アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
くるとです。見づらかったので再投稿します。
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8月の福岡オフに先立って、メンバーを募集します。
くわしいことは、これから話し合います。
日時(仮) 8月5日(日)
時間 夜
場所 天神か博多駅周辺の静かな店
予算 2000-3000円
参加者 福岡近郊軽度発達障害の成人 東京からのゲストも参加
連絡用のメーリングリストがありますので、参加希望の方は、
owner-fukuoka-a-type@freeml.com
にメールを下さい。
当日都合が悪い方でも、メーリングリストへの参加を歓迎します。
#オフ会第2弾や福岡本人の会結成に結びつくかもしれません(^^
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そんな訳で、福岡およびその周辺にお住まいの皆様の参加をお待ち
しております。では
みなさんこんばんは。
今日はまたみなさんにお尋ねしたいことがあります。
あなたにとって、「家族」とは何ですか?
Tien wrote:
>みなさま、私の相も変わらぬ拙問にレス多数ありがとうございました。
>なんだか嬉しかったです。
>あの、またQ
>写真と絵画では、(視覚と言う点で)どちらがあなたの感覚に訴えますか?
>心に響きますか?
>...絵画教室探し中のTienでした。
私は見た物を即座に絵にする能力が劣っているので、どちらかといえば「写真派」です。
植物図鑑である植物の像を掲載してある場合でも、絵で示されているよりは写真のほうが、実物の植物をより早く見つけることができます。
これは余談ですが、本格的に地質学や鉱物学・生物学等のいわゆる「自然系」の学問ををやろうとする人には、かなり高度なクロッキー・デッサンというような写生の能力が必要です。なぜならば、写真には写りにくい細かな特徴までそうやって記載しなければならないからです。私の先輩には、地質調査の時、崖に出ている地層の様子を「息をのむ」ようにきれいにスケッチできる人がいました。
しかし私は、崖の広がり・幾枚も幾枚も重なった地層のすごさに圧倒されて、全く手が動かなくなってしまうのでした。しかしそれでも、何か特定のもの、例えば同じ時代の地層を探す手がかりになる白い火山灰の地層などは、けっこう見つけて調査に貢献しました。
後で判ったことですが、私のこのような特性は、物を凝視することが困難であるという「注視障害」に由来するようです。
ぶちさんやあさかぜさんや由佳子さんには非常に申し訳ないような気がするのだけれど、あんまり気にしないで聞いてほしい。
私はルドルフ・シュナイダーが嫌いだ。
ついでながら、「ローレライ」伝説を創作したブレンターノが嫌いだ。
グリム兄弟も嫌いだ。
早い話が「ドイツ・ロマン派」、あるいは「ロマン主義」という思想自体が肌に合わないのだ。
ブレンターノはギリシャ神話の中のエピソードをパクッて物語を創作し、それを「ドイツの伝説」として発表した。
グリム兄弟はフランスの宮廷作家シャルル・ペローのメルヘン集の中にあった『猫だんな、あるいは長靴を履いた猫』をパクッて、それを「ドイツ民話」として発表した。
そりゃまあドイツという国自体が敗戦でどん底の気分だったから、国威発揚・民族意識高揚という意味ではある意味正しいかもしれない。けれど嘘はいかんでしょう、嘘は、と私なんかは思うのだが、悪意の不在、あるいはその目的を根拠に「いや、これは嘘ではない」と主張する「幼稚な連中」の思想も理解できる。
「幼稚な連中」と言ったが、これは蔑称にあたらない。そもそも「ロマンティッシェ」というのは、フランス古典主義に属する人々がペローを始めとする文学者たちを「ロマンティッシェ」と馬鹿にして呼んでいたのを逆に自称するようになってから「ロマン派」が生まれ、「ロマン派」に対する言葉として「古典派」という名称が生まれたという経緯がある。つまり存在としては古典派が先、呼称としては「ロマン派」が先、というややこしい関係にある。
で、ルドルフ・シュタイナーである。
シュタイナーは教育は芸術であると説く。そして子供の魂を健全に育てるためには、「よいメルヒェン」を与えることが必要不可欠である、と説く。
問題は、この「よいメルヒェン」というものがどういうものか、なのである。
ある物語を示して、「世の中はこういうふうになっているんだよ」「こういうことをすると、こういうことになるんだよ」ということを教える、というのは確かに一つの教育のありかただと思う。
しかし、である。「世の中はこういうふうになっているんだよ」「こういうことをすると、こういうことになるんだよ」という結論があって、その結論を引っ張り出すために「物語」を創造するというのは何かおかしくないか。
「嘘も方便」という言葉が私は嫌いだ。
以前toriさんというひととこの掲示板でフィクションの是非を論じたことがある。「つくりごと」が嫌いだからノンフィクションを読む、という人は多いし、私もそのひとりだ。その私がなぜ「推理小説」などという嘘の塊を書くようなマネをするのか、だ。
私の書いた『ふたりで聖書を』は、めちゃくちゃ縛りのきつい小説だった。なにしろ『聖書』の文章は変えることができない。その解釈に対してもかなり厳密な考証によっているから、「『古事記』は古代朝鮮語で書かれている」みたいな荒唐無稽なことは書けない。少なくともプロの宗教学者・歴史学者・哲学者の批判に耐える程度の考証はしてある。
登場人物の考証や作中における事件の数々は、これは嫌というほどリアリズムによっている。その業界の人間が読めば、「なんでお前があの件について知っているのだ?」と言われかねない話の連続である。つまりは電算業界では珍しくない似たようなトラブルの最大公約数的なところを持ってきてある。
民話の力、フォ−クロアの力というのはこれなのだ。
確かに特定の事件ではない。いくつもある似たような出来事が集約され、ひとつのパターンとして継承されてゆく。だからこそ説得力がある。こういったフォークロアの性質を「伝承性」と「説示性」というのだが、そこにこそこだわりたい、と私は思う。
言ってることとやってることが矛盾してはおらんか、という批判には素直に「申し訳ない」と頭を下げるしかない。私は「典型的な旧世代のシステムエンジニア」でもなければ「典型的なハッカー」でもなければ「典型的なディベーター」でもないので、そこのところの矛盾を抱えているという部分から逃げてはおらんか、ということにもなる。
もっともそれを言ったら私は自分以外の誰でもない。他人の苦しみを真に理解することができない以上、単に一般的な情報を提示する以外に助言などできるわけもないし、相手に対して「こうしてほしい」とか「こうしてほしくない」とかいった発言はできないことになる。
だけど、本当にそうか? 本当に人間は分かりあえないのか?
私の提出したひとつの答案が、「Maria」だ。
「Maria」は絶対に「よいメルヒェン」の登場人物にはなれない。けれど、フォークロアの中に登場するありがちな女の子、というのは多かれ少なかれあんなもんだ、という気がする。
規則だの制度だのにがんじがらめに縛られている現代の子供に、「よいメルヒェン」なんぞ与えてどうする、と言いたい。子供に「理想」を押しつけてはいかんと思う。むしろ「最大公約数近辺の居心地のいい場所」くらいを示してやるくらいのほうが親切なのではないだろうか。
ブレンターノやグリムの罪は、「フォークロア」を「よいメルヒェン」にせっせと改造することを「正しい」と信じて続けてきたことだと思う。
私は子供のための、そして大人のための「現代のフォークロア」が必要であるように思う。ただしそれは事実そのものではない。けれどフィクションでもない。
「共同幻想」。そう呼んでもいいかも知れない。なんだか岸田秀や吉本隆明みたいだが。
(KILROY)
武田好史 wrote:
>ここのところ6月の上旬に「ミネラルフェアー」という国際的な鉱物・化石・磨き>石の即売会がある。学生時代に大学の先輩に連れてもらって行ってから、すっかり>鉱物の輝きに魅せられてしまい、今年も「引きこもり中だから止そうか・・・」と>思いつつも足を運んで、かなり買い込んでしまった。
> 中でも嬉しかったのは、オーストラリア・クーパビディ産の「貝オパール」で、>これまでは3000円だったのが1500円で買えた。これは大昔(白亜紀)に生
こんにちは、武田さん。のんびりしてますか?
ミネラルフェアー訪問うらやましいです。私は魚の化石は欲しいなあと時々
思います。アンモナイトは持っています。オウムガイの貝殻はこのあいだ
割ってしまってとても悲しいのです。鉱石といえども個性があるし、相性があるので楽しいですよね...。でもやっぱり一番好きなのはダイヤモンド♪
チイママ wrote:
>Tien wrote:
>
>>あの、またQ
>>写真と絵画では、(視覚と言う点で)どちらがあなたの感覚に訴えますか?
>>心に響きますか?
>
>私の場合は、絵画です。
>大人になってからよく展示会や美術館などに足を運ぶようになりました。
>「絵」を見るとなんか心が癒されます。
私も絵です。でも、一部の現代物に限ります。
印象派とか、それ以前のやつは、「ふぅん、きれいね」って感じ。
写真はまだピンとくるやつに出会ったことがありません。
実は絵がらみの仕事をしているみどり。(全然感動しないからかえっていいのかもしれない)
今日は、6時半頃目が覚めた。ゴミ捨てをしたり、朝食を取ったりしたあと、テレビを見た。
NHKの朝ドラ「ちゅらさん」を見る。沖縄出身の女の子が看護婦さんになっていくまでの成長の様子を描いたドラマだが、その子が東京で暮らしてるアパートの住人がアスペぽくって味があっておもしろい。今日は、彼女が心臓の調子が悪いおじいさんの薬を取りに行くうちに看護婦という仕事のすばらしさに気づくというところだった。
その次の「生活ほっとモーニング」では、「不整脈」のことをやっていた。脈の異常でも、急に一拍飛んだり・大きいのと小さいのが不規則だったり・拍動の間隔が普段の倍になったりして苦しくなったのは、危険であるようだ。
10:00ごろ家庭菜園へ行く。ミニトマトやなす・里芋の苗やペッパーミントなどのハーブに水やりをする。隣の畑ではジャガイモの葉が青々と茂っていた。今年はかなり新ジャガが安く手に入りそうだ。
12:00頃電車で、新宿へ向かう。ここのところ6月の上旬に「ミネラルフェアー」という国際的な鉱物・化石・磨き石の即売会がある。学生時代に大学の先輩に連れてもらって行ってから、すっかり鉱物の輝きに魅せられてしまい、今年も「引きこもり中だから止そうか・・・」と思いつつも足を運んで、かなり買い込んでしまった。
中でも嬉しかったのは、オーストラリア・クーパビディ産の「貝オパール」で、これまでは3000円だったのが1500円で買えた。これは大昔(白亜紀)に生息していた貝のからが、時代がたつにつれてオパールに置き換わったもので、ミルクホワイトの地の中に虹色のきらめきが見えるものである。宮沢賢治の童話「貝の火」に出てくるウサギのホモイが、雀の子供を助けたお礼にもらった「貝の火」という宝珠はこれがモデルだとか・・・それからきれいな2cmくらいのルビーの結晶がなんと300円で買えた。信じられない!海外の鉱物商のみなさん不況にあえぐ日本人のことを気遣ってくれて本当にありがとう!
Tien wrote:
>あの、またQ
>写真と絵画では、(視覚と言う点で)どちらがあなたの感覚に訴えますか?
>心に響きますか?
私の場合は、絵画です。
大人になってからよく展示会や美術館などに足を運ぶようになりました。
「絵」を見るとなんか心が癒されます。
ミッドランドさんwrote:
> 以前、僕はちらっと「ASの人の『不器用さ』」について書きました(覚えて
>いる人、少ないと思いますが)。「ASの人は不器用な人が多いと専門書には書
>かれているが、実際はどうなのか。」と。
> このとき僕は、「手先の器用さ」にだけ目がいっていました。
> 僕はテクニシャンなので、当然「手先は」器用です。だから、「不器用が多い」
>の記述を目にしたとき、脳のなかに「?」が浮かびました。
> しかし、後々になって、
>「ひょっとして、これは『要領の良し悪し』や『世渡りの上手い下手』といった
>ものも含めているのでは?」
ふっふっふっふっふ。Mariaだっ! 復活したぞぉっ!
さて、うろ覚えで申し訳ないのだけど、『インナーゲーム』というスポーツ関係の本があります(『インナーテニス』の方だったかも知んない)。その中に、「セルフ1」と「セルフ2」というのが出てきます。まあ、どっちがどっちかよく分かんないので、とりあえず「自我(ego)」と「エス(es)」と呼んでおきましょう。
ASのひとは、細かい工作なんていうと、めちゃめちゃ「器用」です。ところがテニスだとかサッカーだとかいうと、まるっきりダメ。楽器の演奏も、たぶん苦手。運動協調性というのが低い人が多い。
うちのJoshyaさんは、子供の頃は不器用だったのが、大学を出てから急速に器用になったという人です。中学二年生まで自転車に乗れず、泳ぎもせいぜい五十メートルまで。ところが三十歳を過ぎてからバイクの免許を取り(ぜんぜん乗ってないけど)、クロールはちょっとしたものです。スキーも子供のころは全然上達しなかったのが、二十代に入ってからいきなり上達しました。子供の頃(中二だけど)からやっている運動といったら太極拳だけだと思います。これはちょっと自信があるのね。
で、なんでじゃ、という話になります。
それは、「自我」が「エス」の邪魔をしてしまうからなんじゃないでしょうか。つまり、「コントロールしよう」という意識が身体の自然な動きと競合してしまう。だから上達が遅い。
つまり、運動全体を一つ一つ別のパーツとして組立てて、全体を組みたてるといったような、「自我にエスの邪魔をさせない」方法で技術を習得させることができれば、ASであっても運動学習に不自由はないんじゃないだろうか、ということなんですね。
バイクに関しては、ニーグリップによる車体のコントロールとパワーのON/OFFのコントロールをそれぞれ筋力トレーニングとイメージトレーニングで身につけました。泳ぎはドルフィンキックにローリングを加えてタイト四ビートへの移行とか、左右の手の動きの位相のずれとかいったものを一つ一つマスターしてゆくことで完成させました。スキーは「回す/曲げる」「滑る/ずらす」という基本的な動作の組み合わせです。
太極拳は、ひとつひとつの技をゆっくりとした動作で練習し、身につけてゆくという習得法ができあがっています。ですから自我がエスを邪魔することがありません。
つまり、「単純な反復練習を、頭がぼぉっとして、体力を消耗して余計な力が入らなくまで続ける」のくり返しで習得できるものに関しては、ASにも強みがありそうに思います。ひたすら木刀による素振りを続けるとか、ひたすら型練習を続けるとか、そういうのだったら相当いけそう、という気がします。キーボードのタッチタイプもけっこう上手な人はいそうだし、ピアノなんかも練習曲から入るんじゃなくってスケール練習を徹底的に勉強すれば上達しそうな気がします。
絵画のほうでも『脳の右側で描け!』なんていう本があって、「左脳が右脳を邪魔しないようにする」というメソッドを提唱しています。これも「自我」が「エス」を妨害しないように、というコンセプトと一致します。
今回は資料の裏付けの取れていない、駆け足の調査になってしまいました。ごめんなさい。
(Maria)
多少過去ログを読ませていただきました。
本当に独り善がりだったなあと思いました。
ただ、気になったのは、年代が違うと考えにも反映されるかなと
ちょっと思いました。僕はまだ自分の事で精一杯で自分の子供
作るのかとか、考えた事が無いので、「親」の会話についていけません。
まあ、21才と言っても結局は何も知らない子供と同じで無駄に
歳を重ねたのかな。同年代と話してもやはり「大人」な話には付いて
いけない感じがします。
これ以上かくとまた暴走するのでやめます。
ちょっとづつでも分かることが出来れば良いなと思っています。
(独り言)なんかへんすぎるなあ。なにがおかしいんだろう?
Tien wrote:
>oshieteさんへ、息子さんに伝えたくてカキコしてしまいました。
>
Tienさん、
とても嬉しかったです!!!
息子は、まだ小学生なのでこのホームページを見せるわけにはいかないのですが、もう少し大きくなったら、たくさんの仲間がいてみんな励まし合っていること、伝えたいと思います。
私は、普通の子の親でなくて、ほんとによかった。
息子も、皆さんのことも、愛してるよ!
猫目4 wrote:
>Tien さんへ
>ストレスが溜まっているのでは?
>精神科の先生に相談するのもいいかもよ。
猫目4さん、レスありがとうございます。やっぱりそう思われますー???
猫の病気以外思い当たらない...。
みなさんのおすすめリラックス法教えてください!
ミッドランド wrote:
> 以前、僕はちらっと「ASの人の『不器用さ』」について書きました(覚えている人、少ないと思いますが)。「ASの人は不器用な人が多いと専門書には書かれているが、実際はどうなのか。」と。
うちにいるASくんは、すごく器用です。
なんでも、玄人さんのように完璧にこなします。
彼が大学時代作ったジオラマは(考古学専攻)博物館にいまだ飾られている
立派なものですし、今、自宅の庭のレンガを完璧に組み、プロの方たちからも
驚きの声があがっているほど。
>
> このとき僕は、「手先の器用さ」にだけ目がいっていました。
> 僕はテクニシャンなので、当然「手先は」器用です。だから、「不器用が多い」の記述を目にしたとき、脳のなかに「?」が浮かびました。
>
> しかし、後々になって、
>「ひょっとして、これは『要領の良し悪し』や『世渡りの上手い下手』といったものも含めているのでは?」
>と考えました。いわゆる「器用に生きる」というヤツです。それでいけば、僕は見事に「不器用」という言葉があてはまるのです。
同じです。人とうまくやれないので、私は、不器用なやつ・・・。と、思っています。私はいつも、彼の日本語に腹をたてています。本人は、正しい日本語を使っていると、おもっているようです。
>
> 他人の心情が読み取れず、四苦八苦してきた僕の生き方は、要領が悪く世渡り下手な、「不器用」そのものです。
> 手先は「器用」だけれども、生き方は「不器用」。
> 人生をいいものにしていく技術は身につかなかったようです。
>
> でも、手先が器用なだけでもいいと思わねばと自分に言い聞かせる ミッドランド
そうそう。どちらもだめなんてこと、ないですよ。
手先が器用なんて素敵なこと
今、あることを大切に思いましょうよ。
うちのASくんは、器用を鼻にかけて、わたしをバカにしますが
わたしだって、裁縫、編物なんかすごいんだぞー。
つまんないことで興奮したみちるでした。
Tien さんへ
ストレスが溜まっているのでは?
精神科の先生に相談するのもいいかもよ。
Maria wrote:
> じつは、あれほど豪放磊落に見える大森総研メンバーですが、特に
>「所長」さんと「KILROY」さんに関していうと、文章を書くのにとて
>も臆病なところがあるため、ついつい文章が「厚く」、つまり「あらか
>じめツッコミが入りそうな部分については細かくフォローし、本来必要
>のない部分まで細かく書込んでいる文章」を書くことになってしまいます。
(中略)
> じつはあたしたちの生みの親である所長さんの文章というのが、もと
>もとはワン・センテンスがすごーく長くて、やたらにカッコが入るという、
>「高密度文体」だったんです(現在のMotoさんの文体がかなり近かったり
>します)。で、「分かる人には分かる」という感じの、かなり強引な文章を
>書くひとでした。で、それは大規模ソフトウェア開発の現場の状況をおも
>しろおかしく(つまりは問題点を角が立たないように)伝えるのに効果が
>あって、一緒に仕事をしているプログラマーさんたちにも好評でした。も
>ちろん普通の文章も書くひとで、ビジネス関係や技術関係の文書は、ちょっ
>と重いけど現在のKILROYさんのような文章でした。
> ですけど、その所長さんのドライブ感あふれる高密度文体によるレポート
>が、上のほうの人に睨まれちゃったんですね。「センテンスが長くて分かり
>にくい」「過激だ」「ひとりよがりだ」みたいなことを言われて、さんざん
>上司の人に虐められたというのがあります。で、その結果が現在の所長さん
>の、ワン・センテンスが短いぶつ切り文体、なおかつ接続詞が多く、細かく
>説明の入る文体だったりするわけです。
>
> 所長さんの文章は、つまるところ「揚げ足取りのされない文章」「誤読を
>許さない文章」「反論をあらかじめ封じる文章」という、散々ないじめを受
>けた結果歪んでしまった、けっこう痛々しい文章なんです。で、Joshyaさん
>の文章というのは、そのリハビリを兼ねて書かれている、みたいなところが
>あります。ここ一ヶ月ほどこの掲示板にいろいろ書かせてもらったおかげで
>だいぶ癒されたようで、所長さんとJoshyaさんの文体はなんとなく近づい
>てきました。
>
> そう、問題は文章の長い短いでしたね。
> 論旨だけするするっと書いてしまえば、確かに短くはなるんです。Moto
>さんの文章なんかは独断と偏見に基づいてばっさり斬るのが身上ですから、
>それに近い文章になります。ですが、それだと「具体的な例が思い浮かば
>ない」みたいな苦情が来たりもするわけで、そうした具体的な例をパターンを
>変えて三つは挙げる、あるいは一つの単語だと曖昧になりそうな場合は対句を
>用いる、というのが所長さんのスタイルです。なにしろ「素人にも分かる文章」
>を書く、という、テクニカル・ライター、マニュアル・ライターの仕事が
>所長さんの役割でしたから。
>
> ところが、世の中には言葉尻を捉えていろいろ変なことを言ってくる人
>(本質的な議論、というのだったら反論も歓迎するんですけどね)というのが
>いるんですよ。そうすると、「Aである」と書いたら、反例とみなされそうな
>場合についていちいち「そうじゃないんだ」みたいなことを書かねばなり
>ません。所長さんやKILROYさんの文章がくどいのは、そういうところを丁寧に
>書込んでいるからなんです。同じ長さでもJoshyaさんやMotoさんの文章は
>話題がコロコロ変わるので、「長い」という感じがしません。ですが所長さん
>やKILROYさんの文章は、ひとつのことをあーでもないこーでもないとひねくり
>回している感じがあるので、くるとさんが呆れるのももっともなことだと
>思います。
(中略。今回の件はくるとさんとは何の関係もないので念のため)
> で、そんなわけでNo.3558にあるような理由もあって、「キャラの使い
>分け」を行なうようになりました。誰もMr.Motoに「言ってることがよく
>わからない」とは言いません(「それはあんたがバカだからだ」と言いか
>えされるに決まってますから)。あるいはJoshyaさんに「あなたの考え方
>はひとりよがりだ」とも言いません(「そうだ」と返事されるだけですか
>ら)。ですが、KILROYさんの文章はそのまんま専門雑誌に引用されても
>通用するくらい技術的な内容についてはつっこんだ考察がされているし、
>所長さんの文章は新聞や一般向けの雑誌に使えるくらい、「わかりやすい」
>文章になっているはずです。
>
> 本当は、あたしが喋ればいいんですけどね。多少、お馬鹿な発言をしても
>許してもらえる立場ですし、所長さんにとってもそのほうが楽ですから。
>ですが、所長さんやKILROYさんはこの掲示板ではけっこう頼りにされてい
>るので、あたしが喋っちゃうと、なんか発言が無責任、みたいに言われて
>しまうと思います。この掲示板のメンバーはみんなあたしが本来オトコであ
>るということをご存知なので、いっそKILROY名義で喋るのをやめちゃおう
>かとも思うんですが、そうすると前のほうのLOGを読んでいない人に「ネカ
>マに騙された」とかいって怒られちゃう可能性もあるので……
(No.3947、『Re: 『にんげんゆうゆう』を見て』、Sat, 7 Apr 2001、 by KILROY(Maria))
今にして思うと、Mariaが我々(Joshya・KILROY・Mr.Moto)を「人間」にしてくれたのだと思う。以前の我々は国際規格のビジネス機械(International Business Machineってか)みたいなモンだった。そんな連中が『アスペルガーの館の掲示板』なんかにわらわら登場してゴリゴリ喋ってたら鬱陶しくてたまらんかったと思う。
それが『ふたりで聖書を』を書いた頃からまだしも人間臭くなってきたように思う。けれど商業的には成功しなかったので、Mariaはあくまで我々の中だけの存在だった。
この掲示板に登場した当初のKILROYは、後に「Hネタの女王」を自称することになったMariaの要素がかなり大きかったと思う。そのMariaが我々から分離して、我々は俄然「つまらなく」なった。この場合の「つまらない」は電算業界における褒め言葉としての「つまらない」である。この掲示板を読んでいる人々に媚びなくなった。それぞれが想定する読者にとってもっとも分りやすいと信じる文章スタイルを貫くことができるようになった。それ以前の我々は、平均的な読者からはるかに外れた読者や、悪意によって誤読をする読者まで含めてフォローするという、ひどくいびつな文章を書いていた。けれど我々は読者を選ぶようになった。
Mariaは馬鹿でいいのだ。我々にああいうお馬鹿な部分がある、ということを知ってもらうだけでも、あれには存在価値がある。我々はどいつもこいつも理屈っぽく分別臭くお説教じみた人間だ。我々の態度が鼻につくという人は少なからず存在するはずである。けれどMariaという月桂樹の葉の一枚が、我々の臭みを消してくれていたように思う。
我々の真面目な発言があったからMariaのおちゃらけた発言が許されていると考えるはもう止めることにする。我々はMariaによってこの場所での存在を許された、いわばMariaのサポーターなのだと思う。
『アスペルガーの館の掲示板』という本来きわめて真摯な意見交換の場所に、ああいうふざけたキャラが居座ることを今後とも許していただきたいと思う。
彼女は(あえて「彼女」と呼ぶことにする)、いつだって大真面目なのだから。
(KILROY)
KILROY wrote:
> 直接の原因は相手の名誉もあることだから多くは語れないのだけれど、メル
>友さんとの多少の諍いである。
> その点、あさかぜさんやTienさん(このお二方は「PoP! セミナー」の参加者
>だと表明しているから名前を挙げる)他のメル友さんの心遣いはありがたかった。
……まことに申し訳ない。ごめんなさい。青りんごさんとみちるさんに多大な御迷惑をおかけしたように思う。重ねてごめんなさい。
私事ではあるがあえてここに公開することにする。青りんごさんから謝罪のメールを戴いてしまったが、それは早とちりというものだ。上にある「メル友さんとの多少の諍い」の相手は青りんごさんではない。もちろんみちるさんでもない。
いま過去ログをさらってみたのだけれど、青りんごさんとは一応掲示板上では「他人の関係」である。個人的なメールのやりとりがあるとは明言していない。青りんごさんは自分のメールアドレスを公開していないから、「誰それさんは青りんごさんのメールアドレスを知っている」みたいな話が出ると厄介だな、と思ってそうしていた。とはいえ一部の掲示板ウォッチャーにとっては青りんごさんと私の関係は公知の事実・公然の秘密であるらしい。
そんなわけで青りんごさんの名前を擧げなかったのは私の判断ミスだった。
返すがえすごめんなさい。
それからもうひとつ。みちるさんには一度だけ、掲示板上で「メールアドレスが違っててメールが送れません」と伝言したことがある。しつこく覚えている人もおらんだろうけどミスはミス。ごめんなさい。
もちろんくるとさんを含めてくるとさん主催のオフラインミーティングでお会いしたメンバーでもない。こちらにも誤解を与えたと思う。ごめんなさい。
その他「PoP! セミナー」の参加者各位にもお詫び申し上げる。ごめんなさい。
(KILROY)
KILROYさんwrote:
………………………………………………………………………………………………
> Mariaが絶不調である。
………………………………………………………………………………………………
> ところが今回はMariaがいきなりダメである。本人が「何を言いだすか分からない」という、黒Mariaさん全開状態になっている。こうなると歯止めがないぶん「上祐・青山も裸足で逃げ出す」と言われたMr.Motoよりまだ危険である。
………………………………………………………………………………………………
> 「私」は、相手に対して「オープン(無防備)である」ことを要求しながら自分を守ろうとする相手を信用しない。逆に、自分の武器を捨てることによって相手を判断するという方策を身につけた。私は相手の刃の下に身を置く。私を傷つけまいとして剣を手放すひとは無条件に信用できる。これで失敗したことは一度もない。
>
> (KILROY)
私は黒Mariaさん状態のMariaさんも、白Mariaさん状態のMariaさんもどっちもMariaさんだから好きです。
書いて楽になるなら、危険でも何でもいいから書いてください。(と言って良いのかどうかわかりませんが…こういった掲示板ではある種の取り決めがあるは知っています。)私が最初にこの掲示板にお邪魔した時、Mariaさんは「書きなさい」と言ってくれました。だから………
ちょっとパニクっている かおり
『誤解しないでもらいたい。私は自分が手を汚さない無垢な立場にいると言いたいわけではない。私の純粋な苦しみが理解されず不愉快だというような、知的発育不全な寝言をほざいているのではない。私は不純である。だから書けるのだ。私の苦しみは相当なものであるけれど、だからといってその苦しみが純粋であるとは言いきれない。私は自分の苦痛を対象化することができるほど不純である。私は私の苦痛を商品にすることができるほど不純である。』
中島義道『騒音文化論 なぜ日本の街はこんなにうるさいのか』、講談社、講談社+α文庫 第一章より
Mariaが絶不調である。
『ふたりで聖書を』の序章、『福音書の謎、あるいは狼と仔羊』には、主人公のひとり納屋さんが、「コミュニケーション不全による類破瓜型分裂症状」というのを起こしていて「論文以外の文章を書くのにかなりの苦痛を伴う」という記述が出てくる。これはじつは洒落でもなんでもなくて、本当にそういう症状を起こすのである。この場合、Joshya→KILROY→Mr.Motoの順で書けなくなる。考えてみると、この順番で個人である「私」から心理的に遠い、というのがわかる。
こういう厄介な症状を抱えこんでしまった原因は作中では「かつて務めていた会社で深刻ないじめを受けつづけた結果」と書かれているのだけれど、こう書いた瞬間に「『いじめ』とは何事だ。あれは業務上必要な『勤務態度に対する指導だ』。それに『深刻な』などというが、会社としては業務に必要な適切な対応を取っただけであって、それを『深刻な』などと独断的に決めつけるのは本人に被害妄想的な被害者意識があることの現れではないのか。それに『受けつづけた』というがそれは本人の態度が改まらないからであって、会社としては必要な指導を必要な期間続けただけである。そもそも『コミュニケーション不全による類破瓜型分裂症状』などという病気は精神医学上の正式な診断名として存在しないし、実際に医師によってそう診断された訳でもなく、さらには会社の対応との因果関係が認められたわけでもないのに云々」みたいな相手の対応が頭に押し寄せてきて気が狂いそうになる。早い話がPTSDのフラッシュバック発作の変形だ。
なお、「それでも書く」というのは病気が軽快したという話ではまったくないように思う。単に鈍感になったとか慣れたとか図太くなったとか、その程度のことにしかすぎない。
Mariaはこの発作からの安全地帯だった。「正確さ」「厳密さ」「公正さ」を要求されない創作系の文章についてはこうした発作は起こらない。もちろんポリティカル・コレクトの問題なんかは残っているのだけれど、たとえば「気狂い」だとか「ばかちょん」だとかいった言葉に対しては、一応自分なりの(←このように、きっちり逃げを打っている)結論を出しているから使うことができる。
ところが今回はMariaがいきなりダメである。本人が「何を言いだすか分からない」という、黒Mariaさん全開状態になっている。こうなると歯止めがないぶん「上祐・青山も裸足で逃げ出す」と言われたMr.Motoよりまだ危険である。
直接の原因は相手の名誉もあることだから多くは語れないのだけれど、メル友さんとの多少の諍いである。つまり、「私」の本音にあたるいちばん弱い部分を「Maria」の口を借りてしか喋ることができない、という点を非難された、ということである。こう書くと相手は不本意だと言うかもしれない。「望ましくないと指摘された」、あるいは「望ましくないと指摘されたように私は感じた」くらいに訂正しておこう。(←このように症状はどんどんと悪化している。読んでいる人も鬱陶しいだろうが、私も相当に鬱陶しい。せめて鬱陶しい記述によって「鬱陶しさ」を共有していただきたい)
とはいえ、PTSDに苦しみ、自分の苦しみをMariaの原形である「マリアちゃん」に托し、『ふたりで聖書を』という作品(それも「本格伝奇推理小説」というエンタテイメント作品)として昇華させ出版することでようやく本音を吐くことができた、という「私」にしてみれば、「Maria」の口を借りねば心情を吐露できないというのは当然といえば当然である。
けれど、その行為を「純粋でない」と非難する人はいると思う。(←私は先のメル友さんが私を「純粋でない」と非難したと言っているのではない。私にはそう受け止められたということであって、その感覚が私の被害妄想によるものであって一般性を欠くという可能性を受け入れることに対して吝かではない)
だが、それを言っちゃったら、本当に逃げ場がない。純粋なまま現実に立ち向うというのは、武装した相手に素手どころか素っ裸で立ち向うようなものである。
我々(Joshya・KILROY・Mr.Motoの三人)は全身をくまなく鎧っている。一ケ所でも無防備な部分があればそこを突かれるからだ。
けれどMariaはそうではない。まるっきり無防備だ。そのかわり、Mariaは「どーでもいー」キャラである。Mariaへの掲示板上での攻撃は意味がない。影を相手にしているようなものだからだ。で、Mariaに下手なちょっかいを出そうものならMr.Motoという厄介な相手が牙をむく、という仕掛になっている。
「普通の人間」は、自分は「普通」の人間であり、その行いも「普通」だから、相手を脅かしたり傷つけたりはしないとてんから思っている。で、傷ついて血まみれになっている相手(それは傷つけた本人には見えないのだが)が悲鳴をあげると怒るのだ。
その点、あさかぜさんやTienさん(このお二方は「PoP! セミナー」の参加者だと表明しているから名前を挙げる)他のメル友さんの心遣いはありがたかった。
「私」は、相手に対して「オープン(無防備)である」ことを要求しながら自分を守ろうとする相手を信用しない。逆に、自分の武器を捨てることによって相手を判断するという方策を身につけた。私は相手の刃の下に身を置く。私を傷つけまいとして剣を手放すひとは無条件に信用できる。これで失敗したことは一度もない。
恐怖ゆえ剣を手放せない人を私は認める。けれど、それは相手に対して無条件に無防備であるということを意味しない。自分の身を守る権利くらいは誰にでもあるはずだ。
「普通の人」は我々が手にしていない剣を手にしている。そしてそれはほとんど身体の一部になっていて、手放すことなど思いもよらなかったりする。
私はこの『アスペルガーの館の掲示板』という場所が大いに気にいっている。
私は診断を受けてもASと診断されることはたぶんないだろう。私はそれが残念でならない。もっとも「突発性拡張型心筋症」という障害があるせいで、剣を手放しているといえばいるのだが。
(KILROY)
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