アスペルガーの館の掲示板(旧)
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武田さん wrote:
> 確かにそういった面もあるのでしょう。これは何も視覚障害に限ったことで
>はなく、全て障害のについて言えると思います。もちろんAS・ADHD・L
>Dもその中に入るでしょう。実はこのことはバリアーフリーということを考え
>る上でとても重要なことなのです。
「異常」と「障害」という尺度については、障害学のなかでも混乱が発生し
ているようです。この点については、おむにさんへのレスでもう少し詳しく論
じていきますね。簡単に言えば、「異常」というのは「逸脱」、「障害」とい
うのは「困難」という意味に近いそうです。
丁寧なコメントをしていただきありがとうございました。(くると)
おむにです。
くると wrote:
> わたしは基本的には虚構説をとっています。そして、「色覚異常」とされる問
>題は「典型的な虚構が見えるか」「非典型的な虚構が見えるか」の違いだと思っ
>ています。そして、「非典型的な虚構が見える人」は数が圧倒的に少ないので困
>難があるのであって、「正常か、異常か」という尺度では測れないような気がし
>ます。(くると)
通常、人間の目には色を感じる3つの錐体細胞があります。
それぞれ、赤、青、緑の光を感じることによって興奮する細胞です。
黄色などの中間色は、それぞれの錐体細胞の興奮の割合で補完します。
#この補完の面白いところは、「赤と緑の合成光」と「黄色の光」は全く違うものなのに、人間には見分けがつかないと言うところです。
#たとえば人間の耳は可聴範囲内なら全ての周波数を感じることができます。
#つまり、高い音と低い音が同時になったとき、それらを聞き分けることができます。
#しかし、色覚は違う周波数の色を同時に見分けることは出来ません。
色覚異常の場合、この錐体細胞のいくつか、もしくは全てが、
機能不全もしくは欠損しています。
赤色覚異常であれば、赤を感じる錐体細胞が機能不全になっています。
その場合、機能不全の赤錐体細胞の代わりに緑錐体細胞が余計に働き、
赤の信号の何割かを、緑の信号として脳に送ってしまいます。
つまり、目から脳に信号が渡る間に、2つの色が混じってしまうわけです。
そのため、色覚異常者はそれらの色を見分けることが困難とされています。
大事なことは、「感性が変わっている」わけではなく、細胞の機能不全により、明らかに「色弁別能力が低い」ということです。
これを、個性と見るか障害と見るかは、人それぞれだろうと思います。
私は障害だと思っています。
反論めいたことを書きましたが反論ではありません。
くるとさんの意見の主旨には賛成です。
色に限らずあらゆる感覚は脳が作り上げた虚構だと思います。
その虚構はそれぞれの脳の中にしか存在しません。
そしてその虚構は脳の数だけ存在します。
最後に面白い小説を引用してご紹介します。
-----
伝えられるところによれば、ルミアンの身体は光り輝くゼリー状の物質で、
柔軟な外皮の中でいつも熱い腐食性の気体に浸されていなければならないらしい。
ルミアンの世界ではそういった気体が自然の大気を形成しており、
そこには液化した氷の海があり、その熱さは水銀を融かすほどだという。
J.P.ホーガン「造物主の選択」
Maria wrote:
>シュッツさん wrote:
>>それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
>>「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
>
> ……そうではないのですよ。発達心理学において、「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムに問題があると言っておるのですね、あたしは。
>
> 現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムというのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定されるやりかたにマッチしていない、ということなんです。
>
> だから、それを「心の理論」と呼ぶことにも問題があるし、それを「心の理論」と呼ぶことを止めてしまったらパラダイム自体に意味がなくなってしまう(「ロボット理論」とか言い換えたら現実に即したものにはなるんですが、「非・自閉症方面の人間がロボットの行動をどう予測しているか」に関する理論を研究しても、現状あんまり得るところがあるとは思えません)し、「自閉症方面の子供が『心の理論』を身につけることによって、『いわゆる健常者』と同じように『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ということなんですよ。
>
> で、自閉症方面のお子さんを持ったお母さまがたや、自閉症方面の症状に悩むご本人さんが、この「心の理論」なるものに振り回されて迷惑していたりするんですよ。
>
> だから、「『いわゆる健常者』の他者の行動予測原理における『心の理論』仮説」というものを、発達心理学の世界、および発達障害児童教育の世界、および精神医学の世界から追い出してしまえ、とあたしは言ってるわけ。
>
> うーむ、この議論をちょっと整理したらそのまま本に載せられるぞ。仕事はかどってるなぁ。
>
> (Maria)
いえいえサリー・アン課題よりも、もっと有害性が高いのがあります。
それはロールシャッハテストをはじめとする「投影法」と呼ばれる心理テストです。
投影法というのは、絵やインクのシミ模様を見せて、「どんな風に見えますか?」と被験者に質問したり、また絵画を描かせて、それらの状況からその人の心理状態を把握しようというものです。
シミ模様に対する反応を用いるロールシャッハテストは、精神病であるかどうかということを見極めるための指標として、もう50年以上使われています。
このテストはスイスのロールシャッハという精神科医が、自分の病院に来る患者さんがインクのシミ模様に対して独自の見方をすることに気が付き、そのことから試行錯誤の末に編み出したということです。患者さんか絵を見て語ったことは、一定の分類基準によって分析され、それによって患者さんの精神状態が判るのだといいます。
しかしながら、言葉が話せるといっても、目の前で起こっていることを上手に語ることが苦手な、アスペルガー症候群の人にとって、このテストは大きな誤解の種になることがあります。かなりの人がこのテストのために、分裂病の烙印を押されてしまい、幻覚などの症状がないのに病院での生活を余儀なくされているようです。また、ASの人は部分反応といって、ある特定の部分を見て「トリ!」といったりということが多いということですが、「視認知に困難さを持っている」ということを知らないと、類似性があるという単なるノイローゼと見誤る可能性があるようです。
なお、日経サイエンスの最新号には、ロールシャッハテストの信憑性についてまとめた論文がありました。それによると、全く正常な人でもこのテストによって1/6という割合で分裂病という診断が下されたとのことです。
Maria さんwrote:
Mariaさんのこのカキコ見ていて「ハッ」と思ったことありましたので、一言述べさせてください。シュッツさんとの議論全部読んでいないので、内容が重なっているかもしれませんが。
自閉者が「心の理論」わからないのは、他者には他者の心理があるということがわからないというんですよね。そう言ってもいいが、もっと単純に言って、自分と他者との間に線引き出来ないんじゃないですか。更に簡単にいうと自己という概念自体がないんじゃないですか。自他未分の状態とでもいいますか。
> たとえばの話、「箱Xを捜す」と「誤答」した子供が、「他の子がいない隙に、人形を元の箱に戻してしまう」という悪戯をしないかというと、そうじゃないと思うんですよ。つまり、「子供Bではなくて子供Aに感情移入してしまった」ために、なんだかわかんなくなっちゃった、という可能性はあるわけです。
Mariaさんのここのカキコ読んで、私もそれ感じたんですね。子供Aだけ居る時Aの心理になり、Bが出てきたらBの心理になり、Aが戻ってきたらBであることをひきずったままAになってしまう。つまりA=B=自閉者なんですね。彼らには、この世に自分しかいないんですよ。
彼らが何故そうであるかは、わかるような気がするんです。去年私カキコしましたが、全て存在は、自分の知覚を通してしか認識できないわけですよね。そのことに忠実になると、他者は自分の目に映る像でしかない。いや自分が自分であるという意識すらないわけで・・。
このことは、かつて私が診断された「自己同一性拡散」の概念に繋がりますね。これは自分が自分であることに信を置けない状態を意味しますから。
「心の理論」は有害であるかどうかは、意見持ちません。ただその意味するところのものがなんとなく掴めたように思えたのでカキコしました。
ありゃりゃ、痛恨の書き損じ。
---
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」
ではなくて、
---
は間違い。
---
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解して<いる>人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解して<いない>人」
ではなくて、
---
が正解。
失礼いたしました。ごめんなさい。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>そもそも「心の理論」は自閉症のために考えだされたものではなく、子供の心
>の成長を理論的に表すために作られました。
>それがたまたま自閉症を説明するのに使えそうだと分かったので、そちらの分
>野での研究が進んで行きました。
>私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
うーむ。なんだかとても面白い方面に話が行ってしまったぞ。うれしいなぁ。
えー、そもそも「心の理論」というのは、「認知構造の進化の過程」を明らかにするために、霊長類であるチンパンジーを被験体とした実験において、「(一般的な)人間が他者の行動を予測するために用いている枠組み」であるという仮説の一部として提出されたものだったりします。
で、コーエンの『自閉症とマインド・ブラインドネス』なんかを読むと、どうやら「自閉児が他者の心理を理解できないのは、『心の理論』を身につけていないからだ」と主張しているようなのですね。でもって、「療育」の一部として、この「心の理論」に基づいたテストであるとか、教育法であるとかが提唱されていたりもするわけです。
で、シュッツさんは、
---
次に
> 現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイム
>というのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定される
>やりかたにマッチしていない、ということなんです。
これは「心の理論」を自閉症研究に応用した場合のことであって、通常の発達を分
析するばあいに当てはめればマッチしていると考えます。
というよりも、マッチングさせることが本来の目的であるはずです。
---
と書かれているんですが……よぉーく上記の文章を読んでみてください。
あたしは、「心の理論」を自閉症研究に応用した場合にはかなりマッチするんだけど、「健常者」の発達にはマッチしない、と言っているわけなんですね。だから、
>私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
というのは、とてもよくわかったりします。
そんなわけで、あたし自身も、
---
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」
ではなくて、
「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」
ということなわけです。
---
と主張しています。
シュッツさん。そこんところ勘違いしてません?
で、誤解を解いた上でさらに説明。
たとえば、同じ天体現象を説明するのに、天動説によってもニュートン力学によっても説明はできたりはするのですね。だけど、天動説による説明は相当にややこしい上に精度の低いものであり、ニュートン力学による説明は非常にすっきりしている上に精度の高いものだったりするわけです。
同じように、ある化学反応を説明するのに、錬金術的な説明と原子・分子といった現代の化学の説明では、後者のほうが分りやすいのですね。
で、現状における「心の理論」というパラダイムおよび理論というのは、天動説や錬金術に近いものになりかかってるわけです。それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっきりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまりますよ、ということだったりします。その中身といえば、「心の理論」では排除されていた「感情」というものを自然な形でとりこんでいる、ということだったりします。
まあ、ぶっちゃけた話をすると、安西祐一郎先生や辻井潤一先生の本を読むより、戸田正直先生の本のほうが解りやすいですよ、という話でもあったりするんですけどね。
興味がおありでしたら、東京大学出版会から出ている戸田正直・著『感情 人を動かしている適応プログラム』(認知科学選書21)などお読みいただけると売れしゅうございます。ほくほく。
(Maria)
みちる wrote:
> 今、息子は薬が効いていると、本当に目がらんらんと輝いています。
> なんでも、てきぱき出来て学校の先生にも驚かれています。
> リタリンがきいているうちにやることは、脳に定着するらしく、私も
> ちょっと驚いています。薬がきれたとき、どっとつかれるみたいですけど。
>
> 私も飲みたいと思うこのごろ のみちるでした
息子さんは、「劇的にリタリンが効く」タイプですね。
そういう人ってあまり多くはないみたいです。
ほとんどの人は、「なんとなくいつもと違う」といった程度のようです。
効けば効くほど、切れたときとの差が激しいので、どっと疲れるみたいですよ。
Xanadiiさん wrote:
> 本日、『私の障害、私の個性。』(ウェンディ・ローソン/ニキ・リンコ・花風社)購入。
こんばんは。というより、Xanadiiさんには、初めてのレスでしょうか?
上記の本は、おととい読んだばかりです。もしよろしかったら、ご感想など話していただけないでしょうか?
変な奴ですみません。同じ本を読んだ人がどんな感想を抱くのか知りたくて。無理にとは申しません。もし、気がむいたら……ということで。
日にちが経つと感想を忘れてしまいかねない、あさかぜでした。よろしく。
武田好史 wrote:
> ADD・ADHDの薬物療法には、リタリンとSSRIが用いられているようです。私も、よこはま発達クリニックの先生から服用することを薦められました。
> そこで、みなさんの中ですでにこれらの薬を服用している方がおりましたら、つぎの点についてご教示頂きたいと思います。
>
>1.薬を飲む前と後で、感情面でここが変わったということは、何ですか?
こんにちは。ADDと診断されたばかりで、リタリンを飲み始めたばかりです。
ADD・ADHDの場合、リタリンが効く可能性が高いので、最初にリタリンが
処方されるようです。
私は衝動性が少なく、多動がないので、衝動性が強い人の場合効き方が違うと
思います。そこは注意してくださいね。
リタリンは効果が4時間継続すると言われています。(人によって違います)
効いている間は、感情面では、イライラがなくなります。
>2.副作用と思われる徴候(症状)として、どんなことがありましたか?
軽い動悸、軽い頭痛、少し手足のしびれがあります。あと、効果が切れたときに
額のあたりに「ぐわ〜ん」という感じの頭痛が来ます。
医師には、副作用として、動悸・頭痛・吐き気があると言われました。
ときに「死にたくなる」という副作用が出る場合があるので、その場合は
服用を止めるように言われました。
>3.薬はどのように飲むのが効果的なのでしょうか?(リタリンに関して)
これは医師と相談された方がよいと思います。また、人によって効く量も
違うので、自分で調整するように言われています。
基本的に4時間で切れるので、4時間ごとに一日3回服用します。また、眠れなく
なるので、午後6時以降は飲まないように指示されています。
それから、服用量を増やすと副作用もそれだけ強くなるので、副作用との
兼ね合いもあります。
> ただ、光の波長の違いで視神経の反応がどのように異なるか、ということに関しては、
>実験などで明確にできるのではないかと思います。
と書いたのですが、「色覚異常」でサーチしてみるといろいろ引っかかってきますね。
結構いい加減なことを書いていたようで、お恥ずかしい。
まずは、名前に問題があっても話を短くするために「心の理論」を使うことにします。
そもそも「心の理論」は自閉症のために考えだされたものではなく、子供の心の成長を理論的に表すために作られました。
それがたまたま自閉症を説明するのに使えそうだと分かったので、そちらの分野での研究が進んで行きました。
一つめの問題として
Maria wrote:
>「自閉症方面の子供が『心の理論』を身につけることによって、『いわゆる健常者』と同じように『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ということなんですよ。
この部分ですが、当たり前のことですけど、「『他人の気持がわかる』ようになる」という意見が本当にあるのでしょうか。
あるとすれば、それは「心の理論」を歪曲して解釈したものです。
しかし、ねじ曲げ方が問題なのであって、「心の理論」自体の問題ではないです。
例えれば、いくら世の中に役に立つ発明をしても、悪用する人間が一人でもいる限り、発明は悪いものと決めつけるようなものです。
むしろ「心の理論」によって「『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ことがはっきり分かると思います。
> で、自閉症方面のお子さんを持ったお母さまがたや、自閉症方面の症状に悩むご本人さんが、この「心の理論」なるものに振り回されて迷惑していたりするんですよ。
振り回す方に罪があるのであって、「心の理論」は振り回される方の立場にあると思います。
次に
> 現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムというのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定されるやりかたにマッチしていない、ということなんです。
これは「心の理論」を自閉症研究に応用した場合のことであって、通常の発達を分析するばあいに当てはめればマッチしていると考えます。
というよりも、マッチングさせることが本来の目的であるはずです。
それを勘違いしている研究者がいるかも知れませんが、それは別の問題であって、「心の理論」が内包しているものではないでしょう。
これも例え話をすると、自然現象と物理法則の関係を考えてみましょう。
はじめに存在するのは自然現象であって、物理法則はそれに合わせて作られたものです。
勝手に式を作って、「自然はこの式に合うはずだ」としているのではありません。
しかし、科学は急に進むわけではないです。
ニュートン力学は昔は正しいものでしたが、相対論まで考えれば近似的に正しいというものであり、否定されるまでに「間違いだ」とされたのではありません。
一方で、錬金術は今では否定されました。
このように完全に間違いだと証明されれば、捨てられるのは当然です。
「心の理論」については、発達心理に合わせるように、近似の部分を徐々に減らしている段階ではないでしょうか。
否定される証拠はないと考えます。
もし間違いだと証明されるなら、私も固執しませんが。
また相対論にしても、原爆の理論的根拠になっているのですが、別に相対論が悪いのではありません。
> だから、それを「心の理論」と呼ぶことにも問題があるし、それを「心の理論」と呼ぶことを止めてしまったらパラダイム自体に意味がなくなってしまう(「ロボット理論」とか言い換えたら現実に即したものにはなるんですが、「非・自閉症方面の人間がロボットの行動をどう予測しているか」に関する理論を研究しても、現状あんまり得るところがあるとは思えません)
さて、これが役に立つかどうかということですが、少なくとも私にとっては役に立ちました。
私は「心の理論」を知って始めて、自分の心を、部分的にではあれ解析することができました。
それは一つの「心の理論」をそのまま自分の心に当てはめたのではありません。
人それぞれの心を、あるがままにそれぞれに理論化することによってです。
そのやり方は自閉圏であれ、健常であれ、同じ理論によっています。
私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
Xanadii wrote:
> N群の人々は、どうしているのか?ただ終始無言でROMしていっているのみなのか、なぜ、ただだまって見ているのみなのか?それがいいか悪いかってことじゃないんです。それより私が考えたいのは、「N群の人々を、この掲示板に参加させ、発言してもらうのはどうか?」ってことについてなんですよ。
> べつにもともと、館の掲示板には、「N群の者は近づくべからず」といった制限が設けられているというわけでは、なかったはず。それにもかかわらず、そういう人々がここにいない(過去にはtakaさんのような例もあったけれど、今どうしているか分からないしね)ということは、どういうことなんだろうな?やはり「障害」、とりわけ精神障害に対する遠慮というかタブーからなのか?
> どういう理由からであれ、N群の人々が、自分から語り出さなければ、私の疑問は解決しないんだろう(もちろんこの掲示板は、自由参加が基本だ。それは私も前提としているつもり)。
> A群の皆さんは、どう思われますか?
つい最近、ADDと診断された者です。はじめまして。
N群の人たちがなぜ発言しないか。
自分のことを考えると分かります。
今現在、私自身や私の家族や友人に精神分裂病者はいません。その疑いがある人も
いません。この状態で、精神分裂病がテーマの掲示板がどこかに存在していると
します。でも、自分や身の回りに関係ないので、覗いてみようという気も
起きません。社会的に大きく取り上げれば少し見るかもしれませんが、
一時的なものだと思います。(精神分裂病について研究しているとかなら参加
してみるかもしれませんが)
私がこちらを見るようになったのも、「私はADDかもしれない→ADDは
発達障害で、ASも近い障害らしい。併発することもあるらしい→もしかしたら
私もASかもしれない→覗いてみよう」という流れがありました。
自分や身の回りに関係ある人しか来ないのは仕方ないのではないかなぁと
思います。
シュッツさん wrote:
>それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
>「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
……そうではないのですよ。発達心理学において、「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムに問題があると言っておるのですね、あたしは。
現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムというのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定されるやりかたにマッチしていない、ということなんです。
だから、それを「心の理論」と呼ぶことにも問題があるし、それを「心の理論」と呼ぶことを止めてしまったらパラダイム自体に意味がなくなってしまう(「ロボット理論」とか言い換えたら現実に即したものにはなるんですが、「非・自閉症方面の人間がロボットの行動をどう予測しているか」に関する理論を研究しても、現状あんまり得るところがあるとは思えません)し、「自閉症方面の子供が『心の理論』を身につけることによって、『いわゆる健常者』と同じように『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ということなんですよ。
で、自閉症方面のお子さんを持ったお母さまがたや、自閉症方面の症状に悩むご本人さんが、この「心の理論」なるものに振り回されて迷惑していたりするんですよ。
だから、「『いわゆる健常者』の他者の行動予測原理における『心の理論』仮説」というものを、発達心理学の世界、および発達障害児童教育の世界、および精神医学の世界から追い出してしまえ、とあたしは言ってるわけ。
うーむ、この議論をちょっと整理したらそのまま本に載せられるぞ。仕事はかどってるなぁ。
(Maria)
本日、『私の障害、私の個性。』(ウェンディ・ローソン/ニキ・リンコ・花風社)購入。
↑勝手に日記やってんじゃないよ。
ただいま自分のブランク中のログNo.4980〜5237まで読破。まだまだだ。
あ〜えらいこっちゃえらいこっちゃ。
好い加減、MyPCが欲しいよ〜。
Tien wrote:
>こんばんは。私は、自分が2度ほど遭遇した出来事について考え込んでしまいました。
>通勤に利用する乗り物の中にいわゆる「障害者学校」の子供達も一緒の時があります。何故かは全く計り知れないのですが、「座席の隙間を見つけたら座らずにいられない」お子さんが、なんにも言わずに、それこそ最悪の場合、私の膝の上に無言で座り込むのです。本人は(2回とも違う子)なんにも言わず、自分の指を
>くわえたり、座るスペースを確保すると黙り込んだままなのです。
>私は「親御さんは帰ってくるまで心配だろうな」等やたらと考え込んでしまい、
>2度とも何にも言いませんでした。注意するのが怖かった共言えます。
>でも、こういう風に
>「黙りこんで=自分の世界に入り込んだまま異常な行動をする子あるいは人」は
>自分が自覚するまで、「自閉症」と決めつけていた、という思考回路の事実に
>私自身その子の隣で愕然としました。
>なにか考え&レスが浮かんだ方のご意見を聞きたくて今日はカキコ致しました。
私にもにたような経験があります。
以前私が、電車通勤で仕事をしていた時の事です。ある駅で高校生男女5人
が乗ってきて4人は、空いてる座席に座り無言でそれぞれ鞄からマンガ本を
取り出し読みはじめました。もう一人の男子が離れた所に座り(私の近く)
ました。その男子は見るからに落ち着きがなく立ったり、座ったりを繰り返
していたのです。そして『発車しない』『発車しない』と興奮気味にぶつぶつ
言い出しはじめました。その日はたまたま、電車が5分ぐらい遅れていたので
不安だったのでしょう。5時を過ぎてしまったことが、より不安を高めたよう
でした。わたしは直感的に『ああこの子は自閉圏内にいる子だ』と思ったのです。
悲しい「習性」とでも言えばよいのでしょうか・・・・・・。
何人かの人がその男子の様子を見てクスクスと、笑っていました。
私は自分の子供が笑われた気分になったことを覚えています。
これも悲しい「習性」かも・・・・・・。
Maria wrote:
> ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。
それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
それでは言葉を変えて、私は「発達心理学における理論」支持派と言いましょう。
ただこれでは範囲が広すぎるので、本当はいい言葉を探さなければいけないんでしょうけど。
くると wrote:
> こんにちわ、武田さん。就職試験の疲れがやっと取れたくるとです。
>
>武田好史さん wrote:
>>くると wrote:
>>>> このように「見える」ということは、目と脳が同時に正常でないと「正常
>>>>に体験できない」感覚なのです。
>>>
>>> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>>>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>>>ります。
>
>>私は
>>「視覚は他の感覚と合わさったときに初めて虚構でなくなる」「あなたの感じてい>る視覚世界はあなただけのものである」ということが視覚について言えるのではと>おもいます。
>>そして普通の視覚というのは、「万人が見た平均的なもの」なのだという気がしま>す。
>
> 「万人が見た平均的なもの」ですか。じっさいには全ての人の見え方には細
>かい差異がひしめきあっていますが、それを切り捨てた共通の見え方みたいな
>ものですか?
>
> この考えに基づけば、「視覚異常」というのは「異常か、正常か」という次
>元の問題ではなく、「典型的か,非典型的か」という次元の問題なのではない
>でしょうか?そして、非典型的な視覚を持つ人は視覚が異常だからではなく、
>同じ見え方を共有できる人が少ないから困難が発生するのではないか、と考え
>ています。いかがでしょうか?
確かにそういった面もあるのでしょう。これは何も視覚障害に限ったことではなく、全て障害のについて言えると思います。もちろんAS・ADHD・LDもその中に入るでしょう。実はこのことはバリアーフリーということを考える上でとても重要なことなのです。
福祉作業所でボランティアをしていた頃、私は「見えない」というのは、どういうことなのかを知りたくって、目をつぶって手探りでフェンスを触りながら、市民体育館の二階の走路を歩いてみたことがあります。どっちに進んでるのかというのが、手の触覚で感じるフェンスのパイプの曲がり具合からしか判らないので、見えているときには短く見える距離が、その倍以上に長く感じました。
見えないという人たちには、歩道の黄色い凹凸のある板・オルゴール付きの信号などの「進むための手がかり」というものが、いかに大切かそのとき初めて判りました。
またある自閉症の専門家は、言葉の不自由な重度の自閉症の子とラポール(やりとり)をするコツとして次のようなことを言っています。
#「限られているその子の言葉が、彼の行動とどのように結びついているかをよく#観察しなさい。例えばその子がポポーとしか言えないのであれば、ポポーという#ことが何を意味しているのかを、頻度や表情・どんな場での使用かということか#ら読み解いていく必要があります。」
シュッツさん wrote in 『Re: 「心の理論」は有害である。(追加)』、
No.5940、10 Jul 2001
>「心の理論」という名前について、分かりにくいと思う最大の要因は、「理論」
>が「科学上の理論」ではなくて「個人の内部の思考における理論」の意味で使っ
>ているからです。
>普通は前者で使われることが多い言葉なので、混乱しやすいと思うのです。
つまりは、そういうことなんです。『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文を書いた人たちは、まさしく「科学上の理論」と同じような意味に限定したくて、「理論」という言葉を使ったんですよ。で、後に続く研究者たちも、「個人」といったような特定しがたい要素を排除し、「精密科学」としての発達心理学・認知心理学を確立しようとして、あえて「理論」という言葉を使ったわけです。
ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。
麦芽とホップと水だけで作ったのが「ビール」。それ以外のものを「ビール」と呼ぶな、というのと同じ。「心の理論」というのは、対象を一種の機械、つまり「自分とは異質なもの」とみなした上で、その「行動」から帰納的推論によって得られたモデルについてのみ使っていい言葉なのね。
だからこそ、「心の理論」というのは、チンパンジーを対象とした実験を基礎としているわけです。チンパンジーにとって人間は理解不能な異質なものであり、感情移入や自己投影の対象ではない、と考えたからなんですね。これが「人間がチンパンジーの行動を予測する」ということだと、人間はチンパンジーを「擬人化」しちゃうから、「心の理論」の検証実験にはならない。そういうことなんです。
ですから、「心の理論」的な人間の行動原則の捉えかたは自閉症方面の人間にとってはとても自然なことでもあるわけです。だけど、健常者はそういう形では人間というものを捉えてないのね。あくまで「感情移入」「自己投影」によって理解をしているのだと。だからこそ、自分と質的に異なった存在の行動を理解することがとても難しいわけです。
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」
ではなくて、
「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」
ということなわけです。
おわかりいただけたでしょうか。
(Maria)
Maria wrote:
> 現在、「セルフ・コメットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいった考え方が出てきて、その「私の根っこ」の「わけのわからなさ」というのはだいぶ解消されてきたのだけれど、依然としてその「私の根っこ」というのは人類にとって「わけがわからない」ものなのね。で、人類にとって「わけがわからない」以上、個人にとってはますますわけがわからない。
>
> だけど、「人間っていうのは本人にとってわけのわからないものに衝き動かされて行動し、それを雛形として他者の行動を理解し予測する」とかいったら、それこそ「わけのわからない理論」というものができあがってしまうわけです。「そんなんじゃ困るんだよー、そんなわけのわかんないものを持ちこむなよー」というのが、「心の理論」の「心の理論」たる所以なわけですね。
>
> そんなわけで、
>
>>これらの違いも「心の理論」から帰結されます。
>>「感情移入」に至るまでの道のりの違いで、対象が「機械」と「生物」である
>>ときの思考過程がどれだけ違うかの程度でしょう。
>
>とか言っちゃった時点で、それは「心の理論」と呼ぶべきものではなくなっちゃってるわけです。
じっくり考えてみたんですが、この部分の話のつながりがどうしても分かりません。
何故、前の部分から後の結論が出てくるのか、もう少し詳しく分かりやすく説明していただけないでしょうか。
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