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Re: 完璧主義とは何ぞや? 6507へのコメント
No.6508  Sat, 11 Aug 2001 22:42:41 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

シンタロウ wrote:
>武田好史 wrote:
>>シンタロウ wrote:
>>> 完璧主義とは一体何か?
>>>
>>> 僕には理解できない・・・・
>>
>>「考え方が硬直して、ゆとりがないこと!」
>>だと思うな。
>
> あとそれと、「独創性を許さないこと」だと思います。
>
> 今の社会は独創性が無い・・・・・・・・・・・・・・・
>
> 平均的な物は受け入れられて、独創的な物は排除される・・・・・

 結構、仕事でも「完璧主義」と「ていげい」の両輪を求められるものもあるよな・・・例えば福祉関係とか・・・


Re: 完璧主義とは何ぞや? 6505へのコメント
No.6507  Sat, 11 Aug 2001 21:50:37 +0900  シンタロウ [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>シンタロウ wrote:
>> 完璧主義とは一体何か?
>>
>> 僕には理解できない・・・・
>
>「考え方が硬直して、ゆとりがないこと!」
>だと思うな。

 あとそれと、「独創性を許さないこと」だと思います。

 今の社会は独創性が無い・・・・・・・・・・・・・・・

 平均的な物は受け入れられて、独創的な物は排除される・・・・・


Re: 完璧主義とは何ぞや? 6505へのコメント
No.6506  Sat, 11 Aug 2001 21:27:13 +0900  ミッドランド [この発言にコメントする]

シンタロウさん wrote:
>> 完璧主義とは一体何か?
>>
>> 僕には理解できない・・・・

武田好史さん wrote:
>「考え方が硬直して、ゆとりがないこと!」
>だと思うな。

 お二人に相対するようになりますが、わしは「完璧主義」を否定しません。
 ただ、わしの考える「完璧主義」の概念は、「100%完璧でなくとも、それに近づける努力をする」というものですが。

 というのは、わしの職業(歯科技工士)は、詰め物の適合性や、入れ歯の噛み具合といったものがとてもシビアに要求されるのです。
 もし詰め物が歯にぴったり合わず、歯とのあいだに大きな隙間があったりしたら、そこから二次カリエス(治療した歯が再びムシ歯になる)が発生したりします。だからこそ、できるだけ詰め物と歯の隙間を限りなく小さくすることを考えなければならないのです。「隙間ゼロ」が理想なのは言うまでもありませんが、実質それは不可能に近いです。そこでわしは「完璧に近づける」という「信念」をもってして、「隙間をできるだけゼロに近づける」ことを考えているのです。
 入れ歯の場合もそうです。入れ歯の歯の並びは決して出鱈目にされているのではありません。外見、機能性の両方を熟慮したうえで、少しでも「よく噛める」歯の並び方にしているのです。

 このように、わしらの業界では「完璧に近づける」ことが要求されます。けして手抜きは許されないのです。

 ですから、「完璧主義」を簡単に「考え方が硬直して、ゆとりがない」と言ってしまうのはどうかと、わしは思うのです。

 仕事のことではやけにマジメになってしまう   ミッドランド


Re: 完璧主義とは何ぞや? 6504へのコメント
No.6505  Sat, 11 Aug 2001 18:33:43 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

シンタロウ wrote:
> 完璧主義とは一体何か?
>
> 僕には理解できない・・・・

「考え方が硬直して、ゆとりがないこと!」
だと思うな。


完璧主義とは何ぞや?
No.6504  Sat, 11 Aug 2001 12:03:58 +0900  シンタロウ [この発言にコメントする]

 完璧主義とは一体何か?

 僕には理解できない・・・・


Re: 立場の違い 6493へのコメント
No.6503  Sat, 11 Aug 2001 10:57:35 +0900  くると [この発言にコメントする]

あさかぜさん wrote:

> わたしの発言は「怒り」の表現だったのかもしれないとか、ひとりの臨床心
>理士さんの例だけをあげて一般論にすりかえようとした可能性もあるとか、い
>ろいろと考えてしまって心穏やかではなく、反省コメントを書こうとしたので
>すが……くるとさんが真摯なコメントを書いて下さったので、力が抜けてしま
>いました。

実はわたし自身、この問題には少し感情的になっている部分があります。わ
たし自身が診断なことで混乱させられたということもありますが、それ以上に
自主グループを作る時に大きな問題に直面したことが大きいです。

 医学的にみれば、AS,社会性に困難を持つ非言語LD,分裂病質人格障害
,分裂病型人格障害は臨床像に共通する部分があります。社会性の非言語LD
とAS、あるいは分裂病型(質)人格障害とASを同じ障害とみなす説さえ出
されたことがあるぐらいで、それぞれの診断を受けた患者が共通する問題を抱
えている可能性も高いのです。

 もしかすると同じ障害を抱えているかもしれない人たちが診断名によって所
属を分断されてしまう,あるいは連携できなくなってしまうというのはとても
悲しいことだと思います。

 そして、教育学と医学における診断(判断)基準の混乱は本人同士の所属を
分断してしまったという意味ですごくおおきな問題です。


品川裕香
No.6502  Sat, 11 Aug 2001 10:56:11 +0900  Chipぱす忘れ [この発言にコメントする]

胸に手をあてよく考えるが良い。
悪魔と取引をしたのだから自業自得だ。


オフ会報告
No.6501  Sat, 11 Aug 2001 10:40:19 +0900  くると [この発言にコメントする]

 くると(複合型LD)です。ちょっと遅くなったけど、広島と福岡のオフ
会の報告をします。

(広島のオフ会)8月4日

 広島のAD(H)Dの会「ダイヤモンドな仲間たち」の主催で行われまし
た。(わたしには似合わないグループ名だ)わたしは自分自身はAD(H)
Dではないと思っていますが、この団体の設立に始めから関わっていたこと
もあり、福岡への移動中に寄らせてもらいました。

 今回のオフ会は「ダイヤモンドな仲間たち」の記念すべき第1回目のオフ
会でした。参加者は5人で、JR広島駅の近くにある公民館の近くで開かれ
ました。

 「ダイヤモンドな仲間たち」自体はAD(H)Dのグループですが、AS
やLDの人が地元で自主グループを作りたい時は協力してくださるとのこと
。成人LDの会の方でもご好意に甘えさせてもらっています。

 青春18きっぷでの移動だったので残念ながら長居をすることはできず、
4:30ごろに福岡に出発しました。

(福岡のオフ会)8月5日

 福岡Aタイプ(AS,ADHD,LDの集まり)が主催して開かれたオフ
会でした。出席者は7人でAS,ADHD,LDの人が妙にバランスよく集
まっていました。この掲示板の利用者としてはミッドランドさんとわたしが
参加しています。岡山・熊本からはるばる出席された方もあり、会の活動の
今後・今望んでいること・現在それぞれが悩んでいる悩みについて語り合い
ました。

 福岡Aタイプでは、6月ぐらいからミニオフ会が開かれていましたが、大
きなオフ会は今回がはじめてでした。成人LDの会にも参加しておられる女
性の方2名が周到な準備をしてくださり、とてもすばらしい会になったと思
います。わたしも迷惑をかけてしまった部分はありましたが、この自主グル
ープの結成にささやかながら協力することができたのは光栄です。

 また、長い間メールでしかやりとりできなかった成人LDの会の会員さん
たちと感動の対面をすることができ、感無量でした。

(全体的なまとめ)

 やっと、九州と中国地方に軽度発達障害者同士の自主グループの灯がとも
りました。地元に大人向けの相談機関がないか少ないという条件下で結成さ
れた2つのグループが大きく発展することを願ってやみません。


Re: 共感性批判 6490へのコメント
No.6500  Sat, 11 Aug 2001 01:21:13 +0900  くると [この発言にコメントする]

Mariaさん wrote:
> で、自閉症方面の人間の感情と非・自閉症者の感情が一致しなかった場
>合、非・自閉症方面の人間の感情は、「作り物の感情」「にせものの感情
>」であると非・自閉症者によって断定されてしまうと思います。なぜかと
>いえば、非・自閉症者にとって、感情というものは、非・論理的で不合理
>で説明不能なものだからです。

これが、自閉症研究者が「共感」をうまく説明できない理由なのかも…

> その点、掲示板上での喧嘩はいいです。十分考える時間があるし、相手
>が逃げないし。だから、あたしは「この件についてはもう議論したくあり
>ません」なんていうことは言いません。徹底的にやります。ただ、「これ
>をやると嫌われる」と、中島義道先生は言っておられました。この掲示板
>でも、「私はそれで嫌われる」と告白された方が数名いらっしゃいます。

納得。わたしは中島義道先生の知り合いの先生からよく言われました。
「このやり方をするとどんどん人が離れていくよ。」と。

 悲しいけど、受容するしかないんでしょうね。


Re: 共感性批判 6497へのコメント
No.6499  Sat, 11 Aug 2001 01:10:03 +0900  くると [この発言にコメントする]

pocksさん wrote:

>その理解力を「感性」と言ってよいものかどうか疑問があります。感じるの
>ではなく、冷めた目で距離を置いて分析しているような所がありませんか?
>言い換えれば、「社会化されたAS」が相手の感情を理解しようとするとき
>の態度は、人類心理学を修めた「火星の人類学者」が異生物を観察するよう
>な視線というか、そんなものではないのでしょうか?

他人に対して観察的な態度をとっているということはありえると思います。
ただし、観察した結果をどのように解釈し、どのように対応するかについては
本人の「感性」が関わってくると思います。

 人類学でもそうですが、解釈体系は客観的なものではなく、かなり個性的な
ものだと思います。


Re: 共感性批判 6486へのコメント
No.6498  Sat, 11 Aug 2001 01:01:18 +0900  くると [この発言にコメントする]

こんばんわ、やっと帰ってきたくるとです。

pocksさん wrote:
>>(1)「共感」とは他人が自分とは異なる信念・考え・感覚を持ってい
>>   てもそれを知ることのできる能力である
>
>私はこれを「理解」と称しています。

 わたしの語感でもこれは「理解」に近いんですよね。だから、ウタ・フ
リス氏の言葉に違和感を感じてしまったのです。

>私の言う「同情」は、感情のみを他人に同調させることを言います。どう
>いう感情を抱いているか理解できても同じ感情を抱けなければ同情した事
>にはならない一方、わけがわからないままにもらい泣きするならそれは同
>情した事になるわけです。

わたしの語感では「わけがわからないままもらい泣きする」のは感情移
入です。

>私の言う「同情」を示された場合、非自閉人は癒されますが自閉人は居心
>地が悪くなるので「同情するなら金をくれ」と言って実際的な援助を求め
>ようとしたりします。

これは、どうでしょうか?わたしは何よりも放っておいてもらえた方が
助かります。


Re: 共感性批判 6481へのコメント
No.6497  Fri, 10 Aug 2001 23:52:48 +0900  pocks [この発言にコメントする]

>> (1)に関しては、幼児期の発達において自閉症方面の人間に発達の遅れが
>>あるのは間違いありません。ですが、「社会化された自閉症方面の人間」につ
>>いていえば、かえって「相手の感情を理解する能力」は高いと思います。
>
>そうですね。これまでオフ会などで話してきた限り、「社会化されたAS」
>は、相手の感情を理解することにかけてはむしろ平均以上に鋭い感性を持って
>いるという印象があります。

その理解力を「感性」と言ってよいものかどうか疑問があります。感じるのではなく、冷めた目で距離を置いて分析しているような所がありませんか?言い換えれば、「社会化されたAS」が相手の感情を理解しようとするときの態度は、人類心理学を修めた「火星の人類学者」が異生物を観察するような視線というか、そんなものではないのでしょうか?


Re: けみかるワールド 6488へのコメント
No.6496  Fri, 10 Aug 2001 23:51:03 +0900  pocks [この発言にコメントする]

う、もう実践済みなのね。

お願いだから死なない程度にやってください。シャレにならなくなったらシャレにならない(何を言っているのやら。)


Re: 「笑い」の効用 6483へのコメント
No.6495  Fri, 10 Aug 2001 23:48:40 +0900  pocks [この発言にコメントする]

> あたしたちの悩みは、健常者から見れば滑稽です。だけど、それを笑う、という
>のは健全な反応であるように思います。それが現状の改善につながれば。

よく、自分の失敗をネタにして笑いを取ろうとするのですが、深刻そうな顔をされた(というか、真面目に心配された)ことが何度もあります。笑えよぉ。そこで笑ってくれなきゃ、ネタの振りがいがないじゃんかぁ。


心の理論に関する反論
No.6494  Fri, 10 Aug 2001 22:25:23 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

 「自閉症の子どもは、ごっこ遊びをしない」、これがウタ・フリスさんが「心の理論」を思いついたきっかけだということです。フリスさんは、「これは自閉症の子どもは、他人の信念が理解できないからだ!」と考えました。
 私は、この考えは正しくないと思います。もし信念が理解できないのであれば、自閉症の人は、家の手伝いを全くしないでしょうし、周りとのギャップにあえいだりしないでしょう。
 
 ごっこ遊びをしないというのは、むしろ「空間認知の不全」「言葉を視覚的なイメージに置き換えられない」から来る症状ではないかと私は思います。
 
 例えばある自閉症の女性の方は手記の中で、幼い自分が幼稚園の中の遊戯室の子どもたちの中へ踏み込んだときのことを、「突然、動き顔を持った物の中に入りこんだ・・・それが私が一緒に暮らすことになった子どもたちだった・・・なんか顔だけが大きく見えた・・・彼らは私にとって予測できないものだった」と書いています。これは案外みなさんも経験してると思います。そうです寝起きの時や疲労の時に起こる「うつろな状態」です。
 私はこのようなときに、なんか頭のの中がかゆくなるのと同時に、視野か狭くなり、また物の細かい動きがとらえられなくなってしまいます。また割合少人数でも、「会合に何人の人がいたの?」と聞かれても覚えていないことの方が多いです。もうかれこれ2年くらい地元の手話サークルに通っているのに、未だに名前が判らない人がいます。
 

サリーはかごを持っています。アンは箱を持っています。
サリーはビー玉をもっています。
サリーはビー玉をかごに入れ、お散歩にでかけました。
アンはビー玉をかごから箱へ移しました。
帰ってきたサリーは、どこにビー玉があると思うでしょうか?

 これがかの有名な「サリー・アン課題」で、答えは「かごにあるはずだと思っているからかご」です。「ASの子どもにこの検査をやらせると、80%は誤答」とフリスさんは述べています。
 ではなぜ答えられないのでしょうか?一つ考えられるのは読字障害です。文字を読むということに困難さがあれば、この課題はクリヤーできないでしよう。
 もう一つは、「言葉→視覚的なイメージ」という変換の障害です。これは言葉を視覚的なイメージに置き換えられないということで、数唱の逆ができない人は、ここがウィークポイントになっているようです。サリー・アン課題を漫画にして提示すれば、正答率はアップするはずです。ASの子どもは、言葉を視覚的なイメージにすることが苦手で、そのことが話を聞いていないように見える由縁ではないでしょうか。

 また「空間認知の不全」「言葉を視覚的なイメージに置き換えられない」ということが、二次的に「不安」や「恐怖感」をおこし、それが集団に参加する形のごっこ遊びをすることを妨げるということもあるのではないでしょうか?



 


Re: 立場の違い 6491へのコメント
No.6493  Fri, 10 Aug 2001 15:04:14 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

くるとさん wrote:

>(1)医学・心理学・教育学の専門家が集まって診断基準を統一する。
>(2)ただし、診断名にはこだわらず、障害者本人が抱えている問題に合わ
>   せて支援の計画を立てる
>
>というのが、最低限必要でしょうね。なお、(2)については生身の軽度発
>達障害者はいくつかの障害を合併していることが多い、という事実に基づき
>ます。ASと診断されている子供のなかにも
>
>(1)言語障害を伴なっている場合
>(2)運動機能に困難を抱えている場合
>(3)読み書き計算に困難を抱えている場合
>(4)注意集中に困難を抱えている場合
>
> などがありますので、柔軟な対応が必要だと思います。

 感情のままにいきなり横レスしてしまったのに、ていねいなお答えを下さって感謝します。
 わたしの発言は「怒り」の表現だったのかもしれないとか、ひとりの臨床心理士さんの例だけをあげて一般論にすりかえようとした可能性もあるとか、いろいろと考えてしまって心穏やかではなく、反省コメントを書こうとしたのですが……くるとさんが真摯なコメントを書いて下さったので、力が抜けてしまいました。

 「考えること」という言葉は漠然とした言い方かもしれませんが、とても大切だと感じています。「よく考えてから行動しよう」と常に思っているはずなのですが、どうもわたしは衝動的でいけません(苦笑)

 勝手ながら、永井均先生の『こどものための哲学』を思い出させてくださってありがとうございますということも、重ねて申し上げておきます。
 「哲学は学ぶものではなく、するものである」と書いておられた方の本だったと思います。もう一度読んでみたくなりました。 


甘えについて 6490へのコメント
No.6492  Fri, 10 Aug 2001 13:31:05 +0900  Tien [この発言にコメントする]

Maria wrote:
>ですから、共感の押しつけというのは、「甘え」なのではないでしょうか。「感情>というものは、非・論理的で不合理で説明不能なものだ」というところに逃げこん>でしまえば、相手は自分の感情を尊重せざるを得なくなってしまいます(決定的な>対立を避けようとすれば、ですが)。

こんにちは。今日は落ち込んでいるTienです。
共感の押し付け...それは私が一番嫌いながら、よく他人に対して使ってしまう
手段です。なんか自己反省を痛感する事が最近あって。他人が自分の言葉に対して、怒るとなんだか異常な位「悪かったなあ。」と私は落ち込んでしまいます。
何も起きない。平穏無事など生きていくうちでありえないのに。
いろんなことに首を突っ込んで、活発に活動、と言うのはやめたほうがいいのだろうか?


Re: 立場の違い 6489へのコメント
No.6491  Fri, 10 Aug 2001 12:00:41 +0900  くると [この発言にコメントする]

あさかぜさん wrote:

> ↑このことについては、今は理解できます。でも、分かるまでは平坦な道
>のりではありませんでした。

このことよく理解できます。わたし自身もこのことにすごく混乱してしまっ
たことがあるからです。特にわたしのように

(1)3才児検診の時小児自閉症の可能性が指摘されたが、「知的障害がない
   ので、自閉症ではない」と診断された。

(2)教育学的LDと判断されたのはいいが、学力にはこれといって問題がな
   く、社会性・注意集中・運動機能などの周辺領域に困難を抱えている。

となると、訳がわかりませんよね。(笑)じっさい、ボランティア先でもよく
質問されるのが「大学院に進学していて塾の講師をしているのにどこがLDな
んだ?」です。わたしだってはじめの頃は、家族から「あんたはLDだ」と言
われてただけで、予備知識は持っていなかったので、大混乱しました。

 



> AS児の親という立場から言わせていただくと、上記のようなことは単に
>「立場の違い」というだけの問題ではなく、非常に困ったことだと感じてい
>ます。
(中略)
> 自閉症児やAS児の親は、だれもが教育・心理の心得や医学的知識がある
>わけではないです。むしろ、何もわからないままに診断を受けて「さて、ど
>うする?」というところから出発する人のほうが多いような気がします。
(中略)
> なのに……最初の段階でつまづいてしまう可能性を拭いきれないというの
>は、なんとも悔しい思いでいっぱいです。これからも、そういう人は出てく
>るでしょう。

これは保護者だけでなく障害者本人にも嫌だと感じる人が多いと思います
よ。患者アイデンティティーを与えず、出発点も与えてくれないので。患者
やその家族を混乱させてしまうような診断はすごく問題だと思います。

> 何か、いい知恵はありませんでしょうか?
>「研究」という目的だけのためではなく、「長期的援助」について教育・
>心理・医学の立場の方々が「同じ土俵に立って」考えてくださるような、
>いい方法がないでしょうか。

(1)医学・心理学・教育学の専門家が集まって診断基準を統一する。
(2)ただし、診断名にはこだわらず、障害者本人が抱えている問題に合わ
   せて支援の計画を立てる

というのが、最低限必要でしょうね。なお、(2)については生身の軽度発
達障害者はいくつかの障害を合併していることが多い、という事実に基づき
ます。ASと診断されている子供のなかにも

(1)言語障害を伴なっている場合
(2)運動機能に困難を抱えている場合
(3)読み書き計算に困難を抱えている場合
(4)注意集中に困難を抱えている場合

 などがありますので、柔軟な対応が必要だと思います。 


Re: 共感性批判 6481へのコメント
No.6490  Fri, 10 Aug 2001 11:16:22 +0900  Maria [この発言にコメントする]

くるとさん wrote:
> ところが、わたしが普段の対人関係のなかで苦しんでいたことの1つに
>「他人と自分の区別がはっきりしてくれない人が多い」というのがありま
>した。(特に就職へのアドバイスがそうだった)

>「自分の尺度でものを語らないでくれ」
>「わたしはあなたではないんだ」

> どちらかと言うと、自閉圏に近い特徴を持っているはずのわたしがこん
>なセリフを連発していたのですから、自閉症研究の説明とは矛盾していま
>すよね。(笑)

> 共感の押しつけというのも、「他人と自分の区別がはっきりしない」こ
>との病理なのかな、と思っています。

 困ったことに、自閉症方面の人間の感情というのは、おおむね自己説明が可能です。それには「自分や他人の心理を分析的に見ることの訓練がなされている」という理由がありそうに思います。

 で、自閉症方面の人間の感情と非・自閉症者の感情が一致しなかった場合、非・自閉症方面の人間の感情は、「作り物の感情」「にせものの感情」であると非・自閉症者によって断定されてしまうと思います。なぜかといえば、非・自閉症者にとって、感情というものは、非・論理的で不合理で説明不能なものだからです。

 あたしなんかは感情というのは戸田正直さんが言うように「適応プログラムの重要な一部」であると考えているので、むしろ感情を現代社会における問題解決に役立つように調整する、ということを考えます。我慢、辛抱、発想の転換、といったものは、本来そういったものですから。

 ですから、共感の押しつけというのは、「甘え」なのではないでしょうか。「感情というものは、非・論理的で不合理で説明不能なものだ」というところに逃げこんでしまえば、相手は自分の感情を尊重せざるを得なくなってしまいます(決定的な対立を避けようとすれば、ですが)。

 「真実は人を傷つける」といいます。あるいは、「言われて腹が立つことは、本当だ」という言葉もあります。「怒り」の感情の中心にあるのは、ほとんどの場合、自己中心的な考え方です。だから、あたしは自分の怒りをまず保留し、それを分析し、その怒りが正当であるかどうかを検証してから怒るようにしています。
 ただ、そのせいでだいぶタイミングを外してしまって、その怒りが正当であると分かった時点では相手はすでに逃走している場合がほとんどだったりします。こうなると怒りが怒りとしてあんまり機能してないような気がします。

 その点、掲示板上での喧嘩はいいです。十分考える時間があるし、相手が逃げないし。だから、あたしは「この件についてはもう議論したくありません」なんていうことは言いません。徹底的にやります。ただ、「これをやると嫌われる」と、中島義道先生は言っておられました。この掲示板でも、「私はそれで嫌われる」と告白された方が数名いらっしゃいます。

 人類は、「怒り」を合理的に扱う方法を身につける必要があると思います。

 (Maria)


立場の違い 6487へのコメント
No.6489  Fri, 10 Aug 2001 09:19:06 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 横レスという形になってしまい、申し訳ありません。
 (パソコンに詳しくないので、引用の仕方が分かりません。ごめんなさい)

くるとさん wrote:
> わたしが教育学的LDだからと言って、ASである可能性が否
>定されたことにはならないということになります。ややこしいですけど。

 ↑このことについては、今は理解できます。でも、分かるまでは平坦な道のりではありませんでした。

 1998年発行の『信州LD研究 第2号』より平林伸一先生の文章を抜粋します。
 「医学の専門家の中には、”社会性LD”というものを認めずに全て広汎性発達障害の範疇で捉えようとする立場の人が多く、一方教育や心理の専門家の中には医学的な概念である広汎性発達障害という用語を嫌って、特に軽症の者はLDとしてみて行こうとする立場もあってなかなか歩み寄ることは困難のようです。」

 AS児の親という立場から言わせていただくと、上記のようなことは単に「立場の違い」というだけの問題ではなく、非常に困ったことだと感じています。
 わたしの友人に昨年息子さんが自閉症と診断された人がいるのですが、彼女は最初は個人開業(?)の臨床心理士に相談しに行っていて、その方からは「お子さんはLDです」と言われたのです。しかし県立こども病院を受診し「自閉症です。ただし軽度の」という診断が出て、今は療育に頑張っています。

 かの臨床心理士さんは、病院の診断が出たあとでも立場を崩さず「お子さんはLDです。自閉症ではありません」と言い切ったそうで、彼女は不信感を持ち、今は相談に行くのをやめてしまいました。
 実を言うとわたしも同じ人のところへ娘の不登校の相談に行っていて、「お母さんとお父さんが円満で仲良く暮らしていれば、娘さんは良くなりますよ。大丈夫です」と言われ、3回ほど面談しているうちにどうにも納得できなくなり、地元の小児科を通じてこども病院を受診し、ASの診断を受けるに至ったという経過があるのです。

 自閉症児やAS児の親は、だれもが教育・心理の心得や医学的知識があるわけではないです。むしろ、何もわからないままに診断を受けて「さて、どうする?」というところから出発する人のほうが多いような気がします。
 しかし長い目でみれば、自閉症圏の子供たちの「特別なニーズ」は教育的立場・心理学的立場・医学的立場のすべての領域にまたがって必要であることは、まちがいないと思います。同時に、子供たちに深くかかわる親へのサポートも、すべての領域で長期に必要なのです。

 なのに……最初の段階でつまづいてしまう可能性を拭いきれないというのは、なんとも悔しい思いでいっぱいです。これからも、そういう人は出てくるでしょう。

 何か、いい知恵はありませんでしょうか?
「研究」という目的だけのためではなく、「長期的援助」について教育・心理・医学の立場の方々が「同じ土俵に立って」考えてくださるような、いい方法がないでしょうか。

 長々と書いた割には今ひとつ言いたいことが明確になっていないような内容で、すみませんでした。

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