アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Tien さん wrote:
>みなさんはどうやって乗り越えていらっしゃいますか。
>ああ、つらいよう。
夏ばての原因はいろいろありますが、水分不足、イオンバランスの変調、胃腸の不調、自律神経の失調などがけっこう影響します。そこで、「手羽先のスープ」。
1)大きめの鍋を用意する。
2)手羽先、生姜のスライス、葱(大ざっぱに切ったもの)を入れ、残りごはんを少々入れる。なお、人参の端っこや乾涸びたじゃがいも、半端な玉ねぎ、キャベツの芯などの屑野菜もあれば入れてもいい。あれば、ローレル(月桂樹)も入れる。ローズマリーを入れてもいいけど、使いすぎに注意。
3)「苦労も苦悩も火にくべろ、燃えろよ燃えろ、煮えたぎれ。
お次は蛇のぶつ切りだ、ぐらぐら煮えろ、釜のなか。
カエルの指先、イモリの目……」
と唱えながら(←やんなくていいです)、ぐつぐつ煮る。脂が浮いてくるので、あくすくいで取る。
4)スープだけを濾す。手羽先は残していい。残りごはんは跡形もないはず。
5)塩(できれば天然塩)で味を整え、できあがり。胡椒、ターメリック、シナモンなどを入れてもよいが、胡椒は粒胡椒を最初から入れておくとよい。すだちやレモンなど、柑橘類を絞って入れてもいいし、黒酢少々で酸味をつけるのもGood。青み(スープ・セロリー、イタリアン・パセリ、コリアンダーなど)を散らしてもいい。
なお、屑野菜ではなく、椎茸・ペコロス(小さな玉葱)・ポロネギ・じゃがいも・にんじんなどを入れてポトフにしてもおいしい(ただし夏場はちょっとしんどい)。かぶ・葱は煮すぎるとデロデロになっちゃうので、だし用(葉のほう)と食べるほう(根のほう)を分けるといい。大根を入れてもいいけど、すりおろして入れちゃうのもいい(フードプロセッサでガーッとやる。わざわざ手でおろす必要なし)。
隠し味に厚削りの鰹節を加え、醤油と山椒を仕上げに加えるのがオリジナル・レシピ。
これ以外にも、夏キャベツとベーコンのスープ、というのがあります。作り方は似たようなものなので省略。
(Maria)
こんばんは。私は夏ばてがひどくて、ほんとにつらいです。
みなさんはどうやって乗り越えていらっしゃいますか。
ああ、つらいよう。
変なカキコで済みません。(m++m)
Xanadiiちゃん wrote:
> 「すみません、市役所へ行く道を探しているのですが...」
> 「ああ、そうですか、ではどうぞ、お探し下さい」
世の中には、「抵抗すると殺す」と被害者を脅して縛り上げておいてから殺す強盗がいる。確かに嘘を吐(つ)いてはいないが。で、「日本人はバカだ」とかいって笑っているのだ。
日常推論はおおむね善意によって支えられている。それが犯罪にかかわるものであっても。「人質を返してほしかったら三千万円払え」という要求があった場合、その三千万円というのは「人質を返してもらうことの対価」として支払われるものだ、という合意が犯人との間に成立していると考えるはずである。
「悪意ある犯罪者」というのは、犯罪者である以前にキチガイである。こういう連中はプロの犯罪者よりも始末に悪い。
なお、「子供を返してほしかったら三十万円払え」というちょっと微妙な要求をして逮捕された奴が、「あれは『営利誘拐』ではなく、『人質を返してほしいという意志』を確認したかったのだ」と主張したらどうなるか、というネタはちょっと法律上の問題として興味がある。この場合、子供が主犯で犯人が共犯であるケースと、犯人が主犯で子供を教唆した場合で解釈が違うが、前者は軽犯罪で処理されるとしても、後者の法的解釈はちょっと面白いことになりそうな気がする。
(Mr.Moto)
Maria wrote:
>
> 最近思ったこと。
>
> 「サリー・アン課題」って、「いじわる」を理解しているかを判定するテストじゃありませんよね? で、この問題文には、アンは籠がサリーの所有物であるとか、ビー玉がサリーの所有物である(らしい)とかいったことを知っている、といったことは書かれていません。まあ、この時点で「所有する(もっている)」ということの意味について議論するのはやめておきましょう。で、おそらくは元の問題には、『(いじわるなアン!)』といった字句は入っていなかったはずです。で、「いじわる」でない子供は誰のものともわからないビー玉を自分の箱の中に入れてしまったりはしないわけです。
>
> ですが、「サリー・アン課題」は、重ねて言うけど「意地悪な子供が悪戯をする」という「状況説明」を見出せるかどうかのテストではないわけです。
>
> だとすると、この課題において、「アンはサリーが箱の中にビー玉があると知りうると信じるに足る事実を知っていた(それがどういう理由かは不明にせよ)からビー玉を箱の中に移した」と推定しておかしくないわけです。
>
> たとえば、こんな問題はどうでしょう。
>
> ある人が、昼休みに高いビルの窓から下を見ていました。すると、以下のような光景が目に入りました。
>
>1)警官A・Bがパトカーである建物の正面に到着した。
>2)警官Aは正面入口から建物の中に入った。
>3)警官Bはパトカーを裏口に回した。
>
>質問)では、警官Aは正面入口から出てくるか? それとも裏口から出てくるか?
>
> この問題が「サリー・アン課題」と同じ構造をしているとしたら、答えは
>
> 警官Aは正面入口から出てくる。
> 理由)警官Bがいじわるだから。
>
>ということになるはずですよね?
>
> とはいえこの場合、この建物で何が起きているのかも分らないし、警官Aと警官Bの間にどれほどの意志の疎通があるのかが定かでないというのもあるし、「警官はふつう無線機を持っているという常識を考慮に入れていいのかもわからないから答えの出しようがない、という意見もありえます。
>
> ですが、「具体的にはよく分からない」という状況がまずあって、警官Bが裏口に回ったということから、「警官Bは警官Aが裏口から出てくると信じている」という推測が出てきて、「ならば警官Bにとって、警官Aが裏口から出てくると信じるに足る根拠があるのだろう」となって、「警官Aと警官Bの間で、警官Aが裏口から出てくる予定であるという合意がなされているのだろう」という推測も成立つわけです。
>
> だったら、「アンはサリーが箱の中にビー玉があると知りうると信じるに足る事実を知っていたからビー玉を箱の中に移した」という推測だって、間違いとはいえないでしょう?
>
> あるいは、こんなのはどうでしょう。
>
>1)教授は患部の切除と縫合を行なうと、手術室を出てソファーに横になった。
>2)手術助手は切開部の縫合を行ない、患者をICUに移送した。
>
>質問)数時間経って、教授は目を覚ました。教授は手術室へ向かうか? それともICUに向かうか?
>
> 答え)手術室。
> 理由)手術助手がいじわるだから。
>
> ……違うって。
>
Chipさんのとこでも書いたけど、「フィクション」の“作法”の、得体の知れなさってやつかもな。
「信じるに足るストーリー」を生成することの困難さ。頭のおかしな人物の活躍する短編を書かせたら右に出る者のいない、イギリス人の作家ロアルド・ダールという人は、ほんとうにすぐれた「児童文学」の条件としては、まず「生き生きとした想像力」を挙げていた。
いっさいの「悪意」の介在しない、「楽しいストーリー」って、矛盾するものなんだろうか?
> うちのJoshyaさんは、「自分の悪意や意地悪を考慮に入れて行動されると攻撃的になる、悪意を持った意地悪な人」を上司に持つという悪夢のような状況を何度か経験しています。こういうのを「棒を挙げて犬を呼ぶ」といいます。行けば叩かれ、呼ばれて行かなかったらもっとひどく叩かれる。最初から叩かれる覚悟で行くと、「その目はなんだ」とかいって叩かれる。しょうがないから「叩かれる」という結果を考慮していないふりをして行く。そうすると「問題意識が足りない」とかいって叩かれる。
> 対決姿勢を漲(みなぎ)らせて行く、という手もあるのだけれど、それをすると「職場の和を乱す」「躾けがなってない」とかいってまた叩かれる。
>
> ……あーあ。
>
Joshyaさんの上司は、あれこれ言っててもうJoshyasさんという存在そのものが、気に入らなくなってしまっているんでしょうねえ。
しかし以前、某女性誌の行った、対人関係(の難しさ)に関するアンケートで、回答の中のひとつに
#「キライな人にも嫌われたくない」
っていうのがあって、あれにはブッ飛んだなあ。
Chipパスワード忘れた wrote:
>ニキリンコさんの講演会の予定をご存じの方は教えてください。
>みなさん、知りたがっています。
おめーっちは...(-_-)何もかもごっちゃにしてしまっているぞ。
恐らくこの人、「フィクション」の“作法”と呼ばれるものに対して、何か誤解をしているのかも知れないね。自分の耳目に入る情報に対して、“平面的解釈”をしてしまうっていう。たとえば「ニキ・リンコ」・「浅見淳子」という文字情報を、同一線上に置いてしまったり。極端な場合「ニキ・リンコ」がペンネーム=フィクションであるという情報それ自体を根拠として、単直に存在自体が「フィクション」であるという、自分独自の仮説を引き出してしまっているといったところか。
もちろん私にはまるっきり分からないまま言っていることだからね?Chipさん個人の精神史・生活環境その他の事情に関しては。どんな人だか知るよしもない。ただ、Chipさんあなたのやっていることは大変危険なことで、あなたの一連の書き込みはニキさんとやらへの有効な一撃どころか、それがそのまま自分にはね返ってしまうかもしれないよ、ということを、老婆心ながら教えてあげたいってこと。
とある物事に対して「頭から疑ってかかる」というのと、「頭から否定してかかる」っていうことは、まったくの別物だ。「否定する」というのは、どうしても受け入れがたい現実に対して、目をそらしてしまうことで、「こういったことははじめからなかった」と自分に言い聞かせようとする心の働きだ。KILROYのおやじも、以前似たようなことを書き込みしておられなかったか?なぜ受け入れ難いのか。そこがほんとはいちばん大事なポイントなんだけれど、ここではっきり言ってしまうのは、Chipさんに対して余りにも酷だし非礼極まりないことだ。私も今回それが目的で口出ししてきたわけじゃない。
結論からいって(結論とか言っといて例を出すわけだが)「ドナ・ウィリアムズはいなかった」とするのはそのまま『自閉症は存在しない』とするのに等しい。なぜか。かつて「ナチス・ドイツによるホロコーストはなかった」と断じた人物がいた。つまりホロコーストは存在せず、その犠牲となったユダヤ人もいない、ということだ。しかしそのことでつじつまが合わなくなってしまう部分は多い。じゃあナチスはユダヤ人を殺さないで、いったい何をしていたのか?消滅したユダヤ人はどこへ行ってしまったの?パタヤ・ビーチでヴァカンスをエンジョイしていたとでも言うつもり?それが正しいとしよう。そうなってくるともしかしたら、ナチス・ドイツだってほんとは存在しなかったのかも知れない。じゃあヒトラーの台頭も三国同盟も、さらにはミッドウェー海戦も上海事変もスターリングラードもパール・ハーバーもフロイトもアインシュタインもヤルタ会談も侵略戦争も軍慰安婦も神風特別攻撃隊も一人一殺も原爆投下も人間宣言もケロイド(順不同)もぜんぶぜんぶ、みい〜んなありませんでした、すべては夢でしたって、オチをつけるわけ?夢だというなら、いったい誰の見た夢なんだね。その夢を見ているやつの身体の外側では、いったい何が起こっているというのだね。それらをすべて証明してから、何々はありませんでした、フィクションにすぎませんと言っていただこうかってことになっちゃう。
なにかを否定し、事実を破壊しようというこころみは、つまりそういうことになってしまうのだ。第二次世界大戦がなかったというのなら、じゃあ金融恐慌がはじまったとされる1931年から終結宣言があったとされる1945年まで、いったいなにがあったわけよ?ホロコーストはなかったというデマを流したのは、あんがい恐慌のきっかけを作ってしまった、おろかなひとりの銀行員のおっちゃんかも知れないねってこと。
Chipさんも変な勘繰りをされたくなかったら、まずは勉強のし直しじゃないかな。「フィクション」の作法については、上記のようなカン違いによる「悲(喜)劇」が起こってしまわないためにも、フィクションとノンフィクションをうまく隔てる、なにか“法則”や“技術”といったものがあるはずだ、と洞察した、色々な意味考え深い人々がそれぞれ打ち立てたのが、“文芸理論”というジャンルであります。そのほんの一端を紹介するとしたら、う〜んどうだろ。あまりに専門的で複雑怪奇すぎず、素人の人たちに“寄り添った”考え方を表明している人...ってことで、西江雅之ってきたら唐突か?
...またもや、変な話をしますけれども、たとえば「残酷」とは何かと言ったら、国語辞典では、理由なく苦痛をあたえて平気な様子、とか書いてある。生きている人間は、そこからスタートするわけです。すると、ある人は「残酷」というものはそんな表面的なものではなくて、テレビで残酷なシーンを一家団欒で見ている家族がいるけど、そっちのほうがよほど残酷だと。ところが、その一家団欒といっても、一家団欒をやっているのは人間だから、残酷とは本当は人間であること自体だと言う人もでてくるかもしれない。しかし、人間といっても、女が産むんだから、残酷とは、女なのではないだろうかと。いや、単なる女のことではなくて、母なのだとなる。こういうふうに、既成の意味を問い直すこと、これが生活のなかの意味ですからね。(辺見 庸『屈せざる者たち』角川文庫・章タイトルは“世界はのっぺらぼうで波打っている”)
この引用部分ですら、私個人にしてみれば比較的“退屈”な範疇に入ってしまうのよね。
この本ってさ、じつはかなり話題になった対談集だし読まれた方も多いだろうけれど、もうちょっとだけ引用しちゃおうかな。お次は串田孫一、章タイトルは“日本人は大事件を笑い話に変えてしまう”。
僕はいいかげんなことを書くからね。今日はいい機会だから、小説家でもある辺見さんに伺いますが、小説というのはフィクションを書くわけですから、小説のなかの話をだれも本当だと思って読まないでしょう。ところが、僕の随筆について、「あれ、本当だったのかい」というふうに聞かれることがずいぶんあるんですよ。そういうときは、ごまかして本当のことにしてしまう。すると、何年かたつと、実際にあったように記憶しているんですね。小説家の人はフィクションと実際にあったことの整理をうまくできるものですか。
これに対して辺見氏がなんと答えたかは、未読・既読にかかわらず、皆様ご自分の目で確かめていただきたい。
それにしてもここまで、自分の“手の内”を見せてしまえる人たちって、もう、怖いものなんてないんじゃないかって思えてきてしまう。健全なる知性とは、「突っ込みがいのある文章」をものする人たちのことを言うのかもしれない。
「ていうかそいつら、いくら貰ってるんだか。Xanadiiきさまは、やつらの手先なのかよ」なんて、ま〜だほざくやつがいたら、もうその人物は、心の中まで“妖怪”になっちまってるっていうことで、いくらこの私でも、“妖怪”の面倒まで見る余地はありません。好きにしてくれってことで今日はここまで。
あ、ついでにいえば『屈せざる〜』は、古本屋でもけっこう在庫あるみたいだから、そういったとこでお求めになれば、辺見氏に印税は入らないですよ...ってそういうのを書かずもがなと言うんだよな。
Maria wrote:
> 都会の人に道を聞こうとして声をかけると、たいていはびくっとしてさっさと逃げ去ろうとします。確かにこれでは、聞こうとした側はショックです。傷ついてしまうのも無理はありません。
> しかし、それは声のかけかたが間違っているのだということを、声を大にして言いたい。
> (中略)
> だから、「あ、すいません」で間を置いてはいけないのです。
> 「すいません、○○にはどうやったら行けますか?」
> と一息で尋ねてしまうのです。
> (中略)
> これに気づいてからは、尋ねた人全員に親切に教えてもらっています。嫌がる人などは誰一人いません。
> (Maria)
「すみません、市役所へ行く道を探しているのですが...」
「ああ、そうですか、ではどうぞ、お探し下さい」
お久し振りであります(か?)。‘MariaをつついてMotoを出す’Xanadiiめでございます。
上の用例は、私の大学時代「語学論」の講義で「語の用法を完全に取り違えている=つまり発話内の情報の軽重について話の受け手は注意を払っていないことになってしまう」として挙げられていたものです。相手は「道探しフェチ」じゃねえだろっての!というのがひとつ。
もうひとつ、「私は市役所へ行きたい」→「でも道がわからない」→「はやく正しい道を見つけて辿りつかないと、市役所が閉まってしまうかも。またはこのようなことで手間取ってたら、他の用事が済ませられなくなる」→「トイレだって行きたい。メシだってまだだ。おたおたしていたらもらしたり飢え死にしたり、えらいことになるよう。困ったよう。わあ〜ん、母ちゃ〜〜〜〜〜〜ん」...とまあここまでいかなくとも発話者内の事情や心情を、いくらかは察することが出来ていなかったら、親切には教えてあげられないんだろうな。
かくいう私も「道訊かれ」体質。初めて降りた駅で道を訊かれ、中国で西洋人からインフォメーション係と間違われ...どー見たって観光客ってナリをしているにもかかわらずだ。「分かりません」‘Sorry,but I'm new here.’ばかりで「親切さ」を発揮してやるいとまもなし。たとえ知っていたところで「土地勘」「方向感覚」は自分ではあるつもりで、道に迷ったことはほとんどないにしても、人に教えるとなるとやはり別物なんだよなー。
「道を人に訊く」って、いがいと不満足な結果に終わることも多い(しかもそれこそ「危険」でもある)のに、なぜわれわれは凝りもせずやっちまうんだろ。
やっぱり「人間関係」がやりたいってことなんだろな。
一穂(いちほ) wrote:
>わたしは、CFS(慢性疲労症候群)の患者です。
>ASについては診断されてないし、検査も受けてないので、みなさんと同じ人種かどうかわかりません。
>けど、診断基準を読んでいると、共通点が多いです。
>どういった診断名がつくかつかないかわからないけど、私も、たぶんなんらかの特種な脳ミソの持ち主だと思います。
>今、壁にぶつかって、この先どうしたらいいのか途方に暮れています。
>・・・
>病院に検査を受けにいった方がいいかな。
>ASって病院ではどんな検査をするんですか?
>自分から言って、検査ってしてもらえるのでしょうか。
>
>私は人との接し方がワンパターンで
>人と話すときは、やたら陽気なので
>悩みがあるようには見えないんです。
>どんなに具合が悪くても、いつも元気だねって言われます。
>
>でも、本当の感情を出せないだけなんです。
>おかしいとか、人の気持ちがわからない宇宙人だとか、気持ち悪いとか言われて
>奇妙な目で見られていつもイジメられてました。
>だから自分を隠すようになったんです。
>
>・・・病院の先生に何て言えばいいんでしょうか。
>みなさん、教えてください。
こんにちは。
私もやはり専門家ではないし、君に会ったことはないので、君が障害を持っているのかどうかはわかりません。
ただ一つだけ言えるのは、君はわりと人と接することに対して、とてもエネルギーを使い過ぎてしまいやすいところがあるのかなということです。
かくゆう私もそんなことで悩んでいて、引きこもり中です。
こんなふうにいろいろと考え込んで、疲れて意気消沈してしまっている若者は、君だけではなく、今の日本にはありふれた存在になってきています。「引きこもりカレンダー」の作者のように、「みんなでのんびりして、GNPを下げましょう」
というのには、ちょっと閉口しますが、そうでなくても、「鬱になったら身体を休める」というのはそんなに犯罪視すべきではないと思います。
もしとても辛くて、「もう死んでしまいたい」と考えるようだったら、ためらわずに病院にいって、投薬治療を受けたほうがいいです。精神科の薬というと「恐ろしい!」と感ずる人が多いのですが、お医者さんから言われた量・回数を守ったり、飲んだ時間や副作用と思われる徴候・生活の状態の変化を記録しておきお医者さんに見せるようにするなどのことをしっかりすれば、まず大丈夫です。だいたい
薬は、主剤+副作用止めといった形で出されるのが普通です。
またASの専門医については、地元の保健所・福祉事務所・社会福祉協議会に聞いてみるとよいと思います。ただ今のところASだからといって、療育手帳がもらえるという訳ではありません。神奈川はそうでもないようですけど・・・
ニキリンコさんの講演会の予定をご存じの方は教えてください。
みなさん、知りたがっています。
一穂さん wrote:
>ASについては診断されてないし、検査も受けてないので、みなさんと同じ人種
>かどうかわかりません。
>けど、診断基準を読んでいると、共通点が多いです。
>どういった診断名がつくかつかないかわからないけど、私も、たぶんなんらかの
>特種な脳ミソの持ち主だと思います。
この『アスペルガーの館の掲示板』には、「私はひょっとしてアスペルガー症候群なのではないでしょうか?」という方がときどき訪れてまいります。
ところがですね、自閉症方面のナニというのは(←苦渋の表現)とても診断が難しいのね。で、自閉症方面のアレというのが「病気」であるとすると、本人に著しい苦痛がないとか、生活に重大な支障がないとかいうと、仮に自閉症方面のナニだという傾向が顕著に出ていても、「病気ではない」ということで「正常」ということになり、「あなたは自閉症方面のソレではない」と診断されることになってしまいます。まあ、この「診断を下される」というのは人によって善し悪しなのですがね。
そんなわけ、自閉症方面のナニとまぎらわしいソレについて、ひととおり説明しておきたいと思います。専門家の方に限らず、どなたでもご意見等ございましたらお寄せくださいませ。ぺこぺこ。
で、自閉症方面のナニとまぎらわしいソレというのはおおむね以下の通り。なお、LDについてはコメントできるほど詳しくありませんので、除外しています。
なお、「社会的引きこもり」はまた別枠ということにします。単に誤解によってごっちゃにされているだけだから。
1)聴覚障碍(子どもの場合。障碍)
2)ADD(子どもの場合。障碍)
3)緘黙(子ども〜大人。性格の偏り)
4)破瓜型精神分裂症(青年期以降。精神病)
5)単極性うつ(幼年期以降。気分障害)
6)離人症(思春期以降。神経症)
1)聴覚障碍
障碍。「言葉の遅れ」(正確には、発語の遅れ)によって、生後数カ月以内に発見される。診断は容易。
2)ADD
障碍……なんでしょう、たぶん。発語の遅れがあんまりないというのと、アイコンタクトがある、というので診断可能。他者認識はちゃんとしている。薬である程度症状は抑えられる。
3)緘黙
「発語の遅れ」あるいは「遅滞」が典型的な症状といえば症状なのだけれど、じつは原因はさまざま。運動障碍が原因の言語障碍(代表的なものは、吃音)が原因で、喋るのが怖くなったとか、自分の思っていることをどう表現していいかわからないとか、相手にどう判断されるかが不安で喋れないとか、緊張のあまり発話のコントロールがままならないとか、そんな感じ。
言葉の発達や智能の発達、他者認識なんかはちゃんとしていることが多いので、よっぽど生活に支障がなければ病気とはいえないものです。そんなわけで、「性格の偏り」。
なお、緘黙に類するものとして、「コミュニケーション不全」というのがあります。つまり、心を開いて語り合うことができない。社会的ひきこもりにつながることも多いです。
で、これがけっこう多いのね。『アスペルガーの館の掲示板』を訪れる方にも、この「コミュニケーション不全」を「ASかな?」と疑ってらっしゃる方は多いように思います。有効なのはカウンセリング。メールによるカウンセリングというのは、じっくり考えて表現を練ることができるのでいいかもしれません。そんなわけで、文章力は身につけておいたほうがいいぞ。
4)破瓜型精神分裂症
典型的な精神病。症状としては、「もの」と「意味」の乖離です。自転車を見て、「はて、これは何をするものだっただろうか?」とかいって悩んでしまったりするのはけっこう典型的。吉田戦車の『感染(うつ)るんです』的世界でございます。
「ぬ」と「め」と「ね」を見比べて、「うーむ。」とかいって悩んでしまったりとか、そういうのはASにも共通する部分があるんだけど、分裂病の場合は青年期を過ぎて「発病」するものであるのに対し、自閉症方面の場合は「物心ついた頃からそうだった」という違いがあります。
5)単極性うつ
人間関係のしがらみその他、あらゆるものがイヤになったりとか、ひがみっぽくなったりとか、嫉妬深くなったとか、「うつ」の症状はさまざまです。単に「気分の落込み」とかいったものではありません。薬が効きますし、治療もそれほど難しくありません。もっとも再発も珍しくありませんが。
「なんか調子がおかしい」とかいったら、「心療内科」「精神神経科」等を受診されることをお勧めします。カゼみたいなもんですから、さっさと治すにしくはありません。
6)離人症
かつてヒステリーと呼ばれた病気の一形態。現在は「乖離性疾患」と呼ぶそうです。無関心・無気力・無感動。なぁーんか世界というのが、スクリーン一枚隔てたようによそよそしく、他人事みたいな感じがする。
精神的な苦痛や疲労が原因で、精神的エネルギーが消耗しきっちゃっている状態のようです。「燃えつき症候群」なんていうのもこの一群。児童虐待の被害にあった子どもなんかにも多い症状です。
「うつ」とほとんど同じなんですが、薬が効きにくいのと、カウンセリングが有効、といったあたりが違います。仕事熱心な人とかに多いのであんまり有効なアドバイスではないのだけれど、とにかく世俗を離れてのんびりして、カウンセリングを受けながら自分を見つめなおすというのがいいと思います。
なお、ASやLDやADDが原因でこの離人症を起こす(こういうのを二次症状といいます)ことも多かったりします。これって、こじらせるとコミュニケーション障害を併発して社会的ひきこもりに移行しちゃうこともあります。けっこう特殊な例ですけどね。普通に会社勤めをしていた人が病気等をきっかけにひきこもりに移行しちゃうのはこのタイプではないでしょうか。
ただし、こういう人の悩みというのはかなり実存的に深いものだったりします。なまなかなカウンセラーだとキレてしまったり一緒にずぶずぶと沈んでしまったりするから怖い。うちのJoshyaさんはこのタイプで、自伝的小説を書く、という方法で乗りきりました。なんにせよしんどいものです。
(Maria)
下の発言、なんかすごく唐突な発言すぎたかもしれません。
・・・
アスペルガー症候群のことを読んで
自分と近い人たちに出会えたように感じて
嬉しかった。
そのことが伝えたかったんですけど、
でも、なんて言っていいかわからなくて・・・。
とりあえず挨拶がしたかったんだけど、
上手にできなくてごめんなさい。
わたしは、CFS(慢性疲労症候群)の患者です。
ASについては診断されてないし、検査も受けてないので、みなさんと同じ人種かどうかわかりません。
けど、診断基準を読んでいると、共通点が多いです。
どういった診断名がつくかつかないかわからないけど、私も、たぶんなんらかの特種な脳ミソの持ち主だと思います。
今、壁にぶつかって、この先どうしたらいいのか途方に暮れています。
・・・
病院に検査を受けにいった方がいいかな。
ASって病院ではどんな検査をするんですか?
自分から言って、検査ってしてもらえるのでしょうか。
私は人との接し方がワンパターンで
人と話すときは、やたら陽気なので
悩みがあるようには見えないんです。
どんなに具合が悪くても、いつも元気だねって言われます。
でも、本当の感情を出せないだけなんです。
おかしいとか、人の気持ちがわからない宇宙人だとか、気持ち悪いとか言われて
奇妙な目で見られていつもイジメられてました。
だから自分を隠すようになったんです。
・・・病院の先生に何て言えばいいんでしょうか。
みなさん、教えてください。
emmaさん wrote:
>「放っておいてもらえるように、親しくなる」ですか。
>そうなるためには、やはり意思的に行動しなければならないのですね。
>今の環境では難しそうですが、そうできたらいいな、と思います。
笠原真澄さんというひとの、『田舎がきゅうくつなひと 都会がたいくつなひと』という本があります(サンクチュアリ出版、1200円)。
この本には「田舎と都会では、『優しさ』の質が違う」といったことが書いてあります。都会の優しさは、「無視してくれる優しさ」なのだと。で、だからといって冷たい訳ではありません。はっきりと助けを求めれば、助けてくれる人は大勢いたりします。
ここで重要なのは、「はっきりと」の部分です。『田舎がきゅうくつなひと 都会がたいくつなひと』には、こんな話が出てきます。
---
都会の人に道を聞こうとして声をかけると、たいていはびくっとしてさっさと逃げ去ろうとします。確かにこれでは、聞こうとした側はショックです。傷ついてしまうのも無理はありません。
しかし、それは声のかけかたが間違っているのだということを、声を大にして言いたい。
(中略)
だから、「あ、すいません」で間を置いてはいけないのです。
「すいません、○○にはどうやったら行けますか?」
と一息で尋ねてしまうのです。
(中略)
これに気づいてからは、尋ねた人全員に親切に教えてもらっています。嫌がる人などは誰一人いません。
今でも、「すいません」と言った瞬間に逃げようとする人はいますが、相手が背中を向けて逃げようとしてもそのまま「○○ってどこですか」とつなげてしまうと、そこで全員振り返って安心したような顔をして教えてくれます。
これは不親切なのではなくて、防衛本能です。誤解しないであげてください。
---
そんなわけで、「自分のことを知っておいてもらう」という「自己開示」については、国民性や地方性が大きく影響します。
たとえば、韓国の人というのは、「友達」となったら徹底的に自己開示し、相手にも自己開示を求めます。で、それを拒絶すると、「冷情」と非難されちゃうんですね。で、相手の生活の中にどんどん踏み込んでゆくのが親愛のしるし、みたいな考え方があります。これは日本の田舎と共通する部分があります。
だけど、東京というのは「他人をそっとしておいてくれる」土地です。小笠原なんていうのもそうなんですけどね(あ、あそこも東京都か)。つまりは、地元民のいない、「よそものの土地」なんです。「訳ありな感じ」の人がいても、詮索する人はあんまりいません。「変な人」であっても、後ろ指を差されることもありません。
ただし、だからといって東京(あるいは、都会)の人が他人に無関心かというとそうじゃないんですね。猫のように、相手の生活に介入することなく、それとなく様子を窺っていたりもするわけです。だから、東京では「わかりやすく、さりげない自己開示」というのができると快適に生活できます。
で、それはその人の「全部」である必要はさらさらないのね。たとえば「犬を連れて散歩する」でも、「『ハーブの苗 差上げます』という貼紙がしてある」でも、かまわない。とにかく、その人の「外から見える部分」をわかりやすく説明するものであれば、べつに何でもよかったりします。
ついでながら、田舎だと「変な人」というとそれだけで悪いことみたいに言われてしまいますが、都会だと「ヘンな人」は個性です。ですから、「ヘンな人」は、むしろ「わかりやすくヘン」であることを心がけたようがよさそうに思います。そうすると、周囲の人が納得してくれて、詮索されることがありません。
ただし、例外もあるようです。カムアウトしたレズビアンの女性が、「『女同士って、どうやってスルの?』としょっちゅう訊かれる」と嘆いておられました。まあ……分るんだけどさ。
(Maria)
みなさんおはようございます。
学校が休みにはいって、町へ出ると一輪車に乗っていたり・お母さんと一緒に買い物をしたり・志望校へ向けて勉強したり・部活動に汗を流して疲れた顔をしていたり・金色に髪を染めて楽しそうに仲間での時間を過ごしたりしているなど、様々な子供たちの姿を見かけます。
さて子供にまつわることで、ちょっとみなさんにお伺いします。
あなたが思うところ、日本の教育に関して、「ここは改めるべき!」と日頃思っている問題点はどんなことですか?
> うちのJoshyaさんは、「自分の悪意や意地悪を考慮に入れて行動されると攻撃的
>になる、悪意を持った意地悪な人」を上司に持つという悪夢のような状況を何度か
>経験
(中略)
>我々のように「普通の人」と感性を共
>有するのに不自由な人々というのは、こうした虐待の構造に取りこまれやすかった
>りします。
同じパターン(「悪夢のような状況」)の経験があります。
というか、我々の反応が虐待を誘発しているような側面もあるのでしょうね。
「いじめの標的になりやすい」という特徴は、幼児期だけでなく成人しても
なお続く。
このことは「我々自閉人の反応パターンが原因である」ということではもちろん
なく(我々の対人反応は脳の障害により制約されており、相手の意図が読めない
あるいは非自閉人に共感できないというポイントは直しようがないので、もし
我々に原因を求められたら「馬鹿は死ななきゃ治らない」とばかりに絶滅
させられる以外の選択肢はないことになる。)、「非自閉人の反応パターンが
異常である」あるいは、「非自閉人は、自閉人を前にすると狂う」ということを
示しているのですが。
Maria さん wrote:
> 「親しくなる」というのは、「一緒になって騒ぐ」ためだけのものではありません。「放っておいてもらえるように、親しくなる」ということだって、あると思うぞ。
遅くなってしまいましたが、レス頂いて嬉しいです。
「放っておいてもらえるように、親しくなる」ですか。
そうなるためには、やはり意思的に行動しなければならないのですね。
今の環境では難しそうですが、そうできたらいいな、と思います。
私はA-typeではないかもしれないけど、
これからもROMさせて頂きたいと思ってます。
お邪魔でなければ良いのですが。
emma
武田好史さん wrote:
> 逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、「視覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→分析→動作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
そういえば、思い出したこと。
私は仕事中に話をすると手が止まる。仕事に集中すると黙っている。
(ただ、他人が話しているのは聞きながら仕事ができる。)
楽器を弾きながら話ができない(ので、弾き語りなど神業に思える)。
喋りながら歩くと、物にぶつかりそうになる。後ろから車が来ているのに気が付かなくて、連れの人に腕を引っ張られることがよくある。
私の場合、単に一度に一つのことしかできないってことかも?
失礼しましたー。
ASL(American signed language)については、以下の二冊が詳しいです。
ギャリック・マラリー著・渡辺義彦訳『人間(ヒト)は手で話す』、PMC出版、1990年、3500円
渡辺義彦編著『インディアンは手で話す』、径(こみち)書房、1986年、3500円
(Maria)
赤ちゃん言葉について補足。
子どもに対して、「〜しようね。」「〜しましょうね。」と語りかけるより、もうちょっといい方法があるような気がします。
日本語において、規則活用動詞の活用の形は、いわゆる「連用形」のうち、「ない」がつづく形で判別することができます。ですが、日常的によく使う形は、いわゆる「終止形」、つまり「連体形現在」です。
そこで、「××ちゃんは、××を、食べる(ここで、野球の「セーフ」のポーズのように、手をテーブルを拭くように水平に動かす。「心が平らである」「イエス」のサイン)、食べない(物を捨てるように、掌を下に向けて動かす。「ノー」のサイン)、食べるー!(ここで再びイエスのサイン)」とかやるわけです。
これで、子どもが「食べたくない」とか思ったら、ここでたぶん抵抗するはずなのね。
同じように「禁止する」場合(たとえば「玩具を食べない」とか)の場合は「食べないー!」とかやるわけ。アメリカン・サイン・ランゲージだと、「イエス」の場合は満足げな表情、「ノー」の場合は、「見たくもない」みたいな不快な表情をして顔をそむけます。
これを続けていたら、そのうちに「イエス」「ノー」のサインを自分で出しそうな気はするのですよね。ひょっとしたら、表情も真似してくれるかもしれません。
まあ、これも思いつきです。笑ってやってください。
なお、「笑う」のサインは、肘の高さで、掌を上に向け、物をつかむように指を曲げ、小刻みに震わせる、です。顔は笑ってください。ははははは。
(Maria)
くると(複合型LD)です。今回は成人LDの会とは全然関係ないんです
けど…。
実は、精神分裂病を患っている友人と8月11日(土)の東京湾の花火大
会に行く予定だったんですけど、友人の方がキャンセルになってしまいちょ
っとさびしいっす。(シクシク)
そんな訳で一緒に花火大会に行ってくれる仲間を募集します。時間は午後
7:00〜8:20までです。
もし希望者がいれば詳細をお知らせしますので、この掲示板に参加希望を
書きこむか、下記のメールアドレスにメールを送ってください。
(連絡先)seijinld@msg.biglobe.ne.jp
まあ、騒がしい場所が嫌いな人にはお薦めじゃないけど…
(P・S)
あ、言い忘れてました。広島と福岡のオフ会に参加する都合で、8月3日
〜7日まで家を留守にします。この期間はすぐに返事を書けませんが、必ず
帰ってからチェックするのでご心配なく。
「言語学における基礎概念に、主語と述語の主従関係、というものがあります。
この“述語”という言葉は相当にややこしい問題を含んでおるので、祟りをなさ
ないように、[述語]とカッコに入れておきましょう。」
「つんつん」。つついたりして。
「つつくなぁーっ!」
「はーい」。何もそんなふうに怒らなくても。
− 救世義也、『日本語文法の「なぜ」に答える』より引用
正高信男、『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書)がおもしろいです。
で、この本の中にはけっこう愕然とするような指摘がなされているのですね。
たとえば、「自閉症児には赤ちゃん言葉がない」ことから、「自閉症児教育には赤ちゃん言葉は必要ないのでは?」と考えてしまいそうになったことが、あたしには一度ならずありました。
ところが、です。そもそも「赤ちゃん言葉」というものが、日本以外の、特に欧米諸語には存在しないのだそうです(P.61)。
で、面白いことに、日本語には名詞の性による語尾変化というものがありません。単数形・複数形の区別というものもありません。つまり、名詞はいつも同じ形で出てきます(例外は、「あめ(天/雨)→あま」「かね(金)→かな」「ふね(船)→ふな」「さけ(酒)→さか」などと、複合語の連音濁にほぼ限られます)。
そんなわけで、助詞を省いた「赤ちゃん言葉」というのは、言語獲得の雛形としてはけっこうよくできている気がします。それに、日本語では大人でも「てにをは」を省略する傾向にありますし、そもそも「重要でないものは省く」という態度が徹底した言語でもありますから、赤ちゃん言葉から大人の言葉への以降はそれほど困難ではなかったりします。
そんなわけで、「赤ちゃん語」の語法の中に、「非・言語的(ノンバーバル)な意味表現構造」みたいなものが、わりと素朴な形で内在しているんじゃないかなぁ、みたいな予想はしていたりします。
それからもうひとつ。「指差し」というのが、「つんつん」に由来するという、「つんつん起源説」(←こういう名前では出てきません。あしからず)というのがあります。
つまり、子どもは、「未知なるもの」に遭遇すると、思わず「つんつん」してしまうわけですね。それに対して、親が反応する。これが繰返されることによって、「対象をつんつんする」→「親の注意が対象に向く」という因果関係が形成されるとみるわけです。
自閉症児は周囲との関係性を持たないので、「対象をつんつんする」ことと周囲の人間の反応とを結びつけて考えることがなく、その結果「指差し」が生まれない、ということが言えると思うんです……が、これ以外にも原因がありそうな気がするんですよね。
「正常な」子供の場合、親は「子供がつんつんしている対象」に意識を向けます。これはつまり、「子供を信頼している」からなんですね。ですが、「障碍を持った」子供の場合、親は「つんつんしている子供」に対して過剰に反応してしまいそうな気がします。つまり、「いろんなものを軽々しくつんつんしないように」というふうに、意識が行ってしまう。その結果、「対象をつんつんする」→「親の注意が対象に向く」という因果関係の形成が阻害されちゃうわけです。
ですから、子供が何かをつんつんしようとしたら、子供を押しとどめようとするのではなく、その「対象」を取り上げるというのが指導法として適切なのかなー、と思います。あるいは、「つんつん行動」から「指差し」を引出すような療育プログラムを用意する、とかね。
そんなわけで、正高信男『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書)、おすすめです。
「はにゃはにゃー」
「へにょへにょー」
「えーん、わかんなくなってしまいましたー」。しくしく。
「みなさい。[述語]の祟りです。」
「うーん。つついたのがいけなかったのか。」
− 救世義也、『日本語文法の「なぜ」に答える』より引用
(Maria)
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