アスペルガーの館の掲示板(旧)
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武田好史 wrote:
> mariaさん・ななはさんありがとうございました!「この草は、天然産で比較的> 安全なトランキナイザーの原料になりうるかも」と、私は注目しています。
いいえ、結構自分も楽しめました。私はやっぱりラベンダーのアロマオイルが
一押しです。ここ数週間忙しい割には驚くほど平静な気持ちで焦燥感が
なくなりました。USAでは、「セントジョーンズワース」という
ハーブも、精神面に効果的でポピュラーと聞いたことがありますが、
武田さん、ご存知でしたでしょうか?
また、現在までに試したハーブをその感想もお聞きしたいです。
よろしくお願いします。
RURI さんへ
また来てくださいね。
よろしく。
Maria wrote:
>武田好史さん wrote:(in No.4117)
>>次のハーブについてのご存じの範囲の情報を下さい!
>>バージニア・スカルキャップ(しそ科 たつなみそう属)
>>イギリスでは、鬱病の治療のためにこのハーブをラベンダーと一緒にお茶に
>>して飲むようですが……
>
>ななはさん wrote:(in No.4119)
>>私、一時間ぐらいハーブ関連のサイトを検索しましたが、
>>http://www01.u-page.so-net.ne.jp/za2/kazu_a/ohshima2.html
>>一般的なハーブ(カモミールとか)の記載が多く、↑のサイトで
>>英国のハーブの記事で、似ているような物を発見しました。
>>名前:Scutellaria laterifolia
>>(スカルキャップ)
>
> えー、「バージニア〜」という名前から、イギリスではなく北米産と見当をつけました。
> で、平凡社の『世界有用植物事典』を調べてみると、タツナミソウ属の薬用植物というと中国産か日本産で、ヨーロッパ産というのは記載されていませんでした。で、見れば北米産の「Scutellaria laterifolia」が唯一、中国と日本以外に産する有用植物として記載されていたんですね。英名は skullcap または medweed とありました。で、次に小学館の『ハーブ大全』を調べてみると、「skullcap」として北米産の「Scutellaria laterifolia」が写真入りで記載されていました。
>
> つまり、スカルキャップは英国のハーブではなく、アメリカの民間薬のようです。で、米語では「skuucap」または「mad-dog weed」と呼ばれ、精神を沈静させる働きがある、と記載されていました。
> なお、このスカルキャップは入手が困難なためウッドセージで代用する、と書かれています。
>
> 大森総研の下っ端研究員 − Maria −
mariaさん・ななはさんありがとうございました!「この草は、天然産で比較的安全なトランキナイザーの原料になりうるかも」と、私は注目しています。
武田好史さん wrote:(in No.4117)
>次のハーブについてのご存じの範囲の情報を下さい!
>バージニア・スカルキャップ(しそ科 たつなみそう属)
>イギリスでは、鬱病の治療のためにこのハーブをラベンダーと一緒にお茶に
>して飲むようですが……
ななはさん wrote:(in No.4119)
>私、一時間ぐらいハーブ関連のサイトを検索しましたが、
>http://www01.u-page.so-net.ne.jp/za2/kazu_a/ohshima2.html
>一般的なハーブ(カモミールとか)の記載が多く、↑のサイトで
>英国のハーブの記事で、似ているような物を発見しました。
>名前:Scutellaria laterifolia
>(スカルキャップ)
えー、「バージニア〜」という名前から、イギリスではなく北米産と見当をつけました。
で、平凡社の『世界有用植物事典』を調べてみると、タツナミソウ属の薬用植物というと中国産か日本産で、ヨーロッパ産というのは記載されていませんでした。で、見れば北米産の「Scutellaria laterifolia」が唯一、中国と日本以外に産する有用植物として記載されていたんですね。英名は skullcap または medweed とありました。で、次に小学館の『ハーブ大全』を調べてみると、「skullcap」として北米産の「Scutellaria laterifolia」が写真入りで記載されていました。
つまり、スカルキャップは英国のハーブではなく、アメリカの民間薬のようです。で、米語では「skuucap」または「mad-dog weed」と呼ばれ、精神を沈静させる働きがある、と記載されていました。
なお、このスカルキャップは入手が困難なためウッドセージで代用する、と書かれています。
大森総研の下っ端研究員 − Maria −
ふと気がついたのですが、「普通の人」と「ASの人」という問題設定自体を見直す必要があるような気がしてきました。
シマウマは、群れを作って外敵の攻撃の対象を絞りにくくすることで、身を守っています。つまり、「他のシマウマと区別がつかない」というのが重要です。ですから、他のシマウマと同調して行動する必要があります。で、怪我をしたりして他のシマウマと同調できなくなったシマウマは、まっ先に外敵に狙われます。で、他のシマウマはある意味でそのシマウマを犠牲にして、有利に生きてゆくことができます。シマウマは、仲間のシマウマがライオンに食べられているそのすぐ傍らで、平然と餌を食べています。なぜなら、餌を食べているライオンはシマウマを襲わないからです。
ですが、シマウマの群れの中に一頭だけ「縞のないシマウマ」がいたとすると、その「縞のないシマウマ」は、そもそも群れの中にいるメリットがありません。どうしたって区別がついてしまうからです。同時に、他のシマウマと同調するメリットもありません。
ところが、千頭のシマウマの群れの中に十頭の「縞のないシマウマ」がいたとすると、その十頭が群れを作って別行動をすることには意味がでてきます。
今西錦二という人は、「生物というのは、ちょっとだけ違う特性を持った個体が一緒になって別行動をすることで進化してきたんじゃないだろうか?」と考えました。これを「棲み分け理論」といいます。
騒がしい教室内で、全員に向かって「静かにしなさい!」と注意しても、効果は薄いそうです。ですが、「そこの後ろから三番目の席に座っている赤いブルゾンの学生、静かにしなさい」とかいって一人ひとり狙い撃ちにして注意してゆくと、たちどころに私語が消えるといいます。
つまり、「変わり者」と周囲から認知され、自分もそう思うことで、「同調衝動」が消えるから、ASは「多数派の常識」から自由でいられるのではないでしょうか?
たとえば、フォークの出っ張った側にわざわざごはんをのせて食べる人がいます。これは宮内庁がイギリス式の礼儀作法を日本に持込んだから、と言われています。
イタリア、フランス、ドイツでは、フォークのへこんだほうを使います。ところが……フランスのテーブルマナーの本を見ると、「粒状の食べ物はフォークの背にのせて食べなさい」と書いてあります。
「フランス人はマナーを守らないのかな?」と思ったら、そうではないのだそうです。じつは、「出っ張ったほうが腹」なんだとか。確かにスプーンだって出っ張ったほうを腹と呼びます。ところがイギリスではそのフランスのマナーブックを読んで、「へこんだ方が背」だと勘違いしちゃったようなんです。イギリス建国の経過を考えると、いかにもありそうな話ではありませんか。
で、もとから自分が「変わり者」だと認識している人は、「ごはんはフォークの背にのせて食べるのが正式なんだぞ」とか言われても、「そんな面倒臭いのヤだ」とか言っちゃいます。で、ますます「変わり者」と周囲から見なされるわけです。
こういう「変わり者」として認知されることで、じっさいに「変わってしまった人」のことを、所長さんは「カラード」(「色づけされた者」という意味です。もちろん「有色人種」に引っ掛けた命名です)と呼んではどうか、と言っています。
ですから、あたしたちが現在「ASの特性」として論じている点のうちのいくつかは(あるいは、ほとんどは)、「ASの特性」というよりも、「全体からはっきり区別される少数派に共通する特性」なのではないだろうか、と思います。
そんなわけで、あたしは急須の口についているビニールを、買ってきたらさっさと取って捨ててしまいます。あれって輸送の時に急須の口が欠けてしまうのを防ぐためにつけてあるので、使うときには要らないのだと瀬戸物屋さんに聞きました。所長さんは腕時計を、文字盤が手首の内側に来るようにはめていますし、レモンを絞るときは必ず皮を下にして絞ります(しかもレモンは国産でなければ口にしません)。KILROYさんは紅茶をティーカップではなくモーニングカップで飲み、ハンバーガーはまず上下を逆にしてからかぶりつきます(しかもマクドナルドは食べません。バーガーキングかウェンディズです)。
「人と変わっていると思われること」は、使いかたによっては武器になります。それを考えると、「人と変わっていると思われること」のメリットについて考えてみる、というのも重要なことなのではないでしょうか。
− Maria −
さくらかのえ wrote:
。
>
>やたらとASはこうだとか非ASとここが違うみたいなことを強調するのも、
>本当はやめたほうがいいのだろうけど、強調したくなるときもあるね。
>でも当たり前のことだけど、ASだろうが非ASだろうが、
>同じものに感動したり、同じ事を思ったり、共通点が多い人も有れば、
>同じなのはASらしいということだけであとは何一つ共通点もなく
>気も合わない人もいると思う。
>この世界は、差別もあれば暴力もあり、病んだところも多いけど、
>私たちの五感や知性を楽しませてくれる素晴らしいことも多い。
>腹の立つ人や嫌な人もいるけど、欠点のない人間がいないのと同じで
>嫌なところだけの人間もまたいないのだろう。
>わたしはこの世界が好きだ。
>話題変わって。
>>ひとの営みに、一言で片づけられるようなものなど
>ホントはないのだと思う。でも、一言ですませてる人も
>本当はもっと言いたいことがあったのかもしれない。
>むやみに人を外側から評価したり断定したりしたくないなと
>思いつつ、そのときの気分で断定的なことも言ってしまう。
>そういうことの繰り返しです。
人間は、特殊な生き物で、一人一人が異なった、考え方・生き様・様相持った亜種であるといえます。普通の知能を持っている・ASである・耳が不自由・言葉が話せない・肌の色が浅黒いというのは、その個体すなわち個人の持っている特徴に過ぎないのだと思います。
人間は誰でも、「他の人より優位にたちたい!」という排他的な感情を持っています。それをあらわにしてしまったとき、必ず争いが起き、人は身も心も傷つくのです。
しかしながら、人間は同時に「友達が欲しい・お互いに分かり合いたい・相手の役に立ちたい」という共感的な感情を持っています。それが生かされたとき、人々は「幸せである」と感じます。
人間はしばしば、似たもの同士であるいは個々に「文化」を創りあげます。その文化は、凡人としての「普通の人」にとって、ハンディを感じさせることもあります。例えばです、日本人が一人でアメリカに放り出されたら、「言葉が通じない」というハンディを背負うことになり、またろう者とコミュニケーションしようと思えば、自分のいいたいことを、手話や筆談という非音声的な媒体へ変換するというう能力が必要となります。分裂病を患っている人が家族にいれば、できるだけその人にストレスを与えないような配慮が必要になるでしょう。また、自閉症の子が毎日癇癪を起こしていたら、その子のお母さんは「どうしてこうなんだろう・・・」と悩むでしょう。
でも幸いにして人間は、それを克服できる力を持っています。それが愛であり思いやりです。
私たちもこの「愛」という鍵をつかって、自分の心と他人の心の間にある、幾重にも並んだ鍵のかかったドアを、一つずつ開いて「自閉」から「自開」へ歩んでいけばよいのでしょう。
だから、現在の世の中が「多数派」にとってそれなりに暮らしやすく構成されているのだとは思う。
でも、やっぱり以前のMariaさんがおっしゃってたように、「アスペルガーが暮らしやすい社会」が
「普通の人にとってもより暮らしやすい社会」になるのはまちがいないと思う。
公害のたとえと同じ。
「アスペルガー」は、一般的に言って「普通の人」より繊細だから、ちょっとでも社会が病んでると過敏反応する。
「普通の人」がまだ気づかない段階で、社会が病んでいると気づく。
それと、やっぱりアスペルガーが普通の人より正気な部分はあると思うよ。
自分が少数派であるぶん、「自分と違う人間にかこまれている」、「違う物を受け入れる能力が高い」。
「普通の人」だと、「違う」ということだけを根拠に他人を否定してしまう。
自分のしらないこと、わからないことを受け入れる準備は「普通の人」よりはるかにできてる。
それと、安易に「当然」って言葉を使わないよね。アスペルガー事体の特性か、
わからないことだらけの場所に放り出されてきたからなのか。
(私自身の感触では「アスペルガー事体の特性」だと思う。「そうでないとも限らない」などと考えるとき、
私の頭の中では場合分けで思考しているから。ただ疑り深いのではなくて)
視野が広い。
私は過度の刺激で過呼吸を起こすことはあるけど、その時でさえ単純に熱狂はしていない。
心の芯の論理的思考が失われることはない。
(昔は、これだけ冷静なのに過呼吸までおこしてる自分は、無意識になにかから逃避してるのかと思ってた。
どんなに悲しくても冷静でいる自分は、本当は冷酷なのかと思っていた)
すくなくとも、「普通の人」が集団で狂気の中に沈む(ナチスドイツとか)時
ひとり正気でいられるのはアスペルガーの人間だと思う。
とても孤独なことではあるけれど。
「普通」を否定しはしないよ。
ここの人たちは自分を否定することになれてるから、「自分が普通の人より劣ってるんじゃない」
「普通の人の自分への評価を真に受ける必要はない」ことを確認するのに、
あえて「普通」を否定するような過激な言葉を使っているだけなのでは。
そこまでしてさえ、私の中の感情的な部分には「自分は普通より劣っている」という思いが消えないのだから。
(理性では全く対等な存在だと考えているけれど)
MOさん wrote:
>あと、叱りつけるのは、よく自虐的な、例えば「僕なんか、・・・すれば
>いいと思ってんでしょ」って言葉を口にする時です。
私も、小さい頃、そういうことを考えたりしました。
自殺しようと思ったことも少なくありません。
今でも、ときどき、自虐的に考えたくなることがあります。
そのときに、どのように対応するかということなんですけど、
私は、自分で、こんなふうに考えています。
「自分をいじめるのは簡単だ。
でも、自分をいじめないこともできる。
どちらでも自由だけど、
自分をいじめるのは、もったいないことだよ。
自分は、ひとりぼっちではないよね。」
ひとつ、webサイトを紹介します。
「プログラマの心の健康」(by 結城浩さん)
http://www.hyuki.com/kokoro/
プログラマでない人にも、あてはまる話が多いと思います。
Mariaさん wrote:
> 単純に、「愛」だと思います。
>
> 相手を理解すること。相手の中に、深く深く入りこんでゆくこと(聞きようによってはエッチな発言だな)。そこから始まると思います。
エッチな発言ですが、ぜんぜん「いやみ」を感じません。
自分も、そんなエッチが好きです。
「とける」という言葉がありますが、
この語感って、優しいけれども、エッチなものもありますよね。
> 「腹の据わったひと」というのは、優しいひとです。自分より相手を優先し、大事にする、というのを態度で示すこと……そこから優しさは始まるような気がします。
ここなんですけど、
「自分より相手を優先し、大事にする」という気持ちは、
自分の内面から「おのずと出てくる」ような気がします。
自分がしたいから、そうするんです。(私の場合は、そうです。)
けっして、「滅私奉公」なんかではありません。
「滅私」ではない。自分の気持ちに正直に行動するんです。
「奉公」ではない。「ひとり」対「ひとり」の関係が基本にあります。
「自分がしたい」ことが、「相手をよろこばせる」こと。
私は、そう思います。
…たしかに、エッチだ。。
ななは wrote
こんにちは。具体的にどういう時にひどい言葉を言ってしまわれますか?
ぐずぐずしている時?言うこと聞かない時?
ちゃんとする、がどういう事を指されているのか分かりませんが、
他人の子ども達と比較していらいらする必要はないと思うんですが...。
おはようございます。
よく注意するのは、友達に話かけられても何も応答しない時or応答
しても全然関係ない話をする時です。
あと、叱りつけるのは、よく自虐的な、例えば「僕なんか、・・・すれば
いいと思ってんでしょ」って言葉を口にする時です。
武田好史 wrote:
> ASの人が、現在直面している問題としては、次のようなものがあると思います。
>
>1.一生涯を通して、継続的なケアを行える機構がない。
>
>2.同じようなハンディをもった仲間が集い、切磋琢磨して、社会における自分のあり方を模索できるような場がない。
>
>3.障害が社会的に認知されたものでないため、本人のみならず、親御さん・兄弟も、いざというときの社会的な保障が受けられるかどうか不安である。
>
>4・鬱状態や極度の不安障害などのため、仕事が手に着かず、引きこもりをしている人が少なからずいる。
>
> NGOを目指すのであれば、まず私たちがフェイス・ツウ・フェイスで「問題点は何か?」を洗い出して、それを基にして社会に働きかけ、協力者を得ていくのが良いだろうと思います。
>
> とにかくAS・LD・ADHDなどの軽度発達障害児・者が、「生きていて良かった!」と心からいえるような感じのサポートシステムを創ることが、今いそがれることだと思います。
本当に、そう思います。早くそういう世の中になってほしい!
わたしもそう思います。
ただ一方では、ふだん「普通」(とこっちは思っている)の人の間で嫌な思いをすることも多いので、
そのことに対する不満が爆発して、つい見下すようなことを書いてしまう
ということはあると思います。実際は、必ずしも
不快な思いをさせられる人=非AS(「普通」の人)というわけでもないのにね。
やたらとASはこうだとか非ASとここが違うみたいなことを強調するのも、
本当はやめたほうがいいのだろうけど、強調したくなるときもあるね。
でも当たり前のことだけど、ASだろうが非ASだろうが、
同じものに感動したり、同じ事を思ったり、共通点が多い人も有れば、
同じなのはASらしいということだけであとは何一つ共通点もなく
気も合わない人もいると思う。
この世界は、差別もあれば暴力もあり、病んだところも多いけど、
私たちの五感や知性を楽しませてくれる素晴らしいことも多い。
腹の立つ人や嫌な人もいるけど、欠点のない人間がいないのと同じで
嫌なところだけの人間もまたいないのだろう。
わたしはこの世界が好きだ。
ひとの営みに、一言で片づけられるようなものなど
ホントはないのだと思う。でも、一言ですませてる人も
本当はもっと言いたいことがあったのかもしれない。
むやみに人を外側から評価したり断定したりしたくないなと
思いつつ、そのときの気分で断定的なことも言ってしまう。
そういうことの繰り返しです。
話題変わって。
4237番の書き込みにレスポンスくださった方々、
ありがとうございます。
実は、他人を話題にすることじたいは嫌いではなかったりします。
ただ「一言でいいたくないな」というのはいつも考えていて、
悪口言うなら言うで、なぜそう思うのかとか、自分なりに考えたい。
いろんな「問題だ」と言われることにしても、
そのひとにその行動を選ばせたのはなんだったのかとか、
個人を哀れんだり責めたりしない方向でなるべく考えたい。
いろいろ考えていたのですが、こういう文章になってしまいました。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
Coccoの歌をきくとやさしい気持ちになれる。
ASの妻もどきさん wrote:
>ASの傾向は同じでも、人によってずいぶんちがうんですね。優しさっていう
>のを、どんなふうに捉えていらっしゃるのでしょう。
単純に、「愛」だと思います。
相手を理解すること。相手の中に、深く深く入りこんでゆくこと(聞きようによってはエッチな発言だな)。そこから始まると思います。
自分で答えを出さなければいけない問題に取組んでいるひとには、手を出さないのが優しさです。
そっとしておいてほしいと思っているひとを、そっとしておいてあげるのは優しさです。
ですから、「優しさ」を受けとるためには、自分から「こうしてほしい」と働きかけることも、ときには必要です。だから、「お互いにとってよりよい方法を探りあい、心地よい関係を作る」というのが「優しさ」ではないかと思います(やっぱりエッチだ)。
で、そういった心地よい関係を、自然に作れるひとというのがいます。そういう人が、たぶん「優しいひと」なのだと思います。
だけど、そういう人に対して、警戒して壁を作っちゃったり、遠慮しすぎて自分から距離を置いてしまったりする人もいます。で、「誰もあたしに優しくしてくれない」とか言ってたりするんですね。つまり、甘えるのがヘタな人は、「優しさ」に出会えない可能性があります。
相手の言うことすることにいちいち傷ついていても、やっぱり「優しさ」には出会えません。かといって鈍感というのも考えものです。
うーん……やっぱり「優しさ」ってエッチに似ている。
なお、こうした「駆引き」のことを、「狼の踊り」とあたしは呼んでいます。これはフランス語で「恋の駆引き」のことをいいます。「赤ずきん」というお話は、もともとはこの「狼の踊り」を描いたものだとあたしは考えています。
「腹の据わったひと」というのは、優しいひとです。自分より相手を優先し、大事にする、というのを態度で示すこと……そこから優しさは始まるような気がします。
だから所長さんは痛手を負っちゃんたんだけどさ。 − Maria −
人間は意識的に「考えて」いるようについ錯覚してしまいますが、「論理的思考」をつかさどる部分は、意外にも意識の外にあります。
それはちょうど猟犬のようなもので、「これこれこういうものを探してこい」と命令して無意識の中に送り出してやると、それに見合った「答え」をくわえて持ってきます。ですが、指示が不適切だったり、ちゃんと訓練ができていなかったりすると、ヘンなものを持って戻ってきます。
たとえば「AK47問題」という話があります。
A、K、4、7、とそれぞれ書かれたカードがあり、「母音の書かれたカードの裏側は、偶数である」という規則があるとします。この規則が守られているかどうかを確かめるには、どのカードをひっくり返せばよいですか?という話なのですが、けっこう間違える人が多かったりします(4のカードはひっくり返さなくていいんだよ)。
ところが、「はっきり子供だと分かる人」「はっきり大人だと分かる人」「お酒を飲んでいるとはっきり分かるひと」「お酒を飲んでいないとはっきり分かる人」がいたとして、「未成年がお酒を飲んでいないか確かめる」ためにはどうしたらいいか?という質問をすると、ほとんどの人が「子供がお酒を飲んでいないかどうかチェックし、お酒を飲んでいる人が未成年でないかチェックする」と正しく答えます。
つまり、「基本的に同じ問題なのだけれど、より解きやすい問題」にしてやると、頭の中の猟犬はうまく答えを見つけてくれます。
あるいは、「雨男の誤謬」というのがあります。
ある人物がやってくると、必ず雨が降る、という人がいます。「だったら渇水期に水源地に立たせておくといいんじゃないか?」「普段の行ないが悪いせいではないだろうか」とか、いろいろ言われたりします。
ですが、これは「あの人は、雨が降りそうになると出歩きたくなるのだ」と考えると、きれいに説明がつきます。
つまり、「Aが起きると、必ずその直後にBが起きる。したがって、Bの原因はAである」というのが「雨男の誤謬」です。本当なら、「Aが起きると、必ずその直後にBが起きる」という現象があった場合、「別の事象Xがあって、AとBは共にXが原因で起きるのだが、AとBの間には生起するタイミングにずれがある」ということを疑わなければなりません。
こういう、「頭の中の猟犬のしつけかた」のことを、「クリティカル・シンキング」と言います。
北大路書房というところから、『クリティカル進化(シンカー)論 『OL進化論』で学ぶ思考の技法』(1400円+税)という本が出ていて、こうした「頭の中の猟犬のしつけかた」がいろいろと書かれています。
あたしのことを「賢い」とか「頭がいい」とか思っている、ミョーな勘違いをしたひとがけっこう多いように思いますが、あたしの「猟犬」はけっこうヘンな奴です。で、そのヘンな奴がヘンなものをくわえて戻ってくるのを見てけたけた笑っているうちに、「どうすればヘンなものをくわえて戻ってくるか(当りです)」「どういうときにヘンでないもの(ハズレです。普通はこっちが当りなんだけど)をくわえて戻ってくるか」という傾向を理解してしまいました。
あたしは「頭がいいけどヘンなひと」ではありません。「ヘン」なぶんだけ人生を豊かに生きていて、それが「なんか頭良さげ」に見えるだけです。
人の往く裏に道あり花の山 − Maria −
>ASこそが正しくて、普通の人がおかしいと考えるのは間違っている。
私もそう思います。
私たちこそ、そういう「おかしいと思われている」結果の被害者では
ないでしょうか。アスペルガー共和国立国も素敵だけど、
普通と言われる大多数の人とどうやったら折り合って、傷つけ合わずに
暮らしていくかということを考えて行くべきではないでしょうか?
一方は正しくてもう一方は変だ、駄目だという考えにいままでさんざん
悩まされてきたのは私たちです。それを逆手に振りかざして普通の人は
おかしい、受け入れたくないと言う考えを始めてはいけないと思う。
私たちが一番悲しい思いをしてきた、差別みたいな考え方は私は嫌です。
ボウルター wrote:
>この掲示板にだけアクセスできないといういやがらせに遭いました。
>卑怯なまねはやめてください。
>コンピューターのことはわからないので、どんなことが出来るのか知らないけど、>ここにはもうこないから嫌がらせはやめてください。
>ASとも自閉症とも言われたことはないけど、言われた病名は鬱病です。
>母親から愛されず虐待を受けて、男には幼稚園の頃からいたずらされた心の傷があ>るので、ASの人も苦しんで生きてきたようなので、分かち合えるのではないかと誤>解していました。
>賢くても人間に輩なんて言葉を使うのは私より馬鹿です。
>ASこそが正しくて、普通の人がおかしいと考えるのは間違っている。
>知人のプライベートを書いてしまった部分は削除しました。
>さようなら
こんばんは。あれ?昼休みにアクセスしたときはちゃんと繋がりましたよ。
たんなるサーバダウンだったんではないんですか?
いろんな人が集う掲示板だから、あなたが嫌いな人も確かに出てくるとは思いますよ、でも、ここから立ち去ってこんどはどこをさがすのですか、ボウルターさん。
私たち同じようにいじめや誤解を受けてそれなりに傷ついてきた仲間じゃない
んですか?傷をなめあうのではなく、辛い中生き続けるために、
ここで話をし合っていたのではないんですか?
逃げないで下さい。逃げ続けて、たとえ無人島にたどり着いても
答えはでませんよ。見ていてくれているかどうか分かりませんが、
あなたの思っていることをこれからも問題提起して一緒に歩きましょうよ。
また来て下さい。ななはより。
あさかぜさん wrote:
>それにしても……記憶が薄れているのは年くった証拠ですかねぇ。
ちょっとした秘密をお教えしましょう。
人間、経験を重ねると、「重要なこと」と「どうでもいいこと」の区別が無意識にできるようになります。
自動車の運転を習った人はすぐ分かるのですが、最初のうちは、周囲のあらゆるものが一斉に頭の中に押し寄せてきて、訳がわかんなくなります。ですが、慣れてくると要所要所に適当に注意力を配分する、ということができるようになって、自然に運転ができるようになります。
で、その結果、「どうでもいいこと」は頭に残らなくなります。
あるいは、同じような記憶は統合されて一つになってしまいます。
AさんとBさんと一緒にある場所に行き、その後にBさんとCさんと同じ場所に行ったとすると、AさんとCさんは会ったことがあると勘違いしてしまう、みたいなことになります。
別の例だと、いろんな女性と同じデートコースでデートしてたりすると、地雷を踏んでしまうというのがあります。「そういえば、この前は東京ディズニーランド行った帰りにこの店に来たんだよな」「……あたし、あなたとディズニーランド行ってない。前に行ったのは葛西の臨海公園」「うっ……。」「誰と行ったのっ!」「ううっ……!」。
で、年をくってくるとですね、「重要なこと」=「自分にとって都合のいいこと」、「どうでもいいこと」=「自分にとって都合の悪いこと」になってくるんですよ。
借りた金は忘れても、貸した金は絶対に忘れない。自分に都合の悪いことはみんな忘れている。「最近、年のせいか物忘れがひどくなって……これって老人ボケかしらねぇ?」とか言ってる人の八割はこれです。
これは「公然の秘密」といって、みんなうすうす勘づいているんですけど、口に出さないのが「大人(おとな)」だということになっています。
あたしはいつまで経っても大人になれない…… − Maria −
ぴよさん wrote:
>私の想像ですが、、
>「普通の人は、常識という考え方に染まっていて、
> それが正しいと思っていることが多い。
> でも、それって、ある意味、「狂気」だよね。」
>という感じでしょうか。
まあそう言ってもいいですかねえ。(笑)
私は自分の考えを言葉にするのに非常に時間がかかる。後日考え纏めてみます。
私は別段新しい考えを持っているわけじゃないです。余り期待しないでね。
また後日に。
ボウルターさん wrote:
>この掲示板にだけアクセスできないといういやがらせに遭いました。
>卑怯なまねはやめてください。
大森総研のコンピュータからも、今日の夕方、この掲示板にだけアクセスできませんでした。
「しまった、日頃の問題発言がたたってシスオペに追い出されたか!」と、Motoさんは本気で思ったそうです。KILROYさんはこの掲示板がどうやって個人を識別しているのかについて考えをめぐらし、懸命にシステム破りの手段を考えていました。
「ひょっとして、『アスペルガーの館』と『アスペルガーの館の掲示板』のサイトは別で、『アスペルガーの館』のホームページからリンクが張ってあるだけで、単に『掲示板』のほうのサイトが不調なんじゃないですか?」
「……あ。(^_^!)」
システムの専門家にしてこの体たらくです。
「ボウルターさんが勘違いをするのも無理はないな」と所長さんは言っていました。
>ASこそが正しくて、普通の人がおかしいと考えるのは間違っている。
そもそも「アスペルガー症候群」というのは「病気の名前」なのですから、「ASこそが正しくて、普通の人がおかしい」というのは確かに間違ってはいます。
ですが、「民主主義の世の中では、少数の人間は多数の人間の都合に合わせるのが普通だ」とかいった主張をする人が、けっこう大勢います。世の中で「普通」とされていることで、「それって変なんじゃないですか?」みたいなことは、「世の中の大多数の人」、つまり「普通の人」の都合に合わせたものだったりします。
そういう、「『普通』だとされているけれど、実際には『変』なこと」は、少数派であるASのひととか、身体障礙者のひととか、「帰国子女」と呼ばれるひととかのほうが気づきやすいと思います。
べつに、「ASのほうが『普通の人』よりエラいのだ」と主張するつもりはありません。
だけど、「『世の中の多くの人がそう思っている』=『普通』=『正しい』」という訳ではないと申せましょう。
>さようなら
「さようなら」なんて言わないで、帰ってきてください。
寂しくなってしまいます。
− Maria −
makichan wrote:
#敬称略させていただきました。
>「ASは、自分が少しオカシイ、周りと違ってると思ってる分だけ、普通の人より、狂気の度合いが薄い。」
私の想像ですが、、
「普通の人は、常識という考え方に染まっていて、
それが正しいと思っていることが多い。
でも、それって、ある意味、「狂気」だよね。」
という感じでしょうか。
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