アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
赤ちゃん言葉について補足。
子どもに対して、「〜しようね。」「〜しましょうね。」と語りかけるより、もうちょっといい方法があるような気がします。
日本語において、規則活用動詞の活用の形は、いわゆる「連用形」のうち、「ない」がつづく形で判別することができます。ですが、日常的によく使う形は、いわゆる「終止形」、つまり「連体形現在」です。
そこで、「××ちゃんは、××を、食べる(ここで、野球の「セーフ」のポーズのように、手をテーブルを拭くように水平に動かす。「心が平らである」「イエス」のサイン)、食べない(物を捨てるように、掌を下に向けて動かす。「ノー」のサイン)、食べるー!(ここで再びイエスのサイン)」とかやるわけです。
これで、子どもが「食べたくない」とか思ったら、ここでたぶん抵抗するはずなのね。
同じように「禁止する」場合(たとえば「玩具を食べない」とか)の場合は「食べないー!」とかやるわけ。アメリカン・サイン・ランゲージだと、「イエス」の場合は満足げな表情、「ノー」の場合は、「見たくもない」みたいな不快な表情をして顔をそむけます。
これを続けていたら、そのうちに「イエス」「ノー」のサインを自分で出しそうな気はするのですよね。ひょっとしたら、表情も真似してくれるかもしれません。
まあ、これも思いつきです。笑ってやってください。
なお、「笑う」のサインは、肘の高さで、掌を上に向け、物をつかむように指を曲げ、小刻みに震わせる、です。顔は笑ってください。ははははは。
(Maria)
くると(複合型LD)です。今回は成人LDの会とは全然関係ないんです
けど…。
実は、精神分裂病を患っている友人と8月11日(土)の東京湾の花火大
会に行く予定だったんですけど、友人の方がキャンセルになってしまいちょ
っとさびしいっす。(シクシク)
そんな訳で一緒に花火大会に行ってくれる仲間を募集します。時間は午後
7:00〜8:20までです。
もし希望者がいれば詳細をお知らせしますので、この掲示板に参加希望を
書きこむか、下記のメールアドレスにメールを送ってください。
(連絡先)seijinld@msg.biglobe.ne.jp
まあ、騒がしい場所が嫌いな人にはお薦めじゃないけど…
(P・S)
あ、言い忘れてました。広島と福岡のオフ会に参加する都合で、8月3日
〜7日まで家を留守にします。この期間はすぐに返事を書けませんが、必ず
帰ってからチェックするのでご心配なく。
「言語学における基礎概念に、主語と述語の主従関係、というものがあります。
この“述語”という言葉は相当にややこしい問題を含んでおるので、祟りをなさ
ないように、[述語]とカッコに入れておきましょう。」
「つんつん」。つついたりして。
「つつくなぁーっ!」
「はーい」。何もそんなふうに怒らなくても。
− 救世義也、『日本語文法の「なぜ」に答える』より引用
正高信男、『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書)がおもしろいです。
で、この本の中にはけっこう愕然とするような指摘がなされているのですね。
たとえば、「自閉症児には赤ちゃん言葉がない」ことから、「自閉症児教育には赤ちゃん言葉は必要ないのでは?」と考えてしまいそうになったことが、あたしには一度ならずありました。
ところが、です。そもそも「赤ちゃん言葉」というものが、日本以外の、特に欧米諸語には存在しないのだそうです(P.61)。
で、面白いことに、日本語には名詞の性による語尾変化というものがありません。単数形・複数形の区別というものもありません。つまり、名詞はいつも同じ形で出てきます(例外は、「あめ(天/雨)→あま」「かね(金)→かな」「ふね(船)→ふな」「さけ(酒)→さか」などと、複合語の連音濁にほぼ限られます)。
そんなわけで、助詞を省いた「赤ちゃん言葉」というのは、言語獲得の雛形としてはけっこうよくできている気がします。それに、日本語では大人でも「てにをは」を省略する傾向にありますし、そもそも「重要でないものは省く」という態度が徹底した言語でもありますから、赤ちゃん言葉から大人の言葉への以降はそれほど困難ではなかったりします。
そんなわけで、「赤ちゃん語」の語法の中に、「非・言語的(ノンバーバル)な意味表現構造」みたいなものが、わりと素朴な形で内在しているんじゃないかなぁ、みたいな予想はしていたりします。
それからもうひとつ。「指差し」というのが、「つんつん」に由来するという、「つんつん起源説」(←こういう名前では出てきません。あしからず)というのがあります。
つまり、子どもは、「未知なるもの」に遭遇すると、思わず「つんつん」してしまうわけですね。それに対して、親が反応する。これが繰返されることによって、「対象をつんつんする」→「親の注意が対象に向く」という因果関係が形成されるとみるわけです。
自閉症児は周囲との関係性を持たないので、「対象をつんつんする」ことと周囲の人間の反応とを結びつけて考えることがなく、その結果「指差し」が生まれない、ということが言えると思うんです……が、これ以外にも原因がありそうな気がするんですよね。
「正常な」子供の場合、親は「子供がつんつんしている対象」に意識を向けます。これはつまり、「子供を信頼している」からなんですね。ですが、「障碍を持った」子供の場合、親は「つんつんしている子供」に対して過剰に反応してしまいそうな気がします。つまり、「いろんなものを軽々しくつんつんしないように」というふうに、意識が行ってしまう。その結果、「対象をつんつんする」→「親の注意が対象に向く」という因果関係の形成が阻害されちゃうわけです。
ですから、子供が何かをつんつんしようとしたら、子供を押しとどめようとするのではなく、その「対象」を取り上げるというのが指導法として適切なのかなー、と思います。あるいは、「つんつん行動」から「指差し」を引出すような療育プログラムを用意する、とかね。
そんなわけで、正高信男『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書)、おすすめです。
「はにゃはにゃー」
「へにょへにょー」
「えーん、わかんなくなってしまいましたー」。しくしく。
「みなさい。[述語]の祟りです。」
「うーん。つついたのがいけなかったのか。」
− 救世義也、『日本語文法の「なぜ」に答える』より引用
(Maria)
シンタロウ wrote:
>どうも、シンタロウです。
>僕は8月3〜4日に楽器製作の専門学校の夏期講習へ行ってきます。夏期講習では>面接と作文と適性検査があります。僕は人と面と向かって話すのがものすごく苦手>です。誰かアドバイスをしてくれませんか?
こんにちは、シンタロウさん。そんなに深刻にならないで良いと思います。
相手は、とりあえず、普通の反応をする人か、一応働ける人か、というのを
簡単にチェックしたいだけですよ。質問にまじめに答えて、パニックにならない
よう気を付けるだけで良いんじゃないですか。
★面接→合格、お祈りしてますね。
シンタロウ
>僕は人と面と向かって話すのがものすごく苦手です。誰かアドバイスをして
>くれませんか?
宮本武蔵の『五輪書』には、「二星の目付(拳の動きを見る)」「峰谷の目付(両腕の動きを見る)」「遠山の目付(肩を中心に上体全体を見る)」というのが出てきます。で、いずれにせよ相手の目は見ないのね。
で、面接なんかで有効なのは、両肩を結んだ線の真ん中、つまりいわゆるVゾーン(ネクタイの結び目あたり)を中心にして、相手の上体全体を見る「遠山の目付」です。相手がリラックスしているか、緊張しているか。乗り出してきているか、退いて構えているか。そういうところを見ます。
ただし、そこを見っぱなしだと、「下を向いてボソボソ喋っている」という感じになって印象を悪くするので、相手の話、こちらの話の要所要所で相手に視線を送ります。このとき相手の目を見ちゃうとヤバいので、「眉」を見ます。
で、そのときの表情。
鏡で自分の顔を見てください。で、リラックスしつつ真面目な顔、つまり、何かに熱中しているときの顔をします。口は閉じること。次に、そこから「目を見開かないように、眉を上げる」ようにしてください。これが「なるほど」の表情。で、ほんの少し。分るか分らないか程度に、軽く頷きます。これが、相手の話を聞きながら、自然にできるよう練習します。
あとは、慣れ、でしょうか。
なお、「相手の言ったことを、自分の言葉で、言い方を変えて相手に問い質し、確認を取る」というのが適切にできるようならかなりの上級者。
(Maria)
みどりさん wrote:
>人並みという言葉もおもしろいな。ヒト並とか書くと、「人間なみ」との区別が
>だんだんあいまいになってきて。
月並みの小惑星は、月並みでなく大きい。
(Maria)
タレイヌさん wrote:
>マカトン・サイン と、言うのが、あるようです。
>自分の、欲求の表明を、促すこと、から始まります。
>簡単な、絵カードや、指文字が、発音と組み合わさっています。
戸部けいこ、『光(ひかり)とともに… 自閉症児を抱えて』、秋田書店
の中に、自閉症児童とコミュニケーションを取るのにポラロイド写真を使うという方法が出てきます。
ただ、動詞と文法格(てにをは)を表わすのが難しいんですよね。そこで、「名詞:絵や写真」「動詞:手話」「てにをは:語順」というのが、ひとつの方法ではないかと。
> Mariaさんの、書き込みには、いつも多くのことを考えさせて頂いてます。
> 有難うございます。
いえいえ。こちらこそお役に立てれば嬉しゅうございます。
(Maria)
どうも、シンタロウです。
僕は8月3〜4日に楽器製作の専門学校の夏期講習へ行ってきます。夏期講習では面接と作文と適性検査があります。僕は人と面と向かって話すのがものすごく苦手です。誰かアドバイスをしてくれませんか?
いつもながら本筋を無視してからむ、違った、気になってしまうみどりです。
Maria wrote:
> ところが、「身ぶり手ぶりが理解できない」「身ぶり手ぶりを交えて話されると混乱する」といった自閉症者って聞いたことあります?ないでしょう?
これおもしろいですよね。自閉症者かいなかは問わないとして、「視覚認知能力も運動や言語の能力も十分あるのに、身振り手振りをひと並みに理解できない」という障害はあるのでしょうか?
# 人並みという言葉もおもしろいな。ヒト並とか書くと、「人間なみ」との区別がだんだんあいまいになってきて。
Maria wrote:
> いわゆる「言葉の遅れ」は最大の謎です。確かに言葉はあるのに「喋らない」ケースがけっこうあるんですよ。中では発達しているのに、表に出てこない。で、いわゆる「赤ちゃん言葉」がない。まるで外国語を学習しているみたいに母国語を理解しているらしいことは分るんだけど、じゃあ自閉症児の母国語って何なの? 音声言語によらない意味構造っていうのが存在するの?
いつもながら、自分の都合だけで、ちょっとだけ、書き込みさせてください。
マカトン・サイン と、言うのが、あるようです。
自分の、欲求の表明を、促すこと、から始まります。
簡単な、絵カードや、指文字が、発音と組み合わさっています。
音声言語によらない意味構造は、生理的欲求として、基盤にあるとおもいます。
―――すみません。
「コミュニケーション」という、「高度な音声言語表明」の、お話なのに、凄くレベルの、低次元なこと、書きました。
ただ、体の自然発生的要求と、言語表現が、奥底で繋がることで、言葉に、本当の「存在意味」が、持てるのではないかしら・・・と、思ったのです。
Mariaさんの、書き込みには、いつも多くのことを考えさせて頂いてます。
有難うございます。
(タレイヌ)
武田好史さん wrote:
> 最近私は気がついたことがあります。
> それは自閉症の人にとって、気持ちというものはどうも耳から入ってくる
>ものらしい、それが自閉症の人が「アイコンタクトが乏しい」と言われるゆ
>えんではないかということです。
あたしは自閉症者のアイコンタクトの欠如は他者認識の発達の遅れによるという説を取っているので本当は武田さんとは意見が異なっているのだけれど、確かに(すでに他者認識を獲得している)自閉症者に「視線忌避」の傾向があるとは思うんですよ。
たしかサルを使った実験なのだけれど、脳には二つ並んだ点に反応する「目玉細胞」があるという話があります。したがって、視線を意識するというのは「生得的なもの」だという認識がありました。ところが実際には「視線」という概念は「指差し」同様後天的に獲得されるものなわけです。だとすると、他者認識を獲得した自閉症者が遅蒔きながらアイコンタクトを獲得することはあっていいはずなんですよね?
で、あたしはこれには二つの理由があるように思うです。
ひとつは「緘黙」と同様のメカニズムで起きる視線忌避。「視線緘黙」とでも呼びましょうか。視線というのは、「感じ取るもの」であると同時に「発するもの」でもある(「睨みつける」「目を伏せる」など)わけで、自閉症者はこの視線を含めた表情を適切に(健常者にとって、ですが)作ることができない。さらに、「視線をまっすぐに向ける」というのは、多くの場合攻撃的な意味を持つわけです。
つまり、シャイな人がサングラスを掛けるのと同じ理由で、「視線緘黙」は生じるのではないかと。
もうひとつは、運動学習に関わる意識的な運動系と、無意識的な運動系の競合を避けるため、というのがありそうに思います。
> 逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、
>「視覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→
>分析→動作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
「自閉症者は不器用」という話があります。これは、自分がどのように歩いているかについて考えたとたんに歩けなくなってしまった寓話の中の百足(むかで)のように、あるいは自分のフォームを意識すればするほどフォームがぎこちなくなってしまったスランプ期のスポーツ選手のように、「視線」を意識することで「自己」を意識することになり、意識的運動系と無意識的運動系の競合が起きる、ということなんじゃないか、と思います。
ただ、この説には大きな穴があります。「視線」の獲得は後天的なものだから、意識的運動系と統合されちゃえば競合は起きないんじゃないの?ということ。つまり、「視線」を言語の一部として統合することがなぜできないの?ということです。
これに対する一つの答えが武田さんの「視覚・聴覚競合仮説」なんですが、だったら身ぶり手ぶりといった視覚言語と聴覚言語の競合だって起こるはずですよね? ところが、「身ぶり手ぶりが理解できない」「身ぶり手ぶりを交えて話されると混乱する」といった自閉症者って聞いたことあります?ないでしょう?
そこで考えたのが、「目玉」の認識は生得的である、という話なんです。つまり、「目玉」の認識は生得的なんだけど、「目玉→視線」という径路の獲得が後天的なのだと。それに対して身ぶり手ぶりの理解は本来的に後天的です。ですから、「視線」というものは「目玉」の認識という生理・本能に近い部分から訴えかけてくるがゆえに、強烈なものだから意識的な言語活動を混乱させる、ということなんじゃないでしょうか。
さて。感覚の中で、味や匂いというのはやはり脳の深いところ、つまり周辺野(辺縁系)において処理されます。自閉症者が味や匂いに敏感、あるいは強いこだわりを持つ、というのは、それが「感覚の中でもダイレクトに無意識に訴えかけるもの」だからなんじゃないでしょうか?
まあ、単なる思いつきではあるのですが。
(Maria)
武田好史 wrote:
こんにちは、武田さん。
>つまり気持ちを読みとるとき、私たちはどうも聴覚に頼ってしまう傾向があるよう>で、それがスムーズに行かないときに、「気持ち=聴覚+視覚で読める」という普>通の人と摩擦が生じてしまいやすいのではないかということです。
> 逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、「視>覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→分析→動>作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
私に限って言えば、すごく気分屋(この言葉はわがままみたいであんまりすきじゃないんだけど)なので、雰囲気が合うか合わないか、が
すごく重要なので、「気持ちを読み取る」のが視覚より聴覚より、何というか
波長というか、「私が嫌いではない、行動をとる人」に結果なっているようです。ごめんなさい、なんだか自分の事ばかり言い募ってますね。
だから、いきなり独り言を言う人や大きな音を立てるがさつ?な人は周りに
いられると、とてもつらいです。
Mariaさんwrote:
>いわゆる「言葉の遅れ」は最大の謎です。確かに言葉はあるのに「喋らない」ケー>スがけっこうあるんですよ。中では発達しているのに、表に出てこない。で、いわ>ゆる「赤ちゃん言葉」がない。まるで外国語を学習しているみたいに母国語を理解>しているらしいことは分るんだけど、じゃあ自閉症児の母国語って何なの? 音声>言語によらない意味構造っていうのが存在するの?
私は喋りたい時は喋りっぱなしで相手に悪いなあと思うんだけど、出来れば言語は
使いたくないのが本音です。言葉って耳に障る単語が時々合って嫌だな、と思う
時があるので。(語尾を上げるフレーズとか)
アイコンタクトで全て済めば良いな、と最近思うTienでした。
すみません、お二方に妙なレスで...。
最近私は気がついたことがあります。
それは自閉症の人にとって、気持ちというものはどうも耳から入ってくるものらしい、それが自閉症の人が「アイコンタクトが乏しい」と言われるゆえんではないかということです。
つまり気持ちを読みとるとき、私たちはどうも聴覚に頼ってしまう傾向があるようで、それがスムーズに行かないときに、「気持ち=聴覚+視覚で読める」という普通の人と摩擦が生じてしまいやすいのではないかということです。
「視線が合わない」は、「目は見えている、しかし見えるのは物の輪郭線にすぎず、例えば話をしているときの口のように細かい動きを伴った物は見づらい」「模写や動作の模倣が苦手」「奥行きや物の長さなど、空間の広がりをうまく把握できない」という私たち独特の「視覚→分析→動作という系統の不具合」を補うために、目が見えない人と同じように、聴覚系を活発に働かせて、相手の気持ちを読みとろうとしているということではないでしょうか?
逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、「視覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→分析→動作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
自閉症方面の人間というのは集中力がすごい、という印象があるように思います。
だけど、それって違うかもしんない、とかちょっと思ったりするのですね。
「集中する」というのは、実際には「不要な要素を排除する」ということだったりします。ところが、自閉症方面の人間にとっては、そもそも「関係のある要素」自体がかなり少ないのですね。だから、もともと入ってくるものが少ない。物理的な刺激ではなくて、「意味のあるものとして捉えられる刺激」が、ですが。だから、自閉症方面の子供は、難聴と間違えられやすい。
普通の人が集中することが苦手なのは、不要な要素を排除した結果、外界に対して無防備になってしまうからなんですね。つまり、外界に対して無防備になっている状態がストレスになってしまうものだから、消耗してしまう。
女性よりも男性のほうが物事に熱中しやすい、というのは、女性のストレス耐性が低いせいかもしれません。「男と女の共同作業は、女が上になると具合がいい」という説があったりします(まあエッチ)。これも女性が意志決定(リーダー)、男性がフォローという立場だと、女性はストレスを感じることなく集中ができて作業がはかどる、ということのようです。
とーこーろーがー、子供が集中していると、大人は善意で、子供は悪意で、介入してくるんですね。これが、すっ……ごいストレスになります。だから自閉症方面の子供は一人で遊ぶようになっちゃうんじゃないかな。私がそうだったし。
自閉症方面の子供の特性は、子ども自身の特性から来るものの他に他者との関係において生まれるものがあって、それがどういうメカニズムによってそうなるのかを理解するのはなかなか大変です。たとえば「自閉症の子どもは頷かない」というのがありますが、インドでは「イエス」は首を横に傾(かし)げるのね。したがって、これは他者との関係によって生まれるもの。だけど、「視線が合わない」はそうではありません。
いわゆる「言葉の遅れ」は最大の謎です。確かに言葉はあるのに「喋らない」ケースがけっこうあるんですよ。中では発達しているのに、表に出てこない。で、いわゆる「赤ちゃん言葉」がない。まるで外国語を学習しているみたいに母国語を理解しているらしいことは分るんだけど、じゃあ自閉症児の母国語って何なの? 音声言語によらない意味構造っていうのが存在するの?
『日経サイエンス』の9月号によれば「存在する」っていうことなんだけど……じゃあ、聴覚障害児と自閉症児の発達には何か関連性があるの? 音声言語ではない自然言語……「アメリカン・サイン・ランゲージ」(映画『黄色いリボン』や『ソルジャー・ブルー』でアメリカ・インディアンが使ってたやつ。ちなみにあたしはカタコトだけど使えます。サンディエゴのオールド・タウンで試したら通じたぞ)みたいな形で、言語発達を促すような有効な働きかけの方法があるの? こういうことについては、まだ未知数です。
……まあ、あんまり背伸びしてもよくないとは思ってます。現代科学はまだ「自閉症」というものをよく理解していないわけですから。ただ、「これからの課題」と、「進むべき方向らしきもの」だけは示しておきたいと思います。
(Maria)
最近思ったこと。
無意識には時間概念がありません。順序概念だけがあります(時間経過の感覚というのは別にあります)。で、順序概念から時間概念が発生する原因は、「不可逆性」だと言われています。つまり、「取り返しがつかない」体験の積み重ねが「時間」という概念を生むのだと。
そこで、です。ひょっとしたら、「他者」の概念は、「思い通りにならない」というストレスの積み重ねによって生まれるのではないかな、と思うのですよ。となると、「敵対」「憎しみ」といった感情のない自閉症方面の人間は、「他者は他者なりの理屈で動いている」という意味での「他者」は理解することができるのだけど、「相手の意図を推測し、自己の行動原則とは無関係に相手の意図に逆らう行動をする」という意味での「意地悪な他者」というのは理解不能な気がします。
そうすると、ウタ・フリスのいう、いわゆる「サリー・アン課題」の解釈には、ちょっと無理があるように思います。以下はXanadiiさんのカキコからの丸写し。
《サリーはカゴをもっていて、アンは箱をもっています。サリーはビー玉を自分のカゴにいれました。サリーは外に散歩に出かけました。サリーが部屋にいない間に、アンは(いじわるなアン!)カゴからビー玉を取り出して、それを自分の箱に入れました。さて、サリーが帰ってくる時間です。サリーは自分のビー玉で遊ぼうと思いました。サリーはビー玉がどこにあると思うでしょう?サリーはどこを見るでしょう?》正答はカゴの中です。サリーはビー玉をそこに入れたので、ビー玉はまだそこにあると信じているはずだからです。この解答は、信念の理解を前提としています。実験結果は、自閉症児は信念とは何かを理解していないことを示唆していました。サリーは、ビー玉が移されたときそこにはなかったのに、それを知っていると彼らは思い込んでいました。彼らは、ビー玉が現実にあるところを見ようとするサリー以外は思い描くことができませんでした。(『自閉症とアスペルガー症候群』ウタ・フリス編著/冨田真紀訳・東京書籍 p.46)
「サリー・アン課題」って、「いじわる」を理解しているかを判定するテストじゃありませんよね? で、この問題文には、アンは籠がサリーの所有物であるとか、ビー玉がサリーの所有物である(らしい)とかいったことを知っている、といったことは書かれていません。まあ、この時点で「所有する(もっている)」ということの意味について議論するのはやめておきましょう。で、おそらくは元の問題には、『(いじわるなアン!)』といった字句は入っていなかったはずです。で、「いじわる」でない子供は誰のものともわからないビー玉を自分の箱の中に入れてしまったりはしないわけです。
ですが、「サリー・アン課題」は、重ねて言うけど「意地悪な子供が悪戯をする」という「状況説明」を見出せるかどうかのテストではないわけです。
だとすると、この課題において、「アンはサリーが箱の中にビー玉があると知りうると信じるに足る事実を知っていた(それがどういう理由かは不明にせよ)からビー玉を箱の中に移した」と推定しておかしくないわけです。
たとえば、こんな問題はどうでしょう。
ある人が、昼休みに高いビルの窓から下を見ていました。すると、以下のような光景が目に入りました。
1)警官A・Bがパトカーである建物の正面に到着した。
2)警官Aは正面入口から建物の中に入った。
3)警官Bはパトカーを裏口に回した。
質問)では、警官Aは正面入口から出てくるか? それとも裏口から出てくるか?
この問題が「サリー・アン課題」と同じ構造をしているとしたら、答えは
警官Aは正面入口から出てくる。
理由)警官Bがいじわるだから。
ということになるはずですよね?
とはいえこの場合、この建物で何が起きているのかも分らないし、警官Aと警官Bの間にどれほどの意志の疎通があるのかが定かでないというのもあるし、「警官はふつう無線機を持っているという常識を考慮に入れていいのかもわからないから答えの出しようがない、という意見もありえます。
ですが、「具体的にはよく分からない」という状況がまずあって、警官Bが裏口に回ったということから、「警官Bは警官Aが裏口から出てくると信じている」という推測が出てきて、「ならば警官Bにとって、警官Aが裏口から出てくると信じるに足る根拠があるのだろう」となって、「警官Aと警官Bの間で、警官Aが裏口から出てくる予定であるという合意がなされているのだろう」という推測も成立つわけです。
だったら、「アンはサリーが箱の中にビー玉があると知りうると信じるに足る事実を知っていたからビー玉を箱の中に移した」という推測だって、間違いとはいえないでしょう?
あるいは、こんなのはどうでしょう。
1)教授は患部の切除と縫合を行なうと、手術室を出てソファーに横になった。
2)手術助手は切開部の縫合を行ない、患者をICUに移送した。
質問)数時間経って、教授は目を覚ました。教授は手術室へ向かうか? それともICUに向かうか?
答え)手術室。
理由)手術助手がいじわるだから。
……違うって。
そうすると、いわゆる「心の理論」に基づくテストというのは、いわゆる「やんちゃ」「気まま」「わがまま」といった「子供らしさ」を自閉症方面の子供が理解できるか?という「子供らしさ」の理解度をチェックするテストでしかないのじゃないだろうか?と思ってしまうのね。
だけど、自閉症方面の子供に「子供らしさ」を求める必要はたぶんないし、「幼稚園でうまくやってゆける大人」に育ってもらっても困るんですよ。そうじゃなくて、「社会でうまくやってふける大人」に育ってもらわなかったら困ります。
とはいえ、実際には世の中で問題を起こすのは、感情に振り回されて分別をなくし、理性的な行動を取れなくなる、幼稚園児みたいな「子供じみた」大人だったりするんですよね。じゃあ、そういった「悪意」だとか「意地悪」だとかいったものを考慮に入れて生きれば安全かというと、そうでもなかったりするわけです。
うちのJoshyaさんは、「自分の悪意や意地悪を考慮に入れて行動されると攻撃的になる、悪意を持った意地悪な人」を上司に持つという悪夢のような状況を何度か経験しています。こういうのを「棒を挙げて犬を呼ぶ」といいます。行けば叩かれ、呼ばれて行かなかったらもっとひどく叩かれる。最初から叩かれる覚悟で行くと、「その目はなんだ」とかいって叩かれる。しょうがないから「叩かれる」という結果を考慮していないふりをして行く。そうすると「問題意識が足りない」とかいって叩かれる。
対決姿勢を漲(みなぎ)らせて行く、という手もあるのだけれど、それをすると「職場の和を乱す」「躾けがなってない」とかいってまた叩かれる。
……あーあ。
躾だとか教育だとか指導だとかに名を借りた虐待というのは、つまるところ逃げ場がないところに不幸があるのですね。で、我々のように「普通の人」と感性を共有するのに不自由な人々というのは、こうした虐待の構造に取りこまれやすかったりします。
あたしたちは子供たちに何を教えたらいいんだろう……
(Maria)
マザーさん wrote:
> いまではそういう、悶々とした日々ではなくなってきたけど、ASという壁
>に立ち塞がれてしまっています。
>
> ミッドランドさんの強さがほしいなぁー。
わしは自分では精神的にも肉体的にも「強い」という自覚はありませんねー。
にもかかわらず、ハンディ背負っててここまで来て、仕事して金もらえるまでになった要因は何か、わしなりに考えてみました。
#「無自覚の耐力」
どうもこのようなものが、わしの心の根底にあったように感じるのです(「体力」じゃなくて、「耐力」ですからね、念のため)。
「無自覚」と言うだけあって、これが具体的にどんなものなのか、自分でもよくわかりません。抽象的に言えば、「極限状態になったときでも、決して『人間として生きるチカラ』を失わせないように働くチカラ」といったところでしょうか。
わしの勝手な推察ですが、人間誰しもこの「無自覚の耐力」を内に秘めており、「生きるチカラ」を失うのは「無自覚の耐力」を完全に失ったときであると考えます。
わしも何度も「生きるチカラ」を失いかけたことがありました。「死にたい」と思ったり、社会で通用しない人間だと思ったり、職につけず自分を見失いかけたり……それでも今日まで生きてきました。特にわしの場合は「余計な人生経験」を何度かしているので、「無自覚の耐力」があったお陰だ、と感じずにはいられないのです。
それでいくと、この「無自覚の耐力」、人生の大きな謎になるかもしれませんね。
最後になりましたが、マザーさん。
息子さんはきっと「無自覚の耐力」をもって、自分で生きていけると思います。まず息子さんに、何か働きかけ(大検受験など)をしてみてはいかがでしょうか。
人の心は得体の知れないものだらけ ミッドランド
Jane Doe wrote:
> You might or more heard today's a two fish.
>
> − 言ふまいと思へど今日の暑さ哉
デバートの 扉一つで 別世界
夕日時 桃色きれい 胡麻の花
汗浮かび 水玉模様 シャツに出る
笑っている フェンスにかかる チビ西瓜
夕立の 予報はずれて 暑き明日
Maria wrote:
>
> バンドをやってると、しばしば「技術屋」と言われるメンバーのいるバンドを見かけます。だいたいドラムスかベースといったリズム隊なんだけど。Xanadiiさんもemmaさんも、そのタイプなんじゃないでしょうか。
>
僕はベースをやってましたけど、バンドの練習の時ドラムとリズムが合わなくていつもヘマばかりしてました。そんなある日、僕や僕のバンドを嘲笑した他のバンドの人(彼もベース)がいろいろアドバイスしてくれました。そのおかげで、ライブはなんとか(ちょっとミスしちゃったけど)成功しました。あの時、アドバイスが無ければ爆笑の渦になってたかもしれなかったです。
You might or more heard today's a two fish.
− 言ふまいと思へど今日の暑さ哉
pocks wrote:
>>アスペ同士でも群れないのかな?
>
>大人の場合はよくわからないのですが。
>
>外国の、自閉症児ばかり集めた施設で子供が遊んでいる光景が、一見普通に
>賑やかだけどよく見るとてんでばらばら、だそうですから、子供に関しては
>「群れることはない」と言えそうです。
これについてはちょっと事情が複雑だと思います。わたしが面識のある自
閉児に関して言えば、
(1)群れることを嫌がるが、2,3人の仲間となら遊ぶことができる
(2)群れに積極的に参加しようとするが、なんとなく群れのルールが理解
できていない
(3)人と接すること自体が嫌そう
(4)一見すると対人関係に問題がなさそうに見える(うまく健常児の挙動
しぐさをコピーしてしまっている)
というタイプの子供がいます。でも、テレビの登場する自閉児のほとんどは
(2)か(3)のタイプです。(1)や(4)のタイプの子では自閉症の特
徴を強調することができないせいかな???わたし自身は(2)のタイプの
自閉児と接した機会が多いです。
大人について言えば事情はさらに複雑です。子供の頃は自閉症の特徴がは
っきり現れていた自閉者も、大人になると全然目立たなくなってしまうこと
があります。つまり「一見すると対人関係に問題がなさそう」な自閉者もた
くさん存在してしまうのです。別の言い方をすれば、「社会化された自閉者
」とも言えると思います。
で、「社会化された自閉者」の場合、あまり群れること自体には抵抗を感
じなくなっていると思います。ただし、場の空気の読み取りの悪さとかが、
少したけ残っている可能性があります。
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新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami