アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
シンタロウさんへ。
> 僕は、僕をいじめた奴らを殺したくて殺したくて仕方ないです。
ちょっと待った。そう思うだけならかまわないけど、くれぐれも実行に移さないように。移した時点で破滅の道です。
僕も昔、「ヤツらを殺したい!」と思ったことが何回もありました。しかしいつもあとで思いとどまりました。「理性」が働いたのです。
本当に殺しにかかるとき、それは「理性」を失ったときです。「理性」を失った人間を待っているのは「破滅」です。
> 健常者は、僕たち障害者をいじめることしか頭に無いんだ!
それは極端すぎます。健常者にも障害者を理解している人はいるはずです。ただ悲しいことに、そういった人たちは「少数派」で、障害者をいじめるのはいけないことだとわかっていても、孤立することを恐れて、多くはその気はないのに「いじめ」に流れてしまうのです。
こういった人たちの行いがタチが悪く、ますます健常者と障害者の間の溝を深めている一因になっています。やっぱり彼らも「優越感」を持ちたいんでしょうね。悲しいけれど。
けど、恨み節ばかり言ってたのでは、人生先へは進めません。成長もしません。
現在の僕は「いじめ」の思い出を「人生における数々の洗礼」と思えるまでになりました。そう思えるようになったときが、成長したときだと思います。
生きていれば、きっとそのときは来る!
今回、少し説教じみてしまった ミッドランド
ぺりこさん wrote:
>2ヶ月くらい前に ”あなたがこの世に存在すると言うだけで、僕は落
>ち着かなくなる。あなたは怖い、僕を侵略してくる。あなたを見かけた
>ら僕は逃げるんで、あなたも僕を見かけたら逃げて下さい。”とゆう言
>葉を聞いた。
>本当にすれ違いざまに呼び止められて……ってゆう感じで……
>個人的な話題を、ここに書くのはルール違反のような気がしたのですが、
>本当に私にはどうにも出来ないことなのか?私さえ姿を消せば、彼は安
>定していられるのか? 時々考え込んでしまうので、思わず書いてしま
>いました。
>私自身も、どんな理不尽な目にあっても、怒れないと言う気質を持ち合
>わせているので、よけいにこじれるのでしょうね。
はっきり言ってしまいます。彼は分裂症です。関係妄想、被害妄想、侵入妄想など、わりとありふれた症状です。
最近はよく効く薬もあります。専門医の診断を受けるよう、家族なり上司なりの方にお伝えするべきです。
(Maria)
こんばんわ、ぺりこさん。何やらシュールな経験が多いですね。
ぺりこさん wrote:
>ラカン(うる覚えですが)の本は読んだことがあります。
>上記の具体的な例を考えてみたのですが、今一つ思い浮かびません。
「わたしは他人に支配されている」とか「他人から攻撃を受けてい
る」という被害妄想がこれに相当します。ラカンによると、この認識
は「正しい」のだそうです。(本当かい!!)まあそれぐらい、わた
したちは自分の意思を形成するのに他人の影響を受けてしまうと言わ
れています。
>何でも、偶然にすれ違うのも困るそうです。
>最後には、”消え去れ、消え去れ、消え去れ・・・”と連呼されま
>した。
わたしも似たような経験をしました。近所のその手の人から「某宗
教団体の手先だろう!わたしを攻撃しないでくれ!」とののしられま
した。しかも、わたしがごみ置き場に捨てたゴミをのぞき見されるの
で、まいった、まいった…(笑)
>”まーた言われちゃったよ”みたいな・・・
>この半年の間に、”あなたにはテレパシーを送っていたので、僕のこ
>とは何でも分かるはず”だの ”あなたは亡霊の様”だの ”あなた
>の後ろに悪魔が降りたのが見えた”だの 言葉で揺さぶられてきたの
>で、慣れてしまっただけなのかもしれません。
とりあえず、そういう人には『ムー』というオカルト雑誌を紹介して
おくのが無難です。その雑誌の読者覧を見ると
「誰かわたしと一緒に神の光を見ませんか」(30才男性)
「尼僧志願のわたしですが、誰か文通してください」(20才女性)
「10年来、宇宙人と交信を続けてきました。あなたもぜひわたしたち
の仲間に!!」(某グループ)
ETC…
まあ、ここまで行けば、その人たちもお仲間と巡り合えると思いま
す。
>個人的な話題を、ここに書くのはルール違反のような気がしたのです
>が、本当に私にはどうにも出来ないことなのか?私さえ姿を消せば、
>彼は安定していられるのか?時々考え込んでしまうので、思わず書い
>てしまいました。
この場合、「他人の存在が消えてほしい」という願望を持つ人の心
の状態を治療することが最重要課題です。この人の願望通り、他人の
存在を消すことは根本的な解決にはなりません。
ついでに、個人的な話題を書くのはルール違反じゃないと思います。
どんなコメントでも、けっきょくは自分の経験を背負ってコメントをす
るしか術はないような気がします。
>私自身も、どんな理不尽な目にあっても、怒れないと言う気質を持ち
>合わせているので、よけいにこじれるのでしょうね。
わたしもあまり怒れないのですが、ひとまず怒ったふりをしているか
な。では、また
(塾のパソコンを私用する悪徳講師くると)
たあ wrote:
>
> 過去には、私をからかって、混乱させて、それを観察して楽しむ、というような(たぶん、いじめの一種だと思います。)ことをする人達までいたので、私は人と一緒にいると緊張してしまいます。
僕もいじめられた経験があります。僕がいじめられたのは、小学4年の時転校して、養護学級から普通学級に移った時です。クラスのみんなから殴られたり蹴られたり石を投げられたり抓られたり物を隠されたり便所の水をかけられたりして、クラスのみんなから「養護学級へ帰れ」「学校に来るな」と言われたりしました。
中学2年の時、いじめられるのが嫌で3回も殺人未遂事件を犯しました。
僕は、僕をいじめた奴らを殺したくて殺したくて仕方ないです。
>
> どうして、世の中には人をからかうのが好きな人がいるのでしょうか?
たぶんそれは健常者の本能だと思います。健常者は、僕たち障害者をいじめることしか頭に無いんだ!
くるとさんへ
またまた、どうレスを付けて良いのか分からない私の書き込みの、相手をして下さって、ありがとうございます。(変な日本語・・・)
くるとさん wrote:
> ジャック・ラカンという精神分析学者が「他者の欲望」という概念を
>提示しています。なんでも、わたしたちが「自分の欲望」だと思ってい
>るものは、本当は「他人の欲望」を取り入れただけなんだそうです。
ラカン(うる覚えですが)の本は読んだことがあります。
上記の具体的な例を考えてみたのですが、今一つ思い浮かびません。
> しかし、それにしてもあまり後味のいい経験でないことは確かです。
何でも、偶然にすれ違うのも困るそうです。
最後には、”消え去れ、消え去れ、消え去れ・・・”と連呼されました。
言った人が、精神的にきつい状態であることは予想されますが、そんなこと言われたら、かえって心配しちゃうよ、全く。
>2ヶ月も悩まされていたとはお気の毒に…(くると)
お気遣いありがとう。
見えてしまったがために、勝手に責任を感じているような状態でした。
でも、私にはどうにも出来ない。
そのジレンマに悩みましたが、私自身は割とケロッとしていたりする・・・
”まーた言われちゃったよ”みたいな・・・
この半年の間に、”あなたにはテレパシーを送っていたので、僕のことは何でも分かるはず”だの ”あなたは亡霊の様”だの ”あなたの後ろに悪魔が降りたのが見えた”だの 言葉で揺さぶられてきたので、慣れてしまっただけなのかもしれません。
個人的な話題を、ここに書くのはルール違反のような気がしたのですが、本当に私にはどうにも出来ないことなのか?私さえ姿を消せば、彼は安定していられるのか?時々考え込んでしまうので、思わず書いてしまいました。
私自身も、どんな理不尽な目にあっても、怒れないと言う気質を持ち合わせているので、よけいにこじれるのでしょうね。
やんちゃん wrote:
>武田好史さん wrote:
>
>ちなみに、私は目の表面にアメーバの顕微鏡写真みたいなのが見えてます(普段は全く気にならない。バックが白いときに目立つ程度)。
>それと、一生懸命歩いた後、こめかみあたりに蝶々が飛んでいるようにキュルキュル動くものが見えたりします。
私も、明るい方へ目を向けたときに、水玉のようなものが視野の中を上から下の方へ動いていきます。また、糸くずのような物もやはり上から下へ視野を動いていきます。これは眼球の中で、水晶体で集められた光が網膜に像を結ぶまでに通過していく「硝子体」というゼリー状の部分の濁りが見える「飛蚊症」のようです。
「水玉の正体は血液の中の赤血球である」と、ある人が教えてくれました。
モザイク状の光の点は、恐らくは脳の視覚野の不具合で生じているのだと思います。
> この光の点は、普通の人も見ているのでしょうか・・・・それとも、自閉症の症状の一つなのでしょうか??
「飛蚊症」「閃光暗点」という単語でサーチしてみると、何かわかるかも。
私は診断を受けていないのでASかどうかわかりません。
武田好史 wrote:
> 私には、妙な視覚の異常があります。
> 物ははっきりと見えているのですが、同時に紫や緑・黄色の無数の光の点が見えるのです。いえ、そんなふうにチラチラした薄い膜を通して、世の中の様子を見ているといったほうが正確かもしれません。印象派の画家の絵には、よく画面を細かい点の集まりで示した「モザイク」といった技法がとられているのがありますが、私の見ている世の中の景色も、そんな感じなのです。
私にもよく似た視覚の症状があります。
いつもではありませんが、赤と緑の同心円状の小さな粒粒が無数にみえます。
> 朝起きたばかりの時や立ちくらみをしたときには、その光の点は大きくなって、物を見えにくくします。また目を閉じたときにも見えます。
私の場合、まわりが明るい時はあまり目立ちませんが、
暗くなるとよく目立ちます。
物を見えにくくするほどになることはありません。
朝起きたばかりの時よくみえます。目を閉じたときにもみえます。
> この光の点は、普通の人も見ているのでしょうか・・・・それとも、自閉症の症状の一つなのでしょうか??
私はASの診断を受けていなく、ASかどうかわからないので、
自閉症の症状の一つであるのか、あるいは普通の人も見ているのかわかりません。
私もこの光の粒粒が、普通の人も見ているのか(自閉症の症状の一つなのか)知りたいです。
武田好史さん wrote:
>
> 私には、妙な視覚の異常があります。
> 物ははっきりと見えているのですが、同時に紫や緑・黄色の無数の光の点が見えるのです。いえ、そんなふうにチラチラした薄い膜を通して、世の中の様子を見ているといったほうが正確かもしれません。印象派の画家の絵には、よく画面を細かい点の集まりで示した「モザイク」といった技法がとられているのがありますが、私の見ている世の中の景色も、そんな感じなのです。
> 朝起きたばかりの時や立ちくらみをしたときには、その光の点は大きくなって、物を見えにくくします。また目を閉じたときにも見えます。
>
> この光の点は、普通の人も見ているのでしょうか・・・・それとも、自閉症の症状の一つなのでしょうか??
いつもつまんないレスばかりつけております。
「残像」とは違うのでしょうか?
というより、そもそも普通どの程度クリアに見えているものなのかな?
ちなみに、私は目の表面にアメーバの顕微鏡写真みたいなのが見えてます(普段は全く気にならない。バックが白いときに目立つ程度)。
それと、一生懸命歩いた後、こめかみあたりに蝶々が飛んでいるようにキュルキュル動くものが見えたりします。
たあさん wrote:
> 私は、人から嫌味を言われたり、からかわれたりした時は、怒りを感
>じる前にパニックになってしまいます。からかってきた人と一緒の部屋
>にいることも、我慢できなくなってしまいます。その人に対して、強い
>敵意を持ってしまいます。
他人に憎しみを抱いたり、嫌悪感を抱いたりするのはある意味で自然
な感情だと思います。
> 過去には、私をからかって、混乱させて、それを観察して楽しむ、と
>いうような(たぶん、いじめの一種だと思います。)ことをする人達ま
>でいたので、私は人と一緒にいると緊張してしまいます。
わたしもいじめられた経験を持っていますが、今でも他人に心を開く
のが難しいです。最近、いじめられていた子供の親が裁判をおこして、
いじめっ子やいじめを止めなかった教師に勝訴しました。
わたしがこどもの頃もこれぐらいのことをしておけばよかったと後悔
しています。
ぺりこさん。本当にお久しぶりです。
ぺりこさん wrote:
>2ヶ月くらい前に ”あなたがこの世に存在すると言うだけで、僕は落
>ち着かなくなる。あなたは怖い、僕を侵略してくる。あなたを見かけた
>ら僕は逃げるんで、あなたも僕を見かけたら逃げて下さい。”とゆう言
>葉を聞いた。
ジャック・ラカンという精神分析学者が「他者の欲望」という概念を
提示しています。なんでも、わたしたちが「自分の欲望」だと思ってい
るものは、本当は「他人の欲望」を取り入れただけなんだそうです。(
本当かよ!!)そしてその事に気がついてしまった人が精神分裂病にな
ってしまうんだそうな。ラカンは精神分裂病を発病した人が被害妄想を
持つのはこれが原因だとしています。
しかし、それにしてもあまり後味のいい経験でないことは確かです。
2ヶ月も悩まされていたとはお気の毒に…(くると)
オフ会の件について重要なことを書き忘れていました。
不肖くると wrote:
>(費用)1500円のコースを注文する予定
飲み物を注文する場合は別料金になってしまいます。うちの会員は
アルコールを飲まない人がほとんどなので、うっかりしてました。
たあさん wrote:
> 私は、人から嫌味を言われたり、からかわれたりした時は、怒りを感じる前にパニックになってしまいます。からかってきた人と一緒の部屋にいることも、我慢できなくなってしまいます。その人に対して、強い敵意を持ってしまいます。
>
> 過去には、私をからかって、混乱させて、それを観察して楽しむ、というような(たぶん、いじめの一種だと思います。)ことをする人達までいたので、私は人と一緒にいると緊張してしまいます。
>
> どうして、世の中には人をからかうのが好きな人がいるのでしょうか?
おそらくそんな連中は、「優越感」をなにがなんでも持ちたい、と思っているのでしょう。それで満足したいのでしょう。
僕は子供の時分、次のような体験をしています。(僕の話は体験談が多いな)
「ヘンなヤツ」とからかわれるのは日常茶飯事。僕がそれに反応してパニック状態になるので、それをまたからかわれるの悪循環。
ひどかったのは中学のとき。パンツを脱がされその状態で歩かされたり、竹の棒で頭をなぐられたり、廊下を歩いていていきなり蹴りを入れられたり。
僕は「ヘン」だけれども、成績は上位だったので、いじめるヤツらはそこが気に食わなかったようです。
当時、僕は自分がいじめられるのは自分の性格の問題とばかり思っていたので、次第に「自分は欠陥品」と「劣等感」を持つようになってしまいました。
しかし、この「劣等感」が、「からかい好き」に付け入るスキを与えかねないのです。「優越感」の対極にあるのが「劣等感」ですから。
かと言って、逆に「優越感」を持っても、ヤツらと同じ穴のムジナになってしまいます。ま、両者のバランスが大事ってことですかね。
「『優越感』を持ちたがる人間」と、「『劣等感』で固まった人間」。
僕はどちらも嫌いです。
今回、書いてて少し悲しくなった、 ミッドランド
私は、人から嫌味を言われたり、からかわれたりした時は、怒りを感じる前にパニックになってしまいます。からかってきた人と一緒の部屋にいることも、我慢できなくなってしまいます。その人に対して、強い敵意を持ってしまいます。
過去には、私をからかって、混乱させて、それを観察して楽しむ、というような(たぶん、いじめの一種だと思います。)ことをする人達までいたので、私は人と一緒にいると緊張してしまいます。
どうして、世の中には人をからかうのが好きな人がいるのでしょうか?
私には、妙な視覚の異常があります。
物ははっきりと見えているのですが、同時に紫や緑・黄色の無数の光の点が見えるのです。いえ、そんなふうにチラチラした薄い膜を通して、世の中の様子を見ているといったほうが正確かもしれません。印象派の画家の絵には、よく画面を細かい点の集まりで示した「モザイク」といった技法がとられているのがありますが、私の見ている世の中の景色も、そんな感じなのです。
朝起きたばかりの時や立ちくらみをしたときには、その光の点は大きくなって、物を見えにくくします。また目を閉じたときにも見えます。
この光の点は、普通の人も見ているのでしょうか・・・・それとも、自閉症の症状の一つなのでしょうか??
さくらかのえ wrote:
>
>ひとからされたり言われたりしたことに限らず「嫌な気持ち」になることがあると、
>「どうして嫌な気持ちになるのか?」「どうしてわたしはこのひとの言葉や
>態度に怒りを覚えるのか?」って考えます。脳味噌フル回転です。
そうそう。感情に直結してないと感じる。
(私はASでは無いはずなんだけどな?)
>(個人的には「直接された」ことよりも新聞記事などに怒ってることが多い)
>それは果たして「正当な」怒りなのか?
私は新聞とかTVとか雑誌には、反応しないんですね。
あんまり信用していないから…。
どうしても「商品」に感じてしまうんですよ。
「売りたい」「見せたい」という作り手の願望を感じてしまうの。
自分の目で見た範囲で「怒り」が生まれます。
>ときどき「言われている内容は正しいけど、あんたに言われたくない」など
>相手の人格を無視した見当違いの怒りを覚えている場合もあるので、
「はいはい。お言葉だけいただきますよー。ありがとさん。」
と心の中で答えます。(その後はあえて近寄らない)
>慎重に検討して「この場合、文句を言ってもいいかどうか」を決めています。
>(言った後で「自分のほうが不当だった」と気づいて一生懸命自己正当化してる場合も多々・・・ちょっと自分が嫌になります)
自己嫌悪で凹むんで、後日謝ります。
>他人と共存するためのルールづくりの参考にもなるので、
>ぶつぶつ腹を立てているのも、役には立っているかもしれません。
かなり役立っていると思います。
人付き合いって、そうやって上達するものだと思っています。
>
>口にされない感情や雰囲気を読みとるのが苦手なわたしとしては
>「自分にも相手にも楽しい会話を続ける」のは至難の業だったりします。
「相手は雰囲気を読んでいる」とすると「自分の見た目の雰囲気」って重要なことかもしれませんね。顔や体型は替えられないけど、洋服などで穏やかな雰囲気を作ると人間関係も少しは円滑にいくのかな。
>気を付けようと思いつつ、いつもひとりではしゃぎすぎたり、
>正論を言い過ぎたりしてしまう・・・
若い頃は、↑これでよく失敗しましたよ。
加齢とともに自分の中で「おばさん化」する部分と「穏やか」になる部分とがあるように感じます。そういえば、歳とともに頑固になる人もいれば、穏やかになる人もいますよね。同じ人間でも変化していきますよね。
人生経験を積むというのは、そうゆう事をいうのかしら。
まだまだ未熟者 青りんご
Joshyaである。
「うぉお、また増えやがった!」と思っていらっしゃるそこのあなた、違うのですね。なんといってもリニューアルなのですよ。今まで「所長」(号は「鬼子」)、あるいはJoshyaとして喋っていたふたりが同一人物であることが解って、めでたく「KILROY」から独立した、ということだったりする。はっきり言ってKILROYとは性格が違う。もっとも私が抜けたぶんだけKILROYの性格が変化するかもしれないが。
さて、リニューアルの原因、あるいは我々がヘコんでいた原因というのは、つまるところ「失恋」だったりする。toriちゃんとASの妻もどきさんが「卒業」しちゃったときもけっこうこたえた(妻もどきさんに至っては去り際の一発で「失恋」だというのが分かったもんな)が、今回はさすがにヘコんだ。
とはいえ男と女の関係の埒外にとりあえず去ったというだけの話で、べつに喧嘩別れをしたわけでもなんでもなく、私の大切な友人であることには変わりはない。じつはこういう形での「失恋」というのは私にとっても初体験で、ちょっと新鮮ではあるのだ。今後相手の女性とつきあう相手に心から同情する……とか言ってもおられんか。私に惚れてくれた女性(今後そういう女性が表れたとしてだが)にとっては相当に落ちつかない存在であろう。これは今世紀中は結婚できないかな?(←まだ百年近く残ってるってば。おっと、これでは「まだ少ないながらも可能性はある」なのか「死ぬまでできないだろう」なのかわからんな)
今回のことで私がどれだけ祖父や父親の影、あるいは「家族」をひきずっているかがよく分かった。べつに私の家の事情が相手の女性に影響を与えてどうこう、という話ではなくて、自分自身の内面的なものである。『ふたりで聖書を』はMariaにとっても自伝的小説だが、それと同時に私にとっても自伝的小説である。だから作中では著者名である「救世義也(Joshya Xet)」は「火消しのナジャ」こと納屋稔さん(ハンドルは「Najas Minor」)とマリアちゃん(蘇好美。ハンドルはMaria)の合作ペンネームということになっている。
で、けっきょく私が抱えているコンプレックス(劣等感ではない。それは「インフィリオリティ・コンプレックス」)というのは、「王の不在」である。永遠のNo.2でありながら、No.1が見つからない。で、その「失われた王」というのが、私が高校一年生のときに亡くなった私の祖父である。『ふたりで聖書を』には蘇太陽おじいちゃんとして出てくるひとだ。
私はイエス・キリストはバプテスマのヨハネのNo.2であり、バプテスマのヨハネの死後は弟子である聖ヨハネ(ゼベダイの子ヨハネ)のNo.2だと解釈した。ところがあくまでNo.2でしかない自分が組織のトップに立ってしまったという苦悩がイエスの苦悩だし私の苦悩だった。で、世に伝えられるイエスの最後というのは私が仕事と健康と婚約者を同時に失ったのと似たり寄ったりの状況であり、残された弟子たちは自分たちの罪悪感をごまかすために、「キリスト受難」はあらかじめ与えられた運命であり、イエスは復活して天に上げられたのであり、「神のひとり子」だったとかいった幻想をでっち上げた、ということだったりするのである。
……でまあ、「それではあまりに救いがない」というので福音書を裏の裏まで読み通し、従来のイエス観をひっくり返したのが『ふたりで聖書を』だったりする。
そう思ってJoshya名義の書込みを見てみると、私が「人の上に立つ」「人から尊敬される」ということからどれだけ逃げ回っていたのかがよく分かる。けれど、この『アスペルガーの館の掲示板』で私はカリスマになりかかっており、実際に頼りにされていた。で、その重圧に堪えかねてMariaというキャラクター……つまり、私の片割れであると同時に不動のNo.2、ヤなもんはヤだしどーせ頭悪いし、あたしなんにもできなぁい、と言っちゃえるマリアちゃんを自分の作品の中から引っ張りだしてきた、ということだったりする。
ところが納屋さんとマリアちゃんの関係(イエスとベタニアのマリアの関係)が、現実の私とある女性の関係の上に重なってきて、もはや逃げ場がない、と結婚を考えたところで幸か不幸かそういう関係がとある事情で発展的解消をしてしまった(何の説明にもなっとらんな)、という事情だったりする。なんでもわれわれには「愛の神様」かなんかがついているらしく(本人には何にも御利益がない。困ったものである)、Mariaの書込みを読んでいるうちに夫婦関係が改善されたとか『ふたりで聖書を』を読んだら男女関係が順調になったとかいった話が何度も出た。おかげでわれわれは一部で「お師匠さん」とか「Maria様」とか呼ばれていたりするのである。『ふたりで聖書を』はお師匠さんグッズとして売れると断言する人もいる(なべつかみの開発が遅れているのは慚愧に堪えない)。
で、いままで作品の中に封印されていた自分と出会った私は、Mariaともども二人三脚(?)で活動を続けてゆくことにした。なおKILROYはKILROYで博覧強記のデータベース・マンとして、Mr.Motoは相も変わらずネットワークの番犬たる毒舌男として、今後とも変わることがない。十年前、『雑魚亭』なるBBSで活躍していた三人組にMariaが加わった新体制である。
そんな訳で今後はJoshyaといったら所長さんである。そもそも『アスペルガーの館』という人んちの軒先を借りているというのに「所長」などという肩書を振り回すのも失礼というものだ。のちのち自前でBBSを張ったらそちらでは「所長」に戻るかもしれない。以前は個人として発言できなくて「SysOp」と「所長」の二つのハンドルネームを使いわけて(はっきりと使いわけていたのはこの二つだけである)いたのだけれど、今はMariaがいるから気楽でいい(そういえば今日はMariaが出る気配がまったくない。自分でも不思議なものだ)。
そんなわけでご挨拶まで。今後ともよろしく。 (Joshya)
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