アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
やんちゃん wrote:
>それと、「共通語」という言葉を作文で使ったのは、「標準語」というと、
>それこそが正しい言い方で、「方言」は崩れた言い方なのか?という気が
>したから。「共通語」なら「英語は世界の共通語」というように、それぞ
>れ独立した価値のあるものから、共通に使うものとして選んでみました、
>というニュアンスが感じられるから。少なくとも私はそういう意味で使い
>分けてます。
えー、あたしにとっての「標準語」は、「文語」であり、漢文の読み下し文なのですね。文字通りのスタンダード。はっきり言って、口語には標準語はありません。強いていえば、軍隊(日本帝国陸海軍)の言葉が「標準語」。
北海道の札幌には、「北二十四条」なんていう駅があります。で、これが「きたにじゅうよじょう」なのね。ところが共通語では、「いち・に・さん・し・ご・ろく・しち・はち・く・じゅう」だし、軍隊では「ひと・ふた・さん・よん・ご・ろく・なな・はち・きゅう・じゅう」です。「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「にいたかやまのぼれひとふたまるはち」。
そんなわけで、「北二十四条」は「共通語」だと「きたにじゅうしじょう」となるはずだし、「標準語」だと「きたにじゅうよんじょう」となるはずです。したがって、これは「方言」ということになります。
而して余思うに義務教育に於ては標準語たる漢文教育を徹底するを其(そ)の基本と為さざる可(べ)けんや、とか言ってしまうのですね。ほくほく。自称ASのあたしとしては、「漢字を音読みして平仮名書きをする」というのは迷惑以外の何物でもありません。韓国では漢字を教えなくなったもんだから、漢語の同音異義語の区別がつかなくなって大変なことになりました。「意味はわかるけど読めない」のと、「読めるけど意味がわからない」のどちらを取るかといえば前者を取るのが正解のように思います。
そんな訳で、「えん罪」「ら致」「すい星」「ふ頭」とかいった表記はやめてほしいと思うぞ。ちゃんと「冤罪」「拉致」「彗星」「埠頭」と書けばよろしい。そうすれば漢和辞典が引ける。
ところで、東京には方言がないと思っている人は……いないと思うけど一応「ある」と言っておきましょう。あたしは長年「鮭」を「しゃけ」だと思っていました。正しくは、「さけ」。で、「品質管理」が言えなくてけっこう苦労しました。「蠅帳」も「はいちょう」。
Joshyaさんと同じ職場のひとで、日本橋で生まれ育ったひとがいたのね。で、そのひとが「私には訛りなどない!」というので、「じゃあ、『潮干狩り』って言ってみな」とJoshyaさんが言ったら、数秒の沈黙のあと、
「しおしがり!」
と言ってめいっぱい落込んでいました。なお、東京における正しい発音は、「ひよしがり」です。
なお、「秋葉原」を「あきはばら」と読むのはイナカモノだ、という意識が東京人にはちょっとだけあります。あれは「あきばっぱら」、ないし、「あきばはら」。いまや「アキバ」は世界の「AKIBA」だぜ、という矜持があったりするのね。
ついでながら、KILROYさんはかつて「小天狗」の異名を持ち、「秋葉権現さんのお使い」と言われた凄腕の「火消し」でした。
「天狗になる」とか「天狗の鼻をへし折る」とか、最近はあんまりいい意味では使われないけど、もともと「天狗」という言葉には「修行によって超人的な能力を身につけた人」、という意味があります。いわゆる「入神(にゅうしん)の域に達した人」「(人間離れした)達人」が、「天狗」。日本人というと「謙譲の美徳」みたいなのがどうしても押しつけられちゃうけど、天狗さんっていたほうが面白いと思うぞ。
(Maria)
マザーさん wrote:
>息子は現在17歳です。
>対人関係のストレスから、抑うつ状態になり高校二年で自主退学いたしました。
>最近は、『こだわり』(強迫行為)『不安』に悩まされています。
>打つ手も見出せないまま、ただ、時の流れに身を委ねているという次第です。
マザーさん、あなたの息子さんが昔のわしとダブって見えます。
実は(以前もちらっと書きましたが)わしも高校を中退した者です。わしは高校一年で出てしまいましたが。
その原因は息子さんと同じく、対人関係の悩みでした。わしは中学のときに周囲からのいじめで極度の人間不信に陥り、高校でもそれを引きずって「自然体の自分」が出せなくなっていたのです。
しかし、わしの場合は「何とか道を切り開いてやる!」との思いが心の底にあったので、とりあえずは大検を受けて、高卒の資格を取ることにしました。
中退後、わしは親元を離れ、東京近郊の大検専門の予備校に通うことにしました。そこで寮生活です。
このときわしは初めて「社会」というものに触れた気がしました。親元を離れるということは、自分の判断に委ねる機会が多くなるということです。そこで今まで気にも留めなかった、上手な買い物の仕方や、お金の管理、役所などの窓口での手続きの仕方など「社会勉強」を一気に経験しました。
今こうしてわしが「社会人」として、曲がりなりにも通用しているのも、このお陰だと言ってもいいくらいです。
その後、わしは無事大検に合格。大学へも実質現役で進学できました。
マザーさん、息子さんが高校中退でも決して悲観することはありません。わしのような、大検という道もあります。あとは本人の気持ち次第です。
ついに赤裸々に語ってしまった ミッドランド
pocksさん wrote:
>マザー様、お子様は何歳なのでしょうか。文章からは(読み書きできて、
>就職すべき年齢には達していないようだということで)小学生以上18歳以下と
>お見受けしましたが、この範囲ならば、四十代半ばの私よりは打てる手が多い
>のではないかと思います。
pocksさん、レス有難うございました。息子は現在17歳です。
対人関係のストレスから、抑うつ状態になり高校二年で自主退学いたしました。
最近は、『こだわり』(強迫行為)『不安』に悩まされています。
打つ手も見出せないまま、ただ、時の流れに身を委ねているという次第です。
息子の『状況判断』が出来ないと『常識がない』は繋がっているように
感じたのですが、うまく文章に出来なくて途中で消してしまいました。
息子も身なりには無頓着です。
pocksさんがこれ以上、危ない目に遭わずに済みますようにと祈りつつ・・・・・・。
ふふふ、なんかいい感じに話がもげて(展開して)いきょーりますね。
岡山弁といっても、地域によって言い方が違います。どこの方言でもそうだと思いますが。
例:「しなさい」
岡山市「せられー」or「しられー」
倉敷市「しねー」
津山市「しんちゃい」
全域 「せー」
「するな」
岡山市「せられな」or「しられな」
倉敷市「しなんな」
津山市「しんちゃんな」
全域 「すな」
「こんな」
岡山市「こねーな」
倉敷市「こがーな」
etc.
ミッドランドさん wrote:
>わしは子供の時分に当たり前のごとく使っていた言葉だったのですが、
私は今でこそ岡山弁を愛していますが、幼少のころは、なぜか共通語で喋っていたそうです。おそらくTVの見過ぎ?ただし、親が喋っている言葉とTVで使われている言葉の違いに長いこと気が付いていなかったので、別に「共通語こそが正しい日本語だ」、と思っていたわけではないようです。
それと、「共通語」という言葉を作文で使ったのは、「標準語」というと、それこそが正しい言い方で、「方言」は崩れた言い方なのか?という気がしたから。「共通語」なら「英語は世界の共通語」というように、それぞれ独立した価値のあるものから、共通に使うものとして選んでみました、というニュアンスが感じられるから。少なくとも私はそういう意味で使い分けてます。
皆さんは今の音楽についてどう思いますか?僕にとって今の音楽は音楽ではないと思います。
僕はバンドで文化祭のライブの練習の時、いつも僕はバンドの皆とリズムがずれてしまって「オメ−ちゃんと合わせろコラ!!」「オメ−やる気あるんかラ!!」といつも怒鳴られてました。また、少しでもフレーズを変えると「テメー何イカサマしてんだコラ!!」「オメ−ちゃんとやんねーとクビだ!!」としょっちゅう言われました。そして他のバンドの人から「お前らのバンドは一番ヘタクソだ」「特にお前がヘタクソだ」と嘲笑されました。演奏をやってもちっとも楽しく無かったです。このように音を楽しむ行為をやっても全然楽しくないという現象がおきます。皆さんは変だと思いませんか?
Tienさん wrote:
>こんばんは。私は↑とは全く違います。他者はどこまでも他者であり、
>決して私の心の中とは同調するものではない、と感じています。
>他者と共感することはあっても、同化はしません。
>固い殻がある、と言うか……。
……という形でTienさんのカキコを引用させていただきましたが、今回は特にTienさんのカキコに対するレスというわけではありません。「他者」の認識と「心の理論」についてはもう少し掘り下げてから、続きを書きたいと思います。
さて。
sympathy という言葉があります。
これ、日本語だと「同情」とか「共感」というふうに訳されるんですが、「同情」と「共感」というのは、ちょっと意味合いが違いますよね?
「同情」というと、なにか「哀れみ」といったような意味が付加されるし、「共感」というと、共に「自分の外にある」ものに対して同じ感情を持つ、といった意味になります。
で、あたしが sympathy として捉えており、「自己を貼りつける」と呼んでいるもので、Tienさんが「同調」「同化」と表現し、おそらくはTienさんが猫ちゃんに対しては(そういえば、その後お元気ですか?)抱くものというのが何か、ということなんです、が。
……それを適切に表わす言葉がないのね。日本語には。
例えば。「痛い話」(海水浴に行って木材に刺さった釘をぶっつりと踏みぬいちゃったとか)を聞かされたときに、「いやー! やめてー! 聞きたくないー!」とかいって頭を抱えてしまうような感覚。子供が泣いているのを見て、胸が締めつけられるような感覚。こういうのは、「同情」でも「共感」でもありませんね。「同調」というと、「一致団結」みたいな感じで、「感情・感覚の共有」というよりも「思想・信条の一致」という感じがします。「同化」というのも、「同化政策」みたいな感じで、「自分以外の誰かの感性・感じかたを受け入れる」みたいな意味になりそうです。
そうではなくて、「自分が相手の身になりかわって、まざまざとその感覚・感情を体験する」ような感覚、というのを何と呼ぶか、なんですね。
これと感覚的によく似たものとして、「信頼関係」といった意味で使われる、心理学用語の「ラポール(rapport)」というものがあります。これを日本語では「転移」と呼ぶんですが、この「転移」という言葉がけっこうマッチしそうな気がするんですよ。「憑移」というのも考えたんですけどね、ちょっと、行きすぎかと。
そんなわけで、「外なる自己としての他者」(他己)の発達については、もう少し考えてみる必要があるように思います。うーん、なかなか大変。
(Maria)
はじめまして、はたです。
Mebius wrote:
>群れるという習性を持たないアスペのはずなのに・・・、
>掲示板の中にアスペの群れができていたりする。
群れるという習性がないのは、少数派なので群れたくても
群れることができないだけで、アスペ同士だと群れるとい
うことはないのでしょうか。
そんな場面にあってませんので推測です。アスペ同士でも
群れないのかな?
>コミュニケーション能力に偏りのあるアスペのはずなのに・・・、
>掲示板の中では流暢にコミュニケーションしていたりする。
五感を通して、口(と身体)を使ったコミュニケーション
がとれなくて、文字だと全く問題ないというのがアスペだ
ったと思いましたが。
理由は、考える時間が必要だから、でしたっけ?
個人的ですが、妻とケンカが絶えないので悩んでいたら、
医師にメールによるコミュニケーションを勧められました
(苦笑)。
mebiusさんの言いたかったことに対するレスじゃなくてす
いません。
ミッドランドさんwrote:
> 岡山弁独特の言い回しのひとつに「〜なら」というのがあります。
> この言葉、疑問文の末尾につけてさらに疑問の意を強める表現なのです。
>
> (用例)なんしょんなら。(なにしてるの。)
> どけぇいきょうんなら。(どこへ行くの。)
> あいつ、でぇなら。(あいつ、誰だ。)
> なんで、そげんなことゆうんなら。(なんで、そんなこと言うの。)
>
>ちなみに上の用例、「なら」をつけなくても十分疑問文として通じます。
> わしは子供の時分に当たり前のごとく使っていた言葉だったのですが、大きく
>なって、共通語にこのような表現が見当たらないことに気づきました。
「共通語」というのがどういうものであるかには議論の余地がありますが、関東地方の方言の中にはちゃんと存在します。
「ん」は『いわゆる準体助詞の「の」』。その音便が「ん」。
「なら」は、「ですか」。
以下は用例。
「なんしょん。」→「何をするの。」
「なんしょんなら。」→「何をするんですか。」
「どけぇいきょん。」→「どこへ行くの。」
「どけぇいきょうんなら。」→「どこへ行くのですか。」
「あいつ、でぇ。」→「あいつ、誰。」
「あいつ、でぇなら。」→「あいつ、誰ですか。」
「なんで、そげんなことゆうん。」→「なぜ、そんなことを言うの。」
「なんで、そげんなことゆうんなら。」→「なぜ、そんなことを言うんですか。」
地方性を排除したオフィシャルな関東地方の言い回し(これを仮に「共通語」と呼びましょう)からは駆逐されてしまって、他の地方の方言には残っているという表現には、
形容詞の連用形ウ音便+動詞「ござる」
があります。現在残っているのは、「ありがとうございます」と「おめでとうございます」くらいでしょうか。
関東地方の駅、あるいは主要幹線鉄道の駅では、「危ないですから白線の後ろへ下がってお待ちください」といったアナウンスが流れますが、これがローカル鉄道だと「危のうございますから」になります。
これは、明治時代に本来は九州方言だった「です・ます」言葉が関東方言の「ござんす」言葉を駆逐したため、と考えられます。今でもお年寄りなんかは、「もったいのうござんす」「うれしゅうござんす」なんかを使います。
皇室の方々は「ございます」を「思います」と言い換えて、「もったいなく思います」「うれしく思います」などと使っていらっしゃいます。
関東方言で好きな言葉というと、「取着(とっつ)き」とか「〜方(っかた)」ですかね。共通語では、「入ってすぐ(の周辺)」、「〜の方(ほう)」にあたります。「入ってすぐ右の方」が、「とっつきの右っかた」となります。なお、「入ってすぐの右側」は、「とっつきの右手」。
ついでながら、「大阪のど真ん中」は正しく、「東京のど真ん中」は誤用。正解は「東京の真ん真ん中」。「でかい」(「ど・いかい」が詰まった)も「いかい」が正解なんだけど、最近は使われません。「この漬物はいかく(=大変に、大層)塩が利いている」なんていうのが、用例。
(Maria)
Mebiusさん wrote:
>人間界の群れにも入れないけれど、アスペの群れにも入れない。
>きっとそんなアスペ達が掲示板の向こう側にはたくさんいる。
>息を潜めているしかないから誰にも気付いてもらえない。
>時折、存在を主張したくなる。それが出来ないから辛くなる。
この事は理解できます。わたしも、ダイレクトメールで掲示板には投
稿していない様々な人からコメントをいただくことがあります。
でも、そのことを以って、「あなたは偽者だ」とか「あなたは自閉者
じゃない」と決めつけられてしまうのは辛いのです。
医学的な診断名というのは診断名を受けた本人にとって様々な意味を
持ちます。
(1)障害 (2)個性 (3)所属 (4)支援の対象 (5)弱者
(6)逸脱 (6)違い (7)アイデンティティー
で、わたし自身は現時点で(4)支援の対象や(5)弱者ではないと
いう意味では「自閉者」とは言えないかもしれません。
しかし、(3)所属や(7)アイデンティティーという意味では、ま
だ発達障害者であることを必要としています。特に(3)についてだけ
もう少し詳しく説明しておきましょう。
(3)所属
医学的には健常者とも障害者とも判断されなかったわたしにはつい最
近まで、問題を共有できる仲間がいませんでした。わたしが悩みを語っ
ても、障害者の世界では「あなたの問題は軽い」と片づけられ、健常者
の世界では問題の意味そのものが理解されにくいという現状です。
さらにネックになったのは、わたしが幼児の頃の診断基準では知的障
害がなければ発達障害ではないという風潮がありました。このため、「
健常者」と「発達障害者」の両方の特徴を持っている人はよくて個別対
応という形になってしまい、類似する問題を抱えた仲間に出会うことが
なく大人になってしまったのです。
このようなことがあって、わたしはLDとかASという「所属」を捨
てることはできないのです。問題を共有できる相手はこの世界にしか存
在しないので。
この件についてのコメントはこれで終りにしようと思います。
パックン wrote:
> 自閉症者のぱっくんです。
> 今日、親戚が集まって食事をすることになり、午後2時半には帰ってこら
>れたのだけど、ヘロヘロで、グッタリです。 結局、今日一日何もできず
>に潰してしまいました(こういった時、脳内では何が起こってんだろうね
>〜)。 アルコールを飲んだり、マッサージチェアに頼ったりしたけど、
>全然回復しない(シクシク)。
2年前まで、そのような状態が続きました。距離の近い人間関係が脅威
になってしまうわたしにとって、家族との接触はかなり精神的にこたえま
した。(ヘロヘロ)
ちなみに恋愛にはそれなりにあこがれを持っているけど、実現しようと
すればこの恐怖と戦わなければならないのかな、と思うと…(シクシク)
とにかく過度に感情的なやりとりのある場に出席するのは苦手です。
>で、この先だって、何かの集まりにも耐えていかねばならないわけで、も
>うお薬に頼ろうと思うんだけど(母がお薬が嫌いで、だから私もお薬が嫌
>いで、先生から貰ったお薬も飲んでいない。パニックだって、今のところ
>環境がいいから最近、ないし)、お薬で、こういった耐性が得られるんだ
>ろうか???
う〜ん。薬を使ってみたことはありますが、不快であるということ自体
に変わりはなかったような…。逆に薬の副作用でボーとしてしまうことが
あったので、やめてしまいました。
pocksさん、おはようございます。
pocksさん wrote:
>(1)彼等は私の自転車の近くに陣取っていた。
>(2)暗くなってから帰ると、自転車を壊される被害に遭うことがある。
>(3)遭遇は日没寸前
>
>いや、まさに究極の選択状態。(って、そんな呑気な話なのか、これ?)
う〜む、本当に究極の選択だなや〜。で、わたしがやっているもう1つ
の選択肢はわざと目立つように口論をすること。これは、恥ずかしがりや
な人にはお薦めできませんが…。
昔、中国の西安という所に行った時、西安人はしょっちゅう路上でケン
カをしていました。しかも、当事者同士はヤジウマをいやがるどころか、
ヤジウマに向かって自分が正しいということをアピールしながらケンカし
ているのです。で、このやり方は日本人には非常に有効でした。絡んでく
るような人間も、周りに人だかりができるとひいてしまうことが多かった
ので。
話を戻しますと、絡まれた時は、できるだけたくさんのヤジウマが出て
くる状況を作り出すというのも1つの戦略です。
pocksさん、おはようございます。
pocksさん wrote:
>(1)彼等は私の自転車の近くに陣取っていた。
>(2)暗くなってから帰ると、自転車を壊される被害に遭うことがある。
>(3)遭遇は日没寸前
>
>いや、まさに究極の選択状態。(って、そんな呑気な話なのか、これ?)
う〜む、本当に究極の選択だなや〜。で、わたしがやっているもう1つ
の選択肢はわざと目立つように口論をすること。これは、恥ずかしがりや
な人にはお薦めできませんが…。
昔、中国の西安という所に行った時、西安人はしょっちゅう路上でケン
カをしていました。しかも、当事者同士はヤジウマをいやがるどころか、
ヤジウマに向かって自分が正しいということをアピールしながらケンカし
ているのです。で、このやり方は日本人には非常に有効でした。絡んでく
るような人間も、周りに人だかりができるとひいてしまうことが多かった
ので。
話を戻しますと、絡まれた時は、できるだけたくさんのヤジウマが出て
くる状況を作り出すというのも1つの戦略です。
>Maria wrote:
>>
>> 面と向かって「気狂(きちが)い!」と言われた、という体験をされた方は多いと思います。
>>(←「多いわけねーだろ」といったツッコミが入るべくもないのがこの掲示板の恐いところ)
わたしのハンドルネーム「くると」(漢字に直すと狂人)の由来ですね。
「きちがい」「変な奴」という評価を受けてきたわたしの空想世界に中学生
の頃から登場してきた人物が「くると」という放浪の呪術師でした。
本人が狂気のレッテルを貼られた不可触民で、他人を発狂させる力を持っ
ているという設定でした。キャラクターの性格は今から考えれば、ASか分
裂病質人格障害の人の状態像に似ていますね。
わたしは中学の頃「20才ぐらいまでに死にたい」と思っていましたが、
空想世界の「くると」は20才で何百発もの銃弾を受けて銃殺される設定に
もなっていました。自分のことを投影して作った架空の人物だったと思いま
す。
すみません、つい興奮して岡山弁で一生懸命書いてしまいました。
ミッドランド wrote:
> 岡山弁独特の言い回しのひとつに「〜なら」というのがあります。
> この言葉、疑問文の末尾につけてさらに疑問の意を強める表現なのです。
>
> (用例)なんしょんなら。(なにしてるの。)
> どけぇいきょうんなら。(どこへ行くの。)
> あいつ、でぇなら。(あいつ、誰だ。)
> なんで、そげんなことゆうんなら。(なんで、そんなこと言うの。)
> 現在、岡山県在住の ミッドランド
うわ〜、でぇれぇ、なつかしいわ〜。私も子供の頃から数年前まで岡山におったけん、わかるわぁ。ぼっけぇなつかし〜。
こっち来てすぐの頃は、関西の人はどこ行っても関西弁しゃべりょうるのに私の岡山弁は全然通じとらんけぇ、えれぇ苦労したんよ〜。特に私は標準語と岡山弁の区別がようつきょうらんかったけん。今ではインチキ関西弁を喋るようになってしもうたんじゃけど、岡山とか広島とかの人におうたら、やっぱり岡山弁で喋りとうなるんよ。
仕事の同僚に「昨日、○○しょうたんじゃぁ」ってゆうたら、(この同僚は大阪人で、関西が世の中で一番エラいと思っている、すごい人)
「はぁ?」
「昨日、○○しょうたんじゃぁ」
「はぁ?」
「じゃけぇ○○しょうたんじゃぁ」
「はぁ?」
ここで「しょうたんじゃぁ」の部分通じとらんことに気が付いて「○○しててん」と言い直してようやく通じる、ゆうことがあったんじゃぁ。岡山弁しゃべっとったらおえんなぁ思うたのは、これがあってからなんじゃ〜。それからは、関西のアクセントを一生懸命覚えたんよ〜。でもやっぱり私にとっては岡山弁が一番!なんじゃ。
やんちゃんさん wrote:
>「進行形は『○○しょうる』、完了形は『○○しとる」というのです。共通語に、こんな区別があるかっ!?ないでしょー。ゆえに方言はえらい。そう思いません?」
>
>↑これは高校1年のときに岡山弁について書いたもので、実際提出したものです。
>今思うと勇気があったなと思えるのですが、なんでもこんな調子でした。
>場所によって適用できる文体というのは違うので、堅めの文章も読んでおくのは必要だったなと反省しております。
岡山弁独特の言い回しのひとつに「〜なら」というのがあります。
この言葉、疑問文の末尾につけてさらに疑問の意を強める表現なのです。
(用例)なんしょんなら。(なにしてるの。)
どけぇいきょうんなら。(どこへ行くの。)
あいつ、でぇなら。(あいつ、誰だ。)
なんで、そげんなことゆうんなら。(なんで、そんなこと言うの。)
ちなみに上の用例、「なら」をつけなくても十分疑問文として通じます。
わしは子供の時分に当たり前のごとく使っていた言葉だったのですが、大きくなって、共通語にこのような表現が見当たらないことに気づきました。
大学進学のため岡山から単身横浜へ来たとき、なぜか話をするとき「なるべく方言を使わないようにしよう」と思ってしまいました。そのせいで、わしの話し言葉は方言と共通語が入り混じった、妙チクリンなものとなってしまいました。
どうやら「周りに合わせよう」の思いが働いたようです。
方言自体は「地元文化の一端」の意味からも素晴らしいものです。しかしわしは周りに合わせようと思うあまり、わざわざそれを覆い隠してしまったのです。人付き合いがうまくできるように、ヘンに思われないようにと思って。
自分自身がすでに「AS」という「異文化」だとも気づかず、無理に協調しようとしていたのです。無駄なことをしたものです……。
今のわしは、もうそんな無駄なことはするまいと肝に銘じています。ただし、こうして掲示板に書くときは、共通語を使うようにはします。全国で目にされる場所ですから、全国の人にわかるように、ということからです。
これが「使い分け」というものですね。
現在、岡山県在住の ミッドランド
武田好史 さんwrote:
>
>そこでみなさんに質問です。
>
> あなたが思うところ、「これは譲ってはならない」という日本の良いところは、どんなところですか?
日本人が日本人でいられること。
冗談に聞こえるかもしれませんが、煎じ詰めて言うとこうなると思います。幕末のころは他国に植民地化される危険おおいにあったと思います。終戦後はドイツや今の「朝鮮」のように二分化されていた可能性だってあります。世界には国家を持たない民族はいくらでもあります。日本が秀吉以来数百年間統一国家でいられたのは幸せだったといわねばなりません。将来は世界統一国家が誕生するかもしれません。けど日本の文化は守っていかねばなりません。過去を否定しては将来はなりたたないからです。
> また逆に、「真の国益のために、これは改めなければならない」という、よくないところはどんなところですか?
己を信じる力がチト弱いところ。
今の科学技術文明の多くは、欧米人がつくったものです。だからかしらん日本の知識人諸君は欧米人の言説に振り回されすぎていると思う。将来のことなんて誰一人わからないんですよ。生きていくには己の感覚信じるしかないんです。自分の感覚をみがき、自分の意見や生き方を正当化する術日本人は下手だと思いますね。
話は少しずれますが、日本の教育で悪いところを一言でいうなら、一方通行だということに尽きると思います。教師から生徒への知識のやりとりがー方通行だということです。どんな学問であれ全ては関係のなかで成り立つものだと思います。法律や経済であれば人と人の関係、科学なら観察する人と対象物との関係です。全ては相対的なものであるはずです。それを教師は、理論や法則をはなから自明なことのように、絶対的真理であるかにように教え込むのです。敏感な若い人の脳がパニックおこすのは当たり前です。
私は20歳代のころ親に無理いってアメリカの英会話学校に行かせてもらいました。その時大学の授業風景覗き見る機会ありました。驚いたのは(一般化するのは危険かもしれないが)生徒の態度が無作法なのと、なにかにつけ教師は生徒に発言を求めるし、生徒は必死になって自己主張しようとするのです。悪く言うと騒々しいんです。けど良く言うと熱気があるんですね。起立、礼、着席で始まる静かな日本の授業とは対照的でした。アメリカの教育がすばらしいと言うつもりはありませんがね。少なくとも教師と生徒の間にコミュニケーションあるように思うんです。コミュニケーションあるからものごとの関係性が解かり、距離の取り方もはかられるんじゃないかと思うんですね。言葉としてあるいは数式であっても、できあがってしまったものは、すでにぬけがらです。そんな知識や技術は本やコンピューターに保存すればいいのです。人が真に喜びをかんじるのは、自分自身による発見であり、感知することであり、それと関係しあえる事だろうと思います。
また抽象的になってしまった。もう寝ようっと。
Mariaさんwrote:
では、私たちはいわゆる「普通の人」のように、「他己」として他者を理解することは不可能なのでしょうか?ということになるんですが……「ある程度は可能」なんですよ、確かに。ですが、私たちに苦手なのは、むしろ「異化」のプロセスだったりするわけです。「自己であって自己でない」という中途半端な存在としての「他者」という概念が、実感として得られない。「心の理論」に基づいた課題がうまくクリアできないのは、「心の理論」が厳密に構築されていないためというよりも、対象となる他者に貼りつけるべき「他己」が、自己とはっきりと分化されず、自己をそのまま「他己」として貼りつけちゃうからなんじゃないかな、とも思うわけです。
こんばんは。私は↑とは全く違います。他者はどこまでも他者であり、
決して私の心の中とは同調するものではない、と感じています。
他者と共感することはあっても、同化はしません。
固い殻がある、と言うか...。
★「強くなりたい」のぱっくんさんへ
薬も使いようでかなり楽になりますよ。私もいつまでも内面は脆弱なままだけど、
薬の使用や、思考回路を変えたり、自己コントロールで自分なりに外面は強くなりました。
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