アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Xanadii さん、はじめまして。
Xanadii さん wrote:
>こんどの発言の主でいらっしゃるので、Bacaさんに敬意を表してここにレスしたつもりなんですけれど。謝ることが出来るというのは、知性も、人間性も高い証拠だと思いますよ。
はい、ぼくは知性も人間性も高い人間です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冗談です。(照)
Xanadii wrote:
> もし、「ネカマ」という呼称がおいやでしたら、‘e-half’というのは
>いかがでしょうかね。あ、でも、それだと「下の修正済の男性」とかいうイメー
>ジになっちゃうか。じゃあ‘i-gay’ならどうかといったら、「女性に興味
>のない、マッチョな男性」だしなあ… ブツブツごにょごにょ…
……ちょいと身体貸せや、この際、念入りに耕したる!とかいって凄んじゃったりして。まあ、あたしは「生身の肉体を持っていない存在」として、この『アスペルガーの館の掲示板』に存在しているわけだから、手の出しようもないんだけどさ。
「ネカマ」という侮蔑的な言葉があってそれに対応する「ネナベ」という言葉がないことに関しては、いささか不都合を感じてはいるのですよ。ジェンダーとセックスとセクシャリティに関する組合せの呼称が整理されていない、という問題点はあるのですね。
で、さらに問題なのは、「感性が女性で、ジェンダーが男性で、性(セックス)が男性で、セクシャリティが対・女性」みたいなケースをなんと呼ぶか、ということだったりします。
たとえばの話、母親が夫に対して不満を抱いていた場合、息子に「女性から見た理想の男性像」を押しつけてしまうのですね。で、「男性から見た理想の男性像」を否定してしまうわけです。そうすると、その息子は、常に「もし私が女性だったら」という視点から、「女性から見て望ましい男性はどうあるべきか」ということを考えてしまうのですね。その場合、感性としてはあくまで「女性」であることを要求されるわけです。だけど、役割としては「男性」であることを要求される。
高度成長期は、同時にフェミニズムの時代でもありました。こうした、「女性のメンタリティを押しつけられた」(フェミニストの立場としては、「押しつけた」のではなく、「理解させた」だけでしょうが)男性は多かったと思います。とはいえ、「母親」という絶対的な生存権を委ねざるをえない存在にそういった要求をされた子供としては、それを受入れざるをえません。時代は「一家の長としての」息子を育てる時代ではなくて、「(女性にとっての)理想の男性としての」息子を育てる時代になっていたのですね。
で、時あたかも高度成長期。父親は育児から疎外され、企業活動に追い立てられていたのでした。まる。
そんなわけで、「男」としてのメンタリティを発揮できる時代はとうに終わってしまったのですね。「男」として何かを発言しようとすれば、「だから『男』っていうのは!」と、それだけで切り捨てられてしまいます。
そんな時代の中で、「いわゆる旧来の『男』に都合のよい『女』を演じつつ、現代の男とうまく折合ってゆく女」というのも新しくていいんじゃないかな、と思います。
『ふたりで聖書を』に登場する納屋さんというひとは、女性恐怖症だったりします。生物学的にいえば、男は女の家畜であり、発生的にいえば、男は「女の腐ったの」でしかありません。
あたしは「女は弱い」なんていうのは嘘だと思うのね。だから、あたしは女として発言することによって、かろうじて「ちゃんと自分を主張できる」立場を得たような気がします。
男って、可哀相な生き物なんだぞ。
(Maria)
オレンジブルーさん wrote:
>Bacaさんはじめまして。
>目茶苦茶の遅れ返事です(汗)すみませんです。
>アルバイトでへばってました。
はじめまして、オレンジブルーさん。お疲れ様です。(笑)
>bacaさんの訴えアピールは私なりに引っ掛かってキャッチさせて頂きしました。
>(でも私なりに、「え!名前指定で!よほどあかんかったのか・・・」と驚いたた。。)
別に驚かすつもりはなかったんですが・・・。反省。
>手が動かないって大変ですよね。
>実は私、今のバイト2日目で手が上手く力を入れて動かせなくなってしました。
>周囲のふつうの大人には当然できることが猛烈にエネルギーが要る。
>頭痛で頭もぐらんぐらん。
>
>麦茶を飲もうとグラスをもったらうまく持てなくて、
>両手で持ってもスルッと抜け落ちそうでした。
これまでにそういうこと何回も経験あります。
筋肉がついてコツがつかめたら、そのうち楽になりますよ。
>その後で「ああ、掲示板・・・・」と思ってBacaさんの投稿を読んだので、
>私なりにその不快感を「だっこ」しましたです
Baca のたわごとですから、あまり気にしないでください。
バイト、怪我しないように気をつけてください。応援してます。
(今度からはYan の方へどうぞ)
Makichan wrote:
>じゃYanさんはtoriさんだったのかあ。わたしゃ京子先生かとばっかり思ったよ。(ゲラゲラ笑い)
ううぅ、ばれたか・・・。 (なぜにゲラゲラ笑い?)
Xanadiiちゃん wrote:
> まちがいなく自分も傷つく。しかし全くの孤立無援のままで放置されれば、
>いずれは「何だってかまわない、もう何もかもめちゃめちゃにしたる」とい
>う、“妖怪”のような存在に、育っていってしまう。
>
> 本当に危険な精神障害者による犯罪が、クローズアップされるたびに、世
>の中の大部分の、罪もない精神障害者までが、セットで語られてしまい、こ
>れが世の人の偏見を助長する結果となることが避けられないというのなら、
>私は、その風潮を「逆利用して」、「もし私が、いつかほんとうに発狂して、
>完全に良心を欠いた行動をとるようになってしまったら、そのときは迷わず
>この私を射殺してください」と、健常者の人々に告げておこう。これは本当
>の気持ちだ。これは自閉うんぬんという存在としてではなく、人間としての、
>私の最後の良心のつもりなのだ。
たまたまうちのMariaがその手のテーマの小説を書いているのでコメントさせてもらう。
人間というのはしごく簡単に「瞋恚」に囚われてしまう。医学的に言うなら脳の扁桃核という部分から発する怒りであり、脳腫瘍ができたとか覚醒剤中毒になったとかいった原因でしばしば通り魔的殺人に走るのも、それが割合に単純なメカニズムによることの証左である。
Mariaは心臓を悪くして何度か入院したことがあるので、病み崩れて病苦のうちに死んでゆく患者を何人も見ている。絶え間ない苦痛というのはいとも簡単に人間の精神を崩壊させてしまう。安息を奪われた人間は、じつに脆い。
人間としての尊厳を保ったまま死にたい、というのは人間にとって基本的な権利だと思う。ところが日本においては、そうした選択肢は公的には用意されていない。
とはいえそれは私的には用意されているのである。依願殺人は刑法二〇二条によればたかだか七年以下の懲役でしかない。「死ぬ」のではなく、自らの存否を委ねられる相手の手にかかって殺され、相手がその罪を引き受けてくれるとすれば、この刑は決して重くないように思う。同時に、遺書なりなんなりで殺される側がその意志を表明し、殺した側が自首した場合、おそらくは執行猶予つきの判決が下るはずである。とはいえその「罪」を引き受ける覚悟があるとするならば、「後追い心中」といった形になりかねず、むしろ実刑判決を下したほうが恩情判決という気がしないでもない。
とはいえそうした覚悟なしに畜生道なり餓鬼道なりに落っこちてしまう奴もいたりする。生い立ちその他に同情すべき点は多々あるのだが、そういう連中はポアしちゃったほうが世のため人のためという気がしないでもない。そうした「前頭葉の怒り」が「忿怒」である。「忿り」と書いたほうが正確だろう。
バブル経済の崩壊のさなか、人を破滅させることでかろうじて自我を保っていた連中というのが少なからずいた。最近では、自分自身が遠からずリストラの対象になると知りつつ、リストラ担当者として多くの人々を必要以上に破滅的な形で(それは同時に企業にとって有利な形でもあることで自己正当化される)離職に追い込むことにサディスティックな快感を得て、「お前らより俺のほうがまだしもマシだ」と思いこんでいる輩がいるという。こういう輩は企業にとって確かに都合のいい存在であり、法はこれを裁くことができない。
とはいえこういう輩は、過去の好景気の企業においては真面目で勤勉な「優良社員」であり、家庭においては「良きパパ」だったりするのである。彼は全身全霊を捧げて「自分の役割」を果たしてきたのであり、そのことが評価されて会社という「体制」に近い位置に置かれたのである。しかしながら、結局は自分もまた体制によって無慈悲にも切り捨てられる存在にしかすぎない。その現実から逃れるために、「切り捨てる側」と「切り捨てられる側」の境界線を、自分よりも外側に、より明確に引くことによって、自我を守ろうとしているのである。
彼は確かに哀れな存在ではあるのだけれど、彼の直接の被害者が彼に同情する理由はない。そうした「無垢な悪人」を苦しみから解放してやることも、慈悲ではないのだろうか?
敢えて「殺す」側に立つ覚悟が、世の中に欠けてはいまいか。そう思う。
(Mr.Moto)
はじめまして、一穂(いちほ)さん。
一穂(いちほ)さん wrote:
>自分がASかもしれないと思うようになる前までは
>わたしは親を許せませんでした。
>でも、このごろは、わたしが苦しんだように、
>きっと親も苦しんだのだろうと少し親の気持ちが想像できるようになりました。
>親がさんざんわたしを傷付けたように、
>もしかしたらわたしも親の気持ちを、こなごなにし続けてきたのかもしれません。
そうですね、どっちか一方が悪いということはないです。だけど、親が子供に暴力をふるうのは絶対にいけない。「しつけ」と「暴力」は同じものだと思うから。それに、子供が親になったときにきっと同じ行動をとってしまうと思うから。
>常識を否定してみるのって
>なにか新しい発見があるんじゃないかって気がして
>ちょっとわくわくします。
>もしそうだと仮定すると、じゃぁ・・・。
>この世にもし、ことばというものがなかったら
>わたしはだれなんでしょうか。
たぶん一穂(いちほ)さんです。「言葉」がなくなっても自分はなくならないと思います。(確信)
ちょっと考えていたのですが。
もし、「ネカマ」という呼称がおいやでしたら、‘e-half’というのはいかがでしょうかね。あ、でも、それだと「下の修正済の男性」とかいうイメージになっちゃうか。じゃあ‘i-gay’ならどうかといったら、「女性に興味のない、マッチョな男性」だしなあ... ブツブツごにょごにょ...
(くるとさんに嫌われそうだな...)
わしは中学の頃、技術の授業が好きでした。
もともとモノづくりが好きだったこともありますが、その過程でひとつひとつの細かな作業が次から次へとやって来て、それをこなした末に作品を完成させる、そんな「達成感」を感じられたこと、また結構興味深い事項があって、それを知識として取り込めたことも要因のひとつです。
当時わしが技術の時間に作ったモノは、木の箱、木製折りたたみ椅子、金属板製メモホルダー、電気スタンド、インターホンでした。
現在テクニシャンのはしくれとなっている、わしの礎を造っていた時期のような気がします。
知識の面では、今でも頭の片隅にに残っていることがあります。
「電気抵抗器の抵抗値の読み取り方」です。
抵抗器には4本の色の帯が描かれており、3本は抵抗値、1本は抵抗値との誤差を示しています。抵抗値の帯の色は、
黒=0、茶=1、赤=2、橙=3、黄=4、
緑=5、青=6、紫=7、灰=8、白=9
を表しています。たとえば、帯の並びが「赤・緑・黒」ならば、抵抗値は250オームということです。
もう1本の誤差についてははっきりと覚えていませんが、たしか
金=誤差±10%、銀=誤差±20%
だったかと思います。テスト前に必死こいて覚えたことが、まだ頭に残ったりしているんですねー。
そのほか、トランジスタの3本足の名前(コレクタ、ベース、エミッタ)だとか、ダイオードの電極の名前(アノード、カソード)、回路図の記号など、電子関係のことが結構頭に入ったりしています。
ちなみにわしは小学生の頃、学研から発売されていた「電子ブロック」でよく遊んでいたので、これも影響しているのかもしれません。(「電子ブロック」とは、ひとりで手軽にラジオやワイヤレスマイクなどの回路を組むことができる、いわば「小さなエレクトロニクス実験キット」。今思うと、ひとり遊びでかつ頭が働く、AS向きのキットだった。今はもう売られてないんだろーな……)
今のわしにはなんら役に立たない知識を今日まで引きずっている、わしの思考回路はいったいどんな構造なのか?ますます謎が深まってきました。
「電子ブロック」知っている人いますかね? ミッドランド
ここ数日、心に浮かんでいた言葉がある。
「瞋恚は三毒のひとつ」
瞋恚(しんい。仏教語では“しんに”)。「いかり」のことだが、たんなる「感情的な怒り」のことではない。「バーカ」と言われてカッとなるというよりは、根深い性質があって、自分の心にさからうような事に対して、ターゲットである相手どころか自分自身まで傷つけてしまうことも辞さないほどに、はげしく憎しみ怒ること、であるらしい(ちなみに、あとの「二毒」は、貪欲(目先の快楽をむさぼること)、愚痴(おろかであること))。
実を言えば、私がChipさんの一連の書き込みに対して、まず感じたのが、これなのだ。Chipさんは、おそらく、たとえば「自閉症」ということに関して抱いていた、自分の信念を、特にドナ・ウィリアムズ以降のアスペルガー関連の記述によって、完全に否定されたように感じ、それに対してはげしい憎しみを感じたのだ。私が以前、Chipさんに対する書き込みで、さすがにいいよどんだことである。
ただ、それをあえて文章化して、当掲示板にアップしようとしたのは、なにも、Chipさんに対して、皆さん、この人は危ないですから、はよ石投げて殺してしまいなはれ、と煽るというのが、目的ではない(そんなことに応じる行動力のある人間は、ここにはもともといなかろう)。それでは「Chipさんと同じ」だ。いや、私は、もともと「同じ」資質を持っている人間なのだ。
私は、自閉症児・者の親たちの、いわゆる「この子を産んでよかったと思います」「私たちの子として生まれてきてくれてありがとう」といった考え方が、大嫌いだ。私自身は、「この世に生まれてきてよかった」と思ったことなど、いままでただの一度もない。あなた、そないな考え、私の見ておる所で出してきなさるのはやめていただきたい、イラつきますわほんまに、というのが本音だ。親たちだって、私のそんな言葉は聞きたくなかろう。
いや、逆に「本当のことを言ってくれてありがとう」という言葉を掛けてくる人も、いるかもしれない。しかし、とにかくなにもかもが憎うて憎うてたまらんという、人の中の“瞋恚”という怪物に対して、「ありがとう」などという言葉を、かるがるしく掛けることが、どのような結果をもたらすかといえば、これはもう「悲劇」というより「惨劇」だ。
「ふざけるなXanadii。私達だって、これまでじゅうぶん葛藤してきたんだ。お前に何が分かるか」という言葉には、「なら、いくらでも葛藤なすったらよろしやないですか。“ありがとう”いう言葉を出してしまったら、その時点でもう何も進まなくなります。“自殺を考えたことだってある”というのは、辛いからもう考えるのをやめようやという、心の働きに他なりませんがな。“いっそわが子を殺してしまって...”と考えている自分がおる、どうかそういうことを再び認識して、ご自身と戦ってください。だいたいあんたがた、責める対象を間違っておられますがな。役所に怒鳴り込んでも相手にされへんもんやから、いろんな不満を、この私に向けてしまってるのと違いますか」とでも応じかねない私がいる。多分自分の親にさえも。
まちがいなく自分も傷つく。しかし全くの孤立無援のままで放置されれば、いずれは「何だってかまわない、もう何もかもめちゃめちゃにしたる」という、“妖怪”のような存在に、育っていってしまう。
本当に危険な精神障害者による犯罪が、クローズアップされるたびに、世の中の大部分の、罪もない精神障害者までが、セットで語られてしまい、これが世の人の偏見を助長する結果となることが避けられないというのなら、私は、その風潮を「逆利用して」、「もし私が、いつかほんとうに発狂して、完全に良心を欠いた行動をとるようになってしまったら、そのときは迷わずこの私を射殺してください」と、健常者の人々に告げておこう。これは本当の気持ちだ。これは自閉うんぬんという存在としてではなく、人間としての、私の最後の良心のつもりなのだ。
もちろん、日本では、兇悪と判断された者はその場で即刻処刑、ということは、許されていない。だからこそ引起こされる悲劇というのもある。ゾンビになってしまった人間に対して、「まだすこしでも生きられる望みがあるのなら」などという考えは通用しない。
もちろん私は、Chipさんがそこまでいくことの出来る人物だとは、考えていない。ただ、皆さんに言っておくなら、彼(女?)のような人に対して、「考え直したらどうだ」「私とお話しませんか」等と、無闇に手を差し伸べたりせんほうがええ、引っ掻かれますよ、ということだ。世の中には、強い者には命乞いするが、弱い者、きまじめ過ぎる相手には手に負えない人間というのがいる。顔の見えない相手、つまりネットストーカーまがいというのはさらにやっかいだ。
こういった手合いは、出くわしてしまったら、即刻アクセス拒否、というのが一番だが、それができないなら、相手が満足してしまうまで、そっとしておく(しかしそれがいつのことになるかは、全く見通しが利かないし、その間にも、新しい被害者が出るかもしれない)か、あるいはXanadiiのように、わざと完全に論点をずらした話題で、肩透かしを食わせつつ、かわしつづけるしかない。「あんさん、今日はええお天気ですなあ。老人保険には入っとりまっか?」とでも(笑)。ペンギンさんのような方には、本当ならこういった方法をお勧めしたいが、これもかなりの根気と知力(話題のバリエーション)もいるし、性格的にできない、ということもあるかも知れない。人間の“瞋恚”というやつに対抗しうるのは、その人の“免疫力”にかかっているとも言える。
やはり、強くなるしかないのだ。
「……で、あたしの生い立ちについてなのですが。」
「えー、『ふたりで聖書を』の作者は、その作中で私こと納屋稔とお嬢さんのふたりであるということになっているので、本来私がお嬢さんに説明するというのは何かおかしい気がするのですが……ともあれこの会話形式というのは、とても便利なのですよ。」
「たとえば?」
「たとえば論文なんかだと、対象とする読者というのは、その分野の専門家なわけですよ。ですから、その分野の専門的な知識を備えていると考えて、必要なことだけ書けばいい。ところが、一般の人を対象に文章を書くときは、どうしても本来説明しなければならない部分以外の、一般的な説明というものが必要になってくる。ふつうの読者に対して、『理解できない部分があったら各自フォローしてください』とは言えないわけです。特に小説というエンターテイメントの分野ではね」
「なるほど」
「で、こうした会話体だと、どこが本筋でどこが説明かというのがわかりやすい。ついでに、どの程度の素養を読者に要求しているかというのも同時に示すことができる。『ふたりで聖書を』において『頭のいい女子高校生』であるお嬢さんが主人公だということは、『むつかしいけど考えれば分かる。専門的な知識は要求されない』という、推理小説としての基本的立場を示す意味もあったりしたわけです。なにせ処女作でしょう? 『ふたりで聖書を』という作品がどういうスタンスで書かれていて、読者がどういう構えで推理を行なったらいいかというのを、作品の冒頭で端的に示す必要があった。そこで起用されたのが、お嬢さんというキャラクターなんです。」
「ここで『なるほど』とか言うと、『会話が平板』とか言われてしまうのでしょーね」
「とはいえ、今まで述べた内容を会話体でなく一人称で述べたらもっと平板になる。それが困るというのがありますね。それから、否定的な視点というのが持込まれるという利点もある」
「一人であーでもないこーでもないとかやってたら、いかにも暗いですもんね。」
「そうそう。そんなわけで、会話体というのは『結論を示す』のではなく、『推理の道筋』というものを示すのに向いたスタイルなわけですよ。古くはプラトンの著作であるとか、ガリレオ・ガリレイの『天文対話』であるとかね、そうした形で思想や科学について語った著作というのは多いわけです。」
「とはいえ、それだとあたしが『アスペルガーの館の掲示板』に登場する必然性というのは、なさそうに思うのですが。」
「そうでもない。これは『ふたりで聖書を』という作品が、Joshya氏の自伝的小説だったというのに関係するんだけどね、たとえば自分の親兄弟のことをあからさまに悪く書く、みたいなのには抵抗があるわけですよ。すなわち、『犯人捜し』が始まらないように、自分とはまったく違うキャラクターを創造したというのがある」
「要するに、プライバシーの保護ですね?」
「そうそう。その点お嬢さんは『仮想的なキャラクター』だから、個人的な体験について語ったとしても、それが事実だとは限らないんだよね。とはいえ、その裏付けとなるような、現実の体験というものが、あったりする。『事実を隠しつつ真実を伝える』ためには、お嬢さんというキャラクターは非常に便利なわけ」
「それは同時に、『事実』に関してはJoshyaさんの体験として語られる、ということだったりもするわけですね?」
「それが誠意というものだろうね。それに対して、お嬢さんの血縁関係や体験談に関しては、Joshyaさんやその周囲の人々の実体験その他に裏付けられてはいるものの、すべてはフィクションとして認識していただきたい、ということだったりするわけです」
「だけど、なんで『あたし』なんですか? だったら別に納屋さんだって構わないじゃないですか。」
「お嬢さんに対しては、『おバカな質問をしても恥ずかしくない』という利点もあるわけです。Motoちゃんあたりに質問したら、『自分で考えろバーカ。』とか言われかねない。あるいは私です。私がとっつきやすい人間に見えますか?」
「見えませんね。」
「そうでしょう。その点に関しては、KILROYさんだって似たり寄ったりなんですよ。だから、お嬢さんなんです。で、お嬢さんであるがゆえに、無害。お嬢さんは、色恋沙汰の防波堤でもあるんです」
「ひょっとして、そういうトラブルとか、あったんですか?」
「それはお嬢さんのほうが知ってるでしょう。AS母のメル友さんが、お嬢ちゃんに『Mariaさんってだれ? お母さん、“ふりん”してるの?』とかいって詰め寄られたっていう話、してたでしょう」
「あったあった。『大丈夫、Mariaさんは女の人なのよ。』『なーんだ……』っていう」
「そうそう。だから、『Maria』は生身のJoshya氏とは別人格で、あくまで『ふたりで聖書を』のマリアちゃんなわけだよ」
「とはいえ、その防壁を突破しちゃった女性がいるという噂ですが。どうなんでしょうか」
「お……俺はJoshya氏とは一応別人格だから、コメントできる立場にはないぞ。そういうことはJoshya氏本人に訊いてくれ。」
「だけど、『一応』でしょう? それは、『別人格ではあるけれども、別人格というにはあまりにも密接に関連しすぎている』という意味だとあたしは判断しましたが。」
「そ、それは」。納屋さんが退いている。「それはまた別の話であって」
「判断、しましたが!」
「ノ、ノー・コメント! ノー・コメントぉぉぉぉぉぉぉお!!」
……と言いつつ、彼は逃げるように去っていったのでした。まる。
(Maria)
Bacaさんはじめまして。
目茶苦茶の遅れ返事です(汗)すみませんです。
アルバイトでへばってました。
ここの掲示板は自閉連続体の方が集っているようですが、
ほんと、様々なレベルで悩みがある人がいるようなので、
「不快感だ」と言われて「ああ。当然だ」と感じました。
bacaさんの訴えアピールは私なりに引っ掛かってキャッチさせて頂きしました。
(でも私なりに、「え!名前指定で!よほどあかんかったのか・・・」と驚いたた。。)
手が動かないって大変ですよね。
実は私、今のバイト2日目で手が上手く力を入れて動かせなくなってしました。
周囲のふつうの大人には当然できることが猛烈にエネルギーが要る。
頭痛で頭もぐらんぐらん。
麦茶を飲もうとグラスをもったらうまく持てなくて、
両手で持ってもスルッと抜け落ちそうでした。
その後で「ああ、掲示板・・・・」と思ってBacaさんの投稿を読んだので、
私なりにその不快感を「だっこ」しましたです。
自称ASで緑さんとは別人のみどりです。
一穂(いちほ) wrote:
>>うーん、同じ成分を「界面活性剤」と言い換えただけでそんなに恐>そうに聞こえるようになりますか?
>
>うん、すごく。
>(この感覚って、おかしい??神経質すぎ?)
その感覚は全然おかしくないと私は思う。
私も、「ケーキ」って聞いたら、どんなにおなかいっぱいで気分悪くたって、反射的にどうしても食べたくなっちゃうもん。(で、一ヶ月に3kg太っちゃったりするわけだけど)
>うん、表示指定成分の入ってるものはほとんど使ってないです。
本当は指定じゃないものの方が怖いとおもうみどり。指定じゃない成分も表示しておいてくれてないと、「信用できん!」って思う。
ライオンが「ウェブで全成分公開」っていうから、大手にしてはエライじゃんと思ったのに、見に行ったら医薬部外品は除かれていてがっかりだった。(逆じゃん〜)
>でもシャンプーにはパラベンが入ってるけど。
>(ちなみにブルーリッジ チコ シャンプー。このシャンプーめっちゃいいです!使ってるひといる?)
シャンプーもまず大抵は界面活性剤よん。(でも危ないかどうかはまた別の話ね。ブルーリッジの中身は知らないからわからない)
一時期私も「合成界面活性剤怖い状態」になって、石鹸シャンプーしてました。
3年間くらいかな。あれはなかなかよかった。旅行中でもリンスだけ持ち歩けば、固形石鹸でも洗えるし。
でも最近は「ぐうたら」の方が優勢なので、普通のシャンプー。髪が薄くなってきたらまた考えねば。
じゃYanさんはtoriさんだったのかあ。わたしゃ京子先生かとばっかり思ったよ。(ゲラゲラ笑い)
一穂(いちほ) wrote:
>
>
>>>「自己」なんて言葉があるから「自己」が有ると思ってしまうんです。無いと思えば無いものなんです。
>
>Makichanさんはニヒリスト?
そうです。(笑)
>逆にとってもユーモアのある考え方の持ち主なのかも、
>というようにわたしは感じます。
>わたしの単純な解釈は
>「ことば」というものにとらわれすぎて真実を見失うな。
>と、いうようなこと。
>・・・ちょっと単純に略しすぎかもしれません。
>これはわたしの解釈なのでちがってたらごめんなさい。
そういう意味ですよ。
>
>「ことば」にとらわれすぎてしまうことのあやしさ。
>そしてその考えにとどまらず、いろんな方向へ話しを展開させてみることで考え方の可能性が広がっていくことの楽しみ。
>(結局はことばの力を借りているのですが。)
>
>>>「自己」なんて言葉があるから「自己」が有ると思ってしまうんです。無いと思えば無いものなんです。
>
>常識を否定してみるのって
>なにか新しい発見があるんじゃないかって気がして
>ちょっとわくわくします。
>もしそうだと仮定すると、じゃぁ・・・。
>この世にもし、ことばというものがなかったら
>わたしはだれなんでしょうか。
誰なんでしょうねえ。
わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です。
by 宮沢賢治
私のうちにあって、理智以外に孤立自存せるものはなにもないのだ。
そして、この理智なるものも、それ自身によって存在するものではなく、
まさに水の上の陽光のきらめきにほかならぬことを、やがて人は思い知る
であろう。
by D.H.ロレンス
るうさん wrote:
>MariaさんとJoshyaさんとKILROYさんをここに登場させている人は同一人物
>ということなのですか?
正確にいうと、JoshyaさんがKILOYさんとMr.Motoとあたしをここに登場させている、ということだったりします。
Joshyaさんは元・防衛関係のシステムエンジニアとして新バッジシステムの開発にかかわり、JAI-Parser(はいぱーざ)という日本語処理関係のシステムを開発し、最近また流行のきざしを見せているステレオグラム・ブームを技術者として陰で支えていたという、けっこう凄腕のシステムエンジニアさんです。えっへん。その知識量と調査能力に関しては、すでに『アスペルガーの館の掲示板』の数々のカキコでご覧の通りです。
で、その後「救世義也(くせ・よしや)」というペンネームで『ふたりで聖書を』(明窓出版)という伝奇ミステリーを発表しましたが、この本がなぜか「癒し系恋愛小説」として、『アスペルガーの館の掲示板』のごく一部のメンバーに好評だったりします。で、その関係で「お師匠さん」と呼ばれていたりもするわけです。
KILROYさんとMr.Motoさんは、十年ほど前に、Joshyaさんが運営していた『雑魚亭』という草の根BBSのメンバーでした。
KILROYさんはプログラマーで、アルゴリズム開発とシステム設計のJoshyaさんと組んでいくつもの製品を世に送り出した人です。どちらかといえば優等生タイプで管理職タイプのJoshyaさんに対し、KILROYさんは「鬼才」ともいうべき芸術家肌・職人気質であり、同時にフリーソフトウェア作者として知られておりました。
とはいえこのKILROYさんがJoshyaさんの裏の顔だということは、ごく一部関係者しか知らなかったのですね。つまり、仕事の上では許されない趣味的なプログラミングを、「KIRLOY」として行なうことでストレスを解消していたのですよ。
最近、青色発光ダイオードの発明者が、その権利をめぐって在籍していた会社と係争状態になっています。日本の企業では、従業員、ひいてはその従業員の成果物は、会社の所有物だという考え方があるのですね。ですから、「仕事以外で開発した、公共性の高いソフトウェアや技術」の権利を保護するために、「別法人」としてのKILROYさんを作り出した、という裏の事情もあったりします。
Mr.Motoは『雑魚亭』では無敵のディベーターとして知られていました。特にPC筋(ポリティカル・コレクト関係。つまりは差別問題など)の論争では反・良識派として論陣を張る「悪魔の代弁者」として悪名が高かったりしたのですよ。
で、一部には熱烈のファンがいたものの、当時「所長」を名のっていたJoshyaさんと同一人物だということを知って、面と向かって「キチガイ!」と言った人もいました。わかるけどね。
あたしの生い立ちについては、『Re: もし』(No.6856、24 Aug 2001)にちょっとだけ書いてある、
> 「会話」というのは、そういう会話を生み出すことのできるキャラクター
>(の組合せ)、というものと不即不離なので、あたしという存在が生まれた、
>という事情があります。自伝的小説を書くときに、「自分とは別の自分(本
>質的な部分では自分なのだけれど、生い立ちや年齢・性別などはぜんぜん違
>う人物)」を創造するというのは一つの方法だと思います。
という部分に関係してきます。この件に関しては、また項を改めて書くことにします。
(Maria)
Mr.Moto wrote:
>Xanadiiちゃんのように「本来発言者として想定されていなかった立場の人間からのレスポンス」もまた「横レス」と呼ばれていることに気づいた。
いやいや、私、「横レスですみません」という断りは、そういう意味で使われるべきものだとばっかり思っていたんですよ。...そうか、
「あまり関係ない話ですみませんが」
「もとの発言からかなりかけ離れた視点で失礼しますが」
っていう使い方もあったか。
>掲示板というものの性質上、すべてのメンバーには平等に発言権が与えられているとみるべきで、この意味での「横レス」は本来ありえないのではなかろうか、と思うのだが、どうか。
すんません、叔父貴、このへんの意味がよく分かりません。まあ、「あんたに言ってんじゃネーわよ!」という向きもあるのかも知れないが。
>>全員へ(←そうか、こうやって明示的に示せばいいというのもあるな。)
これはウマイかも知れない。
>> ここからはひとりごと。
>> 今回はじめて“桁折り整形を自分でする”ことをこころみてみた。
>> なぜなら、“ウィンドウ幅で表示”では読みづらい、という方もいるのでは
>>ないかという危惧が、つねづねあったからである。
>> 果たしてうまくいっているのだろうか?
> 「相手に合わせた」つもりが、相手の事情がこちらの想定したものとは違ったためにかえって面倒なことになっていることも多い。かえって「何もしない」あるいは「極力余計なことをしない」ほうが、結果がよいように思う。
自分でも思いました。やっぱ読みづれーわ(^o^)。じょうずにやっている人もいるが、それはMotoの叔父貴も言うとおり、機種に依存するものなのでしょう。ネット喫茶の安いハコじゃ限界があります。やめときますわ。
ただこうしてみると、えたいの知れないように思えた「掲示板のルール」というのも、自分でこころみることによって、はっきりとその結果を見せられるということになる、ということもある。人間との会話と同じですな。
親愛なるXanadiiへ。
> 横レスですが、Bacaさんniinaさん、はじめまして。
Mariaは「横レス」を「発言の主旨から外れたレスポンス」と定義していたが、Xanadiiちゃんのように「本来発言者として想定されていなかった立場の人間からのレスポンス」もまた「横レス」と呼ばれていることに気づいた。掲示板というものの性質上、すべてのメンバーには平等に発言権が与えられているとみるべきで、この意味での「横レス」は本来ありえないのではなかろうか、と思うのだが、どうか。>全員へ(←そうか、こうやって明示的に示せばいいというのもあるな。)
その意味で、
> この私が、誰かの発言にレスするときというのは、
>
>(1) 自分にとって興味のある内容だ
>(2) 特定の誰かとのおしゃべりに終始してしまうより、なるべくいろ
>いろな人と語ってみたい
>
> だいたいこんな動機です。
というのは、「横レス」ではありえないように思う。
>>中には不快感を感じる投稿もありますし、
> げっ!私のことか?!という脅威みたいなものは、ぶっちゃけた話、現
>実はどうあれここでは比較的「多弁」な私も、常に感じていることです。
> たとえ不快感を感じたとしても、Xanadii本人に対してそう言ってこな
>いのは、この私が「おんなのひと」だから?それとも「嫌えば嫌われる」こと
>を恐れているのだろうか?私はむしろ、そういうのを嫌う方ですね。言い
>たいことがおありなら、はっきり言いなさるがよろしい、そのかわり私も
>言わせていただく、そういう考えなんですね。「無神経な発言」も、意識的に
>やろうとすれば、知力がいるんだよな。
Mariaにしろ私にしろ「私の発言によって傷ついている人も、たぶんおるのだろうな」という思いはある。その反面、相手にも反論の自由があるのだから、という救いもある。
とはいえ、文章に自信のない人は、相手の手の届かないところから「ばかやろー!」と泣きながら石を投げることしかできなかったりもするのである。
> “アキレスの槍”は、最初の一撃は人を傷つけるが、同時に彼を癒す力も
>あるとされている、それが“ことば”だ、という記述は、ダンテの『神曲』
>のなかにも見られます。
の言葉通り、「相手を育てる論争」を心がけてはいるのではあるが、これを「傲岸不遜」と見る向きもありそうな気がして、少しばかり気が重い。
> ここからはひとりごと。
> 今回はじめて“桁折り整形を自分でする”ことをこころみてみた。
> なぜなら、“ウィンドウ幅で表示”では読みづらい、という方もいるのでは
>ないかという危惧が、つねづねあったからである。
> 果たしてうまくいっているのだろうか?
この件に関しては、じつはいろいろと思うところがある。
Tienさんや一穂ちゃんは、使っているマシン環境の都合か何か知らないが、私の使っている環境では「>」の処理がうまくいかずに引用部分が改行コードなしてべったりつながって表示されてしまうのだ。今回のXanadiiちゃんのメッセージにしても、HTMLの制禦コードが入ってしまって文字が小さく表示されている。
そんなわけで、私を含めた大森総研のメンバーは、「ウィンドウ幅で表示」を選択し、引用部分に関しては改行したい部分にそのつど手で改行コードを入れて自分で整形する、ということをやっている。これは、PCユーザがメッセージをコピー&ペーストでエディタなりワープロなりの文書ファイルに取込んでからゆっくり読むことを想定しているのである。
「相手に合わせた」つもりが、相手の事情がこちらの想定したものとは違ったためにかえって面倒なことになっていることも多い。かえって「何もしない」あるいは「極力余計なことをしない」ほうが、結果がよいように思う。
(Mr.Moto)
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