アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
りふれくと wrote:
>No.3927〜「アスペルガー共和国について 」
>
>いいと思います。確かにいいと思います。
>しかし、一度このような・・ある意味「甘い」世界に行ってしまうと、後で「普通の世界に戻ってみたい」時に、容易に戻れなくなってしまいそうで怖いです。
>また、ASだけのカテゴリーを作ってしまうと、社会がASを受け入れるための妨げとなってしまう・・といった懸念もあったりします。
>
>個人的に反対の立場ではありませんが、実際入国するか?・・と聞かれると、ちょっとなぁ・・と思うのもまた事実です。
>
この点に関連して、みなさんに質問します。
ASの人の未来は、次の2つのうちどちらが望ましいと思いますか?
1.孤軍奮闘・苦心惨憺の末、なんとか既存の社会に適合していき、認められていく。
2.似たもの同士が、肩を寄せ合い・励まし合い・助け合って、新しい受け皿を作りそれをベースにして、自分たちの社会貢献のあり方を模索していく。
りふれくと wrote:
>「アスペルガー共和国」について。
>いいと思います。確かにいいと思います。
>しかし、一度このような……ある意味「甘い」世界に行ってしまうと、後で
>「普通の世界に戻ってみたい」時に、容易に戻れなくなってしまいそうで怖
>いです。
む、無謀なやつ(^_^!)。ひとこと言うておくが、書込みをじっくり読みこまずに、分かったような気になって杜撰なコメントをすると怖いことになる。Motoちゃんちょっと向こうの掲示板行って荒らしておいで(あいあーい、とか言って本当に行ったりしてな(^_^;) by Mr.Moto)。
われわれASは、はなっから「普通の世界」の住民ではない。それをりふれくと君は忘れてはおるまいか。
>また、ASだけのカテゴリーを作ってしまうと、社会がASを受け入れるための妨げと
>なってしまう……といった懸念もあったりします。
とか言うておるが、そもそもASというのはASという名前ができる前から存在して、そういった人々が社会から受け入れられない、という状況があったのちに、ASというカテゴリーが立てられたのである。したがって、「ASというカテゴリーがそもそも不要であるような世の中」(りふれくと君にとっては、それは『「甘い」世界』なのだろうが)を実現しよう、というのなら一応は「ご説ごもっとも」と納得もできる(実際にそれがどうすれば可能なのかはまったく別の問題だが)。けれど、上記の書込みを見るかぎりにおいては、世界というのはそもそも「甘くない」ものであり、そこに適応するのが人間として当然である、と主張していると判断せざるを得ないのである。
で、そういった立場、すなわち私が大っきらいな「普通の人間」による「普通の世の中」というものが「普通の世界」であるという価値観そのものが、私にとっては鼻持ちならないのだな。
すなわち、私はわれわれASが自然だと感じる世の中が、本来あるべき「普通の世界」であって、それを汚染し、我が物顔でのさばっている「普通の人間」こそが病気である、と断じているのである。
で、組織としての『アスペルガー共和国』は、そもそもがこうした理念の上に成立っておるのである。すなわち、りふれくと君は
>個人的に反対の立場ではありませんが、実際入国するか?……と聞かれると、
>ちょっとなぁ……と思うのもまた事実です。
という発言から察するに、その『アスペルガー共和国』の理念を理解せず、組織としての『アスペルガー共和国』しか見ていない、ということになる。で、そういう奴はどうなるかといえば、『「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」』(マタイ、8・11−12)ということになるのである。
われわれは、この世界の中で(それは、必ずしも「いわゆる普通の人間が『普通の世界』だと思っている世界」とイコールではない)、よりよい生き方を模索しておるのである。それは逃避ではない。心得違いをしてもらっては困る。
そして、われわれの世界は、「ASの人間だけの世界」ではない。『「まっとうな人間」にとって、住みやすい世界』なのである。
『「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」』(マタイ、11・28−30)
KILROY
こんばんは。NO.4199で出たカテゴリーの中では 1)ペルソナ援用型 に当たるであろう「りふれくと」です。言いたいことだけ言って去ってます(^_^;
ここ3週間近くカキコしてない間にも、きちんと目だけは通してました。
その間、「なんでも板(通称:ゆっくり時が流れる板)(^_^;」:http://cgi26.freeweb.ne.jp/novel/klc-red/index.html の方にも何人かお客様に来て頂き、ホント感謝してます。
まだまだお客様が少ないですが、一応掲示板の役目は果たせてるようで、まずまずの滑り出しかと思います。
では、ここからは気になったカキコにレスをつけていきます。
No.4150&4155〜 「苦手なもの」
まあ、苦手なものはいろいろありますけど、ここは学生らしいものを1つ。
「黒板をひっかく音」
これがダメです。想像するだけで耳障りがして絶叫モノです。(^_^;
No.どこを基準にすればいいのか(^_^; 「たほいや」
とりあえず、いくつか例題をやって正答率は6割くらいでした。
・・でも、気合を入れて頑張れば、こんな問題は結構量産できてしまうかも。
(「現代用語の基礎知識」が愛読書)(^_^;
No.3927〜「アスペルガー共和国について 」
いいと思います。確かにいいと思います。
しかし、一度このような・・ある意味「甘い」世界に行ってしまうと、後で「普通の世界に戻ってみたい」時に、容易に戻れなくなってしまいそうで怖いです。
また、ASだけのカテゴリーを作ってしまうと、社会がASを受け入れるための妨げとなってしまう・・といった懸念もあったりします。
個人的に反対の立場ではありませんが、実際入国するか?・・と聞かれると、ちょっとなぁ・・と思うのもまた事実です。
とりあえず、今日はここまで。あとは気が向いたときに書いていくつもりです。
Maria さんwrote:
>1)ペルソナ援用型
>2)自己発見型
>3)自己演出型
>(3)の「自己演出型」の典型的な例はMr.Motoで、ちょっとこっち寄りにいるのかな、と思ったのがさくらかのえさん。いつも「素敵だなぁ」と思って見ています。キチッと突っ込んでキチッと切り返す、相手との「対話」を楽しむタイプと想像します。
> だけど、井戸端会議的な「お喋り」にはうんざりしちゃうので、周囲の人には無口だと思われていると思います。逆にMr.Motoは「はっきり言ってヌルい雰囲気が嫌い」と言いながらも、喋りまくって圧倒する三味線野郎なものですから、一部では「軽薄」と見られているかもしれません。
いえいえ。わたしは普段からうるさいです。
「親しい者(日常的に顔を合わせている)同士が同じ部屋にいるのに黙っている」という状態が嫌で
ひとが喋りたくないときにも、なにかと喋りかけてしまっています。
そのくせ彼ら同士が話している内容がわたしの興味のないジャンルだと
ひとたびわかると、あとは無視して本を読んでいるか、話題を自分の興味のある
方向にねじ曲げようとしてつい邪魔をしてしまいます。
気をひきたいだけかもしれない。
(わかっているなら直せよ、と自分でも思います)
「対話」がきちんと成立したら嬉しいです。
でもあまり成立しない。掲示板だととりあえず言いたいことをぜんぶ言うことが
できますが、日常のお喋りは、いい具合に進んでいても、
別の人が入ってきたりすると、すぐに違うほうへ話がそれてしまったりして、
いつもいらいらさせられます。三人以上で楽しく話をするのは難しい。
ボウルターさん wrote:
>KILROYさんがなんでも気がついてなんでも彼女よりうまくこなせるというのも
>あったんじゃないでしょうか。
彼女は、「家庭に納まる」ということを怖れていた部分がありました。父親がいわゆる暴君タイプで、母親が犠牲になっている、というタイプです。ですから、そもそも「家事」というものを拒絶していました。ですから……男性に甘えられたりすると、どうしたらいいか分からなくなっちゃうんですね。
彼女がバイク事故で入院したときに、私が彼女のサポートをうまくこなした、というのが逆に彼女を追いつめてしまったという部分があるように思います。実際のところ、看護婦さんが彼女をうらやんでしまうくらい、彼女のサポートを着実にこなしていました。ですが、彼女はそれが快適であると同時に、「同じことを自分が要求されても、とても応えられない」というプレッシャーを受けてしまったんだと思います。彼女はどんどん要求をエスカレ−トさせてゆき、会社の経営上のトラブルにも対処せざるをえなかった私はとうとう音をあげてしまい、「もう勘弁してほしい」と彼女に訴えました。
ですが、それは彼女にとって「すべてを拒絶された」に等しいことに感じられたのだと思います。その瞬間から、彼女は私の一切を否定しました。
……で、そのあと私が看病疲れと仕事疲れのためにぶっ倒れて生きるか死ぬかという状態だったときにも、彼女は一度だけ病院に顔を出したあと、消息を断ってしまいました。
べつにさぁ、私は百点満点の妻なんて求めてないんですよ。風邪かなんかひいて寝込んだときに、お粥炊くのに失敗してぽろぽろ泣いたりとか、たかだか低血糖ショックで引っくり返ったくらいで、「死んじゃやだぁ! 死んじゃやだよぉ!」とかいってすがりついて泣きわめいたりとか、「これなら自分でなんとかしたほうがまだしもマシじゃねぇかな」とか思いながらも、その気持がうれしい、ということはあるんです。
だけど、「自分が何かの役に立つ」「何か、社会に認められるようなことをする」ということでしか親に認められなかった人というのは、「ありのままの自分」というものが、そのままで愛されるということを納得できないんです。
その昔、『ソープ』というアメリカのTV番組がありました。その中で奥さんが、夫に、『あたしはブスだし癇癪持ちだし……』と自分の欠点を並べたて、『どうしてあたしみたいな女と一緒にいるの?』と質問する場面がありました。で、夫が『まったくだ。愛してなかったらとっくに離婚してる』と答える場面がありました。
実際問題として、愛に理由というのは必要なんでしょうか。
No.3628でも書いたことですが、少なくとも自分の妻という立場を選んでくれた、ということだけで、その女性を愛する理由にはなるんじゃないでしょうか。
ですから、No.3628の書込みで Maria が言っているように、結婚に向かない女性というのがいるんですよ。常に自分の逃げ道を用意していていないと安心できない女性が。で、こっちが退路を断つと、怖くなって相手を放り出して逃げ出しちゃう女性というのが。
「何かあったらいつでも見捨てて逃げるからね」と意思表示している相手を信じることができるでしょうか? ですが相手はそれを意識していなかったりするんですよ。「いままでいろんな人に裏切られてきたものだから、臆病になってしまった」とか思っているんです。
相手の弱みを握っていないと安心できないような関係を、「愛」と呼んでいいんでしょうか。No.4151でも述べたことですが、相手に自分のいちばん弱い部分をさらすのが気持ちいい、というのが、「愛情」のような気がしますが。
KILROY
図書館が閉まっちゃっているので被服関係の書籍にあたることができずに困っているのですが、なべつかみについては以下のようなことが分かってきました。
百円ショップで売っているなべつかみは、表地:綿、中綿:綿またはポリエステル。中綿は綿混ポリエステルとかポリウレタン、というのが多いようです。
いちおうちゃんとしたなべつかみは、耐熱処理をした綿を表地と中綿の両方に使っています。表面にシリコンコートやアルミコートやチタンコートを施したものもあります。だけど、ゴワゴワしていて、ちょっと不快、というところがあります。
デザイン的には、ジャン・レノ主演『レオン』に登場したブタのなべつかみがありますが、フランスのように「豊穣の象徴」としての豚文化というもののない日本では、ちょっと商業的にヒットしなそうに思います(豚の胎児の丸焼きとかあるんだもんな)。日本でウケるとすれば、鯨だと思いました。だけど鰭とか邪魔な気がするから、やっぱり蛇がベストのような気がします。
アスベスト(石綿)は素材としては悪くないのですが、断熱材としての石綿の評判はあまりよくありません。以前、所長さんが天文部の観測会のときに耐熱性の軍手を使っていたので、あれの材質が何だかわかれば使いやすさと安全性を兼ね備えたなべつかみが開発できそうに思います。
所長さんは元・防衛関係のシステムエンジニアです。「ミトン型のなべつかみは使いにくいので、へび型のなべつかみの方がいい」とおっしゃったのは海上自衛隊の二佐のかたでした。海上自衛隊では転勤が多いため、どうしても自炊をしなければならないため、そのための自炊のマニュアルをお書きになり、その中に書いてあったことです。ですから、本当に満足のゆくなべつかみが開発できたら、「海上自衛隊御用達」ということで、箔がつくと思います。また、「へび」のリアリティに関しては、詩人で爬虫類の権威である高田栄一先生や、千石正一先生の御墨付をいただけるレベルに持ってゆきたいと思います。で、最初は相州大山とか、三輪山とか、蛇信仰のあるところ限定で売っちゃったりとか。「なべつかみ道ここに極まれり」と言われるようでなければASの名が廃れちゃいます。
それで思い出したんですけど、「猪谷式靴下」というのをご存じでしょうか。現在IOCの委員で、日本初の冬期オリンピックのアルペン競技(大回転)の銀メダリスト、「黒猫のチック」、「猪谷千春の直滑降」とカルタにまで詠われた猪谷千春さんの父君、猪谷六合雄先生が開発された、登山用の毛糸の靴下です。なにしろ各人の足に合わせて部分部分で編み方を変え、左右のサイズまで変えちゃうという、靴下というより足袋に近い靴下なんですが、山男の間ではある種ステイタスとなっている靴下だったりします。で、その編み方は猪谷六合雄著『雪に生きる』に詳しく書かれているのですが、それをちゃんと作ってくれるメーカーというのは国内に存在しないんです。
ですから……そういう「究極の登山用靴下」とかいったら、これはビジネスになりそうに思うんですよ。採寸・型取りも含めてファーストロット五足で五万円。以降は片足四千円で、一足単位だと七千円。五足分以上まとめて発注する場合は片足あたり二千七百円(ただしレディメード。オーダーメードは初期ロットのみ一万五千円増)とかいったら、好日山荘やニッピンで十分に売れそうな気がします。宣伝媒体だって『山と渓谷』に絞れます。
で、所長さんは猪谷千春さんとコネがあったりするわけで、スキー関係で皇室ともコネもあり、アスペルガー症候群のひとたちの自立に役立ち、しかも商業的にリーズナブルなものであれば、皇室御用達とかいった線だって狙えます。
所長さんとKILROYさんはここまで狙ってたりします。ホント、マジなんですよ。
「あたし家政学科の被服家出てるから、その話乗ったぁ!」とか、「あたし編み物には自信あるんです。お手伝いさせてもらえませんか?」とか、そういった人がいらっしゃったら、マジで参加を希望します。
「アスペルガー共和国」は夢ではない。 Maria
KILROY wrote:
> 私がつきあっていた女性というのはだいたいが仕事上のパートナーに近い人であり、本人も自分の仕事に自身があったせいもあり、そうやって家だの会社だのが一体となった「共同体」に取込まれるのが怖い、あるいは不快、だということで、「あなたは素敵な人だとは思うんだけど」と言って去っていった人あり、干渉に堪えきれずにキレてしまった人ありで、けっきょく「結婚」というところまで到達する女性はいませんでした。
>
「あなたは素敵な人だと思うんだけど」ということわり文句についてですが、理由として成り立たなかったから言えなかったかも知れないけど、KILROYさんがなんでも気がついてなんでも彼女よりうまくこなせるというのもあったんじゃないでしょうか。
例えば料理がまるでできない男性には優越感が持てます。
他で劣っているところがあってもバランス調整できます。
この人は私がいないとだめなんだと母性本能もわいてきます。
> ですが……このところちょっと考えが変わってきたんですね。私は家事全般普通の主婦……それも主婦になりたてのルーキーではなく主婦歴数十年というベテランと互角に勝負できるだけの腕前を自負しております。
>
>
>
> 私はなぜ他人が自分にたいしてこんなにひどいことができるのか、そしてその当人が自分の行為をまったく正当と考えていて、それに対して意義申し立てをする私を恐ろしいもの、異常なものを見るような目で見るのにずっと混乱していました。「君が仕事ができすぎたからいけないんだ」「君が真面目すぎたからいけないんだ」「君が真剣になりすぎたからいけないんだ」。何十回言われたかわかりません。だけど、それのどこがいけないんですか?
>
彼らは仕事でもかなわないし口で言い負かすこともできないので、自己防衛の為に攻撃したのではないでしょうか。
アンソニー・ホプキンス主演の「ザ・ワイルド」という映画は観られたかも知れませんが、妻を寝取って自分まで殺そうとした男と遭難して、その男を許して助けてやるんですが、「私は人類がなし得なかったことをしたいと思っている」というセリフがあって、映画の内容はまあ別としてKILROYさん達が目指しているのもそういうことなのではないかと上のカキコを読んで思いました。
こんにちは、KILROYさん。あなたの博識多才ぶりにいつも驚嘆して見ている者です。我が故郷の偉人南方熊楠もかくやと思いますね。
私は40歳、独身、男子。バブル時代にオーバーワークから居眠り運転してしまい、交通事故。今でも杖つきながら歩いています。(トホホ・・です。)似た様な境遇なので親近感持っちゃいました。
KILROYさんwrote:
> 私にとって「アスペルガー症候群」というのは病気じゃないんです。むしろ「普通であること」のほうが病気であり、・・
おおいに賛成します。私も、ASが病気であるどころか「健常者」の方が「狂気」の度合いが強いと思っています。これはもう確信に近いです。
そのうち「自閉症とはなにか」について自分の考えを書いてみようかなと思っていますが、今は時間がないので・・。
結婚の話でなくってすみません。
KILROYさんも私も、いろいろ誤解されやすい性質なんですかねえ。(笑、笑、笑。)
大槻いつきさん wrote:
>アスペルガーの子供が参加しやすい組織になるには、アスペルガー共和国は
>どんなものになればいいんでしょうね。
『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(『ヨハネによる福音書』、9・1−3)
つまり、「参加しやすい組織にする」のではなく、「積極的に求め、迎え入れる組織」なのですよ。
− Maria −
ボウルター wrote:
>だけど、これは鬱を経験した人間にはもう嫌っていうほど分かっ
>ていることなのだけど、「がんばれ」とかいった「励まし」の言葉が、それが心底>その人の優しさから出ているからこそなおのこと、死ぬほどしんどいんです。「善>意」や「優しさ」すらが苦しいときって、ありませんか。
>あります。
>心を成長させることについてよく考えてみます。
こんばんは。よかったあ、ボウルターさんがまたここを訪問されて。
(天使Versionのななは)
無理して急がないで下さいね。あなたはあなたのままでいいと思います。
ただ、辛いときのコントロールを自分で自分にしてあげて下さい。
あなたはあなたなりに充分悩んで来られたのだから。
>私の劣等感からでた言葉です。
>年相応に見られたくて無理していました。
>なんとかついていきたいと思って。
>そう、精神的に大人になっていないのです。
>Mariaさんがあるレベル以下の人を排除しようとしているという妄想にとらわれ
>て、私はその中に入っていて、追い出されるのがいやでひどいことを書いてしまい>ました。
>ごめんなさい。
Mariaさんしかり、いろんな人の意見って貴重だと思います。
人間、心配していないとそういう事は言ってはくれないですから。
>考えもつかなかったことが次から次へと書いてあって、本当に感謝してます。
>ただ私にはMariaさん達があまりにも賢過ぎて正直怖かったのです。
>Mariaさんがやさしい人だとわかったのでもう怖くなくなりました。
>でも、Motoさんはちょっと怖いかな?(笑)
>ということでこれからもよろしくお願いします。
私もMariaさん、怖ーい。(爆笑)
冗談です。これからもわたしたち、一緒に歩きましょう、ボウルターさん。
私たちはひとりぼっちではありません。
ななはさんwrote:
>こんにちは、Mariaさん。先日からのやりとりでなんか起きずによかったなあ
>と思っているななはです。
ご心配をおかけしました。あたしは以前のHiroさんのカウンセリングの件(No.3573、No.3728、No.3733)があったので、それほど心配はしていませんでした。文月立斎さんが「1/100の意見とパラドックス」(No.4021)で指摘されているように、「敵意が敵意をエスカレートさせる」という事実は確かにあるんですが、まっとうな人間は相手が真摯かつ誠実かつ理性的に自分に対処しようとしているということを理解すると、怒りを維持できなくなります。「相手に自分より優れた部分があることを絶対に認めたくない」と嫉妬に狂った相手は別ですが、そういう人は掲示板なんかに顔を出さないか、一方的に自分の意見を主張して去ってゆきます。つまりはボウルターさんはあたしたちが信頼するに足るひとだった、ということでしょう。「とにかく人と人が対決しているのを見るだけでも厭」というひとには申し訳ないんですけど、もう少し議論を尽してもよかったかな?と思います。
>自分でも不思議なのですが、感覚を浮遊させている時と、議論をする時とは
>まったく別の自分がいます。(多重人格ではなく)
>だから、演出はしていないと思っているつもりですが、第三の心理学的
>頭脳をここでは働かせる私、がここにおける自分だと、思いました。
>この三つのタイプが私の中では同居していることになります。
>天使と悪魔が同居している、という思考形態はASの人にとっては
>意外とあたりまえの状況でしょうか???
「ASの人にとっては」というより、「人間にとって」あたりまえなのだと思います。ぺりこさんの「なりきる?」(No.3632)に対するレス(No.3639)でKILROYさんが言っているように、人は親に対しては「子供としてのペルソナ」、子供に対しては「親としてのペルソナ」、夫に対しては「妻としてのペルソナ」……といった形で、複数のペルソナを使い分けています。ななはさんはRomyさんだったりNANAHAさんだったりした時代を経て現在のななはさんなわけですから、けっきょく(2)の「自己発見型」なのだと思います。
とはいえあたしの個人的な見解でしかないんですが。 Maria
>>いくら出家しても世間から隠遁して修行してもそれは私はある意味違うと
>>思います。混沌の現世の日常の中で、自分の心をどう成長させるかが大切
>>なのではないでしょうか?
>という言葉を、ボウルターさんにかけてあげたくなった。
> だけど、これは鬱を経験した人間にはもう嫌っていうほど分かっ
ていることなのだけど、「がんばれ」とかいった「励まし」の言葉が、それが心底その人の優しさから出ているからこそなおのこと、死ぬほどしんどいんです。「善意」や「優しさ」すらが苦しいときって、ありませんか。
あります。
心を成長させることについてよく考えてみます。
>>貴重な意見を投稿するのはいいことですが、支配されるのは不快です。
>といった苛立ちがある、ということ自体、ボウルターさんが「他人の影響を受けたくない」「他人に振り回されたくない」と思っているということでしょう?
> あたしは「ボウルターさんの書込みに対するななはさんの書込み」に対してコメントしただけで(あるいはそのことで、ボウルターさんを不用意に「励まして」しまいそうな人に対して注意を喚起しただけで)、ボウルターさんに命令したりボウルターさんを支配したりするつもりはまったくなく、むしろ逆のことをしているつもりなのですが。
>>Mariaさんは何様のつもりなのですか。
> あたしは影のような存在です。思いっきり罵倒しようが馬鹿にしようが、あたしは気にならない
私の劣等感からでた言葉です。
年相応に見られたくて無理していました。
なんとかついていきたいと思って。
そう、精神的に大人になっていないのです。
Mariaさんがあるレベル以下の人を排除しようとしているという妄想にとらわれて、私はその中に入っていて、追い出されるのがいやでひどいことを書いてしまいました。
ごめんなさい。
他のカキコメンバーもたぶんあたしについては気にしないと思います。そしてあたしは誰にも信用されません。
私が言うのも何ですがそんなことはありません。
考えもつかなかったことが次から次へと書いてあって、本当に感謝してます。
ただ私にはMariaさん達があまりにも賢過ぎて正直怖かったのです。
Mariaさんがやさしい人だとわかったのでもう怖くなくなりました。
でも、Motoさんはちょっと怖いかな?(笑)
ということでこれからもよろしくお願いします。
みなさんこんばんは。
4月も半ばを過ぎ、そろそろ学齢期の子は、「なんかこの教室とけ込めない・・・」「なんか勉強についていけない・・・」「先生に怒られてばかりいる・・」といった悩みを抱え始めている頃だろうと思います。
そこでみなさんに質問です。
あなたが思うところの、アスペの子の教育をしていく上で、「これは注意すべきである!」と思うことを3つあげるとしたら、どんなことをあげますか?
あさかぜ wrote:
>初めておじゃまします、あさかぜと申します。よろしくお願いします。
初めまして、マザーと申します。ASと診断された息子がいます。
>「私にとって人生最大の不幸は結婚したことで
>あり、にもかかわらず人生最大の幸福は娘がいることなの」でした。かなりの本音
>をこめて、自分の直面しているジレンマ(アンビバレンツ?)を伝えたつもりだっ
>たのですが、友人たちの答えはたいてい「あなたって面白い人ね」か、それに類す
>る言葉なのでした。
たとえば、私が「あなたって面白い人ね。」って相手に言う時、相手の言っている事が矛盾してる様に思える場合と、よく理解できないときに言うと思います。
私は、”人生最大の幸福は娘がいることなの”って言えるあさかぜさんが、ちょっぴり羨ましいです。私には、言えない台詞です。
今の私は、子供がいる事が幸福だとは言えないけれど、”息子のことは大好きだよ”
レスつけたい発言が結構たまっちゃったので
まとめて書いてみたりします。
前に、精神科医に自分の抱える困難を知らせるのが
むずかしいと言いました。
以前は、「実はたいして困ってないからうまく説明できないんだ」と思ってたんですが、
私以外にもうまく他人に助けを求められない人がいらっしゃるみたいでちょっと嬉しかった。
同じアスペルガーの人間になら、多くの言葉を費やさずとも自分の悩みをわかってもらえるかもしれない。
そういう意味でも、「アスペルガー共和国」っていいな、と思います。
でもちょっと問題になると思うのは、
「アスペルガーでない人にもアスペルガーの子供は生まれる」ということ。
現在大学生の私は、ごく最近アスペルガーという病名を知りました。
「もし、もっとはやいうちに知っていれば今より有利な人生をおくれたかもしれない」、と
思うことは多いです。
でも、私の家族は比較的そういうものへの偏見がないほうだからいいけど、
偏見のある親、自分の子供が脳障碍を抱えていると過度のショックをうけてしまう親のもとに
生まれた子供は、病名なんてつかないほうが屈託なく育てるかもしれません。
私がちょっと嫌ってるうちの祖母は、感覚が古いからかもしれませんけど、仮に
「あなたの子供は脳に障碍がある」なんていわれたらすぐに子供を座敷牢にでもいれちゃいそうなタイプ。
子供が「自分が普通と違っているらしい」という事を認識しつつ、
それについて劣等感を抱くことなくまっすぐに育てる助けになれれば。
もしアスペルガーの人たちがうまく暮していくための自助団体みたいなものができるなら、
できるだけ多くの人が参加しやすい組織になるといいな、と思うのです。
うちの祖母みたいに「障碍のある子供=世間に対して隠しておくべき存在」と思っちゃうような人でも、
子供をその組織にいれられるような。
「私の子は障碍なんかじゃない」「脳に障碍がある人間がばかりの組織に子供を参加させられるものか」
そう考えてしまう親はたくさんいるだろうし、その親の元に生まれた子供にだって、
いやそんな子供にこそ、成長する過程での外部からの助けは必要になると思うから。
アスペルガーの子供が参加しやすい組織になるには、アスペルガー共和国は
どんなものになればいいんでしょうね。
#アスペルガーのことを脳障碍と書きましたが、これは「アスペルガーの子供を持った親」
はアスペルガーを障碍と考えだろうということであり、私自身がそう思っているという意味ではありません。
こんにちは、Mariaさん。昨今からのやりとりでなんか起きずによかったなあ
と思っているななはです。以前の私の言い方が変でした。
私はどれにも当てはまらないと思ったんです。要するに天使のような、
ああ、蝶が奇麗だな、とぼんやりする自分と
家の職業的な慣習もあり、シビアな金銭管理論をぶったりする自分です。
自分でも不思議なのですが、感覚を浮遊させている時と、議論をする時とは
まったく別の自分がいます。(多重人格ではなく)
だから、演出はしていないと思っているつもりですが、第三の心理学的
頭脳をここでは働かせる私、がここにおける自分だと、思いました。
この三つのタイプが私の中では同居していることになります。
天使と悪魔が同居している、という思考形態はASの人にとっては
意外とあたりまえの状況でしょうか???
言いっぱなしというのはいけないことのように思うので、『質問・「あなた」は誰ですか?』にお寄せいただいた回答について「まとめ」のようなことをしてみました。
書込みを行なっている「自分」については、大きく分けて三つのタイプがあるようです。
1)ペルソナ援用型
2)自己発見型
3)自己演出型
(1)の「ペルソナ援用型」の代表は、ななはさん。いたってふつうの日常の自分。いちばん普通のようで、けっこう時代の先端かも。ふつうの人って、やっぱり掲示板に書込むのって緊張しちゃうから、それなりの構え、というか、ふだん以上に厚い仮面をかぶってしまう人が多そうに思います。ときどき自分の言いたいことだけ言って消えちゃうタイプの人というのは、こうした「堅固なペルソナ」が脱げなくなっちゃったひとなんじゃないかな、と思います。
(2)の「自己発見型」については、あたしは誤解をしていました。やっぱり、「無垢の自分」から出発して、新しいペルソナを構築してゆく、という人はいないようです。逆に、「普通の自分」のつもりで話しているうちに、普段の自分よりずっと楽に喋っている自分を発見する、という「脱皮型」のひとが多いようです。大槻いつきさん、ぴよさんがこのタイプに分類できそうな気がします。「この掲示板へ来て楽になった」という人の多くがここにいそうな気がします。
(3)の「自己演出型」の典型的な例はMr.Motoで、ちょっとこっち寄りにいるのかな、と思ったのがさくらかのえさん。いつも「素敵だなぁ」と思って見ています。キチッと突っ込んでキチッと切り返す、相手との「対話」を楽しむタイプと想像します。
だけど、井戸端会議的な「お喋り」にはうんざりしちゃうので、周囲の人には無口だと思われていると思います。逆にMr.Motoは「はっきり言ってヌルい雰囲気が嫌い」と言いながらも、喋りまくって圧倒する三味線野郎なものですから、一部では「軽薄」と見られているかもしれません。
はっきりご自分で「演出」しているというXanadiiさんは、なんとなくあたしと同じようなポジションにいそうに思います。つまり、「自己発見型」と「自己演出型」の中間地点。自分がいちばん楽に喋れるポジションを模索していったらここに到達した、という気がします。まあ、パンクスとおかまだもんな。
こういうタイプ分けって、きっちり分けられるものではないんですけど、それぞれ極端なケースを三角形の頂点に取って、その三角形の中のどのあたりにいる、みたいな感じに把握できそうな気がします。で、こうやってペルソナと本人の関係を考えながらみなさんのカキコを見ていると、われわれにとって居心地の悪い世間とどう折合っていっているか、というのが見てとれるようでとても参考になります。例えてみれば、「装甲型・鉄面皮型」「迷彩・ステルス型」「擬態・変装型」とでも申せましょうか。あたしもちょっとイメージ戦略を練りなおしてみようと思っています。
御協力ありがとうございました。 Maria
武田好史さんwrote:
>ここでは他人を支配してはならない。
『「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」』(『マタイによる福音書』、20・25−28)
>全ての人は等身大の自分として、尊重されるべきである。
『「子供たちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」』(『マタイによる福音書』、19・14)
>自らの利益のために働かない、誇りをもって他人のために働くこと。
『「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」』(『マタイによる福音書』、6・31−33)
「金は商売の残り滓である。」(澁澤營一)
『「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な掟の第一である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』(『マタイによる福音書』、22・36−40)
『「思うに、バプテスマのヨハネの教えの基本というのは、一種の経済学なんですよ。たとえばですね、私がパンを一個持っているとするじゃないですか。この原価が五十円だとします。で、お嬢さんはそのパンと区別する必要のないパンが通常百円で売られているのを知っていて、なおかつパンを求めていて、百円という価格をリーズナブルなものとして受入れているとします。すると、私がそのパンを七十五円でお嬢さんに売るというのは双方にとって利益のあることで、オプティマルな選択であるということです。しかしお嬢さんが五十円以下でそのパンを買ったり私が百円以上でそのパンを売りつけたりすることはオプティマルではないので、それは神の意志に反していると。そこで『その原則に照らしてお前は間違っている』という話合いのレベルに持っていって、それで相手が話合いに応じなければ教会へ一緒に行って裁いてもらう。こういうことです」
「だけど、あたしがお金持ってなくって、ものすごくお腹空かしてたら?」
「私はお嬢さんにパンを渡して、『好きなだけ取りなさい。私はその残りをいただこう』と言います」
「半分ずつに分けるんじゃなくって?」
「お嬢さんと私では、性別も年齢も体重も体脂肪率も腹の空き加減も違います。半分ずつに分けるというのが適正配分だとは思いませんから」
「だけど、納屋さんだってお腹すいてるわけだし」
「それは話合いによって情報交換をすればいい。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』というのと、『隣人を自分のように愛しなさい』というのが、すべての律法の基本になっているわけです。たとえば資本主義社会の掟である経済原則によって、私はパンに五十円という値段をつけ、お嬢さんは百円という価値を認め、相互にそれを確認したわけです。この『公正である』という感覚、これが『神を愛する』ということであり、『義』なんです。その前提に立って、相互に利益を分け合うことができるならば、それを公平に分け合おうと。この『公平である』という感覚が、『隣人愛』なわけです。ただ、『公正である』とか『公平である』とかっていう感覚は、人によってズレがあるわけです。そこで『相互理解によって適正配分率を双方が確認し、それによって資源を分配する』という原点に立ち返って、私は『権利を主張しあう』のではなくて『譲りあう』ことで調整していこうと考えたわけです。割と自然な発想でしょう?」
「なんかこう……ゲーム的なところがありますね」
「ゲーム的というより、ゲームデザイナー的感覚なんだと思います。たとえば林檎が一個あったとき、『一人が同じ大きさになるように二つに切って、もう一人がどっちか大きいと思った方を選ぶ』ということであれば、確かに『感覚的な大きさ』について公平ではあるわけですよ。だけど、それ以外にも『ジャンケンで勝ったほうが取る』という『機会の公平』もあるし、その林檎にそれぞれが値段をつけて、高い値段をつけたほうが相手にその値段の半額を支払ってその林檎を取るといった『商業的価値の公平』もあるわけです。それぞれにとっての価値の差を認めあうという点では、一つの価値観に縛られてはいけないんですよ。ひょっとしたら私は林檎の絵を描くために林檎が必要で、お嬢さんはビタミンと食物繊維を補給するために必要かもしれない。そうしたら私が絵を描いてから、お嬢さんが食べればいい。これがオプティマルな選択ということです」』
(救世義也『ふたりで聖書を』、「第二章 奇跡の舞台裏」より抜粋)
思うに、『アスペルガー共和国の掟』というのは、プログラマーがよく使う「ロジカル」であることに尽きるような気がします。「論理的だ」というより、「『なるほど』と納得がゆく」「発想が美しい」「筋が通ってる」という感覚。
で、「ロジカル」=「クリティカル」+「オプティマル」であると。
違うかな?
− Maria −
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