しょうがない。鈴木を起こせ!」と言ったという武勇伝が伝わっている(この鈴木氏(「鈴木女史」と書くと差別になるそうだ)が京大を落ちたときは、衝撃のあまり職員室が総立ちになったというエピソードがある才媛であった)。で、この鈴木氏にしてからが「どっかヘン」なひとであった。

 スティービー・ワンダーやレイ・チャールズが、自分が「黒人」であり「盲人」であるということに対してどう考えているかを想像してみてほしい。問題は、「障礙者」であるがゆえに、世間によって苦痛を受けさせられることにあったりするのである。
 所長氏(当時は「KILROY」を名のっていたが)が「ASって病気なの?」と問題提起をした背景には、「障礙者」は「普通の人間」によって排除された結果「障礙者」となったわけで、「被害者」という意味で確かに「障害者」であるという現実がある。

 したがって、「普通の人間の世界」、すなわち「世間」というものに対する冷たい抗議の視線、というものを含めて、「障害者」という表記を積極的に押しすすめ、結果として「障害者」という言葉が死語になり、別概念としての「障礙者」という言葉を持ってこざるを得なくなる、というのが理想なのである。

 物事の本質から逃げてはならんぞ、と私は言いたい。

 とはいえ、これを言うとまた百日紅に叱られそうだが。これでも最近は百日紅に配慮してポリティカル・コレクトを尊重しておるのだが、百日紅がさっぱり顔を出さんので馬鹿馬鹿しくなってきた。私は差別語を差別的な意味で使うことに対して肯定的である。差別語を差別的な意味で使って軽蔑される奴は放っときゃいいし、私は軽蔑されるために存在するキャラクターなのである。したがって今後ビビビだのビビビビビだのピヨピヨピヨだのといった言葉を堂々と使うから覚悟して……あれ? 何だなんだこれは。かな漢字変換機能が。だからピヨピヨピヨ、そうじゃなくてビビビビビ、うわぁぁぁぁぁぁあ……

 (Mr.Moto)

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