アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
> あたしたちの悩みは、健常者から見れば滑稽です。だけど、それを笑う、という
>のは健全な反応であるように思います。それが現状の改善につながれば。
よく、自分の失敗をネタにして笑いを取ろうとするのですが、深刻そうな顔をされた(というか、真面目に心配された)ことが何度もあります。笑えよぉ。そこで笑ってくれなきゃ、ネタの振りがいがないじゃんかぁ。
「自閉症の子どもは、ごっこ遊びをしない」、これがウタ・フリスさんが「心の理論」を思いついたきっかけだということです。フリスさんは、「これは自閉症の子どもは、他人の信念が理解できないからだ!」と考えました。
私は、この考えは正しくないと思います。もし信念が理解できないのであれば、自閉症の人は、家の手伝いを全くしないでしょうし、周りとのギャップにあえいだりしないでしょう。
ごっこ遊びをしないというのは、むしろ「空間認知の不全」「言葉を視覚的なイメージに置き換えられない」から来る症状ではないかと私は思います。
例えばある自閉症の女性の方は手記の中で、幼い自分が幼稚園の中の遊戯室の子どもたちの中へ踏み込んだときのことを、「突然、動き顔を持った物の中に入りこんだ・・・それが私が一緒に暮らすことになった子どもたちだった・・・なんか顔だけが大きく見えた・・・彼らは私にとって予測できないものだった」と書いています。これは案外みなさんも経験してると思います。そうです寝起きの時や疲労の時に起こる「うつろな状態」です。
私はこのようなときに、なんか頭のの中がかゆくなるのと同時に、視野か狭くなり、また物の細かい動きがとらえられなくなってしまいます。また割合少人数でも、「会合に何人の人がいたの?」と聞かれても覚えていないことの方が多いです。もうかれこれ2年くらい地元の手話サークルに通っているのに、未だに名前が判らない人がいます。
サリーはかごを持っています。アンは箱を持っています。
サリーはビー玉をもっています。
サリーはビー玉をかごに入れ、お散歩にでかけました。
アンはビー玉をかごから箱へ移しました。
帰ってきたサリーは、どこにビー玉があると思うでしょうか?
これがかの有名な「サリー・アン課題」で、答えは「かごにあるはずだと思っているからかご」です。「ASの子どもにこの検査をやらせると、80%は誤答」とフリスさんは述べています。
ではなぜ答えられないのでしょうか?一つ考えられるのは読字障害です。文字を読むということに困難さがあれば、この課題はクリヤーできないでしよう。
もう一つは、「言葉→視覚的なイメージ」という変換の障害です。これは言葉を視覚的なイメージに置き換えられないということで、数唱の逆ができない人は、ここがウィークポイントになっているようです。サリー・アン課題を漫画にして提示すれば、正答率はアップするはずです。ASの子どもは、言葉を視覚的なイメージにすることが苦手で、そのことが話を聞いていないように見える由縁ではないでしょうか。
また「空間認知の不全」「言葉を視覚的なイメージに置き換えられない」ということが、二次的に「不安」や「恐怖感」をおこし、それが集団に参加する形のごっこ遊びをすることを妨げるということもあるのではないでしょうか?
くるとさん wrote:
>(1)医学・心理学・教育学の専門家が集まって診断基準を統一する。
>(2)ただし、診断名にはこだわらず、障害者本人が抱えている問題に合わ
> せて支援の計画を立てる
>
>というのが、最低限必要でしょうね。なお、(2)については生身の軽度発
>達障害者はいくつかの障害を合併していることが多い、という事実に基づき
>ます。ASと診断されている子供のなかにも
>
>(1)言語障害を伴なっている場合
>(2)運動機能に困難を抱えている場合
>(3)読み書き計算に困難を抱えている場合
>(4)注意集中に困難を抱えている場合
>
> などがありますので、柔軟な対応が必要だと思います。
感情のままにいきなり横レスしてしまったのに、ていねいなお答えを下さって感謝します。
わたしの発言は「怒り」の表現だったのかもしれないとか、ひとりの臨床心理士さんの例だけをあげて一般論にすりかえようとした可能性もあるとか、いろいろと考えてしまって心穏やかではなく、反省コメントを書こうとしたのですが……くるとさんが真摯なコメントを書いて下さったので、力が抜けてしまいました。
「考えること」という言葉は漠然とした言い方かもしれませんが、とても大切だと感じています。「よく考えてから行動しよう」と常に思っているはずなのですが、どうもわたしは衝動的でいけません(苦笑)
勝手ながら、永井均先生の『こどものための哲学』を思い出させてくださってありがとうございますということも、重ねて申し上げておきます。
「哲学は学ぶものではなく、するものである」と書いておられた方の本だったと思います。もう一度読んでみたくなりました。
Maria wrote:
>ですから、共感の押しつけというのは、「甘え」なのではないでしょうか。「感情>というものは、非・論理的で不合理で説明不能なものだ」というところに逃げこん>でしまえば、相手は自分の感情を尊重せざるを得なくなってしまいます(決定的な>対立を避けようとすれば、ですが)。
こんにちは。今日は落ち込んでいるTienです。
共感の押し付け...それは私が一番嫌いながら、よく他人に対して使ってしまう
手段です。なんか自己反省を痛感する事が最近あって。他人が自分の言葉に対して、怒るとなんだか異常な位「悪かったなあ。」と私は落ち込んでしまいます。
何も起きない。平穏無事など生きていくうちでありえないのに。
いろんなことに首を突っ込んで、活発に活動、と言うのはやめたほうがいいのだろうか?
あさかぜさん wrote:
> ↑このことについては、今は理解できます。でも、分かるまでは平坦な道
>のりではありませんでした。
このことよく理解できます。わたし自身もこのことにすごく混乱してしまっ
たことがあるからです。特にわたしのように
(1)3才児検診の時小児自閉症の可能性が指摘されたが、「知的障害がない
ので、自閉症ではない」と診断された。
(2)教育学的LDと判断されたのはいいが、学力にはこれといって問題がな
く、社会性・注意集中・運動機能などの周辺領域に困難を抱えている。
となると、訳がわかりませんよね。(笑)じっさい、ボランティア先でもよく
質問されるのが「大学院に進学していて塾の講師をしているのにどこがLDな
んだ?」です。わたしだってはじめの頃は、家族から「あんたはLDだ」と言
われてただけで、予備知識は持っていなかったので、大混乱しました。
> AS児の親という立場から言わせていただくと、上記のようなことは単に
>「立場の違い」というだけの問題ではなく、非常に困ったことだと感じてい
>ます。
(中略)
> 自閉症児やAS児の親は、だれもが教育・心理の心得や医学的知識がある
>わけではないです。むしろ、何もわからないままに診断を受けて「さて、ど
>うする?」というところから出発する人のほうが多いような気がします。
(中略)
> なのに……最初の段階でつまづいてしまう可能性を拭いきれないというの
>は、なんとも悔しい思いでいっぱいです。これからも、そういう人は出てく
>るでしょう。
これは保護者だけでなく障害者本人にも嫌だと感じる人が多いと思います
よ。患者アイデンティティーを与えず、出発点も与えてくれないので。患者
やその家族を混乱させてしまうような診断はすごく問題だと思います。
> 何か、いい知恵はありませんでしょうか?
>「研究」という目的だけのためではなく、「長期的援助」について教育・
>心理・医学の立場の方々が「同じ土俵に立って」考えてくださるような、
>いい方法がないでしょうか。
(1)医学・心理学・教育学の専門家が集まって診断基準を統一する。
(2)ただし、診断名にはこだわらず、障害者本人が抱えている問題に合わ
せて支援の計画を立てる
というのが、最低限必要でしょうね。なお、(2)については生身の軽度発
達障害者はいくつかの障害を合併していることが多い、という事実に基づき
ます。ASと診断されている子供のなかにも
(1)言語障害を伴なっている場合
(2)運動機能に困難を抱えている場合
(3)読み書き計算に困難を抱えている場合
(4)注意集中に困難を抱えている場合
などがありますので、柔軟な対応が必要だと思います。
くるとさん wrote:
> ところが、わたしが普段の対人関係のなかで苦しんでいたことの1つに
>「他人と自分の区別がはっきりしてくれない人が多い」というのがありま
>した。(特に就職へのアドバイスがそうだった)
>
>「自分の尺度でものを語らないでくれ」
>「わたしはあなたではないんだ」
>
> どちらかと言うと、自閉圏に近い特徴を持っているはずのわたしがこん
>なセリフを連発していたのですから、自閉症研究の説明とは矛盾していま
>すよね。(笑)
> 共感の押しつけというのも、「他人と自分の区別がはっきりしない」こ
>との病理なのかな、と思っています。
困ったことに、自閉症方面の人間の感情というのは、おおむね自己説明が可能です。それには「自分や他人の心理を分析的に見ることの訓練がなされている」という理由がありそうに思います。
で、自閉症方面の人間の感情と非・自閉症者の感情が一致しなかった場合、非・自閉症方面の人間の感情は、「作り物の感情」「にせものの感情」であると非・自閉症者によって断定されてしまうと思います。なぜかといえば、非・自閉症者にとって、感情というものは、非・論理的で不合理で説明不能なものだからです。
あたしなんかは感情というのは戸田正直さんが言うように「適応プログラムの重要な一部」であると考えているので、むしろ感情を現代社会における問題解決に役立つように調整する、ということを考えます。我慢、辛抱、発想の転換、といったものは、本来そういったものですから。
ですから、共感の押しつけというのは、「甘え」なのではないでしょうか。「感情というものは、非・論理的で不合理で説明不能なものだ」というところに逃げこんでしまえば、相手は自分の感情を尊重せざるを得なくなってしまいます(決定的な対立を避けようとすれば、ですが)。
「真実は人を傷つける」といいます。あるいは、「言われて腹が立つことは、本当だ」という言葉もあります。「怒り」の感情の中心にあるのは、ほとんどの場合、自己中心的な考え方です。だから、あたしは自分の怒りをまず保留し、それを分析し、その怒りが正当であるかどうかを検証してから怒るようにしています。
ただ、そのせいでだいぶタイミングを外してしまって、その怒りが正当であると分かった時点では相手はすでに逃走している場合がほとんどだったりします。こうなると怒りが怒りとしてあんまり機能してないような気がします。
その点、掲示板上での喧嘩はいいです。十分考える時間があるし、相手が逃げないし。だから、あたしは「この件についてはもう議論したくありません」なんていうことは言いません。徹底的にやります。ただ、「これをやると嫌われる」と、中島義道先生は言っておられました。この掲示板でも、「私はそれで嫌われる」と告白された方が数名いらっしゃいます。
人類は、「怒り」を合理的に扱う方法を身につける必要があると思います。
(Maria)
横レスという形になってしまい、申し訳ありません。
(パソコンに詳しくないので、引用の仕方が分かりません。ごめんなさい)
くるとさん wrote:
> わたしが教育学的LDだからと言って、ASである可能性が否
>定されたことにはならないということになります。ややこしいですけど。
↑このことについては、今は理解できます。でも、分かるまでは平坦な道のりではありませんでした。
1998年発行の『信州LD研究 第2号』より平林伸一先生の文章を抜粋します。
「医学の専門家の中には、”社会性LD”というものを認めずに全て広汎性発達障害の範疇で捉えようとする立場の人が多く、一方教育や心理の専門家の中には医学的な概念である広汎性発達障害という用語を嫌って、特に軽症の者はLDとしてみて行こうとする立場もあってなかなか歩み寄ることは困難のようです。」
AS児の親という立場から言わせていただくと、上記のようなことは単に「立場の違い」というだけの問題ではなく、非常に困ったことだと感じています。
わたしの友人に昨年息子さんが自閉症と診断された人がいるのですが、彼女は最初は個人開業(?)の臨床心理士に相談しに行っていて、その方からは「お子さんはLDです」と言われたのです。しかし県立こども病院を受診し「自閉症です。ただし軽度の」という診断が出て、今は療育に頑張っています。
かの臨床心理士さんは、病院の診断が出たあとでも立場を崩さず「お子さんはLDです。自閉症ではありません」と言い切ったそうで、彼女は不信感を持ち、今は相談に行くのをやめてしまいました。
実を言うとわたしも同じ人のところへ娘の不登校の相談に行っていて、「お母さんとお父さんが円満で仲良く暮らしていれば、娘さんは良くなりますよ。大丈夫です」と言われ、3回ほど面談しているうちにどうにも納得できなくなり、地元の小児科を通じてこども病院を受診し、ASの診断を受けるに至ったという経過があるのです。
自閉症児やAS児の親は、だれもが教育・心理の心得や医学的知識があるわけではないです。むしろ、何もわからないままに診断を受けて「さて、どうする?」というところから出発する人のほうが多いような気がします。
しかし長い目でみれば、自閉症圏の子供たちの「特別なニーズ」は教育的立場・心理学的立場・医学的立場のすべての領域にまたがって必要であることは、まちがいないと思います。同時に、子供たちに深くかかわる親へのサポートも、すべての領域で長期に必要なのです。
なのに……最初の段階でつまづいてしまう可能性を拭いきれないというのは、なんとも悔しい思いでいっぱいです。これからも、そういう人は出てくるでしょう。
何か、いい知恵はありませんでしょうか?
「研究」という目的だけのためではなく、「長期的援助」について教育・心理・医学の立場の方々が「同じ土俵に立って」考えてくださるような、いい方法がないでしょうか。
長々と書いた割には今ひとつ言いたいことが明確になっていないような内容で、すみませんでした。
I wrote:
> 窒素の「窒」の字は、「窒息」という言葉があるように、「むせぶ」という
>意味があります。空気の八割は窒素ですが、息が詰まるということはありませ
>ん。よくわかりません。
pocks さん wrote:
>窒素10割のガスを呼吸してみればその意味がわかるでしょう。(危険ですか
>ら本当に試したりしないようにしてください。)
単純な酸素欠乏というのは、「息苦しい」ものではありませんし、ヘリウムガスやアルゴンガスなどの不活性ガス、水素やメタンガスのような可燃性ガスなどでも、雰囲気(←技術屋のもの言い)中の成分比率が百%だったら酸欠を起こします。
本当の意味での「窒素」にあたるものは、おそらく二酸化炭素です。これは吸ったとたんに息苦しくなります。
旅行に行ったときに、クーラーボックスにドライアイスを入れていった人がいます。で、走行中の車の中でそのクーラーボックスを開けたら、「ばふっ!」という感じの音とともに、車内に二酸化炭素が放出されました。
「ま、窓」。いきなり息苦しくなりました。危うく運転を誤って事故になるところでした。ぜぇぜぇ、はぁはぁ。
そのクーラーボックスの中にあったトマトを齧ったら、舌がピリピリしました。「なぜ?」と思って考えたら、「炭酸トマト」になっていたのですね。
化学というのも、いろんな知識が結びつくと面白くなってきます。
(Maria)
Mariaさん wrote:
>> 幼児期について言えば、「手放したくない」「逃したくない」「離れたく
>>ない」という感覚が希薄だったように思います。(わたし自身は教育学的L
>>Dなので参考になりにくいかもしれませんが)
>
> アスペっ子の愛着形成っていうと、ちょっと違うんですよ。いわゆる「こだ
>わり」と、「愛着形成」の間に明確な区分がないんです。
すみません。ちょっと補足しておきますと、教育学的LDの人を医学的に見
れば高機能自閉症とかASだったということはけっこうあります。ある医学の
専門家によれば、現在教育学的に非言語性LDと判断されている人は医学的に
はAS,AD(H)D,DCDなどと診断されてしまう可能性が高いそうです
。このうち、社会性に困難を持つとされる非言語性LD児は医学的にはにはA
Sと診断されることになります。
で、社会認知と運動機能(粗大運動と微細運動)に主な困難があったとされ
るわたしの場合、医学的にはLD以外の診断がついてしまう可能性が高いので
す。(可能性としてはASかDCDか)読み書き計算には障害と言えるほどの
困難は抱えていなかったので、わたしが医学的な意味でのLDではなかったこ
とは確かです。
という訳で、わたしが教育学的LDだからと言って、ASである可能性が否
定されたことにはならないということになります。ややこしいですけど。
> 自閉症方面の人には、基本的に「ひと」と「もの」の区別がありません。だ
>から、「愛着形成」が必ずしも人間に向くかどうかはわかりません。
そういう意味で言えば、わたしは「人」よりもまず「物」や「人以外の動物」
に対して愛着形成を持った可能性が高いと思います。
>(1)「共感」とは他人が自分とは異なる信念・考え・感覚を持ってい
> てもそれを知ることのできる能力である
私はこれを「理解」と称しています。
>(2)2人以上の人間がたまたま同じ信念・考え・感覚を持っているの
> は「同情」であり、「共感」ではない
この状況を一言で表現する言葉は私の辞書にはありません。「同調」も、相互作用のない文脈での使用は適切な感じがしません。
私の言う「同情」は、感情のみを他人に同調させることを言います。どういう感情を抱いているか理解できても同じ感情を抱けなければ同情した事にはならない一方、わけがわからないままにもらい泣きするならそれは同情した事になるわけです。
私の言う「同情」を示された場合、非自閉人は癒されますが自閉人は居心地が悪くなるので「同情するなら金をくれ」と言って実際的な援助を求めようとしたりします。
「共感」は、感情に加えて動機まで共有した状態(同じような信念を持つに至り、必要とあらば共同行動まで取れる状況)を表わす言葉として使っています。(「ざまみろ」は含まない。)
相手がある信念を持つに至った筋道について納得したが、しかし自分は別の見解を維持しているという場合、「わかるけど賛成できない」とかいうことになります。
>(3)自閉症児の特徴として、他人の苦悩に無関心なこと、他人に慰み
> を与えられないこと、慰みを人から受けることさえできないこと
> である
「同情」が慰みにならないという意味ではその通りだと言えますが、感情同調回路が付属していない自閉人は同情プロセス(いわゆる「共感を示す」行為)をすっ飛ばして実際的な援助やアドバイスのやりとりをする、という方法で慰みを授受しようとするだけだと思います。従って、非自閉人対自閉人の組み合わせではこの(3)の状態になりがちなのですが、自閉人同士ならOk。
>(2)日本において「共感」と「同情」の意味が混乱してしまっていな
> いか?
訳文についてはこれが言えそうです。
> 窒素の「窒」の字は、「窒息」という言葉があるように、「むせぶ」という意味
>があります。空気の八割は窒素ですが、息が詰まるということはありません。よく
>わかりません。
窒素10割のガスを呼吸してみればその意味がわかるでしょう。(危険ですから本当に試したりしないようにしてください。)
> 話は変わりますが、化学の教科書にでている元素名は、なぜ「カタカナ混じり」
>の名前が多いのでしょうか?
> 例えば「ホウ素」「フッ素」「ケイ素」「ヒ素」「ヨウ素」といったものです。
> なぜ「硼素」「弗素」「珪素」「砒素」「沃素」と書かないのでしょうか?本来
>の日本語表記を記せば、その元素がどういった感じなのかが、なんとなくつかめる
>気がするのですが。加えて「炭素」「窒素」「臭素」は漢字表記です。いったいこ
>れはどーいうことなんでしょー???
昔の「当用漢字」に含まれているか否かだと思われます。
先日、某所で哲学者の中島義道さんによく似たかたをお見かけしました。
とはいえ賞賛されることが何より嫌いな中島先生のことだから「ファンなんです」と声をかけるもならず、喧嘩を売ろうにも先生は移動中のご様子だったので、空しく見送りました。
中島義道さんの『ひとを<嫌う>ということ』(角川書店)の「はじめに」の章には、けっこう凄いことが書いてあります。
---
思えば、母は父を嫌って死の直前まで四〇年間彼に罵倒に近い言葉を浴びせつづけていた。その言葉とほとんど同じ言葉が、今や妻の口から出てくる。そして、私も父を死ぬまで嫌っていた。いや、死んでからもなお嫌っている。息子が、また私をはっきり嫌っている。これは一体何なのだ! 私はみずから生きてゆくために「嫌い」を研究するほかはないと悟った。つまり、私は自分を納得させるために本書を書いたというわけです。
---
この『ひとを<嫌う>ということ』はとても面白い本なのだけど、今回はこの本の紹介でもなく、この本のテーマに即したものでもありません。
中島さんは、「嫌い」は「好き」の対概念だと論じ、「相手を<嫌う>こと」が人生を豊かにする、という結論でこの本を結んでいます。ところが、同時に中島さんは、「あとがき」を編集者に対する「おふたりがあまり嫌いでないのが残念です……。」という言葉で結んでいます。
そう。「嫌い」と「好き」は、多くの人が考えるように、「嫌いだから好きじゃない」「好きだから嫌いじゃない」というものではないんですね。
で、多くの人は、好きな相手に対する「嫌い」という感情を、「いけないこと」「悪いこと」だと考えます。「純粋な気持」こそが貴いのだと。だから、『相手を好きだったら、自分の「嫌い」という感情は消さなければいけない』とかいった無理なことを考えてしまったりもするわけです。で、好きな相手に嫌われることを、死ぬほど怖れてみたりもするわけです。
だけどですね、自分の「嫌い」という感情に向き合わなかったら、相手を好きになることだってできないように思うんです。
……とまあ、こんなことを書くと恋愛論とか家族論とかそっちの方へ行っちゃいそうな風情だったりもしますが、そうではありません。あたしたち自閉症方面の人間がいわゆる健常者になぜ嫌われるか、ということなんですね。
障害者というのは、はっきり言って鬱陶しい存在です。健常者にとっては、思い出したくない暗部というものを思い出させるイヤなものなのですね。で、これは障害者の多くにとってもそうなわけで、「こんなふうに生まれたくなかった」「こんなふうになりたくなかった」とかいって嘆いている人は少なからずおられるわけです。
だけど、障害者(それ以外にも、病人とか、老人とか、外国人とかいろいろですが)に対する「イヤだ」という感情を表に出してはいけない、という社会的な風潮というものがあったりするわけで、それを押さえつけることが、少なからずフラストレーションになるわけです。
で、このフラストレーションをうまく解消できない人が、障害者に対して攻撃的になったりするわけです。
で……ここでひとつ指摘したいことがあります。
障害者というのは、健常者の無理解に対してけっこう傷ついていたりするわけですが、健常者に「お世話になっている」手前、それをあからさまに口にできないという部分があります。たとえば病院で医者や看護婦の態度に対して文句を言いたくてもなかなか言えませんし、仮に言ったとしても、周囲の人が「そんなことは言うもんじゃない」と押しとどめると思います。これは普通の関係でもままあることで、なんでも言えそうな夫婦の間でも、鬱憤を溜めまくったあげく罵りあいになったりするのは最初に引用した中島先生の文章を見ても明らかなのね。
そこで……なんです。
こうした相互のフラストレーションを解消するいちばん有効な手段が、「笑い」なんじゃないかな、と。
---
ある人が、夜道で按摩が提灯をさして歩いているのを見かけた。
「按摩さん、盲でも提灯がいるかい。」
「ええ、目明きの方が驚かれるものですから。」
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これなんかは江戸小咄ですけど、これを放送する放送局って、ちょっとなさそうに思います。小人プロレス(今はミゼットプロレスと言うそうですが)なんかも、現在はほとんどTVで放送されることはありません。
同じ中島先生の著書で、『騒音文化論 なぜ日本の街はこんなにうるさいのか』(講談社+α文庫)の中で、中島先生は『中洲通信』という雑誌が中島先生の騒音との戦いを面白おかしくとりあげたのを評価しつつも、『私は編集者に「あなたは身体障害者が苦痛を覚えているとき、その記事をこういうふうには書かないでしょう」と書き送った。』そうです。
---
私が車椅子を利用する身体障害者であったとして、日本の街がまったく利用できないことをいたるところで訴えているとしよう。私は車椅子の上からアチラでもコチラでも罵倒し、怒鳴りつけ、顔をゆがめて苦痛を訴える。それに『中洲通信』が目をつけ「孤高のファイティングマン……」特集を組んだとしても、それは絶対におもしろい記事にはならないだろう。
(中略)
私が言いたいことはこうだ。私は心から、こうして車椅子に乗って大奮闘する人が出てきて、マジョリティとそれこそ体当たりの戦いをしてくれることを願っている。それをおもしろおかしくまさに「苦しみのうちにある滑稽さ」を十分わかって記事にする編集者(記者)が出現することを渇望している。
---
こーいう観点からいうと、あたしたち(『アスペルガーの館の掲示板』の常連メンバー)ってけっこうイケてるように思います。アスペとかLDとかADHDとかいったメンバーの飲み会に雑誌記者とか引きずりこんで、A-Type方面のネタで盛り上がって、「言っとくけど、ここは笑うところだから」とかいって、記者さんがひきつり笑いをしている図、なんていうのは、Xanadiiさんあたりが同席してたら大ウケしそうに思います。
あたしたちの悩みは、健常者から見れば滑稽です。だけど、それを笑う、というのは健全な反応であるように思います。それが現状の改善につながれば。
(Maria)
I wrote:
>> 「愛着形成」の能力に関しては、方向性がやや違うものの、自閉症方面の
>>人間も能力的な差はありません。
くるとさん wrote:
>これはどうでしょうか?わたし自身は幼児の頃に「人見知りをしない」
>「親を後追いしない」「誰と一緒にいても平然としている」という問題が
>指摘されていました。
>
> 幼児期について言えば、「手放したくない」「逃したくない」「離れたく
>ない」という感覚が希薄だったように思います。(わたし自身は教育学的L
>Dなので参考になりにくいかもしれませんが)
アスペっ子の愛着形成っていうと、ちょっと違うんですよ。いわゆる「こだわり」と、「愛着形成」の間に明確な区分がないんです。
「おかあさんと朝ごはんとどっちが好き?」「おかあさん」
「おかあさんとお昼ごはんとどっちが好き?」「うーん……」
悩まないでほしいとは思いますけどね(^_^;)。(←思わずめったに使わない顔文字が出るほどヘコんでいる)
古代人が昨日出た太陽と今日出た太陽が同じ太陽だとは思っていなかったのと同じように、昨日のおかあさんと今日のおかあさんが同じおかあさんであることを、小さなアスペっ子は理解していないかもしれません。
朝炊いた炊き込みごはんを、おむすびにしてお昼にも食べたとします。これは、朝ごはんなのでしょうか。お昼ごはんなのでしょうか。お昼ごはんだとしたら、いつお昼ごはんになったのでしょうか。あるいは、朝から晩までごはんを食べつづけたら(新井和響さんや小林尊くんならやりそうです)、それは何ごはんなのでしょうか。わかりません。
「家庭訪問」とかいうと、けっこう訳わかんなかったりします。学校にいるはずの先生が、うちでお茶飲んでるわけですから。制服警官がうちでお茶飲んでるくらい、びっくりです。地方の農村だったら、駐在さんが縁側で制服のままお茶飲んでても違和感はないでしょうけどね。
自閉症方面の人には、基本的に「ひと」と「もの」の区別がありません。だから、「愛着形成」が必ずしも人間に向くかどうかはわかりません。
黒人やユダヤ人や日本人に愛着形成しない欧米人というのは、かつて少なからずいました。人と人の愛着形成にしたって、同僚としてとか、友人としてとか、恋人としてとか、夫婦としてとか、いろんな形式があります。
で、いわゆる健常者でも、そこのところをごっちゃにしちゃう人がいるんですね。教え子に手を出してしまう学校の先生とか。
そういうことを考えると、あたしは自閉症方面の人間でも、愛着形成の能力が低いとは思わなかったりします。
(Maria)
Mariaさん wrote:
>> 1)「相手の感情を理解する能力」は、高いほうが望ましい。
>> 2)「愛着形成」と「対人親和性」については、相手との人間関係において、
>>適切に生起されることが望ましい。
> (1)に関しては、幼児期の発達において自閉症方面の人間に発達の遅れが
>あるのは間違いありません。ですが、「社会化された自閉症方面の人間」につ
>いていえば、かえって「相手の感情を理解する能力」は高いと思います。
そうですね。これまでオフ会などで話してきた限り、「社会化されたAS」
は、相手の感情を理解することにかけてはむしろ平均以上に鋭い感性を持って
いるという印象があります。
幼児期の遅れは確かにあるでしょうね。ASに極めて近い特徴を持っている
わたしの場合も同様です。「他人の感情を理解する」という以前に、他人に全
く関心を持っていませんでした。5才以前の記憶となると積木・絵本・ブロッ
ク・昆虫・恐竜・ビー玉・ロボット人形しか印象に残っていないです。
> 「愛着形成」の能力に関しては、方向性がやや違うものの、自閉症方面の
>人間も能力的な差はありません。
これはどうでしょうか?わたし自身は幼児の頃に「人見知りをしない」「
親を後追いしない」「誰と一緒にいても平然としている」という問題が指摘
されていました。
幼児期について言えば、「手放したくない」「逃したくない」「離れたく
ない」という感覚が希薄だったように思います。(わたし自身は教育学的L
Dなので参考になりにくいかもしれませんが)
> 自閉症方面の人間が苦労するのは、たぶん「対人親和性」です。
> いわゆる健常者についていえば、愛着形成と対人親和性は不可分なんで
>すね。これをきっちり分離できる人は、「厳しい」人あるいは「冷たい」
>人であり、それが許されるのは、「高い地位にある、指導的な立場の人」
>だけだったりするんですよ。
これについては同感です。
> あたしは、いわゆる健常者の対人親和性に対してかなり疑問を持ってい
>ます。「こう感じるべきだ」っていって押しつけられる感性に、なんか違
>和感を感じます。
そうそう、これこそが自閉症研究の理解不能な部分なんです。
『自閉症とアスペルガー症候群』(東京書籍)という本には「自閉者は
他人が自分とは異なる信念や感じを持っているということを理解できてい
ない」という記述がよく登場します。(国際レベルの自閉症研究者が執筆
している)
ところが、わたしが普段の対人関係のなかで苦しんでいたことの1つに
「他人と自分の区別がはっきりしてくれない人が多い」というのがありま
した。(特に就職へのアドバイスがそうだった)
「自分の尺度でものを語らないでくれ」
「わたしはあなたではないんだ」
どちらかと言うと、自閉圏に近い特徴を持っているはずのわたしがこん
なセリフを連発していたのですから、自閉症研究の説明とは矛盾していま
すよね。(笑)
共感の押しつけというのも、「他人と自分の区別がはっきりしない」こ
との病理なのかな、と思っています。(くると)
I wrote:
> 1)「相手の感情を理解する能力」は、高いほうが望ましい。
> 2)「愛着形成」と「対人親和性」については、相手との人間関係において、
>適切に生起されることが望ましい。
くるとさん wrote:
> (1)と(2)はけっきょくのところ、自閉圏・非自閉圏の人を問わず、努
>力目 標だと思うんです。でも、自閉症研究では「自閉者になくて非自閉者にあ
>るもの」として紹介されてしまう…。これは怖いことです。
(1)に関しては、幼児期の発達において自閉症方面の人間に発達の遅れがあるのは間違いありません。ですが、「社会化された自閉症方面の人間」についていえば、かえって「相手の感情を理解する能力」は高いと思います。
現代社会というものは、「感情」というものを高度に社会化した形で成立しているので、「素朴な」「動物的な」感情表現というのは「野蛮な」「洗練されていない」ものとみなされます。その意味で、自閉症方面の人間にとっては、幼児期の人格形成、特に幼稚園や小学校といった集団生活への適応の時期を乗りこえれば、それほどハンディキャップにはならないように思います。
「愛着形成」の能力に関しては、方向性がやや違うものの、自閉症方面の人間も能力的な差はありません。
自閉症方面の人間が苦労するのは、たぶん「対人親和性」です。
いわゆる健常者についていえば、愛着形成と対人親和性は不可分なんですね。これをきっちり分離できる人は、「厳しい」人あるいは「冷たい」人であり、それが許されるのは、「高い地位にある、指導的な立場の人」だけだったりするんですよ。
「アスペだから」という理由で不利益を被っている人が、同じように「アスペだから」という理由で不利益を被っている人に対して同情するかというと……しないように思うんですよねぇ。「同病愛哀れむ」とかいった言葉がありますけど、けっきょく自分の苦労は自分の苦労だし、他人の苦労は他人の苦労。役立つ情報があったら教えてほしいし、自分が役に立てるなら援助だってするんだけど、だからといって他人事は他人事なんですよね。
こういう関係を、いわゆる健常者は嫌がります。そのくせ、自分にない能力を持った人間に対しては、「プロだ……」とかいって讃美するんですよ。とはいえそれはあくまで「プロ対プロ」の関係に対してであって、それが自分に向けられるのは厭だったりするわけですが。
もう十三年も昔のことですから、憶えている人も少ないかもしれません。昭和天皇陛下がご危篤だったころです。世の中、どこもかしこも「自粛」ムードでした。歌舞音曲の類が町から消えてしまいました。だけどさぁ、あれって本当に天皇陛下が望んだことだったのかしら、と思うんですよね。
あたしは、いわゆる健常者の対人親和性に対してかなり疑問を持っています。「こう感じるべきだ」っていって押しつけられる感性に、なんか違和感を感じます。あたしが死ぬときは、せいぜい賑やかに死にたいな、と思ったりもします。さんざん面と向かって言いたいことを言われてた相手に、「死なないでくれぇ〜っ!」とかいって泣かれて、「地獄でまた会いましょ」かなんか言ってにっこり笑って死ぬ、とかいうのも悪くないと思います。
「あなたは人の心がわからない」とか言ってる人のほうが、けっこう分かってないんじゃないかなぁ、と思うんですよ。ひょっとしたら、自分の心も。
(Maria)
武田 好史 wrote:
>Maria wrote:
>
>> なお、タングステンという呼び名も、日本の化学界の関心がドイツの化学に向いていた時代の名残り。英語では、ウォルフラム。
>>
>>
>> (Maria)
ナトリウム・カリウムは英語ではそれぞれ、sodium,potassiumと呼ばれていま。ソジウムはソーダ(炭酸ナトリウムor酸化ナトリウム)に、ポタシュウムは草木の灰に由来しています。ナトリウム・カリウムというのは、かなりの場合通じないようです。
これらを発見したのは、デービーというイギリス人です。赤いリトマス紙を青く変える実験などで、水酸化ナトリウム・カリウムという、「さわると手が溶けるよ」という結晶状の試薬を使ったと思いますが、デービーはその水酸化物の結晶をしめらせた状態で電気分解(白金性のスプーンの上に結晶を置き、電極の一つをスプーンに置き、もう一方を結晶の上にのせて、電池から電気を流す)させて、単体のナトリウム・カリウムを得たということです。
それなら元素記号は、So・Poでも良いような気がしますが、硫黄や燐で既に使われているので、ドイツ語の同義のナトリウム・カリウムの頭文字をとったようです。
ダングスデンは、金属の精錬を妨害すると思われていたようで、鉱山関係者のあいだでは、ウルフ(オオカミ)という呼ばれていたようです。それがタングスデンのことを英語でウオルフニウムという由来のようです。鉱石はとても重たいそうです。
>
こんにちわ、くるとです。まとまりの悪いコメントにレスをつけていただき
感謝感謝です。
自分の頭脳をはるかに超えるテーマを扱っているために、まだ内容が錯綜し
てしまいますが、レスしておきます。
Mariaさん wrote:
> えー、ここで「愛着形成」と「対人親和性」という言葉を使うことにしま
>す。「愛着形成」のほうは分りやすいですね。「手に入れたい」「手放した
>くない」「離れたくない」「逃がしたくない」といった感情です。「対人親
>和性」というのは、「相手と感情を共有する」傾向です。
なるほど、この説明なら納得です。わたしが日常生活で悩んでいた問題の
1つに、周囲の人間に「愛着形成」や「対人親和性」が高いように見られて
しまうという問題があります。
わたし自身の「愛着形成」や「対人親和性」はこどもの頃からほとんど変
わっていません。でも、「愛着」や「親和性」を表現しアピールする能力だ
けが身についてしまい、色々と他人から誤解を受けるようになってしまった
のです。
つまり、わたしが最後に書いたコメント「共感する」と「共感をアピール
する」の違いは、わたしの悩みを反映したテーマなんです。「共感をアピー
ルする」だけで「共感性」が高いと判断されてしまうのはなんか変だな〜、
と…
> で(2)で言っていることは、「相手の感情を理解する能力」と「対人親和
>性」を欠いた場合は、仮にたまたま同じ信念・考え・感覚を持っていたとして
>も、「共感」ではない、ということを言っているのですね。それを「同情」と
>呼ぶのはどうかと思うけど。
で、自閉症研究では、自閉症児が「相手の感情を理解する能力」と「対人親
和性」が欠如していると言っていることになるんですね。
ここで、わたしはつまづいてしまったんです。わたしは子供の頃から他人の
意図を誤解することが多かったのですが、同時に非自閉圏の人から意図を誤解
されることも多かったんです。
どうも、この問題は自閉圏の側にだけある問題とは思えないのですが、自閉
症研究では自閉圏の側だけにある問題だと考えられているようです。厳密な意
味での「共感」ができる人(Mariaさんが挙げた「愛着形成」「対人親和
性」「他人の感情を理解している」となると、自閉者・非自閉者を問わず少数
なのではないかと思います。
> 1)「相手の感情を理解する能力」は、高いほうが望ましい。
こちらはすごく痛感しています。わたしが日常生活で悩んでいる問題の1つ
に「他人から意図を誤解される」というのがあります。(非自閉圏の人が聞い
たらずっこけるかもしれない)わたしも、「他人の意図を誤解しやすい」とい
うのが問題なので人のことは言えませんが、「相手の感情を理解しようとする
努力目標」は必要だと思います。
> 2)「愛着形成」と「対人親和性」については、相手との人間関係において
、適切に生起されることが望ましい。
まだ「相手との人間関係において適切に表現(アピール)される」という段
階で、「生起される」までには至っていません。(笑)
1)と2)はけっきょくのところ、自閉圏・非自閉圏の人を問わず、努力目
標だと思うんです。でも、自閉症研究では「自閉者になくて非自閉者にあるも
の」として紹介されてしまう…。これは怖いことです。
最近読むばかりだったのですが、大学の専門領域なのでおもわずレスします。
窒素が「窒」という字を含む理由。
窒素が発見された実験はたしか、「ケースでかこんだなかで、
酸素を使いきるまでものを燃焼させる。その酸素が使いきられたあとの
ケースにラットを入れると、ラットは窒息して死んでしまう」
というものだったと思います。
手順までは忘れたけど。
その実験の中で、「酸素が使いきられたあとにのこる空気は
生物を窒息させてしまうものだ」という誤解がうまれたために、
空気中にある酸素以外の成分(の中でもっとも主要なもの)を
窒素と名づけたのではないでしょうか。
同じように、水素が発見されたときは「気体のなかにも燃えるものがある!」
「この気体を燃やしたら水ができる!」という衝撃が強かったのでは。
酸素は、「水の材料になるもの」という以外にも、いろいろな性質が
ありますものね。
で、酸素について。
ものが燃焼するのは「酸化」ですよね。
(って、いいかげんすぎ)詳しい説明は面倒になってしまった。
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